春夢終焉(下)

 シロは馬乗りになるようにして、蓮安リアンのこめかみ近くに水槍すいそうを突き立てた。


 勾欄こうらんの舞台に互いの呼吸の音だけが響く。それからしばらくして、蓮安がぼそりと言った。


「あぁ、まったく機が悪いな」

「……言い訳ですか」

「そうだとも」蓮安は不貞腐ふてくされたように言う。「十無ツナシがこの辺りの術を解いたんだ。そのせいで、私までとばっちりを受けた。君をあと一歩というところまで追い詰めたのに」

「その言い分だと、まるでご自分が勝っていたかのような発言ですね」

「当然だ。九十三戦九十二勝一引き分け。向かうところ敵なしとはまさにこのことさ」


 床の上に大の字になったまま、蓮安は器用に肩をすくめた。


「だが、今回は君が勝った。ならば、私は従うほかあるまい」

「僕の願いをきいてくれる、と」

「負けた人間は勝った人間の言うことをなんでもきく。言い出したのは私なのだから、守って当然だとも。あぁまったく私ってば、なんて公明正大な人格者なんだろうな。君ももっと、私を崇め奉ったほうがいいぜ」


 シロは肯定も否定もしなかった。黙ったまま蓮安を見つめていれば、調子よく話していた彼女は不意に口を閉じる。


 前触れなく戻ってきた沈黙は長い。けれど。


「悔しいなぁ。結局私は、肝心な時に勝てないんだ」


 彼女の言葉が、静かな勾欄にぽつんと響く。

 シロは目を伏せ、ため息をついた。「馬鹿ですよ、あなたは」と、呟く。


「本気で望むのなら、いくらでも僕を従わせる方法はあったんだ。黄龍コウリュウとは願いを叶える存在で、シロという男はあなたに負けっぱなしだったんですから」

「…………」

「それでもあなたは、ついぞ僕に強制することはなかった。だからこうやって負けるんです」


 水槍を空気に溶かし、蓮安を引っ張り上げるようにして座らせる。彼女は顔をそむけたままだった。


 まったく、いい歳をしているのに彼女は子供っぽいのだ。シロは呆れ半分に思って、彼女のそばに膝をつく。


 最後に一度だけ目を閉じた。初めて出会った時の勾欄の灯火、陽射しに煌めくラムネの甘さ、錆びた自転車に揺られながら感じたぬくもり。呼吸一つ分の間に、積み重ねた時間のすべてを想って、まばゆいそれに泣きたくなる気持ちをしまう。


 そしてシロは、覚悟を決めて目を開ける。


「いいですか、蓮安先生。僕の願いは、あなたが正直に自分の望みを言うことです」


 蓮安がはっとしたように振り返った。黒瑪瑙くろめのう色の目に浮かぶ色は新鮮で、シロはぎこちないながらも久しぶりに苦笑する。


「なんて顔してるんですか」

「君は馬鹿か?」

「早速、悪口かぁ」

「ふざけるんじゃない。真面目な話をしているんだ、私は」蓮安は苛立ったように返した。「君は、君の願いを私にかけることだってできるんだぞ。生きろと命じることだって出来るんだ」

「それでもそれは、あなたの願いじゃないでしょう。僕が叶えたいのは、僕の願いではなくて、あなたの願いです」


 静かに返せば、蓮安が唇を引き結んだ。


 シロは、血に濡れた彼女の手をとる。想像していたよりもずっと小さな手を確かめるように撫でながら、「ねぇ知ってますか」と穏やかに言葉を続けた。


「この場所で、僕はシロという名前をもらったんですよ。僕に名前をくれた人は本当に我儘わがままで乱暴だったけれど、いつだって僕の意思を尊重してくれた。そうやって導いてくれたから、ここまでたどり着けたんです。ですからどうぞ、恨み言は僕の師匠に言ってください。あなたの教育の賜物たまものです、って」

「……とんだ三流教師じゃないか」

「僕にとっては、誰よりも素晴らしい人ですよ」

「褒め言葉が陳腐ちんぷすぎだ、馬鹿」


 乱暴に手を振りほどかれた。まったく素直じゃないとシロが呆れたところで、蓮安と目があう。


 黒瑪瑙色の瞳に悲嘆はない。諦めもない。花火なんかなくても美しく目をきらめかせた彼女は、嬉しそうに笑った。子供がそのまま大人になったような、シロが一番好きな表情だった。


