07、不誠実

 青嵐大の鄙びたトラックではちょうど、土田主将曰く「エンジョイ勢」であるところの先輩たちが有名ランナーのアップしているYoutube動画をコーチ代わりに和気藹々と練習に励んでいた。


 率直な疑問として、重陽は「どうして実績のある人に指導を仰がないんですか」と聞いてみたら、思ってもみなかった様々な答えが返ってきて面食らった。


 自分でプランを立ててPDCAを回したいから。頼んで断られたら心折れるから。プレッシャー負いたくないから。人の指図は受けたくないから。武者修行してみたけど水が合わなかったから。エトセトラエトセトラ。


 ちなみにノブタ先輩とユメタ先輩は目下イベント会社の起業準備中で、本腰を入れているのはそちらの活動らしい。


 驚きの連続だった。興奮した。「ガチ勢」の先輩は丹後主務と土田主将としか話せなかったけれど、この「エンジョイ勢」の先輩たちを許容しているというのがそもそも信じられない。もちろん、いい意味で。


 意地悪く冷静にこの集団をジャッジする内なる重陽は「こんな呑気にやってたんじゃ、箱根なんか夢のまた夢じゃん」と言って聞かない。けれど、いやいや待て。とまた別の内なる重陽がそれに反論する。


 そもそも、箱根目指して関東の大学を選ぶ意味とは?


 おれ自身が楽しく走りたいだけのそれこそ「エンジョイ勢」なら、大学で陸上続ける意味もなくね?


 逆にもっと上を目指すなら、受験パスして行ける地元の出雲常連校の方が環境は絶対いいし──。


「──お。いい顔してるな。駅伝部、楽しかった?」


 いや、理由全部、これなんすわ! と重陽が真顔で目を細めたので、校門で待ち合わせた夕真もまた不審げに目を細めて見せた。


「なんだよ。人の顔見るなり真顔んなって」


「……先輩、タバコ吸ってます?」


「やっぱ分かるか」


「分かるし、バレたくねーなら吸わねーこってすわ」


 自分の懊悩と混乱と動揺と憧憬を全部一緒くたにして丸めてぶつけて八つ当たりするみたいに重陽がそう言っても、彼は余裕綽々で苦笑いを浮かべて見せる。


「ぐうの音もでないんだよなあ。気をつけるよ。としか」


「健康がどうの受動喫煙がこうのとかは全然言う気ないんすけど、先輩、いちおー未成年っすよね。そこは多分、このご時世ヤベーっす。大学生と言えど」

「マジでぐうの音も出ん。お前がそう言うなら本当にそうなんだろうな……」


 と自分の言葉をまともに受け止めてもらって、やっと少し溜飲が下がった。なんだかくらーい感情だなあ。というのが自分でも気になりはするものの、何はともあれ目の前の恋しい人は可愛らしくて綺麗だ。



 臭うかな……と自分のTシャツの袖に鼻を寄せている夕真のつむじにドキドキしながら顔を寄せ、


「匂いって髪に一番つくんすよ。次が服」


 と言いながら路線バスの停留所へ向かう道すがら、おふざけの体を装って大きく息を吸った。実際のところ言い逃れ不可避の下心でしかないのだけれど、そんな意図など一ミリも想定しないであろう「元彼女の兄」である彼の隙に付け込むのだ。


「マジ? ってか嗅ぐなって! そもそもフツーに汗臭いだろ!」


「それもありますけど、やっぱタバコの匂いしますよ。キャメルじゃないです? でも紙巻きじゃない。電子タバコでしょ」


「なんで分かるんだよ! 悪いけどちょっと気持ち悪いよ!?」


 気持ち悪い。と言われてにわかに傷つきはしたものの、客観的に見れば確かに気持ち悪いので甘んじて受け入れ、なんとか平静を保つ。


「現国のナリ先、覚えてます? あの人いまクラス担任なんすけど、すげーヘビスモでキャメルのメンソール吸ってんすよね。同じっぽいけど、紙巻きのとはちょっと違う匂いするから」


「あ、ああ──いたなあそう言えばそんな先生……っていうかお前、足速い上に鼻もいいのかよ。どういうステ振りだよそれ」


 夕真は呆れとも感心ともとれる口ぶりで言って、バス停の時刻表と腕時計を見比べた。彼の手首に巻かれたそれは、年季の入った革バンドのアナログウォッチだ。そんなところがあまりにも彼らしくて嬉しくなる。


 定刻から八分遅れでやってきた最寄駅へ向かうバスへ乗り込み、ICカードリーダーへ慣れた手つきでスマホをかざす夕真。一方の自分は、まごまごとポケットから定期入れを取り出し見様見真似でカードを当てる。


「ここ、駅から結構離れてますよね。バス通の人多い感じですか?」


 二人掛けのシートに並んで座り、車窓の外を眺めながら声だけで尋ねる。バスの揺れでたまに触れる肩が熱い。


「実家住まいのヤツはそうかな。バスとか電車とか。でも地方勢は近所に部屋借りてるヤツがほとんど」


「ふうん……じゃあ、先輩も?」


「ああ。──ちょうどそこの路地入ったとこのアパートだよ。チャリならキャンパスまで五分ってとこかな」


 と言って彼は重陽の方へ身を乗り出し、窓の外を指差した。胸元に、膝の上に感じる体温で頭がどうにかなりそうになる。いっそのこと彼の華奢な両脇に腕を差し込んで持ち上げて膝の上へ乗せてしまいたい。が、それをしてしまうと一貫の終わりだ。


 そうして下心と理性と社会性の三角コースをぐるぐる周回しながら、重陽は夕真の実に都会的なエスコートでバスから私鉄に乗り換え、私鉄から地下鉄に乗り換え、大手町までやって来た。


 高校時代に二人、写真部の部室で昼休みに聞いていたラジオのパーソナリティ・赤福氷の単独ライブが行われるのは、なんの因果か箱根駅伝のスタート兼ゴールにあたる読売新聞本社ビルの中にあるホールだ。



