08、迎撃としっぺ返し
車で重陽を迎えに来た父親は、汗だくの重陽をひと目見て一度だけ目を瞠り、一言だけ、
「重陽、今朝履いてた靴は?」
と短く尋ねてきた。
「地下鉄降りる時にすっぽ抜けて、片方無くしちゃって……それで代わりの靴買ったらお金なくなって……鶴見まで来たらICのチャージも帰りの分に足りなくて……」
重陽がしどろもどろに答えると、父親は「そうか」と言ったきり、あとは何も重陽に聞こうとはしなかった。
沈黙が気まずい。気まずい理由を理解しているだけに、居た堪れないほど気まずい。
けれど、その気まずさに負けて大手町から鶴見まで走って来たことを、今までみたいに健気で明るい息子の顔で話すことは絶対にしないぞ! と心に決め、重陽は助手席で口を噤んだままでいる。
両親が自分を大切に思ってくれていることは、よく分かっているつもりだ。だから重陽もその「愛情」に、誠実に応えることにしたのだ。
と言っても、重陽には「誠実さ」が分からぬ。例えるなら、メロスの政治への理解度とどっこいどっこいである。
しかし重陽が今「そっとしておいてくれ」と思っていてそれが父親に伝わっているから彼は何も聞いてこないのだろうし、よしんば何か聞かれたとしても、これまでの自分のように顔色を伺いながら言葉を選ぶのではなく「今はそっとしておいてほしい」と伝えるのが「誠実さ」のような気がした。
上野にある父の実家へ帰り着いた頃には、日付が変わろうとしていた。祖父母は起きて重陽の帰りを待っていたが、やっぱり母親はあてつけのように寝込んでいて、重陽は「マジでそういうとこ!」と激怒した。
重陽は田舎の高校生である。部活へ勤しみ、ソシャゲで遊んで暮らしてきた。けれども母親の機嫌に対しては、人一倍に敏感であった。
なぜなら、自分にも「そういうとこ」が間違いなくあるのだ。自分が母親に対して「嫌だ」と思うところは、思えば自分自身に対して「嫌だ」と思うところに多くが重なる。
だから母親に対しての「そういうとこだぞ!」という怒りや苛立ちは、そのまま自分自身に返ってくるのだ。
重陽が各方面への「あてつけ」でまひると付き合ったように、母親は重陽が自分の思い通りにならないと寝込むんだろう。
とは言え、重陽だって全くもって人に「そういうとこだぞ!」なんて言える立場ではないのだ。なぜなら重陽があんな暴言を母親へぶつけられたのはきっと母親に対する甘えもある。
というのは父と祖父母の、共通の見解──もとい説教だった。
毎日あの人と顔ひっつき合わせて暮らしてないあんたらに一体何が分かるんだ! とは思いはするものの、ぐうの音も出ない。
なぜなら毎日自分の服を洗濯し、シャツにアイロンを当て、バランスの取れた食事を食べさせてくれて。という毎日の営み……には、実を言うとそこまで──少なくとも、人に感謝を強制されるほどの恩義を実感しないものの、重陽が陸上を始めてからはどんな大会でも、必ず沿道で一際大きな声援を送ってくれたのはいつだって母だった。
夕真の声が自身の行く末を定めるための北極星だとするなら、母のそれは自分が走るのにいつまでも伴走してくる月の光のようなものだ。
だから、なるべく許したかった。怒りたくも泣かせたくもなかった。けれど、あるがままの自分を最も受け容れて欲しい人からこうも目を背けられてしまったら、耳を塞がれてしまったら、自分には一体何ができるんだろう。
どんなに考えても、重陽にはついぞ答えが出せなかった。息子と目を合わせようとしない妻を、所在なさげな息子を、父はひどく心配そうに東京駅のホームまで見送ってくれた。
「──ママ! 行ってきます!」
地元へ戻ってきた翌日の早朝から早速部活だった。集合時間は朝の八時。家を出るのは六時半。重陽が起きるのは六時だけれど、母は重陽の弁当と朝食の支度のために五時には起きている。
「……行ってらっしゃい。気をつけてね」
