第8話
私が一季に救われたということを、一季は知らない。
いや、知らないというよりも、彼はそのことを意識していない。昔、それとなく伝えたことはあるけれど、僕は何もしてないよ、どこか悲痛そうな表情で言われたことを覚えている。しまった、と思ったときにはもう遅かった。
あんなこと、伝えるべきではなかったのだ。彼が背負わなくてもいいはずの余計な重荷を背負わせてしまったことを、私は後悔した。
けれど、鷹野一季という少年は、確かにあのとき私を取り巻いていた環境を、まるで特別な魔法でも使ったかのように、あまりにも容易に変えてくれた。
もちろんこの世界に魔法なんて都合のいいものは存在しない。だからこれは私の勝手な解釈、もしくは安直な比喩だ。
「─鷹野です。よろしくお願いします」
生徒たちの好奇に満ちた視線を一身に集めながら、教卓の傍らに立っているその転校生はひどくつまらなさそうな顔をして言った。静まり返った教室を、まばらな拍手が包む。
不思議な少年だ、というのが彼に対する最初の印象だった。
どこか垢抜けているような顔立ちも、抑揚のないあいさつを述べた後に小さく頭を下げる仕草も、新しい自分の席へと向かって歩く動作も。彼は何気ないそれらの立ち振る舞いだけで、同い年であるはずの他のクラスメイトたちをやや幼く感じさせてしまうような、そんな大人びた雰囲気を纏っていた。
廊下側の一番後ろ、つまりは私の右隣の席に転校生は座る。その後に時間割が変更になったことを先生が私たちに告げて、朝のホームルームは終わった。
予鈴が鳴り、先生が教室から出て行った途端に教室が騒がしくなるが、誰も転校生に話しかけようとはしない。離れたところから値踏みするように見ていたり、彼の方をちらちら見てはその度に周りでこそこそと話をしているだけだった。転校してきたばかりの彼からすれば、きっと良い気分はしないだろう。
聞きたいことや言いたいことがあるなら、直接言えばいいのに。それが出来ずにただ遠巻きに眺めるような人たちのことを、端的に言えば私は子どもらしく嫌っていたし、子どもらしく愚かだとすら思っていた。
「ねぇ」
そんなことを考えていると、右の席から声がした。私はてっきり転校生が他の生徒に─例えば、彼の前の席に座っている男子に話しかけたのかと思ったが、ちらりと視線を横に向けてみると、彼はじっとこちらを見つめていた。目と目がはっきりと合ってしまい、少し面食らう。
驚きを悟られないように、なに、と私は短く言葉を返す。その後すぐに、初対面なのに刺々しい口調になってしまったかもしれない、と小さな心苦しさを覚える。
言い訳するつもりではないが、今の私は誰に対してもこんな態度だ。なぜなら、そうしなければならないから。
私は私が馬鹿だと思っている人たちから─いわゆる、いじめを受けている。そんな事実を受け入れたくなかったのだ。
いじめという行為は、他人を傷つけることを目的としている。いじめられている私もその例に漏れず、堂々としているように見せた態度とは裏腹に、それなりに心を傷つけられていた。
だから、当時の担任だった先生にも相談した。けれど、無駄だった。まだ若い女性の担任は、自分のクラスで行われているいじめに気が付くことができるほどの経験を積んでいなかった。─もしくは、気が付いていても目を背けていただけかもしれないけれど。
それからの私は、誰かに助けを求める行為は自分が弱いと言っているようなものだと、暗示のように自分に言い聞かせることで自分の心を保っていた。毅然と、そして平然としていることが、私へのいじめに対する最も効果的な反抗なのだと、そう思い込むことにしていた。
そんな私の態度がたまたま転校生である彼に向いてしまったのは、私の本意ではない。
けれど彼は、私の言い方などまるで意に介していない様子で淡々と述べる。
「急に転校が決まったから、教科書、揃わなくて持ってきてないんだ」
ごめんけど、しばらく見せてくれたら嬉しい。彼は心なしか申し訳なさそうな顔をして私に言った。
私に悪意を向けるような他の生徒であればまだしも、転校してきたばかりの生徒の頼みを無下に断るほど、私の性格は捻くれていない。私は転校をした経験はないけれど、きっと私が考えているよりも大変なことなのだろう。新しい学校に通うまでも、通うようになってからも。何しろ、授業で必要な教科書が揃わないくらいなのだから。
「いいよ。何の教科書?」
時間割が変更になったので、一時間目の授業は社会だ。ということは、彼が準備できていないのは社会の教科書なのだろうか。
私の社会の教科書は─悪質な嫌がらせをされていなければの話だが─ロッカーの中にあったはずなので、授業が始まる前に取りに行かなければならない。そんなことを頭の片隅で考えていると、彼は答える。
「全部かな」
いったい何をしに学校に来たんだ、と私は思わず言いそうになった。
そして私は、久しぶりにこの教室という空間で、自分が笑いそうになっていることに気が付いた。
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