 改札を出て、エスカレーターを上がり、向かい風と外光を浴びながら外へ出る。


「わあ……箱根だ……っ!」


 その瞬間に口から飛び出した感慨が、自分でも意外だった。


 勝負事にも大学駅伝にも執着はないはずで、思いのままに体を動かす快感と酩酊感に魅せられてはいても、人と争う場には自分は然して興味を持っていないと思っていた。


 けれど、それでも毎年テレビにかじりついて見ていたあの大会のスタートとゴールにあたるあのビルが、ビルに挟まれた一見なんでもない都会の路地が、重陽の心の底の底にどうやら燻っていたらしい青い炎を焚き付ける。


「ま、ここは箱根じゃなくて大手町だけどな」


 と可笑しそうに隣で肩を揺らした夕真ではあるが、しかし重陽の感慨をしっかりと受け止めてまた口を開く。


「ここが箱根駅伝の、スタートでゴールだ。一番人の集まるところだって、丹後さんに聞いた。新聞部でも二日目の復路、十区のゴール担当は、毎年始発でここ来て場所取りしてるって」


「始発で!?」


 驚きのあまり咄嗟に真横の彼を見たら、ばちりと目が合う。彼の相貌は相変わらずきらきらしていて愛らしく綺麗ではあったけれど、そんな下心を追い越して何か熱いものがお互いの眼差しとして交わったような気がした。


「ああ。しかも、隣駅のファミレスで待機しながらな。ここでの徹夜待機は、一応マナー違反ってことらしい。こすっからいけどな」


 楽しそうに発する夕真の声が弾んでいる。自惚れていいんだろうか。自分のことをたとえ一生恋愛対象とは見てくれなくても、陸上選手の一人としてなら彼の心を焦がすことができるのだろうか。


「とりあえず一区のスタート兼十区のゴールがここ。でも、ほかの中継地でもいい場所取ろうと思ったら朝イチ待機が常識だってさ。……だから、お前が走るのは何区か分からないけど、そんときゃ俺は正月の夜明け前からブルブル震えながら場所取りしてなきゃなんないってわけ」


「……すげえ殺し文句っすね」


 愚痴っぽく笑った彼に、二重の意味で言い返した。期待するような他意があるなら何よりだが、ないとするならあまりにも罪な言葉の響きだ。



「先輩がそう言ってくれるならおれはおれで頑張りますけど。でも実際問題、青嵐が箱根出るって結構な無理ゲーでしょ。予選会も一応毎年チェックしてますけど、青嵐大って学連選抜に入れた選手すら今までいないじゃないすか」


 と重陽が捲し立てると、夕真は痛いところを突かれた。とでも言うように肩を竦めて苦笑を浮かべ頬をかいてみせた。


 箱根駅伝は例年、概ね二十の大学と一つの選抜チームを合わせた二十一チームが出場している。


 本大会で十位以内に入った大学には次回大会のシード権が与えられるが、十一位以下の大学はその年度の十月に行われる「箱根駅伝予選会」へ出場しなければならない。そこで十位以内に入賞しなければ、一月の二日三日に行われる箱根駅伝のチーム出場権は得られないのだ。


 が、十一位以下に甘んじたチームからも各大学から予選会のタイムが良かった外国人留学生以外の選手が一名ずつ選抜された「関東学生連合」というチームが編成され、二十一番目のチームとして箱根駅伝を走ることができる。要するに、敗者復活選抜チームだ。


 しかし重陽の知る限り東京青嵐大学は、この選抜チームにさえ選手を送り込んだことすらない。送られてきた冊子によれば、そもそも創部自体も五年目の新興チームだ。


 ひねた言い方をすれば、最後のインターハイ路線においてギリギリ六位でインターハイに漕ぎ着けたようないまひとつうだつの上がらない自分が進むにはお似合いのチームなんだろう。


 しかし外面を最大限に繕った言い方をすれば、自分がこのチームを強くする! という大義名分を言いふらして加入する価値のあるチームではある。


 けれど、しみったれた重陽の計算を、彼は見たこともないような不敵な笑みで一蹴した。


「お前が、その『最初の一人』になるんじゃないの?」


 大手町のビルとビルの間に吹く風に煽られ、彼のふわふわした黒い髪が揺れる。


 大きな丸い眼鏡の奥から涼しげで鋭い瞳に見詰められ、胸の奥で行き場のない青い炎が燃えた。


「……いや、怖い怖い。先輩、そんな煽り方どのタイミングで覚えたんすか」

「煽ってなんかない。──でもお前にそう聴こえるならきっと、俺はお前自身より先に、お前の走りに夢を見たんだ」


 そう言って夕真はおもむろに駆け出し、車道のど真ん中で「ここ!」と腕をぴんと伸ばし上空を指を差した。


「ここに! スタートと! ゴールのゲートができる! お前は! 絶対に! それを走る側で見る! 絶対だ!!」


 たまたま車が通らないのをいいことに、彼は車道のど真ん中から重陽を見詰めてそう叫んだ。


「先輩危ない! ここ別にホコ天ってわけじゃないでしょ!?」


 慌てて彼を追いかけ、どさくさ紛れにその手を取って歩道へ連れ戻す。けれど彼はそんな触れ合いにも動揺する様子など少しもなく、屈託なく笑いながら重陽に手を引かれて歩道へ戻ってくる。


「ごめんごめん。やっぱ俺、お前に会えてちょっとテンション上がってんだわ」


 重陽の知らない彼の語彙で、夕真はけらけらと笑いながら小鳥のような声で伸びやかに言った。


「あの、それ、マジでめちゃくちゃ嬉しいは嬉しいんですけど……でもおれ、正直戸惑ってます。なんか、全然おれの知ってる先輩じゃないから」


 体の中で心が高速分裂と高速移動を繰り広げ、何が何だか分からなくなった挙句、ついに重陽は「ちょうど良く隙のあるクリーンなお調子者の喜久井エヴァンズ重陽」という人間の形を保てなくなる。


