第6話 ディープオブエース
二日目の起床時間は朝6時だった。
この光景をアズサは永遠に忘れないだろうと思った。
まるで貴族が酔狂で作る迷路のように、人2〜3人が横一列に並ぶことがやっとのような道が丘の先までまるで生き物のように伸びている。
その狭い通路を縦一列になって数えきれない程の人間が歩いているので、まるでタコの足のように黒い影が伸びては縮み動いているように見えるのだ。
今、進行している道は戦争が始まった時から掘られ始めた塹壕なのだという。
スパゲッティを半分に切ったような半円状のその塹壕は、所々を人が行き交いしており、皆が血管と呼んでいる。
血管からは出てはならない、そこから出たものは千切れるように死んでいく、まあ、最前線では自分から出ていく馬鹿はいないがな。
テントを出るときに昨日入口に立っていた兵士の言葉だった。
その兵士はよく見ると片腕が欠損していた。
本日は所属部隊と合流すると同時に戦場の視察だ、下士官がそれぞれ迎えにくるからそれまで待っていろ、とその入り口の兵士に言われ大人しく待つこととなった。
列車で運ばれてきた者達4人がそれぞれ1組になり現状存在する小隊に配属となる。
グループはベッドの近しい順に選択され、自然とミストリとは同じグループとなった。
血管を通って移動しているとき、急に故郷のバターの味を思い出した。
それは自身の家で飼っている乳牛から取ったバターで、家にはまだいくつか食べられる欠片が残っていた。
舌に乗せると濃厚な甘みが一辺に口に広がり、それだけでおかずとして成立してしまいそうなくらい美味かった。
いつも食べていたせいか、有り難みはとうにどこかに吹き飛んでいて、出征する前は朝食で出されたにも関わらず全部食べ切らなかった。
どうしてあのとき食べなかったのだろうと、急に虚しさが込み上げた。
そして家を出るとき、見送ってくれた母の、あの小さくなった姿を思った。
いつも強く優しい人だったが、戦地に向かう電車の窓から見た姿は、やたらと肩を落として手を振っていた。
顔だけは苦笑いをしていたが、列車が出発した後に窓から身を乗り出して見た母は、兵士を見送る他の女性の胸に顔を埋めていて、慰められているようだった。
子ども心にいつも大きく感じていた母の姿、武功を挙げてくるよ、と言って肩を掴んだ時感じた年老いた女性の肉体的な脆さ――――――。
戦地に着いたらあんなにも手紙を書こうと思っていたのに、ここではまだどうやったら手紙を出せるのか知らない。
今日は最前線の一つ前の血管まで進む、まあ流れ弾が飛んでこない限りは死ぬことはないだろう。
そう言ったのは、配属先の部隊の一人、顎髭が特徴的なガスコイン軍曹だった。
前に少尉が指揮を取っていたのだが、お前たちが配属される前に戦死なされた、だから後任の小隊長が赴任するまでは俺が隊長だ、と言って自己紹介された。
ガスコイン軍曹の年齢は50近くに見えたが、後から聞くとまだ40そこらとのことだった。
配属された部隊の古参兵は他に6人程。
皆仮眠を取っていてこの場には居ないらしく、俺が同行してやるなんて凄まじく貴重だぞ、一言一句聞き漏らすな、と言って頬が破けるのではないかという程口を開け、豪快に笑った。
こっちの戦線は西部と違って国境線でなんとか敵さんとやりあえてる。
ほら丘の先に旗が立っているだろう。あれは先日我が軍が取り返した証でな、この前まで随分推しこまれていたが最近の大攻勢でなんとか取り返したんだよ。
丘の奪取が目下の目標だったが、今は丘の先の市街地を占領するための準備を行なっているところだ。
いや、もしかしたら我々には秘密で、先遣隊は既に市街地に入っているかもしれないな。
ガスコイン軍曹はそう言うとガハハと笑った。
アズサは今の部分のどこに笑えるところがあったのか、よく分からなかった。
血管の中で生活することは当たり前で、大体一週間はこの塹壕の中で寝泊まりするんだ、塹壕の壁は剥き出しの木の板で補修されているだけのもので、簡易的な二段ベッドが作られてるから、そこで交代で仮眠を取る。
疲れは取れないが、数週間もここで生きていればそういった概念はなくなる。
生きているか、死んでいるかしかない。
ただ体を動かすことが出来る状態には常にしていないといけないから、そのために自分自身の身体のサイクルを把握するのが重要だ。
