春夢終焉(上)

 頬を打つ風に顔をしかめながら、蓮安リアンは高らかに柏手かしわでを打った。


『極夜に打つ、四色を染める 灼熱にて燃やし尽くせ、日足紋ひあしのもん!』


 水槍すいそうの雨が降り注ぐなか、呪墨じゅぼくで描かれた紋から業火が上がる。


 炎は次々に水と触れあい爆発し、二階の欄干らんかんに足をかけた黄龍コウリュウに届いた。もうもうとたちこめる煙に姿は消えるが、間髪入れずに凍てつく殺気が舞台に届く。


 蓮安は舌打ちとともに後退した。眼前に突き立つのは澄みきった水をまとうやりが三本。


「お見事です、蓮安」蓮安が振り返った先、黄龍が穏やかな顔で水槍を振るう。「それではこれは?」

「っ、余裕だなぁ! えぇ!?」


 身をひねった蓮安は手元の竹筒で刃を受け流した。筒の端が欠け、呪墨がこぼれる。

 じりじりと後退しながら、流水のごとくとらえどころのない槍の斬撃をいなした。そして続く四度目、足を止めて低く呟く。


稲光紋いなびかりのもん


 刃が竹筒を割り、こぼれた呪墨が足元に描いた方円の一画を埋めた。雷撃が二人を分かつように落ちる。


 蓮安は弾かれるようにして距離をとった。次の竹筒を取り出して握ったところで手の甲に鋭い痛みが走り、血が流れる。


 生きたい、という暗く粘ついた声が聞こえた。


「っ――!?」


 攻めに転じようとしていた蓮安は体を強張らせた。


 一体いつからいたのか、黒い蛇がしゅるりと手首に絡みついている。ぞっとするほど冷たく、体躯たいくはざらついていた。けれど何よりもおぞましいのは、生きたいというたった一つの願いが幾つも幾つも蛇から聞こえることだ。老若男女の区別なく。まるで百年前の大火の時のように。


恢網かいもう水嵐すいらん


 黄龍の静かな声が響き、前方から放たれた水槍が蛇の頭部を貫いた。


 ぶるりと体を震わせた蓮安は、息つく間もなく頭を下げる。黄龍のふるった槍が駆け抜けた。続く二撃目が来る前に、彼女は勢いよく手を振り上げる。


 血が黄龍の目に飛び散り、動きが鈍る。そのすきをついて、蓮安は水槍のつかを掴み、石突いしづきを乱暴に黄龍の体へ押し込んだ。


 舞台から飛び降りる。暗闇を走りながら、彼女は強く手を握る。


 生の願いを込めた黒蛇のまじないは、間違いなく鴻鈞コウキンのものだ。


 蓮安の体は、彼女の意思とは関係なく生に対する執着であふれている。かすり傷程度でも生きたいとわめきたて、それを聞きつけた蛇が、新しい生の願望を塗りつけて傷を癒やすというからくりだろう。


 先ほどはたまたま、黄龍の攻撃がかすめたから事なきを得たが、鴻鈞のことだ。一度きりの術とは到底思えなかった。


 生きたい、生きねば、生きなければならない。そんなささやき声がどこからか聞こえた気がして、蓮安は身震いの代わりに強く竹筒を握った。全ては幻聴だ。恐れている暇などない。


 筒のふたを口を使って開け、中の呪墨に指を突っ込んだ。手早く己の左腕に紋を描いてうたう。


『我は闘神、我は災厄、我は覇者 華陽かように舞え、隠月いんげつに転じよ――武踊紋ぶようのもん


 水槍が飛ぶ。されど壁に縫い止められたのは、蓮安ではなく空の竹筒だった。


 舞台上の黄龍が「おや」と呟く。それを見据え、蓮安は宙に身を躍らせながら、黒白こくびゃくに輝く弓を引き絞った。


 空気を鳴らして弦を放つ。投じた矢は一本なれど、黄龍のところに辿り着く頃には百とも千ともつかぬほどの数となる。


 黄龍は静かに呟いた。


凍月とうげつ息吹いぶき


 現れた氷壁が矢を阻むのに紛れて、蓮安は地面を蹴って距離を詰める。氷壁が軋んだ。肌の紋が再び黒白に輝く。


 蓮安は弓矢を捨て、紋から現れた鉄扇てっせんを掴んだ。壁が割れると同時に、黄龍に向かって振り下ろす。


 初撃は黄龍の額を掠めるに終わったが、もう片方の手に持った鉄扇を勢いよく開いて牽制けんせいする。さらに彼女は前に踏み込み、踊るように唐服を翻した。閉じた鉄扇で黄龍の喉元を狙う。顔をしかめた龍は、喚び出した水槍でそれを退けた。


