鐵華繚乱(下)

 息を切らして広大な板間を走り回っていたヤシロは、背中にひやりとした殺気を感じて前方に転がり込んだ。


「あ、危なかったのだがねェ……!」

鬱陶うっとうしいですわ」


 床に突き立った刃を抜いて、イチルが吐き捨てる。


「ちょろちょろと逃げ回らないでくださらない? 時間の無駄よ」

「そういうわけにもいかんだろう。吾輩わがはい、痛いのは嫌いであるからしてな」

「ふざけないで」


 イチルが眉を吊り上げて刀を振るう。またもや間一髪でそれを避けながら、社は走り出した。


 なにせ、逃げ足の早さにだけは自信があるのだ。東の国では六つのベンチャー起業に失敗した。夜逃げは日常茶飯事。部下が資本金を持ち逃げしたうえ、謎の連帯保証人に社が指定されていたせいで、借金とりから夜通し逃げ回ったこともある。


「いやーはっはっはっ……それに比べればッ、これしきのエクササーイズなど、げほ、余裕のよっちゃん、うお!?」


 ぜいぜいと息を切らしながら無理矢理に笑ったところで、社の腕が横あいから強く引っ張られた。


 危機一髪、彼が今しがた立っていたところにイチルの斬撃ざんげきがそそぐ。されど追撃が来る前に、イチルと社を隔てるようにして艷やかな木壁もくへきが立ち上がった。


 あんぐりと口を開ける社の腕が再び引っ張られる。ハイネだった。


「ぼんやりとしているひまはないわ。これはただの時間稼ぎでしかない」

ヨシさん。なんなのだねェ、これは……!?」

「さっきの扉と同じことよ」険しい顔で追加の壁を喚び出しながら、ハイネは応じる。「ここは黄龍コウリュウ匣庭はこにわ。正しく鍵を使って指示を出せば、ある程度構造を変えることができるの」

「ほう、なんだか分からんが、さすがは吉さんなのだがねェ!?」

「それよりもイチルをなんとかしなければ」


 壁が大きく軋む音に、社は引きつった笑みを浮かべた。なるほど、どうにもイチルは刃ですべて破壊しようという魂胆こんたんらしい。


 ハイネが痛ましげに目を伏せ、「可哀想に」と呟く。


「あの子が鴻鈞コウキン道人に協力するなんて、ありえないことだわ。きっとなにかおどされているのよ」

「んんん、そうなのかねェ?」

「そうに決まっています。あの子は心優しいのだから」

「むむ、吾輩に対しては当たりが強いようにも思えるが」

「社さん、今はあなたの個人的な感想を聞いているのではないの」


 ハイネが少しばかり苛立ったように社を見た。


「もう少し緊張感を持って頂けないかしら? でなければ、鴻鈞道人からイチルを助けることができないわ」

「そうはいってもなのだがねェ。吾輩、そもそも鴻鈞道人なる男をよく知らないのであるからして」


 頭をかきながら社が白状すれば、ハイネがあっけにとられた顔をした。


「あなた、蓮安リアンさんの命を受けて鴻鈞道人を止めに来たのではないの?」

「それは十無ツナシクンの事情なのだがねェ。吾輩は手伝いだ。なんといっても、我らはなんでも屋で、十無クンは従業員。社長が従業員の手助けをすることは至極当然であるからして」

「でも、さすがに事情くらいは聞いているはずでしょう? なにも知らずに巻き込まれるなんて……」

「やー、それがさっぱりなのだがねェ! 最近の若者は大変にシャイであるからしてな!」社は豪快ごうかいに笑った。「まぁだが安心したまえ! 若い世代の言えない悩みにもばっちり気づいてしまうのが、ベンチャー企業の長たる我輩の特殊技能であるからしてェ!」


 困惑しているハイネの両肩に手を置き、社はびしっと親指を立てる。


「まぁまぁ。全て万事、まるっと吾輩にお任せあれなのだよ。とりあえずイチルくんと話をつけてくるのだがねェ。吉さんは是非、大船どころか大漁船に乗ったつもりで、どーんと構えて待っていてくれたまえ」