東京にいる間、大人たちの間でどういう話がなされたのかは知る由もない。けれど母はあれ以来「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」のキスをしなくなった。
正直なことを言えば、負担が減った。けれど、母がそれによってひどく戸惑い傷ついているのはよく分かる。遠い異国から風土も常識も宗教観も違う場所に海を越えやって来て三対一でやり込められたら、そりゃあ参りもするだろう。
「大丈夫。ちゃんと持ってるよ。神様がおれを守ってくれる」
重陽はクラブバッグのポケットからロザリオを出して見せ、改めて「行ってきます」と行ってドアを開けた。
「既にあちぃなおい……」
マンションのエントランスを出た瞬間。うんざりするような強い日差しが重陽の目を焼いた。平均気温は東京とそう変わらないけれど、なんとなく地元の方が日差しが凶暴な気がする。影を作る高い建物があまりないからかもしれない。
歩いて十分の駅で下り電車に乗って二駅。大概既に小腹が減っているのでキオスクでおにぎりとプロテインドリンクを買ってバスターミナルへ向かう。
「お。おはよー喜久井。東京のオーキャンどうだったよ」
プロテインのストローを咥えながらバス停に並んだら、たまたますぐ前に並んでいたのが市野井だった。
「んー。……おはよ。まあ、いいとこだったよ。青嵐大。今風ってカンジ?」
「ふうん。織部の兄貴が行ったとこっつったっけ? 写真部で、お前の仲良かった」
言外に自分と彼の間に通った感情に言及されているような気になってしまい、重陽はストローを吸ったまま「んー」と曖昧に返事をする。
「確か、まあまあ偏差値高いよな。でもお前、直々に勧誘来てたじゃん。いいとこだったなら頑張ってみてもいんじゃね? 関東の大学行けば、箱根の可能性もゼロじゃないもんなあ」
しかし予想外にまともな返事が返って来て、重陽はストローから口を離し「それよ」と応えた。
「雰囲気は良かったよ。特に今の主務の人と主将の人が超感じ良くてさ。受験は要るけど、逆に推薦なくても入試さえパスできればイケるし激推し」
「あー。俺、競技は高校までって決めたんだ。インハイ行けたらまた違ったろうけど」
と気まずげに発した彼へ咄嗟に「あ、そっかあ……そういうのもあるよね」としか返せずに、重陽は自分のこれまでの不誠実な自分の生き様を呪った。
そうしている内にバスが来て、なんとなくほんの少しだけ気まずい空気のまま黙ってバスへ乗り込む。同じように部活へ向かう同じ高校へ通う学生や通勤の人たちで、ほとんどバスはぎゅうぎゅうだ。
「……そう言えばお前、もう聞いた?」
なんとなく私語が憚られる満員バスの中。停留所を二つほど過ぎた頃、隣のつり革を掴んでいた彼は少し下衆っぽい声で発した。
「ジュンちゃんと遥希、ついに付き合い始めたってさ。ジュンちゃんの方からコクったらしいよ。肉食だよなあ。あいつ」
「ふうん──……で?」
なんだかウキウキしたような声音で話を振られたものの、申し訳ないが、全くもって一切興味がない。
もしかすると「一切」という強めの単語がパッと出てくる程度には深層心理では思うところがあるのかもしれないが、表層心理においてはとにかく興味がない。
「いや『で?』ってお前。なんとも思わねーの? 年末にコクられてたろ?」
信じられない。とでも言うように、彼は目を眇めながら重陽の顔を覗き込んだ。
「え、思わないですね……むしろ、遥希とジュンちゃんはとっとと付き合っちゃえばいいのにって思ってたけど?」
「へえ……」
と言って彼は、にやりと口角を上げて見せる。
「それってやっぱお前、オンナにキョーミねえからなんだ? ホモだホモ」
その瞬間。カッとなったと同時に「待ってました!」とも思った。
「別にいいだろホモでもなんでも。っていうか、そういうイジりすんのめちゃくちゃイタいよ。まだ気付いてねえの?」
