05、推し恋し

 インターハイはいつも八月の初旬、お盆の前に開催されることが多い。けれど今年は夏休みの終わり、八月の最終週に北海道で行われることになっている。


 練習期間もひと月近く長い上に八月下旬の北海道は気候もいいので、界隈は「さぞかし好記録が連発するに違いない」と湧いているようだ。


 重陽にとって幸いだったのは、同じ競技で一緒に全国大会へ行く双子が普通に練習を「お盆休み」したことだった。地方大会の優勝・準優勝コンビを差し置いて部活を休むのは少し──いや、かなり体裁が悪い。


 とは言え重陽は、誰に何を言われようとも練習を休み、父方の祖父母が住む東京へ来たに違いなかった。墓参りのためではない。夕真との約束のためだ。


「重陽! お前、でかくなったなあ!」


 東京駅で妻と息子を出迎えた父親は、感慨深げにそう言って重陽を見上げる。彼は日本人の平均よりも小柄な方で、二年の冬までの重陽はどちらかというと父似だった。


「でしょう? もう、制服なんか二回も仕立て直したんだから!」


 重陽が返事をする前に母が嬉しそうに発し、両親は頬でキスを交わす。その様を重陽は、目を泳がせながら無言で見守った。人生の大半を日本で「外国人」として暮らしているというのに、両親と一緒にいる時に感じる「日本人」からの「あー、はいはい。なるほどね」という視線が未だに気になるのだ。


 国際関係を専門にするジャーナリストの父は、二年前から東京で単身赴任生活を送っている。なので、親子で顔を合わせるのは基本的にお盆と年末年始だけだ。


「しかし、やっぱり背が高いと男前に見えるな。ママに送ってもらう写真がいつもユニフォームだからっていうのもあるけど」


「そうかな」


「それだけじゃないのよパパ。重陽、最近はガールフレンドに服を選んでもらってるの。ほら、前に話したじゃない? 走り幅跳びのまひるちゃん。それでね。今日はこのまま、まひるちゃんのお兄さんに青嵐大のオープンキャンパスを案内してもらうんですって。あのモノクロ写真の彼!」


「ああ……写真部の先輩っていったか。去年の駅伝で写真撮ってくれた。彼の写真、すごくよかったよなあ。芸術系より報道に向いてると思うんだけど」


「うん。パパがそう言ってたって、先輩にも伝えておくよ」


 二人の時はどうかよく知らないけれど、一人息子を間に挟んだ両親は本当によく喋る。そんな両親の間にいる重陽は、基本的にはいつもニコニコ相槌を打っているだけだ。


 自分の記憶にはないけれど、生まれてすぐの重陽はわりに生死の境を彷徨うことも多かったらしい。なので、そんな一粒種はきっと彼らにすれば「生きてるだけでまるもうけ」なんだろう。ニコニコ黙って相槌を打っているだけでも、文句を言われたことはない。


 きっと両親にとっては、一人息子が唯一で最愛の「推し」なんだろう。そう考えれば彼らの言動や態度も、まあ分からなくはない。


 自分だって、好きなゲームや漫画のキャラクターが描かれたイラストや二次創作を見ては「尊い……っ!!」と手を合わせ、作者にレシートの如き匿名感想メッセージを送信したことが数えきれないくらいある。


 残念なことに重陽にはオフラインでそんなことを語り合う親しい友人はいないものの、そんな友達がいたらきっと両親のような声量で早口に「推し」を語るに違いないのだ。


 両親とはJRの新宿駅で別れ、重陽はそこから大学のホームページに載っているアクセスマップに従い私鉄に乗り換えた。


 夕真が進学し、かつ自分に学校を通して勧誘冊子を送ってきた「東京青嵐大学」のキャンパスは、東京と言っても23区外の都下にある。住所的にはほとんど神奈川と言ってもいいくらいの県境にあり、なんなら校舎の一部は県境を跨いでいるくらいだ。


 乗り換えた私鉄で「経堂」だの「成城学園前」だのという地元ではおよそ見かけない瀟洒な駅の名前を一つまた一つと見送りながら、夕真のことを考える。


 自分に彼のことを遠慮なく話すことのできる人がいたらきっと、両親が自分のことを話す時と同じように饒舌になるに違いない。


 彼に対して「好きだ」と思うところは山ほどある。能動的に「ここが好きだ」というところもあれば、受動的に「こうしてくれたから好きだ」という部分もある。彼のことを考えたり彼と関わったりすると心をかき乱されて仕方がないし、こう言ってはなんだが、ちゃんと「下心」もある。


