06、逆光と後光

 校舎で受付を済ませたあと、ひとまずひとりで入試相談会へ参加してから再び夕真と合流した。


「どうだった? 相談会。お前って文理どっちなんだっけ」


 約一時間ぶりに再び顔を合わせた彼からは、微かに煙草の匂いがした。


「理系っす。こう見えて受験英語ニガテで」


「へえ。意外」


 目を瞠いて発した彼の吐息が少し煙たい。そばで人が吸っていて──ということではなさそうだ。


 驚いたし動揺したけれど、幻滅はしない。むしろ興奮する。だから早口になる。


「ヒアリングとスピーキングはいいんすけど、筆記がねえ……文系科目だと比重大きいじゃないすか。ってかハーフでも英語からっきしってヤツ結構多いっすよ」


「そうなの? あー、でもそうか。親が英語使ってないと覚えないもんな」


「そっすそっす。ウチもまあ英語は英語ですけど、母親の話す英語がめちゃくちゃ訛り強いからヒアリングもビミョーなとこっすよね」


 ふうん。と少し口を尖らせて頷く彼の横顔は、自分の知っている頃の彼よりも抜群に綺麗だ。実際の夕真は、重陽の拙い妄想を軽々と追い越していく。


 垢抜けて「東京の人」になった彼。早く追い付かなければと、どんな大事なレースよりも焦る。


「じゃあ学部はどこにすんの? うちの陸部の選手ってほとんど文系だろ」


「──えっ!? あ、あー、そうっすね……」


 ぼーっと考え事をしていて話を聴いていなかったのを見透かされ、彼は少し呆れたように「学部!」と繰り返す。


「消去法で情報学部ですかねえ……看護とか理工系は実習忙しそうだし。あと、さっきちょっと見せてもらった情報学部のAIの研究とかはゲームみたいで楽しそうでした!」


 重陽が意識してあどけなく言うと、夕真はまるで幼い弟でも見るように目を細めて微笑んで見せる。


「ああ。確かに。ああいうのお前、好きそうだよな。いいんじゃない?」


 そんな表情が、魅力的でもあり寂しくもある。


 中部の田舎の高校で、お互いに日々を必死に消化していたあの頃。そこにあった連帯感だけがごっそり無くなり、自分は欲しくもなかった大きな体を、彼は正体不明の「余裕」を得たらしい。



「先輩はどこの学部なんでしたっけ? 社会学?」


「そう。グローバル共生文化学科とかいうちゃれー名前のとこ。……まひるに聞いてない?」


 夕真は自嘲するように肩を竦め、気まずげにちらりと重陽を見上げた。


「あー……なんか、言われてみれば聞いた気がします。でもおれバカだから、きっと長くて覚えらんなかったんすね!」


 会話を広げたくてしたフリがまたしても裏目に出て、もう笑うしかない。


「ははは! ま。バカじゃなくても、彼女と話してる時なんか彼女に夢中で兄貴の話なんか入って来なくて当然か」


 彼の専攻は確かにまひるから聞いていたけれど、同じ轍を踏みたくなくてあえて知らないフリをした結果がこれである。


「いやいやいや、違うんですって違うんですって! っていうか──」


 と目を泳がせながら慌てて弁解を始め、しかし重陽は「おれがするこの表情、このジェスチャー、この声音は、このあとこういう会話、こんな展開にハンドルが切れるはず」という計算を怠らない。


 聞いてないんすか!? おれ、フラれたんすよおたくの妹さんに!!


 ダメだ。茶化して言ったとしても根掘り葉掘り聞いてくる人じゃないだけにあとが気まず過ぎる。


 そんなことが分かるってことは先輩、まさかカノジョできたんすか!?


 もっとダメだ。「実は……」なんて話が始まったら即死する。


 残るカードは──。


「ここ、滑り止めだったってハナシじゃないすか! 気まずくて先輩の進学先の話なんかできなかったですって!」


 肉を切らせて骨を断つ! とばかりに、小声で続けた。


 すると夕真は拍子抜けしたように「はあ?」と言って、煙たいミントの匂いを纏う声で笑う。


「なんだ。そんなこと気にしてたのか。……いいんだよ俺は別に。そりゃちょっとは悔しかったけどさ。地元出られりゃどこでもよかったし、どうせ学費は自分の借金だしな」


「は? え、しゃ、借金!?」


「うん。奨学金。……え、なにお前、奨学金借りないでここの学費まともに親負担なの?」


 夕真は妖怪でも目の当たりにしたような目で重陽を見ていて、そのことが重陽自身も大いにショックだった。


 彼に引かれたことが。ではない。言われてみれば当たり前のことなのだけれど、今の今まで学費の出どころだったり、それによって生じる両親の負担に想像が及ばなかった自分のバカさ加減が。である。


