幕間 匣中の天
幻郷より堕つ
生まれつき右足が欠けているがゆえに、人々はイチルを
村の人達はさぞ喜んだことだろう。日照り続きで捧げた供物だ。雨は龍の化身そのものだから、偉大なる天帝の慈悲へ感謝したにちがいなかった。特に今年は、生まれた子供の半分が流行り病で死に、働き盛りの若者は三人に一人が飢えて倒れ、老いた父母の多くが夜の山に消えて行方知れずとなった。
どうか救っておくれと大人たちは言った。だからイチルは、しきたりのとおりに天帝へ捧げられた。これですべてがうまくいくと、運び手の男たちは嬉し涙を流して寂れた祭壇から去っていった。
冗談じゃない。イチルは細く息を吐く。乾いた
大人たちはイチルを畏れ敬った。それはけれど言い訳だ。片足がなく赤髪の子供など、どうして受け入れられようか。恐れるから遠ざけたのだ。気味が悪いから捨てられたのだ。それ以上でも、それ以下でもない。嫌いだ。大嫌いだ。あんな場所、二度と帰るものか。思い出すものか。消えてしまえ。あとかたもなく。
イチルは背を丸めて咳き込んだ。いつから握りしめているかも分からない手の甲に、血がべっとりとついている。喉が痛い。それでも飢えに負けて、残照色のそれを舐めた。最悪の味に鼻をすすった。乾ききった鼻の粘膜が切れて、また血がこぼれて情けなくなった。どうして。おとうさん、おかあさん、どうしてなの。どうしてむかえにきてくれないの。もういやだ。こんなところ。ただ、わたしは。ただただ、わたしは。
世界がかげる。夜が訪れたのかと思った。あるいは死にそうだとか。けれどそれにしては蝉の音がはっきりしていて、耳につく。
「あぁ」という男の嘆息が降ってきた。
「可哀想に。こんなことをせずとも、いくらでも願いは叶えてあげたのに」
男が膝をついた。
「連れて行くのですか、叔父上。
蝉時雨の音を割いて、駕籠の外から真冬のように冷たい少年の声がする。「連れて行くよ」と応じた男は、もう一度だけイチルを見やって優しく
「心配しないで。僕が願いを叶えてあげよう」
あのときの彼が浮かべた微笑みを、イチルはずっと覚えている。安心させるような柔らかな笑みだった。
もう、十二年も前の話だ。
ざりっと砂を噛んだような音がして、イチルは目を開けた。低い
ほんの少し湿った風がイチルの赤髪を揺らしていく。洋装風の丈の短い唐服はあちこち擦り切れているが、
傘を持つ手を
「やだやだ、きしちゃんったら! すっごく物騒なんだから!」
「……
イチルはぐっと前方を
建物一つ分の敷地には瓦礫の山と夜の闇が落ちている。されど奇妙なことに、周囲の建物には煌々と電飾が灯され、酔った男たちが着飾った女を相手に浮ついた話をしているのである。
ここは夜の華と
イチルより一つか二つばかり幼く見える彼女は、首筋で切りそろえられた黒髪を揺らして楽しげに手を叩く。
「あっはは。ヒメちゃんがせっかく手に入れた遊びの
「発想がお子様ね」
「きしちゃんったら、わっかりやっすーい負け惜しみ! と、いうわけでぇー、さっきの遊びの報酬
頭のなかを無遠慮に撫でられるぞわりとした感覚に、イチルは顔を強張らせた。また
「ふむふむ、なになに……
『転ぜよ、
西域の偏屈な学者が考案したという
『
女王よろしく余裕めいた笑みを浮かべた少女が、腐る寸前の
『
起動語、次いで手のひらに歯車の動く感覚。引き抜いたそれは銀の刃となり、羽蟲の群れごと少女を切り裂く。強烈な目眩と少女の笑い声がした。手応えは軽く、少女の姿が溶けて消える。イチルは舌打ちした。さりとて今度こそ仕留めきらんと追撃にかかる。
晩春の空気を雨が叩き始めた。夜を迎えた深灰の、片隅での出来事だった。
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