「先輩、いつからそんな気軽にケラケラ笑うようになったんすか。おれはそんな先輩ぜんぜん知らないし、なんか、なんていうか……なんかすげー腹立ちます! ラインとか全然返してくれないくせに、てか自分からとか絶対送ってこないくせに『テンション上がってんだわ』って何!? リアリティゼロかよ!」


 自分の一番忌まわしい記憶の中にある言葉をあえて使った。平気でそういうことをする嫌らしさがきっと、自分という人間の本当の形なんだろうと思った。


「ご、ごめん。その、ええと……」


 重陽に強く手首を掴まれたままの夕真は、その腹が立つほどよく似合う丸眼鏡の奥の目を泳がせながら、重陽のよく知る声音で呟く。


「ラインとかそういうの、そもそも苦手で……家族ともあの感じだし──むしろお前とは、結構やり取りしてる方っていうか……」


「はああ!? あれで!?」


「なんかほんとごめん」


 思わず大きくため息を吐き頭を抱えてその場に膝を折った重陽の横で、彼はしばらくおろおろした空気を全身から迸らせていた。が──。


「……でも、俺が今みたいに笑えるようになったのって、お前のおかげだよ?」


 意を決したように、けれど落ち着いた声で、ゆっくりと夕真はそう発した。


「環境が変わったからっていうのも、そりゃ勿論あるけど……でも高校の時に、うちの部室でお前が『もっと笑えばいいのに』って言ってくれなかったら……きっと今の俺はいないよ」


 しゃがみ込んだまま見上げた彼は照れ臭そうに、けれどあからさまに恐る恐る、気まずそうに訥々と重陽に告げた。


 よく覚えている。昼下がり、日当たりのいい写真部の部室。初めて聞いた、彼の小鳥のような笑い声と、初めて見た笑顔と八重歯とハの字眉──。


 重陽だって気をつけてはいた。自分の生きている世界で同性に恋をすることは、禁忌以外の何者でもなかった。


 だから自分の本質の一つを見抜き、受け入れてくれた美しい彼が危うい存在でしかなかった。惹かれているのは人間性だと思い込もうとした。なのに、なのに!


「先輩の言葉借りて言うなら、おれ、先輩のそういうとこほんと嫌いです」


 彼の笑顔ひとつで、十七歳の重陽の中では「好きだ!!」が爆発していた。ちょうど今日、最初に彼の姿を見つけた時と同じように。


「は? そういうとこってなんだよ。感謝でしかないんだが?」


 少し不服そうに発せられた彼の声こそが、重陽のよく知る織部夕真のそれだった。それでようやく少し気持ちが落ち着いて、気を取り直して立ち上がる。


「いいすか先輩。感謝っつーの小出しにしてナンボのもんなんですよ! 言わなきゃ伝わんねーの! 分かります!? 言わなくたって関係性で伝わるはず! なんつーレジェンド昭和ムーブ(笑)が通用すると思ってるとこ、マジ直した方がいいっすよ!?」


 重陽がそう言って詰め寄ると、夕真はたじろぎながら後退りをして自分のTシャツの胸ぐらを掴む。


「た、頼む……正論で理詰めにするのをやめてくれ……ようやく見ないふりに慣れてきた俺のダメ人間ぶりを浮き彫りにするな……っ!」


「いや別に、ダメ人間ではないでしょ。人間誰しもウィークポイントってあるもんですし、今はたまたまおれが先輩のそこをスナイプしたってだけで」


「だとしても、おれはお前に自分のダメなところをスナイプされるのが一番堪えるわ……」


 苦しげにそう言って眉間に皺を寄せた夕真の顔を見て、重陽は確信を得た。


 この人、絶対おれのこと多少は好きだ! 押しに押せば行ける!!


 自分の性的指向が揺らぎに揺らいで混乱し、かえってそれが認められなくなってしまうなんていうのはよくあることだ。自分にも思い当たる節がたくさんある。


「……とりあえず、ホール行きますか。もう開場も始まってるでしょ。先にトイレも行っときたいし」


 と水を向け、道路を挟んだ向こう側のビルを指した。彼も苦笑を浮かべながら「そうだな」と頷き、ふたり肩を並べて横断歩道を渡る。


 同じように肩を並べて指定席に着き、同じものを見てけらけら笑って、そうしたらやっぱりもう一度告白してみよう。


 同じライブを観に行くのであろう人並みに紛れながら重陽はそう心に決め、汗をかいた手で彼の用意してくれたチケットを受け取った。



「赤福氷、最近ネタの傾向変わってきたよな。アップデートかかったみたいな」


「そうですね……」


「やっぱ大喜利王決勝のコンビ対決が効いてんのかね」


「そうですね……」


「韓国の首都は?」


「ソウルですね……」


「いやちゃんと聞いてての空返事はタチ悪いよお前」


 と横から軽めに肩をどつかれ我に返る。ついついライブ後の流れをシミュレートするのリソースのに大半を割いてしまったが、いま目の前にいる彼との時間をおざなりにしてしまうのでは本末転倒だ。


「すみません。おれお笑い生で観るの初めてで……すっげー楽しみにしてたけど、その分なんか、緊張してきた……」


 席に着いて誤魔化し誤魔化しそう発し、手のひらにかいた汗をズボンで拭う。


 ライブが初めてなのも、緊張しているのも本当だ。けれど、理由は全く別。ほとんど嘘。やっぱり嘘をつく時は、本当のことの中に忍ばせるに限る。


「ああ。ちょっと分かるな。俺も東京来てすぐの頃に初めて新宿の劇場行った時、結構緊張した。でもやっぱ、楽しかったし興奮するよ」


「え、ちなみにそれって一人でですか?」


 流石にデートでお笑いのライブには行かないよな!? いや、逆にそういうの一緒に行ける子って居たらこの人にとって貴重過ぎて手も足も出ん!! と拭いたそばからまた手のひらに汗をかき、彼の横顔を見る。