 扇に結わえられた紐が空気を鳴らして舞い、槍からこぼれた澄み切った水がばたばたと地面を濡らしていく。舞台上での斬撃の応酬は互角、なれど攻防の果てに黄龍がわずかに顔を歪めた。龍鱗りゅうりんが淡く明滅し、彼はなにかをこらえるかのように後ずさる。


 蓮安は鋭く息を吐きながら踏み込んだ。閉じた鉄扇で眉間を貫こうとする。

 そこで、黄龍の翡翠ひすい色の目が不穏に輝いた。


「……願いを」


 龍から吐き出されるは獣のごとき呻き声。人を寄せつけぬ冷たい神気が急に濃くなり、蓮安の体が意思に反して動きを止める。まずいと彼女は直感した。だが遅かった。


 槍の石突で腹を叩かれた。息が詰まり、鉄扇が指先から滑り落ちる。


 蓮安はうずくまり、何度も咳き込んで口中の苦いものを吐き出した。早く逃げなければと心が急き立てている。龍の冷ややかな神気がそばにあることも分かっている。なのに体は少しだって動かない。痛くて苦しいと、顔も知らぬ死人の声が体の中から響く。それを遮るように、蓮安は何度もいなを繰り返す。


 黄龍の足音がして、焦りと恐怖がぐっと強くなる。早く動けと、彼女は冷や汗をかきながら念じた。動け、動け、動け。願いを叶えられるわけにはいかない。永久の生などいらない。誰かの足を引き止めるだけの存在になるのはまっぴら御免だ。ならば走らなければ。歩くだけでもいい。這いつくばってでも。だから、早く。一歩でも遠く。さもなければ。


 ――さもなければ?


 ひたいからこぼれた汗が床にぼたりと落ちる。それを眺めながら、ふと蓮安は違和感を覚える。


 どうして黄龍は、はじめから願いを叶えなかったのだろう。


 本当に願いを叶えたいのなら、再会した時点で力を振るえばよかったはずだ。だって彼は、とうの昔に蓮安の体が吐き出す願いに触れたのだから。


 なのに彼はそれをせず、提案を持ちかけた。勝負をし、負けたほうが勝ったほうの言うことを何でも聞く。そうだ。なし崩し的に始まったが、あれはたしかに提案だったのだ。


 なぜ、彼はそんな回りくどいことをしたのか。どうして、わざわざ彼の味方がいない状況を作り出したのか。先ほど鴻鈞の黒蛇が水槍に射抜かれたのは、本当に偶然だったのか。


 こうして考えている今だって、自分に近づいて来ないのは何故だ。


 ぶつと冷ややかな神気が途切れた。顔を上げた蓮安は息をのむ。


 蜂蜜はちみつ色の髪の男は、顔をしかめながら己の手の甲に槍先を突き立て横薙よこなぎに引く。鮮血が散って龍鱗を汚した。まるで龍という存在を否定するようでもあった。


 だからこそたった一つのその行為は、蓮安を確信させるに十分だった。


「君は、シロくんなのか」


 呆然と問いかければ、彼は――シロは翡翠色の目に見慣れた呆れを滲ませて肩をすくめる。


「なんて顔してるんですか、蓮安先生。ここは舞台の上。役者の名前を呼ぶのは無粋というものです」

「……やっぱりそうなんだな」蓮安は確かめるように呟いて、顔をしかめた。「待て、じゃあどうして戦ったりなんか、っ」


 頬をかすめて、水槍がすぐ近くの床に突き立った。蓮安の背中にひやりとしたものが伝うなか、シロは静かに言う。


「勝負はまだ終わっていません。無駄口を叩くのはおすすめしませんよ。もちろん、大人しく僕に負けてくれるなら構いませんが」

「無駄口じゃない。こんな無意味な戦いを続けようとする理由を聞いているんだ、私は」

傲慢ごうまん

「なんだと?」


 顔をしかめる蓮安を、シロは鼻で笑った。手をかざして水槍を掴みながら、穏やかに言葉を続ける。


「ねぇ、蓮安先生。あなたは、本当にこの戦いが無意味なものだと考えているんですか? 僕がきちんと龍としての能力を御している。それだけで、あなたと和解し、あなたの望むように事が進むとでも? もしもそう思っているなら、あなたは僕のことを馬鹿にしすぎだ。本当に、腹が立つことにね」

「……君は私を生かしたいと思っているということか」

「そうですよ。当たり前じゃないですか。何度も何度も、僕はあなたに言ったはずだ。けれどあなただって、意思を曲げる気はない。そうでしょう? だからこれは、なんです」


 その頬は龍鱗に覆われていた。血を流す手の甲は痛々しいほどだった。それでもシロは、一切の迷いなく蓮安へ切っ先を向ける。


「さぁ、立ってください。蓮安先生。たとえ万人が愚かとそしろうとも、幕は僕たち自身の手で引くべきです」



 *****



 その日、シロは夜を迎えた中庭でうずくまって呟いた。


「どうして、あなたが死んでしまう前に僕は会えなかったんでしょう」


 みっともなく震える口に己を恥じ、彼は項垂うなだれる。目を閉じれば冷ややかな龍の神気は間近にあって、己を待ち構えていた。これがあるべき姿なのだと言わんばかりだった。


 そして。


 ――うれしいきもち、ちゃんとこめた?