「馬鹿だなぁ。君も、私も、お互いに」

「……だからこそ、僕たちは釣り合いがとれてるんですよ。きっと」


 つられて笑いながら、シロは返す。頷いた蓮安は、珍しくきちんとその場に座り直した。


 夜色の唐服が広がって、指先に触れる。そのすそを掴んで引き止めてしまわないよう、シロは己の手を握る。


 そして、蓮安は言った。


「シロくん。私の願いは、」


「――あぁやっぱり、恐れていたとおりになりましたな」


 不意に響いた老爺ろうやの声に、シロと蓮安は顔をこわばらせた。


 足元の床に、すみ色の紋が現れる。蓮安がシロを突き飛ばすのと、紋から真っ黒な霧が噴き出すのは同時だった。


「蓮安先生!」


 シロは慌てて手をのばすが、黒霧が蓮安の姿を隠すほうが早い。指先が空を切る。全身から血の気が引く。霧はすぐに晴れたが、そこにはもう誰もいない。


 ――否。勾欄の入り口で、道着姿の老爺が穏やかな笑みを浮かべている。


 ざっと音を立てて、シロの頭に血がのぼった。ほとんど無意識のうちに水槍を喚び出し、地面を蹴って肉薄する。


「っ、お前の仕業か! 鴻鈞コウキン!」

「これはこれは、どうぞ心穏やかになさいませ。黄龍殿」


 ふるった刃は、前触れ無く現れた真白ましろの子供に阻まれる。金属同士がこすれあうような音が響くなか、鴻鈞はにこりと微笑んだ。


「なにも貴方様と蓮安を遠ざけるような真似をするつもりはございません。ほら、永久の花嫁になるというのならば、それなりの準備も必要でしょう?」

「ふざけるのも大概にしろ!」シロは唸るように返した。「それは蓮安先生の望みじゃない! 仮にもあなたは、あの人の父親だったんだろう!? どうして分かってやらないんだ!?」

こくなことを仰る。親だからこそ、子には幸せに生きていてほしいと思うのですよ。あんな残酷な終わりではなくてね」


 寂しげな表情を浮かべた鴻鈞に、シロは一瞬戸惑った。その機を狙っていたかのように、真白の子供が指先を真っ直ぐにシロに向ける。


 放たれた白光を、シロはすんでのところで避けた。なれど、体躯たいくに似合わぬ脚力で子供に腹を蹴られ、思わず地面にうずくまる。


 足元に墨色の紋が浮かび上がった。蛇のように細い黒手が次々と現れ、もがくシロの体を地面に押さえつける。


 黒影に覆われて視界が狭まっていく。なんとか顔を上げた先で、鴻鈞は悠々と肩をすくめた。


「いけませんなぁ、龍よ。妖魔の言うことを容易く信じるなど、愚の骨頂でしょうに。おや、そうにらまないでください。先の願いもまた、私の叶えたい願いの一つですとも」

「……っ、れごとを……」

「まさか、痴れごとなどではありませぬ。非業ひごうの死をとげた子を生かす。家族とも言うべき黄龍との日々を取り戻す。孤独な黒龍の日常を維持し続けんと望む。唯一己を理解してくれた友との絆を守る。そして、愛しき女と永久に結ばれる。いずれの願いも素晴らしく、なればこそ叶える価値がございましょう」


 鴻鈞はにたりと笑った。


「願いのすべては幸いだ。それをいっそう輝かせるために、しがない妖魔は艱難辛苦かんなんしんくを授けてまわるのです。悲しみも絶望も、極上の甘露かんろですゆえ」


 それでは黄龍、また後ほどお会いしましょう。そんな言葉を最後に、シロの視界は黒に覆われた。


 どぷんと沼に沈むような音とともに体が沈む。鴻鈞の気配が遠ざかる。シロは奥歯を噛み、なおも己を邪魔する黒蛇の戒めを強引に振り払った。


 手をかざす。辺りは黒一色。なれどこれが呪墨じゅぼくであるなら、その本質は水であるはずだ。


恢網かいもうの水嵐』


 龍鱗りゅうりんにぴりと凍てついた痛みが走る。果たして読みのとおり、黒の世界が崩れ始めた。


 辺りの水が凝集し、槍の形を成す。込められたまじないは乾いた絵の具のようにぼろぼろと剥がれ落ちる。外の世界が再び見えるのに、そう時間はかからなかった。


 まず見えたのは夏の晴天。そこに巨大な鳥籠とりかごが浮いている。悪趣味なほど赤黒く輝くそこに、鴻鈞が入ろうとしていた。


 シロは手にした槍を痛いほどに握りしめる。あそこに行かなければと、足に力を込めた。その時だった。


「なりません、叔父上おじうえ。あなたはここで待っていなくては」


 冷え冷えとした声に、シロは振り返った。


 己の立つ場所が、白砂と草木に彩られた庭であることに気づく。北に岩山、南に水沼すいしょう、東西にと呼ばれる丘陵きゅうりょう。四神相応を模した鵬雲院ほううんいんの中庭に、黒髪を一つくくりにした少年が立っている。


 シロは槍を構えながら、低い声で尋ねた。


真武シンブ。君も鴻鈞に協力するのか」

「俺は妖魔に協力などいたしませぬ。すべては叔父上を思ってのことだ」

「それを僕が望んでいないとすれば?」

「無論、問答無用で止めるまで。あの時と同じことです」


 翡翠ひすい色の目に真冬の厳しさを滲ませて、玄帝ゲンテイは――真武という名の黒龍は、半月刀を抜いた。


「叔父上、あなたはいつも己が苦しむ道を選ぼうとする。ならば俺は、何度でもそれを否定しましょう。他ならぬあなた自身の幸いのために」

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