重陽は一年から三年の今に至るまで彼に「ホモくさ」とネタにされイジられ続け、思えばずっと逆襲の機会を窺っていた。
そういえば、おれがヘラヘラしている間に「むしろ古すぎて引くし見ててただただ不快」って先にリベンジしてくれたのもあの人だったっけ。
なんてことを思い出すと、未だに鼻の奥がつんと痛むしイライラもしてくる。
「それに、女の子にキョーミないことはない。ジュンちゃんに興味がないだけで、まひるちゃんのことは好きだったよ」
重陽が不快を隠さずに真横の市野井を見ると、彼もまた喧嘩腰な眼差しで重陽を見上げ返してきた。
「おー。なに。必死だけど」
目を逸らさず、努めて冷静に返す。あの人の背中を思い出しながら。
「そもそもお前、おれがまひるちゃんと付き合ってたの知ってんじゃん。どういう理屈でそういうイジりしてくるわけ?」
「なんなん? 急に」
「別に。誠実になることしにただけ」
バスは学校前の停留所に着き、剣呑な会話は降車の人並みに断ち切られた。ステップを降りると彼は不意に振り返り、同じバスに乗り合わせていたらしいほかの部活のクラスメイトに気安いムードで声をかける。
重陽はひとり黙って校舎へ向かった。誰かを追い越すことはあっても、追い抜かれることはない。ひとりでも、胸を張って前を向いて、早足で歩く。
そう。そう! この感じだ! 歩いてる時も!
よしよし、大丈夫。とひとりでうんうん頷きながら、一歩一歩のっしのっしと歩みを進めていった。
走っている時の、トップスピードに乗った瞬間に似たフラットな孤独感。心地よい「無」の状態。それを保っていられれば、走っている時でなくても全方位に「誠実」な自分が保てるような気がした。ものの──。
「チョーさんはざいーんす! 盆の間イッチョマエに練習休んでだって聞きましたけど、インハイ捨てたんすか?」
後ろから遥希に強く肩を叩かれ、一気に頭に血が上った。
「おー。遥希か。おはよう。お前こそ、ジュンちゃんとよろしくやってたんじゃねえの?」
咄嗟に嫌味が口を吐き、我に返って自己嫌悪。
「いやまあ確かにまあまあよろしくヤらせて頂きましたけどお、俺のポテンシャルはその程度の両立とかラクショーなんで! マジで心配とかされる筋合いないっすね!」
遥希はまともな神経で相手をしていたら眩暈を覚えるようなクソ野郎だが、吹っ切れ過ぎてて逆に感心する。
確かに彼は八百万人の神様を味方につけたようなポテンシャルの持ち主なので、これで性格まで謙虚で真面目だったりしたら、重陽みたいな人間はかえって発狂していたかもしれない。
「遥希は本っ当にイイ性格してるよな。なんかほっとするよ。有希もおはよう。盆休み、どうしてた?」
遥希の後ろで影のように佇んでいる有希と目を合わせると、彼は首だけで小さくぺこんと会釈をして、小さな声で応えた。
「……走って、それから──本、読んでました」
「へえ! そっか! どんなの読んだん?」
休みの直前に勧めた本を読んでくれたんだ! そう思うと嬉しくなって、思わず前のめりで尋ねた。が──。
「斜陽と、悟浄出世と、生れ出る悩みと……」
「いや現文の模試に出て、続き気になるヤツのラインナップ!」
斜め上の応えに思わず仰け反り、そんな重陽の反応をして遥希は指を差して笑う。有希は怒りとも悲しみともつかない表情で、左目を眇めて見せる。
「そーなんすよ。真面目かっ! っていうね。受験の準備とかマジで無駄じゃん!」
遥希は、重陽に向けた指をそのまま有希へ向けた。重陽は咄嗟にその手を掴んで少し強引に下ろし、伏せられた有希の目を覗くように背中を丸めた。
「悟浄出世、おれも模試で初めて読んでさ。続き気になってたけど、まで読んでないんだ。面白かった?」
そんな重陽の問いかけに、勇気は「……っす」とまた小さく頷いて見せた。
「そっか。じゃ、俺もちゃんと読んでみんね! 感想ラインしてもいい? 気が向かなかったら返して貰わなくても全然いいんだけどさ」