「ちょ、ちょっとお待ちになって! 結局なにも相談できていな、」


 ぎしりと一際大きく壁が軋む音がして、社はハイネを突き飛ばした。

 砕け散た壁のむこうから、冷たい表情をしたイチルが姿を現す。


「自分に任せてくれだなんて。あなたの口から聞くのはとても滑稽こっけいですわ。社」


 空気を裂く音とともに、イチルが刃を軽く振るう。なかなかの快音に社の調子の良さは一気に吹き飛んだ。あれはいかにも痛そうだ。


 さりとてここがビジネスの正念場。危機こそが商機だ。だらだらと背中に冷や汗をかきながらも、社はなんとか無理矢理に笑う。


「な、はは、それはインタレスティングってことかね? それともエキサイティング? いずれにせよ、吾輩の演説に心打たれたというのなら、大いに結構。ばっちり座右ざゆうめいにしてくれても構わんのだがねェ」

「追い詰められているのに、よく口が回ることね」

「追い詰められはしとらんだろうがね」


 まったくもって虚勢だったが、イチルの動きはひとまず止まった。剣呑けんのんな眼差しをする彼女にぎこちなく肩をすくめ、社は景気づけにフフンと鼻を鳴らしてみる。


「なんといっても、イチルくんが吾輩と吉さん二人を同時に狙うことはあるまい。そいつはほら、あれだ。なんというのかな、そう、アレ。正々堂々、フェアプレーという言葉にも反するのであるからしてな。ちっともイチルくんには似合わん」

「知ったような口を。おだまりなさい」

「そう恥ずかしがらなくてもいいのだがねェ。従業員のことをきちんと理解するのも吾輩の務めであるからしてェ」


 目を怒らせたイチルが地面を蹴ったのを見て、社は一目散に身をひるがえす。


 なるべくハイネから距離をとるようにして走りまくった。その間にうっかり良い作戦が浮かんだりしないかとも期待したが、もちろん天啓てんけいなどないのがヤシロ長司チョウジという男である。


 なんといっても、こちらはどこにでもいる平凡な年頃の中年、かたや相手は前途洋々ぜんとようよう青春真っ盛りの少女である……などと考えたところで、社はぜいぜいと息を吐きながらもにんまりと笑った。


「いやはや、なかなかどうして今の語りは切れ味が良いな!? 吾輩の自伝が出るときは、ぜひとも帯に採用しよ、どわっほい!?」


 斬撃に一着千円の格安スーツを切られながらも、社は物陰に転がり込んだ。いくら逃げ足に自信があるとはいえ、息はすでに切れまくっている。だが血の巡りはばっちりだ。


 ぴしゃーんと頭に作戦が浮かび、社はふところにつっこんでいたよれよれの宣伝紙チラシ――を投げ捨て、黒の人形を掴んだ。


天神地祇てんじんちぎに願い奉るゥ! くだりて我らを守りたまえ!』


 放たれた一つ目の人形ひとがたは、イチルが刃を振るえば一気に細切れになる。


 社はしかし、にやりと笑って柏手かしわでを打った。


「甘いのだがねェ! 一ツ目クン!」


 ひらひらと舞う紙片が、淡い黒光を放って一斉に真っ黒な一ツ目になった。切り刻まれたせいで上背うわぜいは手のひらほどの小ささになったが、その分だけ数はある。


 社の合図に、小さな一ツ目がイチルへ襲いかかった。舌打ちした彼女がさらに刃を振るうが、切られるたびに一ツ目はぽこぽこと数を増やす。


「っ、ちょっと、なんなんですの!」

「なーはっはっは! 秘技ひぎ・一ツ目クン無限増殖なのだよ! 雑用の手が足りない時に作った術だが、きっかりばっちりハマって結果オーライッなのだがねェ!」

「くっ……腹の立つ……!」


 まぁなんというか、戦闘能力が皆無かいむなのは改善点だが、かえってイチルの体を傷つけなくていいのかもしれんな。吾輩ってば配慮の出来る男じゃないか、と社がうんうんと合点したところで、イチルが赤髪にはりついた人形を引き剥がして捨てた。


『転ぜよ、赤鹿セキロク――!』


 怒鳴るように起動語を告げると同時、イチルは形を変えた義足で踏み込んで跳躍ちょうやくする。もはや指先ほどの大きさになった一ツ目の群れは、当然のように大挙して追いかけた。