 けれど、それを自分の崇拝してやまない「推し」たちと区別することはできるだろうか。と考えるのである。


 重陽はいわゆる「オタク」であるし、自分の気持ちを言語化するにあたってしっくりくるのは(良し悪しはひとまず脇に置いておくとして)圧倒的にネットミーム的な言葉の連なりだ。


 尊い。マジ無理。好きみあり過ぎ。神かよ。人生狂わせてくれてありがとう。


 よく見る大袈裟な言葉。ありきたりな言葉。


 ゲームや漫画に登場する「推し」と同じ言葉でしか彼への気持ちを表現できないのは語彙力のせいなのか、それとも気持ちの整理がついていないのか。そこにはずっと疑問を持っている。


 だからこそ、この感情は果たしてリアルな人間に向けてもいい感情なのか。そんな迷いが重陽を苛む。


 そんなことを考えている内に電車は川を渡り、彼の住む街へ近づいていった。

 メッセージの返事でさえそっけない彼である。写真なんかあのチケット以外には送られてきた試しがない。ましてや彼自身の姿形など尚更である。


 変わったのか、変わっていないのか。そのどちらの姿も想像できないししたくもない。


 変わっていないとしたらきっと、彼は今も笑うことを厭いながら辛い毎日を送っているに違いない。


 変わったとすれば、それを知らされていないのが悔しいし寂しい。


 それって結局、自分のことしか考えてなくねえ? と思い至ってしまい、重陽は大きくため息をついた。そうして頭を抱えている内に電車は目的の駅に着き、重たい頭を上げて重陽は電車を降りる。


「あっちぃー……」


 東京駅や新宿駅とは違う直射日光に晒されたホームで、重陽は思わず呟き天を仰いだ。


 目的地が同じなのであろう同年代の男女が脇を通り抜けていく。ちらちらと自分に寄せられる視線に気付いてしまい、なるべく小さく見えるように背中を丸めながら人の流れに任せて改札へ向かった。


 私大である青嵐大は受験生獲得にかなり力を入れているようで、オープンキャンパスに伴い駅から大学へのシャトルバスを出している。


『いま電車降りましたー! 次のバス乗ります!』


 バス乗り場へ向かう道すがら、携帯をいつもより気持ち顔に近づけて彼にメッセージを送った。さすがにすぐに既読マークがついて、了解。のスタンプが返ってくる。


 イヤホンは、自主練以外ではあえて有線の物を使う。聞く気がないものを、聞こえなかったふりをして無視できるからだ。


 夏休みに東京の私大で行われるオープンキャンパスに来るような奴なんていうのは大体浮かれポンチのなので、真のパリピなんかが居ようものなら九分九厘の確率で見かけの目立つ重陽に声をかけてくる。もちろんそれは言い逃れのないほどの「偏見」ではあるのだけれど。



 しかし、申し訳ないが今の重陽にはそんな彼らに愛想を振りまいている余裕など一ミリもないのである。バスが着いたら出迎えてくれる算段になっている彼の顔を、声を、その第一声を憶測し、パターン別に算出したアクションを脳内でリハーサルせねばならない。


 このオープンキャンパスへ参加するにあたり、重陽は初めて自分で服を選んだ。付き合ってる時から「重陽先輩、私服ダサいの超ウケるんですけど」と屈託なく笑っていたまひるにアドバイスをもらいながら選んだ一張羅だ。


 彼女のアドバイスで選んだサンダルみたいな靴が、今にも足からすっぽ抜けそうで心許ない。手のひらも足の裏も汗まみれなのは、決して暑さのせいばかりではないだろう。


 多くの大人が高校生活をして「青春」と形容するように、過去というのは誰しも美化してしまうものだと思う。


 自分ばかりがその例外として現在進行形で彼への想いをあの時のまま保てていると思い込むのは全くの驕りというもので、きっと美化してしまっているところがあると思う。


 今現在のありのままの彼の姿に失望せず、さりとて崇拝もせず、ただあるがままに「好きだ」と今も思っていられるのかどうか。


 その結果はある意味では重陽の尊厳を左右する結論であると言える気がしたし、だからこそ足の裏が汗でムズムズして仕方がなかった。


 重陽を乗せたシャトルバスは市街地を十分ほど走り、やがて小高い丘の上にある校門を通り抜けた少し先で停車した。車内は俄に浮き足立つ──ような素振りを全員が全員隠しながら、斜に構えたようなよそ行きのイキり散らかした雰囲気を醸し行儀良く列を作ってバスを降りる。


