焼き肉〈後編〉

 入店すると、確信が深まった。

 脂っぽいテーブル、呼吸器を冒しそうな煙、くたびれた週刊誌。

 既に何組かの老人団体が酒盛りを始めているらしい。遠目から見ても、肉の一枚一枚が分厚く、それでいて繊細な脂のサシをしている事が伺えた。

 速やかに座席に着くと、メニューを走り見る。牛豚鶏の基本的な部位が一通り揃ったコースメニューがある。これが無難だろう。

 ふむ、牡蠣等の浜焼きもやってるのか。これも追加しよう。

 

 程なくして肉が運ばれて来た。

 まずは牛カルビ。紅玉を思わせる透明感の赤身。雪のような脂肪。上質なそれが、惜しげもなく分厚くスライスされている。

 さて、早速焼――、――焼、く?

 これを、焼く? 折角の肉を?

 いや、肉は基本的に焼いて食べる物だ。まして焼肉屋で出される肉は、加熱を想定した物だろう。

 しかし何故だ? 僕は、この肉に熱を通す事に、抵抗を感じている。

 生で食べなければ、勿体無い。

 馬鹿な。いくら良質な肉だとは言え、刺身として管理されていない物を生食すれば、安全の保障は無い。

 店の人がこちらを見ていない事を確認の上、一切れ口に運んだ!

 ……、……、…………こ、これは。

 旨い。

 まるで生臭さの無い、さっぱりとした風味。それでいて脂の甘い旨味が口全体に広がる。

 肉そのものの旨さもある。

 たが、それ以上に形而上けいじじょう的な何かが、肉の旨さを倍増している気がする。

 上手くは説明出来ないのだが……同じコーヒーでも、自室で飲むのと趣のあるカフェで飲むのとでは、まるで違う、と言う事に近いだろうか。

 僕は、肉を生で食う事に、雰囲気を感じる人間なのだろうか?

 そうこう考えているうちに、店主がこちらに来た! 次の肉を運んで来るからか。

 まずい。生で食べている事がバレるのは非常に危険だ。残った肉を、咄嗟に鉄板へ乗せた。

 肉が、脂の焼ける、ジューシーな音を立てる。ああ、勿体無い。

 だがお陰で、店主には怪しまれずに済んだ。

 豚肉の盛り合わせが、難なくテーブルに乗せられた。

 言うまでも無く、豚肉の生食は禁忌である。E型肝炎ウイルスやサルモネラ菌、寄生虫の温床であるからだ。

 豚トロにレモンをかけて、口に放り込んだ。想像していた通り、濃厚な味わいを残し、舌の上で溶けて行った。レモンの柑橘的な酸味と香りが、良い余韻だけを残して口中をリセットしてくれた。

 SPF豚と言う、特定の病原菌を排除した豚もあるにはあるが、この店の物はそうなのだろうか? 仮にそうだとしても、全くの無菌とはいかないので、生食タブーには違いないのだが。

 次に牡蠣が運ばれて来た。

 これはイワガキだ。時期的に旬だから、尤もなチョイスだろう。

 生牡蠣と言えばノロウイルスが思い浮かぶのだが、このイワガキはどちらかと言うと腸炎ビブリオのリスクが高いとされる。それはひとまず置いといて、いただきます。

 柔らかくも絶妙な弾力のある身。豊かな磯の香り。つるりとした喉越し。これも間違いなく、上質な物だ。

 加熱用の牡蠣は、生で食べるのが一番旨いと思った。

 そうこうしているうちに、鶏肉が来た。

 加熱用を生で食べれば、カンピロバクターとサルモネラ菌が漏れなくついてくるだろう。

 実食。

 よく鍛えられた、筋肉質な食感。それでいて淡白な旨味。火を通しては、一生お目にかかれない味だろう。

 日本酒を頼もうと思った。

 これら、生の肉にビールは合わない。

 そうだ、レバーも頼むとしよう。今日は記憶喪失後初めての食事だから、奮発したい所だ。

 

 

 

 異常は、帰宅してすぐに現れた。

 まだ自力で動けるうちに、隣県の芦野クリニックに連絡し、そこへ行く為のタクシーも手配した。

 刺すような激痛が、腸の辺りでスパークしている。鉄砲水の勢いで、胃の中身が逆流。肛門にまるで力が入らず、下痢便が駄々漏れになる。

 これがノロウイルスなのか、カンピロバクターなのか、はたまた腸炎ビブリオなのか、その他なのか。もはや、分からない。

 菌とウイルスのカクテル。よくよく考えれば、まともでは無い。

 まさかとは思うが……貝毒で記憶を失ったのは、僕自身の望みだったのだろうか?

 スマホが震える。タクシー会社からだ。それに応じて、僕は生存の道を這って歩く。

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