 そこで、社はイチルが床から掴みあげたものに気づいて目をく。


「ちょ、ちょっと待つのだがねェ! 一ツ目ク、」


 イチルは一ツ目の群れにむかって灯籠とうろうを投げつけた。先頭の一ツ目に炎が灯ればあっという間で、次々と人形が燃え盛って灰になっていく。


 紅蓮ぐれんの中から刃を鳴らす音がした。社は慌てて物陰から逃げようとするが、背を向けたところで足に鋭い痛みが走って倒れ込む。


 ひたいをしたたかに打ちつけてうめく。首筋に冷たい刃があてがわれた。


 そろりと社が首をひねれば、イチルの冷ややかな視線が突き刺さる。


「無様ですわ。ふざけてばかりいるからこうなるのよ」

「ふざけているつもりはないのだがねェ、ひえ」


 社の首筋に切っ先を軽く沈め、イチルが淡々と告げる。


墨水堂ボクスイドウから出ていきなさい。さもなければ殺します」

「それは出来ない相談なのだがねェ。吾輩は社長で、」

「社長などではないでしょう。誰もあなたのことをそうは呼ばないわ。ごっこ遊びばかりされても痛いだけと、どうして気づかないんですの」


 流れるように出てきていた言葉が、そこで初めてのどにつっかえた。


「は、はは……」ややあって、なんとか社は愛想笑いする。「なーにをいってるんだがねェ、イチルくん。照れ隠しの冗談といっても、繊細せんさいな我輩のハートに今のはちょおっと響いたんだが……?」

「冗談などではありません。私は大ホラ吹きのあなたとは違うもの」


 ホラなんて、また面白い表現をするのだがねェ、と社は余裕たっぷりに言葉を重ねたつもりだった。だが実際には一音だって言葉にならず、乾ききった喉から無様に空気が吐き出されるだけだ。


 イチルが目を細める。


「いい年した大人が、おかしな夢にすがるからこんなことになるのですわ。現実をご覧になって。今だって周りに誰もいないでしょう。それこそが、あなたの築いてきた関係が夢幻だったことの証明なの」

「っ……」

「あぁそれとも、あなたも鴻鈞道人に協力なさる? 匣庭とは幻を叶える場所。あなたにとっての理想の従業員も見つけられるかもしれないわね」


 イチルが形ばかりの同情の色を目に浮かべて笑う。その眼差しは社の人生の中で、ひどく覚えのあるものだった。


 立ち上げた会社が終わる時、決まって従業員達が自分に向ける目だ。あなたの理想は大いに結構。けれども、そんなやり方じゃあついていけない。客に寄り添うなんて馬鹿らしい、最初から生きていけるだけの金がもうけられればいいんだ、こっちは。偉そうなことを言うひまがあったら、少しは会社の利益になるような行動をしてくれないか。かつて六のベンチャーを立ち上げ、同じ数だけ失敗した。その時に投げつけられた言葉がいまさら蘇って、社はどっと疲れを覚える。


 これは、もしかしなくても七度目なのかもしれない。焼け焦げた一ツ目の式神を見ながら、社はぼんやりと思う。いやはや、まぁ人生には失敗はつきものだ。なればきっぱりすっぱり整理をつけて、いざゆかん八度目という気持ちにならねばならぬ。


 だが、七度も失敗しているのに、八度目もあるのか? あぁでも違うのか。イチルのいうところの理想の従業員とやらを手に入れれば、八度目こそは成功するのかもしれない。いや、かも、などではないだろう。理想というのだから絶対だ。十割の確率。まったくもってビジネスにはありえぬ夢のような数字で、この絶好の機会を逃せば敏腕びんわん社長の名がすたる。


 ならば、と社は思った。なればこそ、と。


「お断りなのだがねェ」


 顔を上げた拍子に、首筋にぴりと鋭い痛みが走った。だが、それさえも良い景気づけだ。


 己を見下ろすイチルに向かって、社は言った。


「イチルくんは男の浪漫ロマンというものが分かってない。いいかね、吾輩は理想が欲しいのではないのだよ。そこに至るまでの苦労があるからこそ、理想を追い求めてしまうのさ」

「……馬鹿らしいですわ」イチルが一拍遅れて、きゅっと眉根を寄せた。「苦労が欲しいなんて、ただの自己満足よ。そんなの、ただ努力した気分になりたいだけでしょう」

「そんなことはないのだがねェ。積み重ねた苦労があるからこそ、教訓が得られるのであってな」

「理想が叶わなければ、なにもかもが無意味よ。そうやって己を正当化することほど見苦しいことはな、」

「吾輩の名前は社長司! 起業精神に燃える不屈の挑戦者!」


 社は腹に力をこめて叫んだ。むきだしの刃を掴めば手のひらがざっくりと切れたが、今やそんな痛みなど大したものではない。


「東の国での起業の数は六、そのことごとくが失敗した! 交渉力不足、術士としての不甲斐なさ、空気の読めなさは百も承知! 君たちの事情もよくは分からん! なれどなれど、吾輩の信条に揺るぎなし! 従業員とは雇用関係にあらず! それは絆であり、家族である! ゆえに!」


