04、追憶は遠く

 練習を終えて同級生や後輩らと後片付けをしている最中も、重陽は双子とそれ以外の部員の間で「まあまあ」と「そこをなんとか」を繰り返した。


「遥希! 喜久井に三角コーン運ばせんなって。お前後輩だろ」


 といつもは重陽を「ホモくさ」とからかう副部長の市野井(いちのい)元(はじめ)が声を張る。肩を竦ませたのは遥希ではなく、むしろ重陽の方だ。ついつい何も考えず片付けに手をつけてしまった。


「は? 別にそれ、先輩後輩関係なくないっすか。気付いた人がやりゃいいじゃん」


 絶妙に生意気な顔で、遥希はまたしても重陽に「ねえ?」と同意を求める。


「そうだなあー。じゃ、たった今気付いた遥希、手伝ってくれる?」


「おい喜久井、そうじゃねーだろ。お前部長なんだからもう少し──」


「まあまあまあまあ。部長がなんでも率先してやるってのもいいでしょ。背中で語るタイプっていうの?」


「ま、レース中に背中で語ってんのはチョーさんじゃなくて俺なんすけどね!」


 額に青筋を立てている先輩を構いもせず、遥希は無邪気に笑う。重陽はそんな二人の間に慌てて体を滑り込ませ、遥希の口元を指でなぞった。


「うん。遥希。すげーウマいこと言ってるんだけど、ちょっとお口にチャックしてようね」


「えー? なんでなんで。俺喋ってないと死ぬタイプの人なんで無理でーす」


「そこをなんとか! ね? はいコーン持って。あっちで女子部のジュンちゃんに話聞いてもらいな」


 と重陽が半ば強引にその胸へ三角コーンを押し付けると、遥希は渋々それを受け取り「うぃーす」と口を尖らせ歩いて行く。


 自分が部長に指名されたのは双子が入学する前のことではあったけれど、推薦の二人は昨年の冬からしばしば練習にも顔を出していた。だから今なら分かる。確かにこの部には、自分という「人間関係の緩衝材」が必要だ。というか、自分以外の誰かにこの役が勤まるとは思えない。


 これはそれこそ重陽の「偏見」ではあるけれど、コンマ一秒の世界で勝負をしようという人間は大なり小なりみんな負けず嫌いでプライドが高い。そんなところに、なんの因果か自分のような太鼓持ち気質の人間がいたらそりゃあ便利だ。


「……喜久井、お前さあ。プライドとかねーの?」


 呆れたように発する市野井の目を見て、重陽はいつもの通り笑ってみせる。


「うーん。あんまそういうこと、考えたことないかも。おれはとりま、みんなで仲良く走れたらいいなってだけだから」


 そんな重陽の答えを聞き、彼は少しだけ軽蔑を滲ませた目で重陽を見て「あっそ」と言って立ち去った。カチンと来たし重陽は彼が嫌いだけれど、無神経なだけで悪い奴じゃないのはよく知っているので、深追いはしない。


 遥希や、有希や、ほかの部員たちを見ているとなんだかみんなキラキラしていて、そのキラキラの源ってきっと競技にアイデンティティを置いているからなんだろうな。と重陽は思う。


 速く走れたら、いいタイムが出せたら、きっと自分は「何者か」になれる。そう信じて疑わないから必死にも自分勝手にも無神経にもなれるんだろう。要するに、未来の自分に希望を持っている。愛される希望。認められる希望。エトセトラエトセトラ──。


「喜久井さん」


 ほかの部員たちと一緒に校門から出て、母親に「いま学校出るところだよ」とメッセージを打っていたところで重陽に声をかけてきたのは有希だった。


「お。有希。お疲れ。珍しいじゃん自分から話しかけてくるとか。遥希は?」


「ジュンさんたちとコンビニ行くって」


 と、有希は蚊の鳴くような声の大きさでぼそぼそ言う。数歩先で「喜久井ぃー?」と振り返って有希を見つけ顔を顰めた市野井に「先行ってて!」と返事をして、重陽はもう一度有希の顔を見た。


「そうなんだ。あの二人仲良いよな。付き合っちゃえばいいのに」


 彼女を見ていると、本当に単純にあのサイズ感で痩せ型の陽キャが好きなんだな。と納得するやら腹立たしいやらである。が、そのことも功を奏して──かどうか本当のところは分からないけれど、近頃は部活でもまひるを見かけるようになったのは何よりだ。