「──たぶんおれの学費って今までもこれからも全部マトモに親負担っすけど……ウチってもしかして『実家が太い』ってヤツなんすかね……母親、専業主婦だし」


「お、おう……そりゃきっと、うちがゴボウとするとお前んちは大根くらいには太いな」


 結局なんだか微妙な空気になってしまい、三秒から五秒の無言に耐えられず今度は重陽から「あの、クラブ棟って……」とぎこちなく話題を変えた。


 家族の間でもクラスでも部活でも、重陽はいつだってうまくやってきた。なのに夕真相手に同じことをして、裏目に出なかった試しがない。それが分かっているのに「同じこと」をしてしまうのだから、本当に自分が嫌になる。


 けれどその原因も、実を言うと当たりがついているのだ。


 それは、ひとえに下心。ありのままの自分を認めて欲しい。愛して欲しい。他ならぬ彼にそうして欲しい。


 彼のそれにも触れさせて欲しい。身も心も全て、彼の何もかもが自分の預かり知るところであって欲しい。彼の全身、髪の毛一本一本の先の先から内臓の裏の裏まで、撫で回し舐めまわし何もかもを両腕の内に閉じ込めて離したくない。


 そんな子どもじみつつ薄汚いエゴと下心と煩悩が重陽の調子を狂わせる。


 現に、そこまで暴力的な執着を他の何にも抱いたことがないので、どこでだって喜久井エヴァンズ重陽はちょうど良く隙のあるクリーンなお調子者だったはずだ。そうあれないのは彼の前だけで。


「──クラブ棟とトラックの設備、結構古くてさ。来年度はもしかしたら神奈川にできる新キャンパスに移転するかもしれない。とりあえず今はここだけど……」


 と案内されたクラブハウスは確かに老朽化が激しく、良く言えばレトロな学生会館風、率直に言えば廃墟の一歩手前。といった風情だった。


「……なるほど。趣しか勝たん! って感じですねえ。実に興味深い」


「喜久井お前、ほんと根っからの太鼓持ちなのな。このオンボロ部室棟にそんなポジティブな言葉使うヤツ初めて見たよ」


 呆れ半分感心半分といった顔色で彼は言い、やがて「駅伝部」と木札のかかった引き戸の前で立ち止まった。


「わりと個人で好き勝手にやってる部みたいだけど、オーキャン期間中は誰かしらいるって話だから……」


 そう言って彼は気安いムードでごんごんとその引き戸をノックした。


「失礼しま──」


 と彼が言い終わる前に引き戸が勢いよく開き、校章入りの青いTシャツを着た男子学生が四人、顔首を揃え姿を現した。


「いらっしゃい! 駅伝は好き!? 現場には良く行く方? あっ! っていうか喜久井くんじゃん!?」


「ほんとだ! 喜久井くんだ!! 中部地方大会見たよーっ! あの時もしかして結構緊張してた? 年末のハーフくらいリラックスできてたらもっと上行けたって!」


「いや緊張うんぬんよりあの日の天候な! 関東以南のインハイ路線は暑さ耐性がウエイトでかいんだって! ねえ!?」


 四人の内の三人の先輩に捲し立てられ、重陽は察した。


 自分にあの手作り勧誘冊子を送ってきた人たちは単なるランナーではなく、筋金入りの長距離走オタクであったのだと。



 そんなオタク先輩一同を、残りの一人がダブレット端末で一度ずつ頭を小突いていき、それで重陽は「この人が主将か何かか」と察しをつける。あくまで重陽の偏見ではあるものの、タブレットで人の頭を小突くのは大体立場のある人だ。


「こらこら。はしゃぐなオタクども。高校生と一年生をビビらせるんじゃない。──悪いね。こいつらには後でよく言って聞かせるから」


 と言って眉尻を下げた彼は、重陽よりもぐんと背が高かった。けれど新幹線みたいにシャープな体つきにはどこにも無駄な肉付きも、力みすらもない。きっとすごく広いストライドで、風みたいに走る人なんだろう。そんな印象だ。