 驚いたような顔をするイチルへ、社は右手を突きつけてニヤリと笑う。


「君がそうと思わずとも、吾輩にとって君は従業員だ。見苦しい生き恥さらそうと、その心をしっかり守ってやるのが吾輩の社長としての務めなのだがねェ」

「っ、ふざけないでって言ってるでしょう……!」


 イチルが顔を歪めて刃を動かした。とっさに社は手を離すが軌道が悪い。


 左目がざっくりと切られた。激痛と鮮血。視界が欠ける。それでも、切った本人であるイチルが一瞬だけおびえた顔をしたのは見えた。それで十分だった。


 彼女の事情どころか、この空間にまつわる事情の一つとして社は把握していない。だが、社は目の前の少女の心優しさを知っている。誰かを殺すことも傷つけることも、イチルがいとっていることなんて分かりきっている。


 ゆえに社は無我夢中で命じた。


『イチルくんを止めろ、一ツ目クン!』


 足元の式神に、社から流れた血が触れた。

 式神から黒光が上がり、ほとんど上半身ばかりの体が鼓動を打つ。


 イチルが刃を引き、距離をとった。己を鼓舞こぶするように声を上げながら彼女が再び突進してきたが、その時には式神が社を守るように立ち上がる。


 それは大男であったが、見慣れた黒塗りの人形ではない。身にまとうは黒鉄くろがね甲冑かっちゅう、腰には幾本もの刀とつち


 そして鍛冶場かじばで燃え盛る炎のごとき一ツ目を輝かせ、式神はイチルの振るった刀を薙ぎ払い、義足へ刃を振り下ろした。



 *****



 義足が粉々に砕け散り、信じられない思いでイチルは地面に座り込む。


 刃が音を立てて床に落ちた。


 社の喚び出した黒鉄の一ツ目は、どこからともなく姿を現した十無ツナシが何事か名前を呼ぶことで動きを止めた。感心したようにうなずく社に十無が穏やかな笑みを浮かべて、「名前を正しく呼ばないとねぇ」と返している。


 緊張感の欠片もない光景は、一月半あまり前の墨水堂で何度も見たものだった。イチルは息を吸って吐く。ちょうどそこで、姫子ヒメコに声をかけられる。


「みっともねえ顔。ほら、手を貸したげるから早く立って」

「……どうして、十無が無傷なんですの。彼の相手をしてって、頼んだでしょう」


 差し出された手を無視して乾いた声で問えば、姫子が面倒くさそうに息をついた。


「無理だって、ヒメちゃんは答えたよね? ニノマエ蓮安リアンの式神と、私じゃ相性が悪いの。っていうか、お互いに勝負にならないでしょ。妖魔は人間しかだませない。あいつは人間の作った術しか解けない」

「それでも引き受けてくれたじゃない」

「キシちゃんがうるさく言うからでしょうが。足止めくらいしかできねーってちゃんと言ったし」

「言い訳だわ」

「はあ?」


 イチルは姫子をにらみつけた。


「本当は、わたくしのお願い事なんてどうでもいいんでしょう。だから適当に手を抜いたんだわ。私が負けるって思ってたから」


 姫子が顔をしかめた。


「面倒くさ。キシちゃん、自分が負けたからって八つ当たりしないでくれる?」

「そうよ、八つ当たりよ。だって、誰も彼も、全然真面目に考えてくれないじゃない」


 姫子の返事はなかった。沈黙に耐えられず、イチルは何度も頭をふって項垂うなだれる。


 こぶしを握りしめた。空っぽの手にはなにもない。一人で立ち上がることだってできない。そのことが悔しくて、こみ上げる何かを無理矢理に飲み込む。


「……馬鹿げていますわ」イチルは苦労して言葉を吐き出した。「社も十無も姫子も、みんなみんな、馬鹿げてる。どうして能天気でいられるんですの。なくなってしまうことが怖いとは思わないの。理想を求めるというのなら、匣庭こそが理想じゃない。なのに、どうして」