黙ったまま、有希は頷く。
「サンキュ。まあなんか、お前もちゃんと息抜きできてるみたいでおれは安心したよ」
「は? 先輩風とかマジ向かい風の次にウザいんですけど」
「遥希は黙ってな。おれは有希と話してんの」
顔を有希に向けたまま、目だけで遥希を見て言う。遥希は苛立ちを隠そうともせず右目を眇め、舌打ちをして重陽の手を振り払った。そして代わりに有希の腕を掴み、行くぞ。とその腕を強く引いて校舎へ向かう。
そんな二人の後ろ姿を眺めながら、重陽は「ああでいいんだよなあ。たぶん」とまたひとり頷きながらのしのし歩く。
遠回しな言葉は使わず、嫌なことは嫌と言う。態度に出す。──遥希のように。
阿ることなく正直に、自分が発して心地いい言葉でだけで応える。──有希のように。
世界は鏡だ。自分が人にしたことが、ただ自分に返って来る。
だとするなら自分に後悔がないように人と接すること。自分に正直でいること。心地よく生きること。それが即ち誠実である。というように思うのだ。
後悔と我慢を重ねながら生きていると、そうしない他人を強く呪うようになる。思えば、遥希や有希に対して折に触れ抱いてきた「コノヤロー!」という感情の正体がそれだ。それがこれまでの重陽だった。
おれがこんなに空気読んで我慢してお前らに合わせて生きてやってんのに、なんでお前はそんなに好き勝手してるわけ?
そんな「コノヤロー!」を人から寄せられることは、遥希の立場に立ってみればひどく理不尽でくだらない。自分が彼ならきっとこう返す。
だったらあんたも好きに生きれば?
それをしないのもできないのも、全部あんたの責任で、あんたの意気地のなさの結果でしかないだろ。
世の中にはいろんな人がいる。自分のように走ることが好きできっと一生続けていくんだろう。と思う人間もいれば、走るなんてただ苦しいだけで絶対にごめんだ。という人もいる。
遥希のように走るのが大好きな上バカみたいに速い。という人間もいれば、有希のように苦しみながら走っているがバカみたいに速い。という人間もいる。
自分のように、それなりに好きで走っているしそれなりに速い。という人間もいれば、好きで走っていてもそう速くはない。という人も──というか、走るのが好きだと言う人間のほとんどがきっとそうだ。
その点については重陽にも「自分はほんのちょっぴりだけ恵まれた人間である」という自覚がある。ギリギリでもなんでも、インターハイの舞台に立てるのはほんの一握りなのだから。
「いいぞいいぞーっ! 喜久井ィー! 脚使えてるぞーっ!」
監督の、興奮が滲んだ声がグラウンドに響いた。確かに調子はいいけれど、せーので走り出した遥希や有希の背中はまだ今ひとつ遠い。
まだだ。もっとだ。まだ足りない! もっと速く!!
重陽は「もう限界!」と思った次の呼吸でぐっと大きく脚を上げ、ストライドを伸ばして腕を振った。
少しだけペースが上がる。最後の末脚だ。追いつくことはできなくても、無様に見ているだけではたつ背がない。
ひとまず今あの双子に食いついて走ることができれば、本番でもそれなりのタイムを出せるはずだ。その一心で、重陽は大きく腕を振って前へ前へと距離を詰める。
自分にはもうこれしかない。そう覚悟を決めてからは、なんだか体がとても軽い。命からがらいろんなものから逃げ惑っていたついこの間までの重陽とは雲泥の差だ。
自分の望むような形で愛されなくたって、幸い自分はこんなにも速く「走る」ことができる。そして、そんな自分であれば望んでくれる人がいる。
だから、彼にとってのヒーローでありたい。
それが重陽の新しいモチベーション──ただ一つの、走り続ける理由だった。
瞬きのたび、彼らの幸せそうな後ろ姿がちらつき癪に障る。そしてその度に、重陽は速くなる。
見てろ。おれはあんたら二人分の夢を乗せて、絶対に箱根を走ってやる!