「……あ! いえ、全然全然! っていうか、申し遅れちゃってすいません。喜久井エヴァンズ重陽です。むしろなんか、知っててもらって恐縮っス」


 同じ長身ランナーとして、目指すべき体型だよなあ。などと考えている間に変な間ができてしまい、慌てて深く頭を下げる。


「こちらこそ。君なんかよその大学からも引く手数多だろうに、わざわざうちなんかを見に来てくれてありがとう。感謝するよ。主務兼トレーナーの丹後尚武(たんごしょうぶ)だ。俺は四年だから、君とはOBとして顔を合わせる機会の方が多いかもな。よろしく」


 差し出された手をおずおず握ると、ぐっと引き寄せられてその力強さにたじろいでしまう。


「よろしくお願いします。……あの、丹後さんマネージャーなんですか? 選手じゃなく」


「ああ。春にちょっと大きな怪我しちゃってね。うちは裏方も足りてないし、俺は専攻もリハビリだからちょうどいい機会かと思って」


 出会い頭からいきなり悪いことを聞いてしまった。そう思って咄嗟に「すみません」と口にしかけた矢先、丹後の発した言葉でその「すみません」が喉元で突っかかった。


「夕真も、担当違うのにいい選手紹介してくれてありがとな」


「ああいえ、別に……お役に立てたならよかったです。それに、俺もこいつがウチのユニフォームで箱根走るとこ見てみたいし」


 ちょっと待って先輩そんな親しげに下の名前で呼ばれてんの!?


 お役に立ててよかったはいいとしてそのデレ笑顔なに!?


 そんなことより! 先輩‼︎ おれがここのユニで箱根出るとこ見たいって!?


 喉元で突っかかったままの「すみません」は、重なった意味の数だけどもって「すすすすみませんなんかほんと恐縮ですアハハ」と、重陽はいつものへつらい笑いとはまた違う曖昧なへらへら笑いとして宙空に放出してしまった。



「いいじゃんいいじゃーん。オーキャンで部室に来た高校生からしか得られない栄養素は、その内ガンにも効くようになる」


 うんうん頷いている、丹後主務に小突かれた先輩のひとりは紛うかたなきネットミームでしみじみと言う。


 そんな彼は高二までの重陽と同じくらいの背丈で、けれど華奢さはなくしっかりした体格だ。きっと安定したピッチ走法のランナーに違いない。


「三年の土田十一(つちだといち)でーす。喜久井くん、愛知だっけ? いいよねえ都会で! オレは多治見第一からのここでさあ、中部の地方大会までは出てたから大会でたまに見てたよ」


 目を爛々と輝かせる彼とも握手を交わし、よろしくおねがいします。とついつい口にしてしまう。


「ハイ! ハイ! 三浦(みうら)ノブタでーす。こっちは弟のユメタね! 俺らは町田生まれ町田育ちで近いからココ入ったけどお、走るの楽しーし楽しく走れたらいっかなーっていうエンジョイ勢なの! ね?」


 と言って、出迎えてくれた先輩たちの中では比較的抜け感のあるというか、シュッとした印象で全く同じ顔の二人組が頷き合う。


「そうそう。オレらは勝負とか将来とかはわりとどーでもいーの。だから喜久井くんも、もし丹後さんとかつっちー先輩についてけなかったら、俺らと一緒に気楽にやろーね! 俺らは今二年だからきっと付き合いも長くなるし、仲良くしてねえ」


 前髪の分け目の位置だけが違う瓜二つの二人は、大会や競技会ではついぞ見たことのない緑がかった金髪だ。紛うかたなき一卵性双生児だが、どうしてこう陸上、特に長距離をやろうという人間には双子が多いのだろうか。


「あ、ハイ。よろしくお願いします。まあまず、おれの頭でココ受けれるかどうかってとこなんすけど……」


 まだ入るとも決まってないし、入れるとも決まっていないのに、なんだか完全に歓迎ムードに飲まれてしまい握手を繰り返す。


 けれど、このオンボロのクラブハウスはどうしてか息がしやすい気がした。


 それは三浦兄弟の抜け感あるムードのお陰かもしれないし、丹後主務のでんとした存在感のお陰かもしれないし、何より夕真が「俺もこいつがウチのユニフォームで箱根走るとこ見てみたい」と言ってくれたお陰が大きいかもしれない。


 けれどもとにかく重陽には「おれが大学でも陸上を続けるとしたらここでしかないんだろうな」という直感があった。


 根拠も何もないし、メリットもデメリットも、今のところはなんの精査も整理もできていない。


 が、のびのびと自分を押さえつけずに走ることを続けられそうな可能性を感じる場がこの世にあるということ自体が、重陽にとってはいい意味でも悪い意味でも、カルチャーショックが大きかった。