「ふざけんなよ」


 だんっと容赦なく地面を踏む音が響き、不機嫌さを爆発させた姫子の声が降ってくる。


「キシちゃんさぁ、なんで自分が負けたか本当に分かってんの」

「……そんなの、わたくしが弱いからでしょう」

「馬鹿。そこのおっさんのほうが弱いわ。自分が何をんだのかすら分かってないのよ? 三流どころか十流百流だっての。だから、キシちゃんが負けたのは実力のせいじゃない。気持ちの問題よ。全然本気じゃなかった。それだけ」


 イチルはかっとなって顔を上げた。


「っ、そんなことありませんわ! わたくしは守りたかったのよ! これまでの世界を! 本当に!」

「守れだなんて、誰も言ってねーでしょ」

「そうよ、言ってないわ! だって姫子、あなたにとっては取るに足りないことなんでしょう! この時間なんて!」イチルがくしゃりと顔を歪めた。「でも、ねぇ、わたくしにとっては大切な時間だったの! ある日突然、なにもかもなかったことになるなんて、耐えられないのよ! だから!」

「その動機がふざけてるって言ってるんでしょ!」


 姫子が目を怒らせ、イチルの胸ぐらをつかむ。


「鴻鈞の口車に乗った時点で、キシちゃんはあいつに命を握られてるようなもんなんだよ!? あいつが妙な気を起こしたら、キシちゃんの人生めちゃくちゃにされることくらい分かるはずじゃん!?」

「っ、分かってるわよ! でも、」

「じゃあ、ちゃんと現実を見ろよ! ここまで積み上げてきた時間があるでしょうが、ヒメちゃんたちには! なんで、それを信じられないわけ!?」


 イチルは鼻をすすった。こみ上げてくる何かに声を揺らしながらも呟く。


「信じたいわよ……わたくしだって……でも……でも、その時間さえ全部なくなっちゃうかもしれないのに……」

「なくなるわけないでしょうが」

「気休めなんて、いらない」

「気休めじゃない」姫子はため息をついて、手を緩めた。「あのさぁ、こんなにヒメちゃんを苛々させるの、キシちゃんくらいなものなんだよ。忘れたくたって、忘れられるわけがない。なにがあっても地の果てまで追いかけて、見つけ出してやるわよ」

「……なによ、それ」


 そんなの、やっぱり気休めじゃないと、イチルは思った。それでも姫子が自分を抱きしめてくれたせいで、なにも言葉に出来ないまま終わってしまう。


 耐えきれなくなって、イチルは少しだけ泣いた。姫子が呆れたようにため息をつく。


「泣くようなことじゃないでしょ。キシちゃんは、キシちゃんが本当にやりたいことをすればいいのよ。ぜったいに上手くいくって、ヒメちゃんが保証してあげるんだから」



 *****



「よかったねぇ、あっちはあっちで解決しそうだ」


 姫子とイチルを眺めながら、十無はしみじみと呟いた。


 かたわらでは、社がハイネの手当を受けている。黒色眼鏡サングラスのおかげか、傷は深くとも眼球は無事だったらしい。


「痛いとは思うけれど、血が出ているところを強く押さえることだけは忘れないで」ひととおり手を動かしたあと、ハイネは社に向かって言った。「あと、疑って申し訳なかったわ。ごめんなさい」


 血まみれの手ぬぐいで左目をおさえながら、社がやや青白い顔で首をかしげた。


「んんん? 一体何を疑うというのかねェ?」

「あなたの実力のことよ。本当にイチルを止めてくれるとは、思ってもなかったものだから」

「なーっはっはっ、そんなことかねェ! なになに、吾輩は当然のことをしたまでなのだから、礼には及ばね、ぐえ」

「あまり急に起き上がっては駄目だよ、黒色眼鏡のおじさん。出血しすぎで死ぬこともあるからねえ」


 地面に倒れかけた社の首根っこを掴み、十無はにこりと微笑んだ。死ぬなどとは単なる冗談だったが、社にはてきめんだったようだ。別の意味で顔を青くしながら何度も首を縦に振る。


