レシピ3 フグ〈前編〉
「ねえ
コーヒーを吹き出しそうになって、むせた。
「ど、どう言う風の吹き回しだ」
彼女――
その彼女が、テトロドトキシンの塊とも言うべき、毒食の王たるフグの子を勧めて来るとは……何の腹積もりか。何を企んでいる。
「どうせ好きなんでしょ、フグの子」
「ああ。三度しか食べた事が無いが」
そのうち一回は、見事にクリティカルヒット。一時、危篤状態に陥った。
その騒ぎを起こしてしまって以来、今の土地に引っ越す羽目となった。
「さーはーらさーん?」
それまでとは一転して、彼女の顔が怒りに染まった。
「話を振って来たのはそちらだろう」
全く理不尽だ。誘導尋問だったのだろうか。
「ちがいます。ちゃんとした所で食べにいきましょうって話です」
ちゃんとしたフグの子とは、これいかに…………。
……ああ、そう言う事か。
「糠漬け」
「ご名答」
最前まで義憤にうち震えていた彼女が、くるりと笑顔になった。
例えば石川には、フグの卵巣を糠漬けにする事で毒を抜く製法が存在する。
新潟や福井でも、フグの子を粕漬けにした物が有名だ。
フグ肝の犠牲者を目の当たりにしてなお、それを食べようと試行錯誤した先人達の求道心には脱帽する。
「題して、フグぬかドライブ!」
「休職中なのだろう? 旅行に行くような金はあるのか」
にべもなく正論を突き返してやると、彼女の顔が少し沈んだ……ように見えたが、
「お金なら、あります」
「ほう。大層な金持ちだな?」
「使う時間があんまり無いだけですから」
まるで自衛官のような事を言う。
沈んだ表情に見えたのは、僕の見間違えだったのか。いつもの素朴な笑顔が返された。
食材調達の相棒ホンダ・レジェンドを走らせる。
毒の無い食べ物を、遥々石川へ食べに行くと言う行為の為に。
「わりと素直に聞いてくれましたね?」
悪戯っぽい笑みを僕に向けて、小首を傾げて来る彼女。
「そうだな」
僕は、取り付く島も与えない。一方的に僕のテリトリーに押し掛け、居座ってるのは彼女の方だ。気を遣う積もりは毛頭無い。
ただ、僕の中で何かが変わりそうな、そんな予兆が相変わらずわだかまっている。
彼女の言葉には、極力耳を貸すべきだと。
口が裂けても、彼女には言わないが。
その土色の塊は、輪切りの刺身として出された。
断面を見ると、卵の粒が非常に大きい。
照明や陽の光をはらんで、一粒一粒が
「や、やっぱり、大丈夫だとわかっててもこわいですね……」
「いや全く」
二の足を踏む彼女をスルーして、さっさと一切れ口に運ぶ。
…………うむ。やはりフグの子は絶品だ。
確かに塩辛いと言えば塩辛いのだが、大粒の卵がプチプチ弾けて、口中が飽和するより先に、フグの子それ自体の旨味が塩気を包み込む。
発酵も香り高い。ベニテングダケの時の二番煎じな感想かも知れないが、これは極上のチーズに勝るとも劣らない濃厚さだ。
恐らく、クリーム系のパスタに和えれば、なお旨くなるだろう。
「おいしい……」
彼女の方は、口許に手を当てて感嘆を漏らしていた。だが、それきり手を付けない。
「怖気付いたか」
僕の指摘に、彼女はゆるりと頭を振った。
「わたし、少食なんです」
成る程。刺身一切れで満腹になれるとは、何と言う高燃費だ。まあ、それ以上は突っ込むまい。
「コレ、なんで糠漬けにすると毒が抜けるのか、はっきりとした原理はわからないそうですよ」
「らしいな」
「科学的に解明されていないけど、なぜか食べられてしまうんです」
「そうだな」
「万が一、毒が抜けきってなかったら……そう思うとスリルありません?」
女児の頃の面影を残す柔らかな双眸が、僕の顔を覗き込んで来る。まるで、僕の心を見透かそうとするかのように。
「このフグの子糠漬けや粕漬けは、出荷前にマウスに毒味をさせて、安全性を確認してある。君が考えているような事故は起こらない」
彼女の表情が、分かりやすく沈んで、
「ダメですか」
縋るように念押して来る。彼女が何を期待しているのか、ここに至ってようやく理解できた。
「僕にとって、フグの子は毒食グルメでは無いな」
はっきり宣言してやると、いよいよ肩まで落とした。本当に、考えが表に出やすい奴だ。
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