第七話 だからこそ、すべての選択が愛しいものなのさ
数えて三日の経った
「いやはやまったく、ちーっともビジネスのいろはが分かっておらんのだな! びっくりしすぎて、さすがの
「ふふ。そのわりにはずいぶんと喋っているけどねぇ」
廊下の奥から
「ありがとう、龍のお兄さん。片付けはやっておくよ」
「いいんですか?」
「もちろんさ。幸い人手は余っているもの」
「ストーップ! ストップだがねェ!」
やたらと人を苛立たせる否定の声を上げたのは社である。今日も今日とて、絶妙に
「慈善事業は聞こえがいいだけなのだよ、十無くん。どんな
「
シロが顔をしかめてぼそりと呟けば、社の指先が眼鏡から滑った。
「い、居候というのはやめたまえよ。ちょっとした可哀想な宿無しじゃあないか。若造くん、人情も世渡りには大切な要素だぞ」
「どんな些細なことでも仕事にしろって言ったのは、あなたでは?」
「まぁまぁ、龍のお兄さん。そう目くじらをたてないで。蓮安先生の許可もでているわけだし」十無は皿を重ねながら、のんびりと言った。「いくら社さんが華街で泥酔したうえに借金まみれになってしまった最低クソ野郎だとしても、働いて人生をやりなおす機会は与えるべきだよ」
「待て待て、十無くん!? さらっと笑顔で悪口じゃないか、それは!?」
「やだなぁ、悪口じゃなくて事実だねえ」
大げさなほどしょげかえった様子の社に皿を手渡し、十無は立ち上がった。シロが手渡した
「
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
にっこりと笑ってありきたりな返事をした十無は、社の背中を押して歩き始めた。
賑やかな二人の姿を見送ったシロは、中途半端に振っていた手を下ろした。十無と社なんて、三日経っても見慣れない組み合わせだ。されども、これが戻ってきた日常でもある。
シロは丹朱の匣庭を消滅させた。『
だからこそ、シロ以外に丹朱の匣庭を覚えているものはいない。ここ数日の記憶は上手く改ざんされているようだ。
それでもやっぱり、誰も、何も覚えていないのだ。何一つ残らない徹底ぶりは、さすがは黒龍の望みとも言うべきなのか。シロは苦笑いしようとして、失敗した。
ため息をついて、縁側で仰向けになる。晴天が眩しい分、ひさしがつくる影が濃い。また一日、夏に近づいたのだな、と彼は他人事のように思った。そこで視界がかげった。
「辛気臭い顔だなあ」
さかさに映った蓮安は、ラムネ瓶片手に馬鹿にしたように笑い、すぐにシロの視界から消えた。縁側には十分な広さがあるのに、なぜか彼女はシロを押しのけるようにして座ろうとする。シロは仕方なく体を起こし、のろのろと体をずらした。
「まったく、誰のおかげで元の姿に戻れたと思ってるんですか」
「おいおい、訳の分からん言いがかりはやめようぜ、シロくん」大人の姿に戻った蓮安は、うろんな顔でシロを見やった。「もとの姿もなにも、私はずっとこのままだろう」
「はいはい、そうですね」
シロの適当な返事が気に食わなかったのか、鼻を鳴らした蓮安はラムネ瓶のビー玉を底に落とした。軽やかな音を響かせて実に美味そうにラムネを飲んだ彼女は、「それで」と足をぶらつかせながら問う。
「今度はなにを悩んでるんだ、きみは」
「悩んでません」
「こんなに湿っぽい空気をまとわせておいてよく言う」
「真面目に考えてるんですよ」
「考えるって何を」
「選ぶのは、痛みを伴うものだなと」
からんと瓶の中のビー玉を鳴らした蓮安は、やや引いたような顔つきになった。
「思春期の
「いや、言い方」
シロが顔をひきつらせれば、蓮安はやれやれと息をついた。
「なんだ。至極真面目な顔をしていたから、よっぽど重要なことで悩んでいると思ったのに。よもやそんな低次元なこととは」
「あのですね、蓮安先生? 僕はこれでも真面目に話をしてるんですけど。というか、なんならちょっと傷心気味なんですけど」
「自分で言ってしまうあたり、シロくんは本当に情けないな」
「あなたが少しだって気づかないからでしょうが」
「あーやだやだ、これだから湿っぽい男は!」
「ちょっと蓮安先せ、むっ」
ラムネ瓶を口元に押しつけられ、シロはじろりと蓮安を見上げた。中庭に降りた彼女は、日差しに夜色の唐服をひらめかせてシロをまっすぐに見やる。
「選択とは痛みを伴うものだよ。だからこそ、すべての選択が愛しいものなのさ」
「……お言葉はありがたく頂戴しますが」シロはじっと蓮安を見やった。「この瓶は?」
「それは君に片付けておいてほしいという私の選択。お代は最後の一口」
にやっと笑った蓮安は、シロが文句を言う前にさっさと裏口のほうへ行ってしまった。結局雑用かよ、と呻いたシロの言葉を、瓶の中のビー玉が再び軽やかに鳴って肯定する。
仕方なく口づけた最後の一口は、予想に違わず甘かった。
*****
気づけば匣庭の数が一つ減っていて、しかもそこに関する記憶も記録もどこにもない。それだけで蓮安にとっては何かを察するに十分で、シロが難しい顔をしていたのを見て確信した。
人を滅ぼす力が振るわれたのだ。それならば全ての違和感に説明がつく。龍の力は天帝の意思に等しく、生死聖邪問わずあまねく生命に影響を及ぼす。人の術では及びもつかぬ事象を引き起こすなど、実に容易いことのはずだ。
シロがどういう経緯で
彼は痛みを知っている。人を滅ぼすことの意味も理解している。痛みを抱えて、それでも前に進もうとしている。
もったいないくらいの男だ。まったくもって、女々しいのが玉に
さて、と気持ちを切り替えて、蓮安は懐から古びた木片を取り出した。
はるか昔に井戸へ沈めた木片がどうして自分の手元にあるのか、蓮安には分からなかった。あるいはシロに聞けばわかるのかもしれないが、やっぱり聞こうとは思わない。聞こうが聞くまいが、やることは何一つ変わらないのだから。
「すまないな、
幼い頃にかけた保存のための術が、ぱきりと音を立てて壊れる。そのあっけなさに少しだけ笑ってから、蓮安は崩れ始めた木片をばらりと井戸の中に落として身を
虹のねもとはきみの中、わたしの中、すべての過ごした時間の中に。幼い頃に無邪気に信じた願いの言葉が蘇ったが、それはもはや、彼女の足を止めさせることはない。
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