それがまあ生きるコツだな。
髭を触りながら大声で話すガスコインはどこか頼もしい。だが身体のサイクルと言われてピンと来ているものは、少なくとも自分を含めた新兵4人の中には居そうになかった。
ガスコインに着いていき一定先まで進むと、前線の一歩手前だと言う場所に到着した。
到着したと言ってもただの通路の一角であり、ベッドとして使われる木の板に
【Eー08】というボロ切れが釘によって貼ってあるのみだった。
ベッドの横の通路は忙しそうに常に誰かが走ったり歩き回っていて、地面はどこからか漏れ出てきた雨水により泥状になっている。
お前らはこれから5日間ここで生活してもらう。木の板を叩きながらガスコインが告げる。
きっとアズサを含め配属された4人ともが全く同じ表情をしていたのだろう、それを見て軍曹は嬉しそうにまた笑い、通常は7日間の生活なのだから優遇されたと思えと答える。
ガスコイン軍曹が、まあすぐに――――――、と言いかけたところで急に真面目な表情になった。
眼球だけ右にずらし視線を新兵らから外すと、一秒程の後、「貴様ら伏せ!」と言って近くにいたミストリの肩を掴むと引っ張るように地面に這わせた。
ミストリは全く油断していたのか、おわわっ、という言葉と共に、引きずられるように顎から地面に突っ伏した。
それに習うように残りの三人も反射的に地面に伏せる。
音が先か振動が先か――――――。
次の瞬間、塹壕の横すぐ10m程のところで爆薬が炸裂するような凄まじい轟音が響きわたった。
轟音が鳴ると同時に塹壕の中全体が震え、木の板にこびり付いていた乾いた泥がポロポロとハゲ落ちた。
まるで枝の上に積もった真っ白な雪が、何かの拍子でこぼれ落ちパラパラと舞うようだった。
細かい粉末状になった泥は髪の隙間に入り込み、頭を左右に動かすたびに自身の頭部から溢れていく。
貴様ら、この――――に背を向けて横――――――べ! 急げぐず―――――す――な!
ガスコイン軍曹は大声を出しているつもりだろうが、近くにいるのに細部までは聞き取れない。
軍曹が壁を指差し、右から左にその指を振る。
それを見て周囲の兵皆が一斉に壁に張り付く。
意識が統一されると言葉より身振り手振りの方が早いのだと、そのとき初めて実感した。
おそらく敵の砲撃だろう。それは30分程続き、その後敵が砲撃目標を変えたのだろうか、急に静かになったかと思うと、今度は遠くの方で砲撃の音が響くようになった。
目を開けるのが―――――怖い。
アズサは自身の身体を一通り探った。怪我の感触は、今のところない。
恐る恐る周囲を見渡す。
誰もが同じように頭を抱え壁際によっている。
新兵は皆頭を抱え目を閉じては一切動く気配がない、だが古参の兵たちは慣れているのか塹壕から頭だけ出し周囲を確認しだしている。
アズサ自身も足が震え、膝はまるで柔らかい食物繊維のようにふにゃふにゃで、力を入れる場所を抜かれてしまったかのように動かなかった。
ミストリを見ると、顎に付いた泥を手で払い除け、口にも泥が入ったのだろう、舌を出し口の中にまとわりついている泥を吐き出していた。
新参者ども、どうだ戦場とはこんな感じだが質問はあるか。
ガスコインが4人の新兵に向かって唐突に質問してくるが、誰も何も言わなかった。
いや、正確には誰も何も言えなかった。
身体全身を包む振動がときに暴力に成りえるということを、アズサはそのとき初めて知った。
しかし一呼吸おいてミストリが、飯はどうするんですか、と聞くとガスコインは嬉しそうに笑った。
お前気骨があるな、と言って自身の胸ポケットから手のひら程の布を取り出すと、中から手のひらほどのビスケットを取り出し、徐に一口頬張った。
朝、夕と2回配給がある、夜は基本戦闘がないからタイミングはその2回だ。
それで理解したのかミストリは、了解しました上官殿、と言い肩をすくめた。
それから誰にも聞こえないような小さな声で、昼は食ってる暇なんてないってことか、と呟いた。
だがガスコインの耳に届いていたのか、違う死んだ者に配る手間を省くためだ、と無表情で答えた。
ガスコインは先程のビスケットを数個に砕くと、ほれお前らも食え、大して上手くはないかもだが、そのうちご馳走に感じる、と言って渡してくれた。
先程頭によぎったバターを考えながら口に運ぶ。