遥希と有希は、ほとんど横並びで差しつ差されつを繰り返している。そんな二人にあと少し、もう少しで前に振った腕が届く。というところで有希がちらりと振り向いて、涼しい顔で信じられないようなスパートをかけた。
それに続き、遥希もまた愉快そうに有希を追う。重陽はそれに着いて行けない。全力なんかとっくのとうに使い切っている。
悔しくて焦る。途端に体が重くなる。足も腕も心臓も止まりそうになる。あと二百メートル──百メートル──五十メートル……朦朧とした意識で、胸を突き出すように五千メートルを走りきってその場に倒れ込んだ。
「っすー。ナイスラン!」
と遥希が、ひっくり返っている重陽の顔を物理的にも態度的にも上から目線で覗き込んでくる。クールダウンももう終わっているらしい。
重陽が荒い呼吸に喘ぎ一言の返事もできずにいる様を見て、遥希は「あはは!」と屈託なく笑い声を上げそのままどこかに行った。どこでもいいけど視界から失せてくれてよかった。と思った。
少し呼吸が落ち着いたところでむっくり起き上がり、すると今度はこちらへ駆けてくる監督の姿が目に入った。
「喜久井! やったぞ! ベスト更新だ!!」
「……まぁじすか。そんなに?」
調子がいい自覚はあったけれど、そこまでとは思っていなかったので声がひっくり返ってむせた。
「喜べ。まぁじだ。表彰台だって狙えるぞ!」
見てみろ。と差し出されたタブレットに記録されている自分のタイムは、確かに「なんかの間違いじゃねーの?」というくらい自己ベストを大幅更新している。
「これ……あと一年早く出せてたらよかったっすね」
喜びより達成感より、そんな感想が先に口を衝いた。監督はそんな重陽の肩に手を置き、噛んで含めるようにして諭す。
「気持ちは分かるが、そう言うな。サボってたわけじゃないんだから。それに、強豪の大学にも一般受験で入ってエースに上り詰めた選手だって山ほど──」
「でもガチでやってこうと思ったら、サボってなくて今やっとココっての結構な問題じゃないです?」
喜久井が被せ気味にそう返すと、監督は難しい顔をして口の中で言葉を選び始めた。
「……もっと早く追いつかないと。サボんないなんて当たり前だし。もっとなんか工夫しないと勝てない。それをおれはやってこなかった。そこは誠実じゃなかった」
立ち上がって砂を払った重陽に、監督は「そうか」と深く頷いてまた慎重に口を開く。
「じゃあ、これからそのツケ返していかないとな。厳しいぞ」
「ウス」
「こんなことを俺の立場で言うのもなんだが……確かに今のお前には、去年の地方大会前に会いたかったなあ」
監督は複雑な響きを持った小声で言って、重陽にクールダウンの指示を出した。インハイ組とは別メニューで校外へ走り込みに出ていたチームメイトたちもグラウンドへ戻ってきて、にわかに雑音が増える。
ストレッチをしながら、重陽は「競技には真摯に取り組んできた自負がある」なんて思っていた自分の驕りを恥じた。
これまでの二年半、真面目にやってこなかったわけではないけれど、重点を置いてきたのは競技と太鼓持ちのどちらだったか──その答えは明白だ。
あーもう! バカバカ! 今まで何やってたのおれ!!