「──で、有希はどした? おれになんか用?」


 重陽が尋ねると、有希はいつもそうするように少し俯いて、それから三白眼の上目遣いでおずおずと重陽を見て、やっぱり小さな声で発する。


「走ってて、何がそんなに楽しいんですか?」


 特技=空気読みの重陽にも流石にその質問の意図が捉えることができず、怪訝な顔をしてしまった。


「何が……っていうか、ミもフタもないこと言うねお前」


 重陽が笑うと、有希は何も言わずにただ少し不安そうに左目を眇めて見せる。きっと、なんと答えていいものか考えてはみたものの、言葉が思い浮かばないんだろう。


 遥希が脊髄反射で思ったことを口にしてしまうアッパー系のコミュ障なら、有希は考えすぎて言葉を喉に詰まらせてしまうタイプのダウナー系コミュ障だ。


 重陽はよく二人に「遥希は考えなさすぎ。有希は考えすぎ」と伝えているものの、たとえ遥希が考えて喋ろうが有希が考えなしに喋ろうが口から出てくる言葉はどうやら同じらしいので、内心ではいつも「どうしようもねえなこいつら!」と思っている。


「何がそんなにって言われると、あれだけど……まあ、シンプルに体動かすと気持ちいいじゃん?」


「……そうですか」


「ひとりでも大人数でもできるし、道具も対して要らないし、場所も選ばないし、気軽でシンプル」


「確かに……」


「いやお前の返事もだいぶシンプルだな。まあいいけど……あー。バス行っちゃった」


 走れば余裕で間に合ったであろう、先に行った連中の乗ったバスを見送り「次来るまで二十分かあ」と時刻表を指でなぞる。有希は重陽の後ろで、やっぱり黙っている。


「──あ。もしかしてアレ? お前んちって、親も陸上に熱心なタイプだっけ?」


 ふと思い至り、振り返って有希の顔を見た。


「……たぶん」


 あー、はいはい。なるほど。と合点した。要するにプレッシャーだ。陸上に、物理的でリアルな人生がかかっているが故の悩みや鬱憤が発生するのは、理解できる。


 重陽にはそれがない。ひとりで走ることはストレス発散で、他人と走ることは生活と人間関係の延長だ。切実に人生と直結するようなことは、せいぜい今の「大学でも陸上を続けようかどうしようか」ということの先にはあまりない気がする。


 どんなに速く走れたって自分を取り巻く環境はなんにも変わらないし、未来も希望もありゃしない。重陽は重陽のままで、何者にもなれはしない。


 それでも「走るのが好きだ」と思うからこそ、この気持ちは本物なんだと思う。


「そっかあ。じゃあ有希は今、走るのが楽しくないわけね」


 有希は黙って頷いて、それから少し後、迷いながら口を開いた。


「俺は……走ってる時、苦しい。しかない。です」


「……そうなんだ」


 途切れ途切れに、ぽとぽと落とすように紡がれた言葉。それに重陽は、色で言うなら白か無色透明。というくらいの混じり気ない共感と同情を覚えた。


 陸上のことに限れば、はっきり言って有希に対しては羨ましさしかない。


 遥希の走り様がまるで地面の方を縮めていく魔法のようなものだとすると、有希の方のそれは、神様が有希にだけ特別にくれたプレゼントみたいな速さ。という、妙な説得力がある。


「じゃあ、楽しいことは? 他になんかある?」


 けれどそんな彼が──自分が喉から手が出るほど欲しいと思っている力を思いのままに行使する彼が、こんなにも弱った言葉を吐く有様を重陽は放っておけなかった。


「……特には」


 見た目にはいつもの仏頂面を崩さないまま、有希はまた少しの間を置いてぼそりと落っことすように答えた。


「そっか。そりゃ辛いなあ」


 と応えながら重陽はポケットから携帯を出し、ゲームや電子書籍のアプリを一切合切突っ込んであるフォルダを開く。


 有希とはこれまで、部活以外の話題でまともに会話を交わしたことがない。だから彼がゲームをするのかとか本を読むのかなんてことは重陽には全く分からないわけだけれど、とは言え今の今で彼にしてやれることが、他には思い浮かばなかった。


「……届いた?」


 寸前の自分と同じようにジャージのポケットから携帯を取り出し、有希は頷く。


「そのゲーム、面白いからさ。無課金でも結構遊べるし。まあ、気が向いたら気分転換にでも落としてみてよ」


 萌えキャラの育成やコレクションには興味を持たないだろうと思って、動物マスコットのパズルゲームを送ってみた。オタク界隈で一時流行った、モルモットのキャラクターをくっつけて消すゲームだ。有希はやっぱり怪訝な顔をしている。