「は? 一人でだが? なんか文句あんの」


 夕真は不服そうに、実に不機嫌を露わにして重陽の顔を見上げる。


「いえ。安心しました。そうこなくっちゃ」


 目が合うだけで心が高速振動し、うっかり短い本音が漏れる。


「どう言う意味だよ」


「マニアック過ぎる趣味のひとつひとつに、一人っきりでガーッと邁進するコミュ障の陰キャ……先輩には、そういう孤高のオタクであって欲しいと思っている節がおれにはあるので」


 彼に理解を示し支える人間は、この世にたったのひとり、このおれさえいれば充分だ。そんな気持ちを込め、本心からの笑顔で応える。


「お、なんだお前。バカにしてんのか?」


「そんなまさか」


 会場の照明が落ちた。


「おれは先輩の、そういうところが好きですっつってんすよ」


 と囁いた声は、ほんのジャブだ。


 どう言う意味にも取れる言葉で愛の告白をするのは悪手。しかし、前振りなく突然告げるには重過ぎるので、フラグを立て、積み上げて積み上げて様子を──空気を「窺う」のではなく「作る」のだ。



 彼は重陽のジャブに応えることなく、眼前の舞台を見据え熱心に拍手を送る。今日は漫才のライブだ。舞台上に現れた赤福氷の二人は万雷の拍手を浴びセンターマイクを挟み、枕にあたるオープニングトークもそこそこにネタへ移る。


 彼らは昔から、何かと物議を醸すコンビだった。ある時はボケの方が盛り場で暴力事件を起こして謹慎し、またある時はツッコミの方がトークバラエティで発した同性愛者差別とも取れる発言が元で大炎上した。


 けれど重陽は、そんな彼らのことをどうしても「悪者」とは思えなかった。素行は悪いし発言は常に裏目裏目に出て炎上を繰り返しはするけれど、ほかのいわゆる「今風にアップデートされたうまくやっている芸人」よりもよっぽど本音を露出している。


 そんなところが重陽は──そして夕真も、きっと好きだったし一種の指針にしていた。ホモソーシャルで差別的で毒があって正直。誰もが口に出すことを憚る本音を代弁してくれる。だから重陽は──そして夕真もきっと──世間のありようを確認してこられた。


 けれど、どうやら「世間」は重陽の世界を置き去りにして変わり始めた。ポリコレ(笑)、ジェンダーギャップ是正(笑)、ダイバーシティ(笑)、誰も傷つけない笑い(大爆笑)。


 そんな世間においておそらく赤福氷は「滅びゆく笑い」の先端を行っていて、今の彼らはきっと夕真の言う通り、アップデートの末にそこから抜け出すか抜け出さないかの瀬戸際にいるんだろう。


 彼と肩を並べてのライブ鑑賞という一大イベントにときめきこそ感じさえすれど、初めて肉眼で見届けた赤福氷の漫才に全く感じいるところがなかったのは、ある意味ショックではあった。


 丁々発止のやり取りは彼らの技術力によるもので、それは賞賛に値するし大いに笑わせてもらった。


 けれど、今まで彼らのしてきたことをよすがに保ってきた──もとい、世間様に阿り我慢に我慢を重ねてきた自分の十八年間のありようを、軽やかな笑い声でひっくり返され裏切られ、どういう気持ちで席を立てばいいんだろうか。


「はー……っ! やっぱ面白かったな! 最後の新ネタ、あれ絶対テレビ受けすると思うんだけど、やんないのかな」


「──え! あ、あー……確かに! 賞レースだと今ああいうのがウケますよね」


 目尻に溜まった涙を拭った彼の調子に合わせ、高揚のあまり反応が遅れた体を装って返事をする。


「舞台で反応見ながら、年末の大会に向けて調整してんじゃないすか? 面白かったけど、今日のは結構尺が長かったっすもんね」


「あー。言われてみりゃ確かにな。賞レースで使うネタなら、確かに結構長かったもんなあ。でも、どこ削るのも惜しくないか?」


 楽しげに口角を上げながら、やっぱり夕真は屈託なく笑う。そんな顔を見せつけられるごとに、そこにたとえ自分が影響していたとしたって、やっぱり彼は間違いなく何かを「乗り越えた」のだという痕跡を見せつけられるようで気持ちがひりひりする。


 彼に比べて、自分はなんと代わり映えのないことだろう。そりゃあ確かに背は伸びたしタイムだって少しは縮んだけれども、相変わらず人の顔色を伺いに伺って、空気を読みに読んで、自分の本当の形を隠しに隠して。


 そんな生き方をしている限りきっと、どんなに辛くたって苦しくたって、誰も本当の重陽のことを助けることなんかできやしない。だって誰も重陽が苦しんでいることを知らないのだ。……たった一人を除いて。


 ──だとしても、そういうとこ人から隠すタイプだろ。お前。


 今にして思えばきっと、あの瞬間にはもう始まっていた。そして、あの時声が上ずった理由。言葉にならなかったそれが、今ようやく自分の中で明らかになった。


「……先輩、この後ってまだ時間あります?」


 神様でも仏様でも、その辺の可愛いあの子やこの子でもなくて、おれはあなたに助けて欲しい。


 求めよ。さらば与えられん。耳にタコができるほど聞いた聖書の一節。欲しいものがあるなら、まずは手を伸ばしなさいと主は説かれた。


「あ、よかった。俺もそれ聞こうと思ってたんだよ」


 と言ってはにかむ彼。手応えあり。だ。


「丹後さんも今駅着いたとこって言ってたから、一緒に飯行こう。いろいろ話したいことあるし」


「えっ」


 携帯の電源を点けると溜まっていたらしいメッセージを見て、夕真は心なしかうきうきと声を弾ませた。一方の重陽は「なぜここで二人きりになれん!」と脂汗をかき、あまり良くない響きの声が上がってしまう。