 窓の外は見ないようにしていた。というか見られなかった。怖かった。彼の顔を見てしまうのも、見つけられないのも。


 それでも重陽は覚悟を決めてイヤホンを耳から外し、携帯のジャックから外してコードを丸めポケットに突っ込み、えいやっ。と顔を上げた。


「あ……」


 思わず声が上がる。顔を上げたその目線のすぐ先、数十メートル先に彼がいるのがすぐに分かった。そのことにほっとして、同時に胸が高鳴った。


 夕真はバスから降りてきた高校生たちの顔をおずおずと伺いながら、ゆっくりこちらへ歩いてくる。そして彼は視界に入ったのであろう重陽の姿を二度見──いや三度見して、その涼やかな切長の双眸を大きく瞠って発した。


「いや、でっか!」


 そうして彼が歯を見せた瞬間。「好きだ!!」という気持ちが大爆発し、胸の内に渦巻いていたあらゆる感情、あらゆる懊悩を木っ端微塵に吹き飛ばした。


「い、いや……いやいやいや! 先輩の方こそ! 大学デビューえぐいっしょ!!」


 彼はカーキのビッグシルエットTシャツに黒のスキニーという出立ちで、首にはデジタル一眼レフのカメラを提げている。足元はシンプルなスポーツサンダルだけれど、それがなんだかかえってこなれた感じがしてセクシーだ。


 しかし。そう。格好はそう大した問題じゃない。


 確かに、いつもアイロンの当てられていないよれたカッターを着ていた高校時代に比べれば、シンプルな無地のTシャツでも皺がなく体型に合っているだけで随分見違える。


 が、そんなことより。髪型と眼鏡である。さらさらで真っ直ぐだった髪は色こそ艶やかな黒を保ってはいたものの、ヘアカタログそのままみたいなパーマが充てられている。


 眼鏡も素材こそ高校時代と同じ銀のフレームではあるが、形が「サブカル系BL漫画に出てくる芸大生の受け」みたいなまん丸レンズの大きな眼鏡だ。


「ああ、うん。……変かな」


 などと聴き慣れたか細い声で、しかし微笑みながら気まずそうにはにかむ彼の様に目眩を覚えた。「カッコいい!」と興奮してにやけそうなのを、いっそのこと! と満面の笑みで誤魔化す。


「いえ! めちゃくちゃ似合っててカッコいいんで! オッケーです!!」


 と、大袈裟に全身でリアクションを取りながら片手の親指を立てる。そんな重陽の様を見て夕真は、信じられないほど気安く声を上げて笑った。


「ははは! まぁたお前はそうやって人に気ィ使って。見た目こんなクソでかくなってビビったけど、中身は全然変わってないな」


「そんなそんな。ねえ? 人間、そう簡単に変わんないっすよ。先輩みたいに、進学とか? きっかけがあればまた別ですけど」


「まあ、それもそうかもな。東京来て、誰も今までの俺のこと知らないんだって思ったら、すごい気が楽になったし」


「いやでも気ィ使ってるとかじゃなくて、マジで全部似合ってます。服も靴も髪型もメガネも! なんかシュッとしてるっていうか、吹っ切れてる感じしますよ」


 先輩と後輩で交わすありきたりな言葉の中に、二人だけの間にだけ通じ合う暗号みたいな感情が行き交うのがたまらなく嬉しかった。


「……あれ? でもそういや、今日持ってるカメラはデジカメなんすね」


 また会えたことも、彼の纏う雰囲気が軽やかなのも、すごく嬉しい。けれどなんだかモヤっとするのは、彼に変化を齎したのが自分ではない。という事実がついてまわるからだ。


 彼は重陽の知らない間に皺のない服を着ることを身につけ、東京のサロンで髪を切り、眼鏡を変えて、カメラもフィルム式からデジタルに変えたようだ。


 自分勝手な感傷だとは思うものの、やっぱりなんだか裏切られたような気が少しだけしてしまう。置いていかれた。というか、過去を自分の存在ごと丸めて蓋付きのゴミ箱に突っ込まれたような。