「茶化して送ってるんじゃないぜ。おれには、マジでこんなことしかできない」


 と念を押してからようやく彼は「……っす」と、どうやら感謝らしき発声をした。


「あ。一応、おれからゲーム勧められたってみんなには内緒な。まあ、お前は口固いだろうから心配してないけど」


 しー。な? と口の前に指を立てて見せる。有希はまた「……っす」と発してこくこくと二度頷く。


「実はおれ、いわゆるオタクっぽいマンガとかゲームとか結構好きなんだけどさ。あとお笑い。それと、お菓子作りも。……でも、走ってる時ほど嫌なこと忘れられることってないんだ。確かに、走るのって辛くて苦しいこともあるけど、だから、ええと──」


 と言っている内に、待っていたバスのヘッドライトに照らされた。


「お前も駅方向のバスだっけ?」


 有希は首を横に振る。焦ると途端に何を言おうとしていたか自分でもよく分からなくなってしまい、どさくさでお気に入りのライトノベルも一冊、ネット通販のリンクを有希に送った。


「色々やってみたらいいよ! いま人よりちょっと足が速いからって、人生単位で考えたらマジで大したことねーから! 好きなこと見つけて、好きに生きればいいよ!」


 じゃあまた明日! とバスに飛び乗って、窓の向こうに手を振った。携帯の画面の薄灯りの中に浮かぶ有希の姿は、なんだか幽霊みたいに頼りなかった。たぶん混乱しているんだろう。全然ピンとこない顔をしていた。


 去り際に発した言葉を反芻して、冷房の効いたバスの中でじわりと嫌な汗をかく。


 人よりちょっと足が速いからって、人生単位で考えたらマジで大したことない。それは確かに、重陽の本心ではある。


 が、それを人に言って──ましてや、有希の知るほかの誰より「走ること」をアイデンティティにしているであろう有希に言って、果たしてそれはどう捉えられるのか。


 そんなことに思いを馳せると、喉元を掻きむしって「ぐわーっ! すまん‼︎」と叫びたいほどの罪悪感に苛まれた。


 やっぱり、本当のことなんて言うもんじゃない。きっと有希が欲しかったのはあんな言葉じゃない。


 太鼓持ちのプライドを賭け、思いを馳せに馳せてみる。両親からのプレッシャー、チームメイトから寄せられる羨望と悪意の眼差し、唯一のライバルにして自分と真反対の性格である双子の弟──。


「……いやいやいや。無理ゲーっしょ」


 有希について客観視して分かることをどれだけ寄せ集めてみても、彼の「走ってる時、苦しい。しかない」というそのただ一点で全部が意味不明になる。


 ほかの全てに「なるほどねえ」と言えるのに、走るのが苦しい。ということが分からないせいで全部がひっくり返る。全然想像がつかない。


 こういう時にいつも、あの人ならなんて言うのかな。と考える。


 あの人。あの、きれいで強くて聡い人。夕真だったら、きっと有希にも何か力になる言葉をかけてやれるに違いない。自分にそうしてくれたように。


「……」


 と思って記憶を辿り、パッとそれが出てこなくて引き続き変な汗をかいた。


 彼にかけてもらった言葉。荷が重い。うっざ。図々しいとこ嫌い──嫌い(笑)


 彼にかけてもらった言葉──かけてもらった。というより、どちらかと言えば「浴びせられた」の方が事実は近い。


 違う違う! 違うんだって! 素直じゃないんだからあの人は!!


 という自分の思考回路が、完全にストーカーで流石に引く。けれど、そうとしか思えないから困るし焦るし悲しいし怖い。あんまり怖いので、慌てて甘い方の思い出を辿る。


「……」


 ない。全然ない。思い出せない。頑張れ。とか、応援してる。とか、分かるよ。とか、月並みでテンプレートに沿ったような言葉しか記憶にない。


 眼差しばかりがどうも鮮明なのだ。ファインダーを覗いている、戸惑っている、憐んでいる、怒っている、悲しんでいる──そして、最後に見た複雑なあの眼差し。


 もしかしたら、もう声を忘れているのかもしれない。重陽の見る夢は、カラーではあるもののいつも無音だ。


 けれどあんなにも笑うことを忌避していた人が、自分にだけは笑いかけてくれた。エビデンスなら、それだけで充分だろう? という思考回路ももしかして、ストーカーの発想なんだろうか。


 事実と、それに対する弁解と、妄想と、その根拠を探す不毛な推理が、ひっきりなしに交錯する。その結果はいつも、たったひとつの欲求に結実する。


 会いたい。会いたい。会いたい。


 目を見て、話がしたい。


 そのためならなんだってできる。


 これが恋じゃないならなんなんだろう。どんなに辛くても苦しくても、考え抜いた先にいつもその気持ちが、北極星のように燦然と輝いている。

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