「あ、えー……部活のことっすよね。丹後さん、それでわざわざ大手町まで? 恐縮すぎてやばいんですけど……」


 言い訳のようにおろおろと芝居を打ち、彼に着いて歩きながら一応母親に「ライブ楽しかった! これからと先輩と軽く食べてから帰るよ」と連絡する。


「まあ、もちろん部活のこともあるけど……」


 と少しだけ緊張感を孕ませた声で言葉を濁らせた彼とビルを出ると、数十メートル向こうの地下鉄出口から、ちょうど丹後主務が出てきたところが見えた。特徴的な歩き方ですぐに分かる。


 夕真はそんな彼へ自分たちの居場所を示すように大きく手を振り、それから重陽の顔を見上げて、大きく息を吸ってから思い切ったように発した。


「お前には、ちゃんと紹介したいんだ。俺の彼氏」


 大きなビルとビルの間の路地に、重陽の「ええーーっっ!?」という長い悲鳴が木霊した。


 人の視線が集まるのを気にする余裕はなかったけれど、本当に驚きショックで混乱した時は声なんか出なくなる。


 と思いきや、意外と大声が出るもんだなあ。なんて、かえってどうしようもない感慨しか湧かないのはきっとやっぱり、大きなショックから心を逃がしているせいなのかもしれない。


「……やっぱ引くよな。ごめんな。気持ち悪い思いさせて」


「いやっ! そうではない!!」


 衝撃のあまり変な言葉遣いになったが、悲しそうに目を伏せた彼を見ていたらそんなことには構っていられなかった。


「そんなこと思うわけないでしょ! おれのことなんだと思ってんすか!?」


 彼の両手首を強く掴み、目を見て同じボリュームで言う。ゆっくりとこちらに歩いてきているであろう丹後主務にもこの様は見えているだろうし聞こえてもいるだろうが、それこそそんなこと「知ったこっちゃねーっ!」である。


「ご、ごめん……」


「で? なんだと思ってんだって聞いてんですけど!?」


「……妹の彼氏」


 その返事を聞いて一気に脱力し、彼の手を離した。


 言いたいことは色々ある。家族間の報連相どうなってんだ!? とか、去年おれがコクりかけたの気づいてねーのかよ!? とか、そもそも気持ち悪いって思いながらちゃっかり彼氏作ってんじゃねーよ!! とか。


 けれど本当にあまりにも色々ありすぎるので、かえって心が石みたいに凝り固まってしまってなんにも言葉が出てこない。


「──ごめん。今のは俺がずるかった。本当は俺も気付いてたんだ。お前はきっと俺のことを好きでいてくれて、あのハーフマラソンの日、お前がそれを伝えようとしてくれてたこと。……俺も、あの時はお前のことが好きだったから」


「……はあ?」


 ひどく気まずそうに白状した最愛の彼を気遣う余裕もなく、逡巡の余地なく腹の底から疑問と怒りが飛び出した。


「でも、こっち側は……しんどいことばっかだよ。蔑まれて、笑われて……法の上でさえ不利なことばっかりだ。だから俺……俺は、まひるが『重陽先輩に告白された!』って嬉しそうに言ってきたの聞いて、本当に……本当に嬉しかったんだ」


 夕真は時折言葉を詰まらせながら、涙声で訥々とそんな話をしていた。


「俺には無理だったけど、お前がそっち側で生きて行けるなら……本当に、それに越したことはないよ。お前は絶対に世界で活躍するランナーになるし、余計なことで悩んで欲しくない。欲を言うなら俺は一生、お前の走りに夢を見ていたいんだ。──あの人はもう、きっとお前みたいには走れないから」


 最後に小声の早口で付け足した夕真のすぐ後ろまで、あの研ぎ澄まされた体を持った彼が悠々と立っている。



「ごめん。お待たせ。──ああ、夕真。ひとまず話したんだな」


 太陽の代わりに街灯の光を背負った丹後主務には、やっぱり後光が差している。夕真と重陽の間に漂う空気を察してか、彼は事務的なほど落ち着いた声音で短くそう言った。


「あ、はい! えっと、改めて紹介しますね。妹の彼氏の喜久井です。見どころあって面白いヤツだし、絶対ウチの陸部に向いてるはずなんで!」


 ついぞ見たことのない高揚した様子で、夕真は丹後主務を見上げて話す。そんな様が何より重陽の傷を抉った。


 丹後主務は丹後主務で、そんな夕真のことを愛おしげに見下ろしている。完全にふたりの世界だ。けれどこの丹後尚武という人の抜け目ないところは、恋人を見ていたその目の形をほんの少し変えただけで「愛おしさ」を「慈しみ」にして同じように重陽を見るところにある。


「喜久井。改めてよろしく。話してみたら聞いてたよりずっと落ち着いた子だったから、実を言うとびっくりしたよ」


 そんな風に言われたら、こう返すしかない。


「ちょっとお! 先輩! おれのことどんな風に吹聴してくれてんすか!」


 なんて笑っている自分のことが過去最高に哀れで惨めで、嫌で嫌で仕方がない。このシチュエーションに追い込んだ夕真も、向け目なく完全に善人の丹後主務も、こんな時でさえ体裁を取り繕って笑っている自分自身も、何もかもが憎くて憎くてたまらなかった。