「あの、監督さんって今はどこに……練習中でしょうか。トラックに行ったら会えますか?」


 送られてきた冊子で見た気弱げなスーツ姿の監督の姿を思い浮かべながら、重陽は丹後主務に尋ねた。


「あー……先生はたぶん、相談会の方だな。文学部のスペースにいなかったか?」


「ええっ! 大学の先生が指導されてるんですか!?」


 大学で講義をしている先生が監督。少なくとも、重陽の周りで陸上での進学先として名前の挙がる大学でそういう例は聞いたことがない。


 頭を過った不安は伝わってしまったようで、丹後主務は苦笑いを浮かべ「まあ、そう言う反応になるよな」と頬をかく。


「指導っていうか、まあ、監督は監督でも『現場監督』って感じだな。単なる顧問の先生って言った方が実態には近い」


「え!? じゃあ皆さんどうやって練習──」


「各自の創意工夫だよ」


 丹後主務は不審が滲み出た重陽の言葉を遮り、淀みなく言った。


「大会前、特に駅伝の前は目標の確認や情報共有のためにしょっちゅうミーティングはするけど、基本的には自分で自分をコントロールしながら各自で練習してる。まあ、お互いのタイミングとか方針が合えば集まって練習することもあるけどな。送ったパンフにも書いてあったろ?」


 彼の言う通りに書いてあったような気もするし、そういうニュアンスではなかったような気もする。なんとも言えない。


 現物を持ってこなかったのを後悔したが、あとの祭りだ。重陽は彼の語気が孕む迫力と眼差しの強さに圧倒され、気付けばまるで操られるように「はい。書いてました……」と発していた。


「──ま、もしかするとちょっとばかりマイルドな表現を使わせてもらってたかもしれないけどな。そこはあれだ。何がなんでもうちに君が欲しかったからってことで勘弁してくれ。じっくり考えてくれていいから」


 かと思えば丹後主務はまた柔らかく眉尻を下げ、いかにも人好きのしそうな笑みを浮かべて目を細めた。


 これが世に言うカリスマ性というやつなんだろうか。嫌な感じはしない──むしろとても格好良く見えるし、頼り甲斐もありそうにも思える。


 けれど、なんだか底の知れない人だ。それが重陽の、丹後尚武という人に対する正直な印象だった。



 自己紹介を終えると、自称エンジョイ勢の三浦兄弟は勧誘チラシを手にキャンパスへ繰り出していき、夕真もまた「じゃあ俺、ほかの記録の仕事あるから」と駅伝部の部室を出て行った。


 それぞれに独特のオーラがある初対面の先輩ら二人に挟まれ、妙に肩身が狭い。空気を読むのは得意だが、それゆえ重陽にとって初対面の人とのコミュニケーションは消費カロリーが大きい。「空気を読む」という行為は一対一のオーダーメイドなのだ。


「じゃ、トラック行ってみよっか! つってもウチの主力陣はよその大学とか実業団で武者修行してるヤツの方が多いから、ここのトラックにいるのってノブタとユメタみたいなエンジョイ勢が多いんだけど」


 と発して土田はニコニコと引き戸に手をかけ、けれど有無を言わせないような目力と語気で重陽を促す。


「あ、ハイ……」


 促されるままに半歩踏み出し、丹後主務にさりげなく背を押されてその半歩が一歩になった。


「そうだ。冊子で見てくれてたかも知れないけど、土田は今のうちの主将なんだ。うちは競技に人生のっけがちな『ガチ勢』と、趣味で楽しくがモットーの『エンジョイ勢』になんとなく分かれてて、一応主将とかの幹部はガチ勢から出すようにしてる。エンジョイ勢はいい意味でも悪い意味でもこだわりがないからな」


「はあ、そうだったんすか……ってことは、いわゆる一軍が『ガチ勢』で二軍が『エンジョイ勢』てことなんですかね?」


 という重陽の問いかけに、丹後主務ははっきりとした語調で「いや」と答える。


「そういう分け方はしてないよ。『エンジョイ勢』って言っても、何が楽しみでやってるのかは人それぞれだから」


 と言って彼は、右足を庇うような少し歪な歩き方で半歩後ろからついてくる。


「ノブタとユメタはあんなチャラチャラした雰囲気だけど、あいつらが『楽しい』と思ってるのは自分のタイムが縮んでいくことなんだ。だから卒業した後に競技を続けるつもりはさらさらないみたいだけど、記録にはすごくこだわってる」