もらったビスケットはパサパサに乾いていて、口の中の水分を幾分持って行かれた。水の配給は潤沢にあるらしく(と言っても雨水を濾過したものが大半だが)ビスケット一つに水筒半分は必要なんだよ、と言ってガスコイン軍曹は笑った。
ビスケットを食べていると、通りの奥の方から歓声が聞こえてきた。
その歓声はまるで波のように徐々にこちらの方に近づいてきて、音声だけでなく確かな熱量を持ってこちらに伝搬してきた。
通りの誰もかもが自身の銃を手に持ち、掛け声と共に天に向かってその銃を掲げる。
掛け声は当初ぼんやりと不明瞭だったが、近づいてくるに連れ遠くで砲声が聞こえるにも関わらずはっきりと耳に届くほどになった。
「まさか、本当にこっちに来たのか。お上さんは本気だ。本気でこの戦争に勝つ気でいやがる」
ガスコイン軍曹は誰に向けたのか分からないことを言う。
彼も周りの人間たちと同じように立ち上がり、腰から自動式拳銃を取り出すと天に向かってその銃を掲げた。
立ち上がっていないのは新兵だけだろう。
先ほどの砲撃が衝撃だったのか、表情をみればアズサと同じでその場から動くことが出来ないでいるのは一目瞭然だった。
――――――歓声が近くまで来る。
だが皆が何と言っているかまでは分からない。
様々な歓声が入交り、ときには甲高い奇声も叫ばれる。
立ち上がる兵士たちは皆銃を掲げるだけでなく、その場で足を踏み鳴らしながら、音を立て精一杯の歓待をする。
足に力は――――未だに入らない。
立ち上がることは出来ないが、ただ顔を上げることは出来る。
すると目の前を数人の黒い軍服をまとった集団が通り過ぎた。
金色の髪、赤い色の髪、色とりどりの髪色をした集団の中央に、墨で染め上げたかのような黒い髪がいるのが目に入った。
何も知らない自分でも分かる。
この歓声の主は中央の黒い髪の彼だろう。
集団が自身の隣を通り過ぎるときは一瞬だった。
通り過ぎる一瞬、ようやく周囲の人々がなんと言っていたのか判別出来た。
――――――エース!!!
一行が通路を歩くたびに近くの者たちが―――――、
立ち上がることの出来ない怪我を負っている者たちでさえ、背筋を伸ばし先程の言葉を叫ぶ。
誰もが大きな声をあげるわけではないが、だが誰1人も欠かさずに彼に声をかける。
――――――エース!
エース――――――!
――――――ディープ―――オブ――エース!!
黒い髪の少年が通る場所は、まるで彼の存在が小さなさざ波の発生源のようで、その狭く長い血管内の空間を支配していく。
周囲の者たちが声をあげるたびに、服のベルトや銃底等が触れ合い、カチャカチャと粗雑な音を立てる。
エース!!
ディープオブエース!
黒い髪の少年はただ真っ直ぐに前を見据え、先程から掛けられる声に気づいているのか、どうなのか定かではない様子でただ前へと進み続ける。
通り過ぎる数秒の間、その黒い髪の人物をしっかりと目に焼き付ける。
自分とそれほど年齢の変わらないように思えた。
まだ20歳には到達していないだろう、若い顔だった。
彼の表情を見る。
まるでその顔の筋肉だけがどこかに消え失せてしまったかのような姿で、昔親戚の年下の女の子が持っていた人形を思い起こさせた。
ただそれと同時に、単純に、どうしようもなく――――――――美しいと思った。
男性であろう存在に美しいとはおかしいとは思ったが、それ以外に思い当たる節がなかった。
隣にいたミストリが、口から泥を出し切ったのだろう、目の前の集団を見て小さく呟くのが聞こえた。
あれが噂のディープオブエース。
ボルビアの新しい兵器。
戦場の忠犬。
死の化身――――――。
黒のエース。
歓声とエースと呼ばれた集団が通りすぎると、周囲の兵士たちが興奮しているのが分かった。
そしてそれと共に、新兵ながら戦場の空気が変わるのを感じる。
前に進もう、前に進もう、という目に見えない暴力的なまでの推進力が場を支配してくのが手に取るように分かった。
ミストリが口にした言葉、それは味方においても有効なのだと思った。
誰もが生きたいと願っているであろうこの戦場で、エースと呼ばれた彼は、敵味方どちらにも等しく死を運んでくるまさに『死の化身』なのだ。
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