「どんなって別に……見た通りだけど? クソほど浮かれポンチのウェイ系と見せかけてめちゃくちゃ空気読んでて、スタミナおばけで逃げ足の速さえぐいって」


「やべえ。ぐう真実。かなわねーな──あ、すいません。ちょっと電話いいすか」


 手を叩き、腹を抱えながら笑い声で誤魔化しながら目尻を拭う。ポケットの携帯を出すとそれは母親からの着信で、おおかた帰宅時間報告の催促だ。


「親からっすね。すいません。──ハイ、マム」


 英語で着信に応じた重陽を目の当たりにし、二人とも目を瞠っていた。


 左の耳元では「何時頃に帰ってくるの?」「帰ってきたらご飯は食べない?」「ママもおばあちゃまもあなたのためにたくさんご飯作ったのに」「今どこにいるの? 一緒にいるのはまひるちゃんのお兄さんなのよね?」と母親が捲し立てる。


 右耳には微かに「どこのハーフなんだっけ?」「イギリスです。確かスコットランド」「英語話せるんだな。すごい」「でも受験英語は苦手って言ってました。受けるなら情報学部かなって」と、いちゃいちゃした二人の会話が入ってくる。


 ──あ、もう無理。やってらんねー。


 そう頭に過った瞬間。重陽は母親譲りのスコットランド英語で、朗らかに見えるであろうケタケタ笑いで陽気に発した。


「ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえよメンヘラ過保護クソババア! 腹は減ってりゃなんか食うし減ってなきゃ食わねーわ!」


 電話の向こうでは母親が卒倒したらしく、てんやわんやの大騒ぎだ。けれど構わず電話を切って、最後にもう一芝居打つ。


「……すみません。なんか、母親が『おばあちゃんがご飯作って待ってるから帰ってきなさい』って」


 肩を竦めて見せると、ふたりの世界に入り込んでいた夕真と丹後主務はふたり同時に重陽を見て、ふたり同時に至極残念そうに眉尻を下げた。


「そっか……。まあ、残念だけど、お盆でこっち来てるんだもんな。帰っておばあちゃんの飯食ってやりな」


 と先に発したのは夕真で、


「最寄りの駅まで送ろうか。そうしたら、少しだけど話もできるし」


 とむしろ、丹後主務の方が名残惜しそうに身を乗り出す。


「あ、大丈夫す大丈夫す。ばーちゃんち上野だし、おれも一応、東京は盆と正月の年に二回は来てるんで全然土地勘ないってわけじゃないし……ああでも、最後にいっこだけいいすか」


 送る? ぜってー嫌だね! と思いながら電車の時間を調べる素振りを見せつつまた肩を竦めて見せ、しかし重陽は──主に夕真に対して──逆襲の一手を放つ。


「実は、まひるちゃんには夏休み前にフラれちゃったんすよね。てっきり向こうから聞いて知ってるもんだと思ってたんですけど……なんかすいません」


「えっ」


 今度は夕真の方が動揺に目を泳がせた。何に動揺しているのかは、知ったこっちゃないし知りたくもない。知ったところで、全部が全部「今更」だろう。


「だからあ、おれ、お二人はお似合いだと思うんすけどお。ちょっと今のおれの目には毒っていうかあ……なんか思い出し泣きとかしちゃいそうだし、帰ります!」


 不思議なもので「思い出し泣き」という単語を口にしただけで本当に涙が込み上げてきた。そんな重陽の様を見て、夕真はおろおろと重陽の前で両腕を無様にばたつかせ、丹後主務はまた遠慮のかけらなく慣れた様子すら見せながら重陽の背を摩った。


「……そうか。じゃあ今は、ひとりになりたいって感じだよな。分かるよ」


 分かってたまるかボケ! と思いながらも「ありがとうございます」と応えて、鼻の下を擦り携帯をポケットに戻した。


「すみません。なんか、せっかく色々気ィ使ってもらって、丹後さんなんかわざわざこのために来てくれたのに、おれの個人的な事情で……」


「そんなことを君が気にする必要はないさ。ゆっくり話す時間が取れたらいいなって思ってたのはこっちの勝手だし、どのみち夕真を迎えに行かなきゃって思ってたから」


 ダメ押しみたいに発せられた言葉を最後まで聞いていられず、重陽は「すみません。電車来そうなんで!」とその場から逃げるように駆け出し地下鉄の出入り口へ駆け込んだ。


 登って来た時とは正反対の気分で階段を駆け下り、涙を必死に堪えながら無我夢中で改札を通ったものだから、気がついたら見たこともない赤いシートの地下鉄に乗っていた。


「やべっ」


 と慌てて次の駅で飛び降りた拍子に甲だけでひっかかっていた右足のサンダルが脱げ、それは地下鉄に乗ったまま知らない街へと運ばれていった。


 どういうシンデレラだよ……と呆然としている様を、道ゆく人はくすくす笑いながら愉快そうに遠巻きにしている。


 顔を上げた瞬間にたまたま目が合ったサラリーマン風の男をぎろっと睨みつけ、重陽は左足に残ったサンダルをそばのゴミ箱へ叩きつけ裸足で歩き出した。


 幸か不幸か降りたのは東京駅で、八重洲の地下街まで行けば歩き慣れたものだ。練習で愛用しているシューズメーカーのショップもある。


 ひとまずそこでなんでもいいから靴を買って、いっそゲイバー街にでもしけこんでやろうか。


 小遣いは、靴を買ったらほとんど小銭しか残らなそうだ。けれど「無一文だって外専の店行きゃなんとかなんだよ! 新宿二丁目だっておれなら走って行けるわバーカバーカ! おれ以外全員バカ! 死ね!!」という自棄っぱちな思いいっぱいで、重陽は背中を丸め素足でぺたぺたと地下街を行く。


 裸足で店を訪れた重陽を見て、ブランドロゴ入りのポロシャツを着た女性店員はぎょっと目を見張りながら「いらっしゃいませ……」と発してすぐに重陽から目を逸らした。


 けれど重陽は構うことなくランニングシューズのコーナーへ直行し、サイズに合う一番安い靴を引っ掴み、ついでにディスカウントされた投げ売りのソックスも引っ掴み、レジ台に置く。