 不意にはしゃいだ幼声が蘇り、シロははっと目を開けた。


 風に揺れる深緑の音が響く。シロは目の前にある古木の根本をじっと見つめた。かわり映えのしない木肌と地面がそこにはある。けれど、そうだ。


「……虹の、ねもと」


 ぽつりと呟いて、シロは指先に力を込めて地面を掘る。夜闇は深く、土の中の様子など到底見えなかった。そもそもあの場所がどこだったのかも、よく覚えていない。あぁそうだ、それくらい自分は彼女との時間を漫然まんぜんと過ごしていたのだ。愚かな己をなじる。爪と指の隙間に入り込んだ砂利が鋭い痛みで責め立てている。


 それでもシロは、手を止めなかった。


 虹をうめるの。幼いながらも真剣な顔で彼女は言っていた。

 うれしいなって思うことがあったら、その気持ちをうめておくといいって。呆れて言ったあと、彼女は小さな石を握っていた。

 おおいほうがいいでしょ。子供らしい思いつきで、彼女は暖かな石を渡してくれた。


 その石を握って、シロは思ったのだ。祈りなんてまるで分からなかったから、彼女のことを想った。まるで子供が大人になったようなひと。食いしん坊で、わがままで、こっちの話なんて少しも聞いてくれない。


 あの頃は出会ったばかりだった。そして今、シロは彼女とさらに多くの時間を重ねた。


 やっぱり浮かぶ感想は変わらない。けれど、思い出はずっとずっと増えている。


 灯籠とうろうに彩られた勾欄こうらんの夜。飲み残しのラムネの甘さ。びた自転車の軋む音。花火を映した彼女の瞳。


 なぁシロくん。彼女はいつだって名前を呼んでくれる。


 せきを切ったようにあふれる思い出に、シロは鼻をすすって、ぐっと唇を噛む。そこで指先がまろやかな表面のなにかに当たった。


 彼は、おそるおそる、それを取り出す。


 どこにでもありそうな小石だった。土まみれで傷だらけだ。特別美しいわけでも、光っているわけでもない。けれど確かに、探し求めていたものだった。


 すてきな虹が、かかりますように。いとけない声を最後に一つ思い出して、シロは小石を強く握る。


 目を閉じれば、龍の気配は間近にあった。それでももう、シロは迷わない。


 龍ではなく、彼女が名を与えてくれたシロとして、自分はもう一度向き合うべきなのだ。


*****


 その日から、シロは他者に対して己を偽ることを決めた。


 龍を演じて、玄帝ゲンテイと鴻鈞の信頼を得つつ、彼らを蓮安から遠ざけた。いまだ迷いのなかにあることを示すために、願いを叶える力を使って匣庭はこにわに似た世界を維持し続けた。


 力を使えば使った分だけ、身の内の龍は勢いづき、シロをらおうとする。天帝てんていとの誓約は絶対で、いまだ己が龍と人との境界線上にいることをシロは重々承知していた。けれどそれさえも、痛みでごまかし、無理矢理に正気に引き戻した。


 そして今、青年は夜色の女と再び対峙している。


*****


 幾度目かの蓮安との攻防のすえ、シロは舞台下で折れた水槍を投げ捨てた。


『恢網の水嵐!』


 龍の呼び声に応じ、勾欄に敷かれた水路から一斉に無数の槍が立ち上がる。舞台上の蓮安が覚悟を決めたように立ち止まった。竹筒が打たれ、紋が描かれていく。


 馴染みのある祝詞のりとを聞きながら、シロは澄んだ水で出来た槍を手にとって駆け出した。


 豪雨のごとく降り注ぐ槍はすべて、蓮安の描いた紋で弾かれている。龍鱗がうずき、願いを叶えよと姿なき声がわめきたてている。けれどその全てを無視して、シロは槍を振るう。


 紋と槍が同時に砕けた。墨と水の欠片が散る。そのなかでシロと蓮安は同時に叫ぶ。


『打ち鳴らせ、稲光紋!』

『凍月の息吹!』


 雷鳴。生み出された白光はしかし、周囲に突き立った氷の槍に落ちる。


 身を低くしてやり過ごしたシロは、水槍を掴んで踏み込んだ。蓮安が次なる紋を結ぼうとする。


 そこで、墨色の紋が前触れもなく霧散した。


 蓮安が目を見開く。十無ツナシが、と呆然と呟く。


 その彼女に向かって、シロは槍を振り下ろした。

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