 そう言った丹後主務が「な?」と前を歩く土田主将に話を振ると、彼もまた「そーそー」と頷きながら振り返った。


「もったいねーよなー。あいつら、センゴは俺よりいいタイム持ってるよ。でも残酷なもんでさ、ガチだから速くなれるってわけじゃないんだよな。シュミが楽しい楽しいだけでやってても、速いやつは速いし強いやつは強い」


 そんな嘆息混じりの言葉を聞いて重陽は、遥希と有希のことを思い浮かべた。


 二人はガチかエンジョイかで言えばガチ中のガチだろうと思うが、有希はともかく遥希はエンジョイ勢でもある気がする。「好きこそ物の上手なれ」を地で爆走、しかも爆速で駆けているタイプというか。


「一応確認なんだけど、喜久井くんはやっぱりガチな感じ? 実業団とかも考えてる方?」


「えっ、あ、お、おれは……」


 振り返った土田に真正面から尋ねられ、咄嗟に答えられなかった。どう答えるのが正解なのかがまだ分からなかったし、実際自分がどうしたいのかもよく分からないのだ。


「……すみません。正直まだ、ちょっと分かんないです。走るのは好きだし、とりあえず大学では続けてみようかなって思ってるんですけど……実業団ってなると気持ちだけで行けるとこじゃないと思うし」


 とりあえず、自分はまだ今はこのチームの人間関係の外側にいる。ということに甘えて、正直な考えを話してみた。こんなことを地元の監督やチームメイトに聞かれるとまた「お前は『気持ち』が弱い!」と怒られるやら呆れられるやらしそうだと思いながら。


「なるほど。言えてるな。目指す目指さないはそりゃ自由だけど、気持ちの強さだなんだでどうにかなるほど甘い世界じゃない。努力は裏切る。不運はついて回る。どんな天才にも、熱血漢にも」


 右足を庇って歩く丹後主務が言うと、底知れぬ説得力があった。


「そう。そう! そうじゃないですか! おれ、気持ちの強さとかハングリー精神とか、そういう言葉大っ嫌いなんすよ!」


 自分が今まで監督やチームメイトたちに、伝えたくても伝えられなかったこと。それを丹後主務に短く言い当てられ、重陽も言葉を吐くのを止められなくなった。


「好きなら一生懸命になるのなんか当たり前だし、それでもダメな時はダメだし、一生懸命やりたくてもできない時だってあるし、全然頑張ってないのになんかぬるっと結果出ちゃう時もあるし、そういうのを全部『気持ち』でまとめられるの、おれはすげー嫌です!」


 ひどい乗り物酔いのあとみたいに一息に吐き出してしまってから、しまった。と青ざめた。


 嫌い。嫌だ。人間関係のNGワードだ。どんな場面だってせめて「おれには合わない」とか「どうかと思う」ぐらいの言葉に言い換えるべきで、思う分には自由だけれど口に出すとなると「嫌」には力がありすぎる。


 やばい。やばい! 気難しいヤツと思われた! ここで印象しくじると後からリカバリー面倒くさいぞ!? それに何より、先輩の顔を潰すことに──。


「喜久井、すげーじゃん。なかなかいないよ。そうやって自分の考えてることちゃんと言葉にできるヤツって。っていうか、もっと大人しいヤツかと思ってた」


 土田主将が重陽を呼ぶ名前から「くん」が消えた。目には見えない受容が、緊張感で早鐘を打っていた重陽の鼓動のリズムを徐々に落としていく。


「いえその……全然、すごくないです。今はたまたま丹後さんが水を向けてくれたけど、地元じゃおれは部長だし、監督とか、ほかのチームメイトとか、あと家族の前でだって全然本音なんか言えないし──」


「じゃあ、君はこれからここで、ゆっくり『君』になっていけばいい」


 立ち止まった重陽に追いついた丹後主務が、後ろから遠慮のかけらなく重陽の頭部に手を添えた。


「俺たちはここで君を待ってる。歓迎するよ。うちには名伯楽な監督も飛び抜けたエースランナーもいないけど、懐の深さだけはよその比じゃないよ」


 後頭部に触れていた手が離れていく。見上げた彼の顔は逆光で、ちょうど後光が差しているみたいに見えた。

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