レシピ6 北極海ジビエ紀行(奇行?)〈前編〉
カナダ北部、ヌナブト準州は某所。
僕と香莉奈さんは、オーロラに満ちた夜空を見上げていた。
圧巻だった。
地上では、この極光観察の為に張られた数多のテントが、乳白色の照明を孕んで、さながらキャンドルアートの様相を見せていた。
気温はマイナス二〇度を下回る。
厚手のダウンコート、タオルの上から更に二重に被ったニット帽、手袋、毛糸のマフラー、重ね履きの靴下、地面の感触すら遠い厚手のブーツ……。
僕も彼女も、ご覧のフル装備だが、少しでも肌の露出した部分から、冷気の針が容赦なく突き刺さっていた。
「来てよかった……」
これだけでも、遥々地球を半周して来た甲斐はあった。
翌朝には犬ぞりを体験した。
二頭四列・計八頭のハスキー犬がそりを牽引する。
両サイドを針葉樹林に覆われた雪原。朝焼けに照らされて、世界は白金の輝きを纏っていた。
地平線に立ちこめた薄ら靄が、仙界のような世界観を演出している。
その光景が、急流のように流れ去ってゆく。
時速二〇キロ程度、と言えば遅く思えるが、実際、そりに乗って寒風に打たれているとかなりの迫力があった。
「
僕の
滑らかで流麗な動きだ。八頭の犬が、まるで単一の大蛇のようだ。
「すごい太陽くん! すっかり
彼女が、興奮気味に言った。
全く、万事の反応が素直なのが、美点と言うか単純と言うか。
「基本をこなしただけだ。これで一端扱いして居たら、本場のマッシャーに射殺されるぞ」
とりあえず、謙遜を返しておいた。
自分はそりにふんぞり返って命令を下しているだけだが、これが意外と体力を使う。
終わった頃にはへとへとだ。
犬達も、激しい運動でヒートアップした身体を雪原に横たえて涼を取るような有様だ。
程良く、腹が減って来た。
散弾銃の中では、僕はレミントンを好んだ。
飾り気の無い、ただ淡々と鉄を組み上げた、無骨な外観。それに相応しい頑強な造りは、今から死闘を演じる身としてはとても頼もしい。
散弾銃と言えば、無数の弾を散らばらせるイメージが強いかと思われるが、大粒の一発を撃つ弾頭も存在する。
スラッグ弾と呼ばれるこいつは、当然ながら、通常の散弾より殺傷力が強い。
どれくらい強いかと言うと"熊殺し"と渾名される程である。
銃さえあれば、人間は自然界最強の戦闘力を持てるのか? 答えはノーだ。
例え銃があっても、熊殺しと言うのは並大抵の仕事では無い。なまじの銃では、頭を撃とうが心臓を撃とうが、次の瞬間にはこちらの頭を刈られて終わる。
この時、レミントンを構えた僕の視線は、一頭のホッキョクグマを捕捉していた。
体長は二メートルを、体重は五〇〇キロを越えているだろう。
あのでかさは、間違いなく雄だった。
白い体毛に、傍目から見ても豊かな脂肪。純白の北極海をバックとしたその姿は一見して愛らしくもあるが……どうやら、この個体が犯人のようだ。
先日、犬ぞりのハスキー犬を襲い、食い殺したと言うのは。
茶色がかった血糊が、胸毛にこびりついている。
彼は彼で、食って行かなければならなかった。その為に、人間や犬の都合を考える筋合いは何処にも無い。
それは、良く理解出来た。
彼は、何も悪くない。だから僕は、そのホッキョクグマの肩甲骨目掛けて、スラッグ弾をぶち込んだ。
巨大象の喘鳴を思わせる、乾燥した銃声。次瞬、ぶん殴られたように、後ろ手に倒れるホッキョクグマ。
狙い通り、彼の肩が弾け、血の珠がぶちまけられた。
よろよろと起き上がるホッキョクグマの胸に照準を合わせる。そして僕は、トリガーを引いた。
命中。腹を抉られて、彼は再び雪原に伏した。致命的な量の鮮血が、彼を中心に拡がって行く。恐らくもう、彼は助かるまい。
だが彼は、外敵である僕を睨み据えた。
恐らくは、自分が死ぬとも思ってない。
生まれ持ったタフネスを恃みに、力ずくで僕を殴殺するつもりだ。
だが、心臓を破られ、多くの血を失ったその巨躯の動きは、最早精彩を欠いていた。
重苦しい足取りで向かって来る、雪原のけだもの。僕の双眸は、そいつの脳天をじっと捉えていた。
そして、何の情感も無く、次弾を発射。
ともすればマスコット的に愛らしいその顔面の半分が弾けて、血染めとなった。
だが、その鈍重な身体は、未だ僕を狙い定めて駆け出して来た。
僕はもう一度、その頭部にスラッグ弾をぶち込んだ。
今度こそ、ホッキョクグマは斃れ伏した。
徹底的に脳を破壊されたそれが、もう起き上がる事はあるまい。
しかし、念には念をで、もう一発。
殆ど首無しに等しいほど、グチャグチャだ。まず生きてはいまい。
傍から見て、僕の所業はじわじわ嬲るような、残酷な物に見えたろう。
最初から頭部を粉砕してやれば、苦も無く死なせてやれたろう、と。
しかし、一見して理想的に思えるヘッドショットは、実は失敗のリスクが大き過ぎるのだ。
単純に、頭部と言うのは胴体よりも的が小さいと言うのが一つ。
そして、とりわけ、彼ら熊の頭蓋と言うのは丸みを帯びており、弾丸を容易に弾いてしまうのだ。
ならばと、心臓を狙ったとしても、それが破壊されて失血死する前に、彼は僕の頭を殴り砕いていただろう。
段階的に彼の肉体を破壊し、抵抗力を削ぎながら、トドメを狙う。
そうしなければ、殺されていたのは僕の方なのだ。
獲物が完全に死んだ事を確認した僕は、香莉奈さんを呼んだ。
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