 きっと「東京」という街が彼を変えたのだ。だから重陽は「東京」に嫉妬する気持ちを抑えられない。


 彼にとっての「東京」が担った役目の全てを自分が担いたかった。なんて、自分で自分が恥ずかしいくらい本当に幼稚な後悔なのだけれど。


「高校の時に使ってたフィルムのカメラって、今はもうお蔵な感じっすか?」


 そんなことを考えながらおずおず尋ねると、彼は「いや」と首を横に降って軽く答える。


「今もフィルムはやってるよ。じいちゃんのカメラもお陰様で現役」


「そっすか。よかった」


「よかったってなに」


「いやだって、おれ先輩のフィルムの写真好きっすもん。モノクロもカラーも」


「マジかよ。初めて聞くんだけど」


 そう言って彼はまた自然に歯を見せて、小鳥のような声で笑う。


「いや、うそうそ。おれ結構ストレートに言ってましたって! っていうかまひるちゃんと仲良くなれたのも先輩の写真繋がりだし! 聞いてません!?」


 自分のストレートな好意が全く響いていなかったことに動揺したあまり、余計なことを口走ってしまった。そう思ったのは、彼の表情がその瞬間に少し硬くなったからだ。


「……そうなんだ。もしかして、卒展?」


 その少し硬い表情のまま彼は、重陽から目を逸らし「とりあえず、行くか」といった風情で校舎を指差す。


「あ、そうですそうです! 期間中ずっとインフルで寝込んでた先輩の代わりに、すげー一生懸命『お兄ちゃんの写真はここがこうすごくって!』って解説してましたよ」


 年度末のことだ。重陽もその時に初めて知ったことではあるが、写真部は三年生の受験が粗方終わった卒業式の直前に毎年、市の美術館の一室で「卒業写真展」を行っている。


 昨年度の卒業生は夕真ひとりだったので、つまり夕真の個展だった。撮影された日付の順に撮り溜められた写真が展示されていたが、植物や風景、鉄道の写真が続く途中、三年の終わりで突然現れる陸上の写真は異質な精彩を放っていた。


「あ。そうだあと、これ余計なお世話だったらスミマセンなんですけど、記者やってるウチの父親が先輩の写真見て『芸術系より報道に向いてると思う』って言ってました。ほんっと勝手ながらなんですけど、ぶっちゃけおれもそう思います」


 夕真の硬い表情をして「その顔はほぼ、好きな子に恋人のノロケを聞かされる時のそれでは?」と都合よく疑いながら、しかしそうではないことは明白であり、重陽はその事実があんまり辛いので話を逸らす。


「え。それマジ? お前の親父さんって記者なの?」


 彼は父からの伝言に思いのほか食いつき、再び重陽の顔を見て目を瞠った。話がまひるからそれたことにほっとしつつ彼に見つめられて胸が高鳴り、我がことながら「心電図が面白いことになってそうだな……」と思った。


「ああ、はい。つっても、国際政治が専門でスポーツは全然なんすけど」


「そうなんだ! 実は俺、学生新聞のサークルでカメラマンと記者やってるんだ。本職の人にそう言ってもらえると、自信つくよ」


 そう言って嬉しそうに照れ笑いを浮かべる彼の顔が、まるで全然知らない人のように見えて辛かった。


 恋心も、尊敬も、友愛も、全部をストレートに伝えてきたつもりだ。しかし彼はありのままの重陽の「存在」は認めてくれても、自分に向けられた「好意」を受け止めてくれることはなかったのだ。


 そんな彼が、こんなに屈託なく「自信つく」なんて言っていることを、真人間なら喜ぶべきだ。けれどそうはならないのはひとえにエゴで、重陽にとっては彼にそうした幸いなる変化を齎した全てが憎い。


「へえ! そうだったんすか! なんだよ言ってくださいよ水臭いなあ。じゃあ、おれがココ入ったら先輩に取材してもらえるってことっすね!?」


 イエーイ! とはしゃいだふりで並んだ肩をぶつけたら、体格はあの頃と変わらず華奢な夕真は少しよろけて「いてえよ」とぼやく。


「そうだな。今年はたぶんずっと野球部の担当だけど、来年からはたぶん陸上もやらせてもらえると思う」


 けれどそう言って頷いた夕真の声は、冬に「あと少しだよ。頑張れ」と言ってくれた時と同じだった。だからやっぱり、重陽の心は千々に乱れて仕方がない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る