「すぐに履くんで、タグ全部取ってください。あと、箱とか袋もいらないです」


 最初に重陽を見てギョッとした顔を浮かべた女性店員が、やっぱり少し怯えたような様子でバーコードを読み取りタグを切った。彼女のすぐ後ろには、まだ年始の箱根駅伝のポスターが貼りっぱなしになっている。


 それを見た瞬間。自然にぼたぼたと涙が流れた。どうしてなのかは分からない。ただ、自分にはもうこれしかないし、走らなければならない。という強迫観念じみた恐怖にも近い感情に重陽は喉を震わせ涙を零した。


 安売りの靴と靴下は微妙に足に合わなくて、一足また一足と踏み出すたびに固めのアーチクッションが重陽の浅い土踏まずを抉る。


 ──こんな靴で走ったら、秒で怪我しそう。


 どうでもいいか。そんなこと。と投げやりになりながら店を出てふらふら歩き出した。とにかくなんでもいいから何も考えないでいられるようにしたい。ICカードっていくら残ってたっけ、どこまで行ける? てか、新宿二丁目の最寄駅って、新宿?


「あー……めんっどくさ」


 と零した重陽の目の前には銅像がある。


 天に両腕を突き上げ歓喜の表情を浮かべている、箱根駅伝・絆の像。


「ちょっとぐらい速く走れるからって、なんなわけ? なんにもいいことねえんだけど」


 吐き捨てて、重陽は両耳へワイヤレスイヤホンを突っ込み絆の像に背を向けた。ついさっきまでいた読売新聞本社ビルを左手に少し行った先の交差点が、例の「コース間違え事件」の勃発した場所だ。


 夕真は自信満々で「ここに! スタートと! ゴールのゲートができる!」なんて言っていたが、ゴール地点の方は彼が示した場所じゃない。実際のゴールは、絆の像のある方の路地だ。


 十区のゴール直前にあたる直線を遡るように例の交差点へ向かい、重陽はそこを「誤った」方向へ曲がる。


 それから次の角を左に曲がった先──夕真がスタートとゴールを一緒くたにしていた場所──で重陽は地面に目を凝らし、とある目印を探す。


「……あった」


 彼が適当に宙を指さした場所ではない。本当のスタート地点。歩道に埋め込まれた金色の細い板には「箱根駅伝スタートライン 1区」と刻印されている。


 別に特別憧れていたわけじゃない。ただいろんなものから「逃走」していたら、たまたまその逃げ足が速かっただけだ。


「位置について……よーい……どん!」


 それでも重陽は、盛り場でやさぐれることよりも走ることを選んだ。安売りのフィットしない靴でも、履いたら足がうずうずして仕方がなかった。


 走ることは好きだ。走ってて得したことも走ってて良かったと思ったことも、なくはないけれど辛いことに比べたらそう多くもないのに、それでも走るんだから好きなんだろう。


 こんな時でも走っているんだから相当好きなんだろう。


 泣きながらでも走っているんだから本当に好きなんだろう。


 どんなに悪態をついても投げやりになっても結局走っているんだから、きっと一生好きなんだろう。


 ──ああそうさ! 好きだよ! ずっと好きだった!!


 こんな時だからさすがに、走り始めさえすれば彼のことなんか頭の外に追いやって何も考えずにいられるだろうと期待した。けれど、そうは問屋が降さなかったようだ。


 久しぶりに会えて嬉しかった。垢抜けてかっこよくなっててときめいた。箱根を走るところが見たいと言ってもらって、絶対に頑張ろうと思った。初めてのライブを一緒に見られて楽しかった。早く追いつかなきゃ。と焦った。


 しかし彼はそうして重陽がもたもたと焦っている間に、重陽とは全く関係ないところで恋をして、実らせて、信じられないくらい臆面なく笑いながら──。


「あああああくそっ! くそっ! くそっ! やってられるか! くそくらえ!!」


 こうなりゃ自棄だとばかりにスマートウォッチに「ヘイ!」と声をかける。


「箱根駅伝一区のコース! 最新区間記録のペース!」


 手首のデバイスは「かしこまりました。チョーヨーさん」と機械的な女性の声で応え、自動でアプリケーションを起動する。


「チョーヨーさん。少しペースが速すぎるかもしれません。無理は禁物ですよ!」


 アプリのナビゲーションボイスに釘を刺されて「うっせーわ! 一区の序盤は毎年スローペースなんだよ!!」と内心で悪態を吐きつつも、手首を見ると確かに二分四十五秒を切るペースで、流石に速すぎるか。と判断して重陽は首を両腕を回しながら脱力のストレッチをはかりペースを落とした。


 すると途端に、また彼の面影が瞼の裏に過ぎりこめかみを涙が伝う。


 実際のところ重陽が一番ショックを受けたのは何かと言えば、別に自分の恋が実らなかったこと(だって未来永劫実らないなんてまだ決まってないわけだし)ではない。


 さりとて、彼らがとてもお似合いで二人ともすごく幸せそうだったこと(そりゃあ嫉妬の一つや二つや三つや四つや五つや六つ……はあるけれども)でもない。


 何よりショックで死にたいほど情けないのは、この結果の種を撒いたのは自分にほかならないということだ。


「チョーヨーさん。いいペースですね! このまま直進して、芝、五丁目の交差点を、右です」


 増上寺前を過ぎ、ここまでほぼほぼ直進だったコースで最初の三叉路にあたり右へ舵を切る。


 心の底から好きってわけでもなかったのに、よりにもよってまひるに告白なんかするんじゃなかった。一途を貫くべきだった! だってあの人はおれのことを好きでいてくれて、不器用な突っぱね方だったけど、全部おれのためにしてくれたことだったのに!!


