北極海ジビエ紀行(奇行?)〈後編〉
「死んだの?」
彼女が僕に、殊更訊いてきた。
「ああ。完璧に」
いくらお人好しの彼女とは言え、食物連鎖の摂理に対してケチを付けるような傲慢さは持ち合わせていない。
彼は昨日、罪もない犬を殺した。食う為に。
僕は今日、その罪もない彼を殺した。
食う為に。
だが、
「けど、法律的には大丈夫なの? 絶滅危惧種なんでしょ?」
彼女は、今更そんなつまらない所を指摘して来た。
「元々、ホッキョクグマ狩りは、イヌイットの人達が生きて行く上で必要な、産業だ。だから、この辺で暮らすイヌイットの人達には、一定の狩猟権が与えられる」
「太陽くん、イヌイットじゃないでしょ。日本人でしょ」
「その狩猟権は、他人に譲渡出来るんだよ。今日日、ホッキョクグマの肉を食ったり、皮を服にするよりは、スポーツハンターに狩猟権を売った方が、割りが良い事もある」
事実僕も、その辺の斡旋をしてくれる会社によろしくやってもらった。
皮肉な事に、この狩猟権譲渡が流行ってからと言うもの、ホッキョクグマの減り具合が緩やかになったとも言われている。
ハンターが、ガチのイヌイットから、遊び半分の外国人達に代わった事で、生き延びたホッキョクグマが多いかららしい。
とにかく、これを解体して、食事の時間だ。
仕留めたホッキョクグマの身体を、斧で地道に解体。
こうして見ると、牛や豚と何ら変わりない。
「今更だが、二人では食べ切れないな」
自分の仕事を見渡しながら、僕は嘯いて見せる。
「あたりまえでしょう」
彼女も、その細い眉をしかめて応じてくれた。
まあ、余った部分は、お世話になった地元民の人に使って貰おう。
彼等には、もう暫くお世話になる気がするし。
「とりあえず、食べたい部位の注文を聞いておこうか?」
「なんでもいいけど、内臓系だけは、ちょっと……」
まあ、僕もそこは分かっていて訊いたのだが。
どうやら彼女は、肉類でもレバーやホルモンと言った物を嫌うらしい。
「ビタミンが豊富なのだがな。勿体無い」
「嫌いなものはしかたないじゃないですか」
口を尖らせ、そんな弁明をして来た。
とりあえず、二人が食べるのに必要な分だけを塩焼きにした。
「よく火をとおしたよね? 熊の肉には寄生虫がいるんだからね? 繊毛虫症こわいんだからね!?」
全く、目敏い事だ。流石に、生焼けのそれは食べさせて貰えないようだ。
とにかく実食。
こう言う肉を形容する場合、僕の貧弱な表現力では牛と比較するしか無い。
で、その牛と比較して、赤身は、凄く弾力がある。
それで居て脂が大変乗っている。
言い方は悪いが、和牛と比べて下品な脂味だ。そこに肥え太った白身魚のような肉感が重なる。
これぞ、野性味と言う事か。期待通り、汗臭いような、獣臭が微かに鼻腔をくすぐった。
「ふしぎな味。でも、おいしい」
全く持って、彼女の言う通りだ。
そうこうしている内に、レバーの方も焼けた。
こちらは、牛タンを何倍もでかくしたような物、と言えば通じるだろうか?
噛んでも噛んでも噛み切れないのに、ジューシーな肉汁はその度に口に広がる。
臓物にありがちな、血の臭さも殆ど感じられない。
「本当に食べないのか」
再三、彼女に訊いてやるが、
「絶対いや」
にべも無く突っぱねられた。
まあ、予想通りだ。
異変は翌日から、少しずつ。
最初に表れたのは、激しい頭痛、下痢、眩暈。ここまでは、香莉奈さんから見ても、良くある不調にしか見えなかったろう。
帰国後に、症状はピークに達した。
鼻血が止めどなく流れ落ち、遂には体のあちこちで皮膚が剥離を始めた。
「い、い、い、いったい、何をしたの、太陽くん!?」
ここに至ってようやく、彼女は僕の本当の所業を察した。
勝った。
大人げも無く、そう思った。
「ホッキョクグマの、レバーだ……」
うわ言のような有様で、僕はそう告げた。
「れ、レバー?」
「ホッキョクグマのレバーは、ビタミンが豊富だと言ったろう?」
「ビタミン……。そりゃ、レバーとかには豊富、に、」
彼女の瞳に、完全なる理解の色が宿ったのを、僕は見逃さなかった。
「ホッキョクグマの肝臓には、高濃度のビタミンAが蓄えられて居る。人間が摂取すれば、こうした中毒症状を引き起こす程に」
僕は、あちこち皮膚の剥がれ落ちた様を彼女に見せ付け、言った。
「だから、古来よりイヌイットは、彼らの肝臓だけは決して食べない。
犬ぞりのハスキー犬にすら、内臓だけは食わせない」
ああ、全身に地獄の痛みが這いずり回る。
当たり前だ。皮膚が剥がれて、下の組織が剥き出しになって来てるのだから。
「こ、こ、こ、こんな手のこんだことを……! この、このバカ!」
ああ、地獄の責め苦の中で、彼女の敗北を滲ませた、語彙力を失った叫びと怒号がとても心地良い。
救いようの無い業苦の中、それだけが僕にとっては。
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