 ハイネに背中をささえられながら、社は再び座り直した。


「それにしても、十無クンは今の今までどこにいたのだがねェ」

「ちょっと赤紫セキシのお姉さんと話をね」

「姫子クンとか? ふむ、だがねえ、なにもこんな時でなくとも良かったんじゃあないのかね。見てのとおり、吾輩ちょおっとばかし絶体絶命だったのだよ?」

「ふふ。天目一箇神あめのまひとつのかみを喚べるくらいなのだから、私は必要ないと思うけれど」

「うん? あまのま……?」

「天目一箇神。東の国の鍛冶神だ。単眼は鍛冶場に通じるからね」


 鍛造たんぞうのときの炎は目をすがめて確認する、あるいは炎を見続けるうちに片目が潰れてしまう。そういうところが由来になっているのだと十無が口にする前に、「はあ」と社が気の抜ける返事をした。


「だがねェ、一ツ目くんは一ツ目くんじゃあないのかね? なんといっても吾輩の式神なわけだし」

「ずいぶんとあなたらしい回答だ。まぁ、あなたと式神の間で合意がとれているのならば問題はないよ」


 黒鉄の一ツ目は荒々しい姿のまま、なぜか几帳面に正座をしている。その大男がかすかに頷いたのを見届けて、十無は「さて」と手を叩いた。


「残念だけれど、ここであなたたちとはお別れだ」


 社たちがそろって不思議そうな顔をする。そこで機を図ったように広大な板間全体が大きく揺れた。


 あちこちで悲鳴が響くなか、十無は揺れを物ともせずに天井を見上げる。一拍遅れてそこは崩れ、ぽっかりと大穴が開いた。


 見えるのは自然ではありえぬ、赤黒い空だ。そして、十無と似たような顔をした真白の子供たちが次々と降りてくる。


 飛んできた真白の光球を、ハイネの喚んだ木の壁が防いだ。轟音とともに壁が砕け、それを補うように新しい壁が立ち上がる。


 背後で社が息を飲んだ。


「な、なんで光びゅんびゅんわっぱがここに……」

「はは、なかなかいい表現だけれどね。彼らは鴻鈞道人の式神さ。私達を殺しに来たんだろう。なんといっても、ここにいるのは匣庭の存続に否定的な人間ばかりだから」

「ま、待て待て、十無クン!? 笑ってる場合かね!? むしろ絶体絶命の危機リターンズという状況なのでは!?」

「まさか。そうはさせないよ。そのための十無という存在だ」


 藤色の髪を揺らして、十無は振り返った。


 イチルをかばうようにして立った姫子が、分かっていると言わんばかりにぞんざいに手をふる。それに微笑み、十無は青い顔をしているハイネと――なにより、そのかたわらで情けない顔をしている社を見やって言った。


「今から、ここ一帯で機能している術すべてを無効化してみせよう。瞬きにも満たないくらいの時間しか保たないけれど、あいつらを無効化するには十分のはずだよ。そのあとはこの匣庭から出て、鴻鈞道人を追い詰めてくれると嬉しい」

「嬉しい、って」なにかに感づいたように、社の声音が固くなった。「まさか十無クン、君はいなくなるつもりか」

「私もまた、術によって動いているからねぇ」


 穏やかに返せば、社が黙り込んだ。十無はそっと首を傾ける。


「引き止めるかい? 黒色眼鏡のおじさん」

「いいや」


 社は一度だけまばたきをした後、しっかりと十無を見上げて頷いた。


「それが君のやりたいことであるというのならば、止めはしないのだがねェ。出会いがあれば、必然別れもありだ。後のことはすべて、社長たる吾輩に任せたまえよ」

「……はは。こんな時までいつもどおりなんだから」


 十無は呆れ笑いを浮かべて言った。


「ありがとう、社。あなたと出会えて本当によかった」


 最後の壁が破壊された。


 唐服からふくの裾をはらって十無は真白の子供たちに向き直る。数は九、自分とよく似た面立ちをしている兄弟達だ。


 十無も彼らも、同じ術式で編まれた傀儡くぐつなのだった。かつては紙の色くらいしか違いがなかった。主命に従い生きるだけだと十無自身も思っていた。けれど今や、十無と兄弟達の違いは決定的だ。積み重ねてきた時間も、出会いも。


 ゆえに、十無は思う。


 これこそが、人として生きるということだ。

 だからこそ、のこす価値がある。


 かつて社の不注意でつけられた頬のあざで、十無は真白の子供たちに向かって手をかざす。そして晴れ晴れとした顔で、最後の言葉を世界に告げた。


サン解錠カイジョウ不帰ふきの風にて葬送そうそうをうたえ』

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