「あああああああくそっ! くそっ!! バカ!! おれが一番バカ!!」


 誰かのせいにしたいのに、自分の顔しか思い浮かばない。これで彼の選んだ男がものすごいゲス野郎だったりすればまだ呪いようもあろうというものだが、残念ながらそんな隙など一ミリもないのである。


 そう。丹後尚武という人は、中部の地方大会やローカル大会で燻っていた重陽を見つけ、見出し、「何がなんでもうちに君が欲しかったから」と言って、「君はこれからここで、ゆっくり『君』になっていけばいい」と言って、待っているよと笑ってくれた人だった。


 救われた。報いなければと思った。三者面談で鼻で笑われるような成績をどうにかせねばと奮起した。丹後尚武という人は、重陽にそう思わせてくれた人だった。



「チョーヨーさん。かなり、ペースが落ちているようですね。ですが、焦る必要はありません。自分のペースで、完走を目指しましょう!」


 耳元で無機質な声が告げる。全長二十一、三キロのコースにおいて、大体十八キロあたりのところにある六郷橋で中継所まで足を残しておけるかどうか。箱根駅伝の一区においては、その後の勝負にも大きく影響する。


 ──が。無鉄砲に走っていたせいで十五キロのあたりでペースはがくんと落ち、重陽の両足はフィットしないシューズの抉る土踏まずの痛みに耐えながら、ほとんど準備運動のジョグみたいなペースでアスファルトを蹴っていた。


 これが本番のレースならきっと「一体なんのアクシデントが!?」と哀れみを含んだ実況がなされる展開だろう。しかし悲しいかなアクシデントでもなんでもなく、単にペース配分とコンディション管理不行届ゆえのペースダウンというだけのことなのである。


 夕真のことが好きだ。好きで、好きで、たまらない気持ちになる。


 けれど丹後主務のことも、全く別の意味で「好き」だ。彼に報いたいと思う。彼がもう自分の思うような形で走ることができないのだとすれば、彼が見込んで求めてくれた自分がそれを成したいと思う。


「チョーヨーさん。あと少しです。ラストスパート! 諦めないで!」


 ナビゲーションが空虚極まりないエールを告げる。コースはあと一キロ。確かにラストスパートだ。


 どこにそんな力があったのかは分からないけれど、煽られて自然とペースが上がった。足は重いし痛いし、肺は千切れそうだし喉はカラカラだし、もはやこれ以上はないほど「やってらんねー!」くらい苦しくはあるのだけれど、重陽は走るのをやめることができない。


 結局、これがおれのアイデンティティなんだな。


 そんな諦念とともに、重陽は二十一、三キロをコースを完走し京急線鶴見市場駅そばの交番前に転がり込んだ。


 胸が痛む原因が失恋なのかラストスパートのせいなのかの判別がつかないところが、やっぱり走ることの利点だと思う。感情を曖昧にしてくれる。そんなところをよすがに重陽は今の今まで、逃げるために走ってきた。


 路上に倒れ込んだ重陽に、ちらりちらりと視線を寄越しながら素通りしていく人たち。そんなのがやっぱり居た堪れずにすぐ肩で息をしながらよろよろと起き上がって、自分の走ってきた道に重陽は深く頭を下げる。



 頭を上げた瞬間。たまたま前から歩いてきたスーツ姿のおじさんと目があって、彼は戸惑いながらも重陽に向かってぺこりと浅く会釈をした。


「あはは……あの、一区の……」


 可笑しくなってしまって、重陽は息を切らせたまま口角を上げ、すぐそばの歩道橋を指差した。


 すると男性は「ああ……」と合点したように何度か頷くと、急に親しげな笑みを浮かべたかと思えば重陽に歩み寄り、


「頑張って!」


 と肩を叩き去っていった。きっと地元の人なんだろう。


 そんなおじさんの背中を見送りながら、重陽は「早く帰ってママに謝ろう」と思った。いくら普段から思うところがあったとしたって「メンヘラ過保護クソババア!」はひどすぎるし、自分が衣食住になんの心配もなく走ることや学生生活に打ち込んでいられるのはほかでもない、両親のおかげなのだ。


 自分にも他人にも、家族にも、常に誠実であろう。ついさっき見知らぬおじさんと交わした短い会話で、重陽はそんなことを強く思った。


 結局、世界は自分の「鏡」なのだ。自分がしてきたことの影響が、まわり回って自分に返ってきているだけだ。


 今日までの重陽は、自分にも夕真にも不誠実だった。同性に恋をすることは決して罪でも嘲りの対象となるべきものでもない。


 だから重陽はカトリックの母親や無知なチームメイトに調子を合わせてヘラヘラへつらうべきではなかったし、回りくどい方法で夕真との距離を詰めようと画策するべきではなかったし、ましてや「あてつけ」で彼の妹と付き合うなんてもっての外だった。


 その結果がきっと夕真とのすれ違いで、初めから重陽が誰に阿ることもへつらうこともなくいれば、もしかしなくても自分たちはあのハーフの日に結ばれていたんだろう。


 一方で──逃げることばかり考えてはいたけれども──走ることには、競技には真摯に取り組んできた自負がある。


 走ることが好きだし、人より多少は速く走れる自分のこともわりと好きだ。苦しいことの方が多いけれど、きっと自分は生涯を通して走ることに向き合っていくんだろう。


 だからきっと重陽は、丹後尚武という人に出会えたに違いない。


 陸上激戦区である関東の大学からなんて、青嵐大のほかには自分に声をかけてくれた大学なんてないのだ。それ自体が奇跡みたいなもので、その奇跡を呼び込んだのは、ネット中継もされていたあのハーフマラソンでの自分の走り様に違いない。


 全ての「誠実さ」と「不誠実さ」が巡りめぐって、まるで鏡に映したみたいに自分に返ってきている。


 子どもっぽい捉え方かもしれない。そう思ったけれど、なんだか世界の真理を掴んだような気がした。


 今、この瞬間からは、全部に誠実に生きよう。


 そう決意した重陽はひとまずスマホを取り出し、父親に電話をかけ「ごめん。ママにひどいこといっちゃった。いま鶴見中継所にいるんだけど、電車賃ないから迎えにきてもらえないかな……」と平身低頭で発した。

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