焦りと後悔で、ぐわああと叫びながら地面をのたうち回りたくなるのをぐっと堪えて、重陽は熱を持った脚に消炎剤をスプレーする。
考え方の転換だ。「やれてないことがたくさんある」ということは、つまり「これからやれることがたくさんある」ということで、要するにそれは伸びしろなわけだ。
「喜久井、ベスト更新したって? おめでとう」
そんなところへ朝のバスで気まずいまま別れた市野井に声をかけられ、思わず眉間に皺を寄せたまま彼を見た。
「うん。ありがとう」
「いや、ありがとうって顔じゃねーべそれ」
「ごめんごめん。スプレーもろに吸っちゃって、鼻が痛いのなんのって……」
と鼻をつまみながらぎゅうっと顔を顰めた喜久井を見て彼も「何やってんの」と笑い、ようやく少し和やかな空気を取り戻す。
「お前らは、来週にはもう北海道かあ。いいなあ涼しいんだろうな。カニ買って来てよカニ。全員分」
「あはは。カニカマでよければ」
つまんな。という感想を隠しもせず、重陽は短くそうとだけ応えた。
「でも今年のインハイは日程すごい後ろだからさ。終わったらすぐ国体と駅伝の予選だよ。むしろおれは早くそっちの練習したい」
「駅伝ねえ……なーんか今年はイケちゃいそうな雰囲気だよな。全国大会」
重陽の横に座り込み、どうしてか浮かない様子のため息混じりでそう言った。
「どうしたの。いいじゃん、行けたら。頑張ろうよ」
「出られるったってあのクソ生意気な双子に、おんぶ抱っこされてだろ? ほかの下のヤツらのためにも、これ以上調子乗られるぐらいなら出られなくても別にって感じ」
彼は大真面目な顔で言っているが、端的に言ってドン引きした。と同時に絶望もした。
重陽は彼のことが好きではなかったけれど、三年の夏まで一緒に真面目に頑張って来たチームメイトだとは思っていた。ちょっと性格が合わないだけで、同じ目標に向かって一緒に頑張って来た仲間だと思っていたのに。
「……あいつらだって。努力したから速いんじゃん。いや、他のみんなの頑張りが足りないとかそういうこと言いたいんじゃないんだけど、なんだろ。ちょっとうまく纏まんないんだけど……速いことと生意気なことは別じゃん!?」
「そうだよ。別だよ? 別なんだから、どんなに速くたってムカつくもんはムカつくって話だろ」
「それって、全国大会行けなくてもいいやって思うほどってこと?」
「うん。たぶん、みんなそう思ってるよ」
腹が立って、座っているのに目眩がした。性格の悪さならおたくも相当ですけど!? と喉元まで出かかったが、流石に飲み込む。ショック過ぎてかえって損得勘定のそろばんは絶好調だ。駅伝はチーム競技。今ここで重陽までキレたら、チームは空中分解必至である。
「そっか……そうだったんだ……ごめん。おれ、部長なのに全然気づけなくて……」
「いやいや。しょーがないって。初めてのインハイだろ? お前のことはみんな応援してるよ。部長ってより前に、お前はうちのマスコットみたいなもんだからな。だからまあ、頼むぜ部長。俺たちの期待、裏切らないでくれよ」
悪びれなく笑った相手の様子に、腹が立ち過ぎて逆に「無」の境地まで達した。
そりゃあ、人間誰しも不完全だ。同じチームだろうがなんだろうが、いけ好かないから応援できない。という気持ちは分かる。
けれど、その気持ちが「あいつらに頼らなきゃいけないなら全国とか別に」と言えてしまうほど肥大しているんだとしたらもはやそれは呪いだし、そんな彼らに自分が応援してもらえる理由が「マスコットみたいなもんだから」というのも大概ナメた話だ。
要するに今、自分は、駅伝を盾に取られている。重陽はそう感じた。俺たちの機嫌を損ねず、今までどおり大人しくマスコットとしてイジられていれば応援してやるし、走ってやらんこともない。お前が今までどおりでいさえすれば。
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