第7話

 からからから、とカプセルがかき混ぜられてぶつかり合っている軽い音が、やけに耳に響いた。しばらくの間、その音は止まらなかった。


「なんとなく、もう気づいてたりする?」


 その音の間隙を縫うようにして、彩葉の声が聞こえてくる。


「自信はないけど。けれど、僕の考えていることが合っていても間違っていても、あまり僕の口からは言いたくないかな。逆に言うと、そういう類のことを考えてる。ごめん」

「そっか。でも、一季が謝ることじゃないよ。全然」


 きっと合ってるから。


 どこか納得したようにそう頷くと、ようやく彩葉は動かしていた手を止める。周りから音が消えて、一瞬だけ時間が止まったように感じた。


「私以外にとっては、すごくつまらない理由なんだろうけどね」 


 そして彼女は取り出した手元のカプセルを、そっと一瞥した。


「─私のことをいじめていた人たちが、未来の自分に向けてどういうことを書いたのか。─いや、書けたのかって言ったほうがいいかな。それが知りたくなったんだ。どうしても」


 その声には、例えば恨みだとか憎しみだとか、そういった感情は含まれていなかった。それらの一切を排するように努めているのか、ただ単調に事実だけを述べているようにも感じた。


「それと、もうひとつ」


 彩葉は両膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。


「─私が書いた手紙を、どうしても他の人に読まれたくなかった」


 私のも帰ったら一緒に読もっか。そう言って彼女は僕に近づき、ひとつのカプセルを目の前に掲げる。


 滝沢彩葉。


 ラベルには、綺麗な文字で彼女の名前が書かれていた。


「最初から言ってくれてもよかったんだけど」

「ごめん。だけど卑怯な気がしたんだ。それは」

「卑怯?」

「先に理由を伝えちゃったら、一季は絶対に協力しちゃうと思って。─今でも負い目に感じてるだろうから。昔のこと」


 負い目という言葉を聞いた途端、ぷす、と肺に小さな穴を開けられてしまったみたいに、空気が漏れているかのような息苦しさを感じた。彼女に聞こえてしまわないように、すう、と息を整える。


 あのときから。─いじめに遭っていたことを彩葉が打ち明けてから、そのことがふたりの間で話題に出たことはなかった。僕からも、彩葉からも。もちろん忘れたわけではなく、何となく、話題に出さなかった。無意識に避けていたのかもしれない。


 けれど、もし忘れろと言われても、無理だ。その感情は、ずっと僕の心の中で燻っていた。


 クラスで行われていた彼女へのいじめに気がつけなかったこと。彼女が傷つけられていた事実に気がつけなかったこと。そのことに対する後悔や罪悪感、クラスメイト達への怒りは、あのときから時間が経った今でも消えていない。消えてはいないけれど、過去の記憶がやがてその鮮明さを失っていくのと同じように、徐々に薄れてしまいつつある。それが、憎かった。


 人は、忘れることができる生き物だ。だからこそ、前を向いて生き続けることができる。


 けれど、辛く苦しい思いをした大切な人の過去を、少なからず共有している自分が忘れてしまうことは、果たして望ましいことなのだろうか。


 僕が彩葉の過去を忘れることは、そんなものは昔のことだと思うことは、彩葉を裏切っていることになるのではないだろうか。


 彩葉が忘れるのはいいのだ。むしろ、忘れてしまうべきかもしれない。それで前を向けるのなら。


 けれど、僕が忘れてはならない。


 あのとき彼女に何もできなかった僕が忘れることは、許されない。


 そう思っていた。


「─私はこれからも、忘れないと思うんだけどさ。この学校でいじめられたこと」


 まるで僕のそういった葛藤を宥めるように、彩葉の落ち着いた声が静かに響く。


「─どっちにしても、私はもう大丈夫だよ。だから一季も、もういいんだ」


 ごめんね。そう彩葉は謝った。


 彩葉はきっと、すべてを抱え込んでしまっているのだ。自分がいじめられた過去も、その過去をこれからも記憶に留め続けることも、そしてそのことを僕がどう思うかも、全部。


 それならば僕に今できることは、もう彼女を謝らせないこと。僕に対する罪悪感を、消してもらうこと。


「─彩葉が謝ることじゃないんだ。彩葉は何も悪くないんだから」

「うん」

「それと」


 言いたいことがうまく頭の中でまとめられないまま、僕は続ける。


「─僕も、もう大丈夫だよ。彩葉と同じくらい、大丈夫」


 こんな言葉で伝わるのか、こんな言葉で彼女の心を少しでも和らげることができるのか、僕の言葉に意味なんてあるのか、考えれば考えるほど不安が押し寄せる。


 それでも、僕にはこの言葉が一番しっくりきたのだ。


 過去は消えない。


 それを覚えていようとする限り、忘れることはできない。忘れることができない限り、その記憶は古傷のように、自分の中にずっと痛みを残し続けていく。


 けれど、ひとりではなくて、ふたりなら。


「─うん」


 ─彩葉は、僕の言葉に柔らかく笑ってくれた。


 その顔を見て、僕は救われたような気がした。


 とても身勝手な願いだけれど、ほんの少しでも、彼女も救われていて欲しかった。


「─ありがとう。こんなことに付き合ってくれて」


 そして、どこか恥ずかしそうにそんなことを彩葉は言う。けれど僕は最初から、こんなこと、なんて思っていないのだ。


「─僕が彩葉とタイムカプセルを開けようと思ったのは」


 僕は真上を仰ぎ見る。明かりを点けていない倉庫の天井は当然真っ暗で、僕の視界には何も映っていない。だから、今度は正面を。しっかりと、彩葉の方を向く。


「昔のことを負い目に感じていたから、だけじゃないよ。実はもうちょっとだけ、自己満足みたいな理由もあるんだ」


 僕がこうして彩葉の隣にいる理由は、元を辿ればひとつだ。


 彼女のことが好きだから。


 それだけだったし、僕にはそれだけでよかった。


「知ってる」


 彩葉は目を伏せて、また笑った。


 僕の考えていることなど、見透かされているのだろう。けれど、それが今はどこか心地よかった。


「この後は、どうするの?」


 僕がそう聞くと、どうしよっかな、と彩葉は楽しそうに言う。けれど、きっと彼女はもう次にどうするのかを決めている。


 だから僕は何も言わず、彩葉の次の言葉をただ待った。


「もうひとつ、やりたいことができちゃった」

「うん」


「─海に行こっか」


 そして僕も、彼女に対する言葉をすでに決めていた。


「いいよ」

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