参幕 赤鳥、南枝に巣食わず

第一話 ずいぶんと間抜けな顔ですこと

 叔父さま、とイチルが自分の名前を呼ぶ。それだけでシロは、これが夢であると気づくのだ。


「一体、なにを考えてらっしゃるの」


 秋の日差しが差し込む鵬雲院ほううんいん東屋あずまやで、卓を挟んだ向かいに座るイチルが探るような目をしている。後頭部でまとめた赤髪も、臙脂えんじ色の唐服も、今日も一分のすきがない。


 実に生真面目な彼女らしいと思いながら、シロは柔らかく微笑んだ。


「相変わらず字が綺麗だなと思ってね」


 イチルが眉をひそめた。


「今、誤魔化したでしょう」

「はは。ばれた?」

「当然ですわ。なにか悩み事がある時は、いつでも笑うもの」

「でも、字が綺麗だなと思ったのは本当だよ」


 唐紙の文字をつついて褒めれば、頬を染めたイチルがそっぽを向く。


「当然です」先と同じ言葉を、イチルは歯切れ悪く繰り返した。「鵬雲院で保管する書物なのですから、きちんと読めるようにしなくては」

「字ならば、俺のほうが上手いが」


 無愛想な真武シンブの声に、イチルは両眉をひそめ、シロは苦笑した。東屋に足を踏み入れた少年は、一つくくりの黒髪を揺らしてシロへ頭を下げる。


「遅くなりました、叔父上」

「構わないさ。書物の写しの作成くらいなら、僕にもできることだからね。それより、君こそいいのかい? 疲れているのなら、休んでてもいいんだよ」

「それは……」


 困ったような顔をする真武の後ろで、茶器を持ったハイネがにこりと微笑んだ。


「そう仰らないで差し上げて。真武様ったら、ここの仕事を手伝いたい一心で、雑事を片付けてきたのですから」

「天帝からの仕事に雑事などない、ハイネ」

「ま、これは失礼いたしました」


 苦言を呈する真武に、ハイネは白髪頭を下げた。それでも次に顔を上げたときには、いたずらの見つかった子供のような茶目っ気のある笑みを浮かべていて、シロも思わず頬を緩めてしまった。人間の年齢でいえば老婆というほうが正しい年齢だが、ハイネのしなやかな性格は一向に変わらないのだ。


 イチルが咳払いし、隣に座った真武をにらみつけた。


「ところで、わたくしの字に文句をつける殿方の声を聞いたような気がするのですが」

「ような、ではなく俺の発言だ。さすがは人の子、耳も悪いか」書道具を手元に引き寄せた真武は、イチルの字を再び見やって鼻先で笑った。「止めと跳ねが甘い」

「これはわざとです。書物とは過去から未来へ語り継ぐもの。ならば、読みやすさこそ重要でしょう。少なくとも、あなたのような流麗で綺麗なばかりの崩し字よりもずっと合理的よ」

「俺を愚弄ぐろうするか」

「あら。愚弄されたと感じる程度には、ご自身に問題を感じてらっしゃったということね」


 イチルと真武がにらみ合い、「今日も良い日ね」とハイネが微笑みながら言う。淹れたての茶に口をつけながら、シロも頷いた。


 これは良い日だ。

 だからこそ過去で、幻で、夢で、帰りたいと思うのだ。


 シロはゆっくりと目を開けた。胸をひっかくような郷愁きょうしゅう。それを一つ息を吸って吐く間に追い出し、身を起こす。


 薄明に包まれた蓮安リアン邸の板間は、酒瓶と食器が乱雑に散らかり、隙間をぬうようにして蓮安たちが雑魚寝をしている。それもそのはず、昨晩は「吾輩わがはいの歓迎会だ」と騒ぎ立てたヤシロが酒盛りをはじめ、酒好きの蓮安リアンがこれを見逃すはずもなく、当然のように十無ツナシがこれを支持してシロも巻き込まれた。


 そこから先の記憶は曖昧あいまいだし、なんなら気分も悪い。鈍く痛む頭を振った彼は、『蛇酔うわばみよい』と書かれた酒瓶が転がっているのを見つけて顔をしかめる。


「絶対これのせいじゃないですか……」

「シーローくーん……」


 のろのろと目を開けた蓮安が、寝転がったまま呻いた。


「気持ち悪……水……水もってこい……」

「なんで僕が持ってこなきゃいけないんですか」

「こんなにも可愛くて……綺麗な……私の頼みだぞ……」

「自画自賛かよ」

「うえ……吐く……う、」

「……あぁもう!」立ち上がったシロは蓮安に肩を貸した。「綺麗な人なら、こんなところで吐かないですからね!? かわやに行くまで我慢して! えづかない! はい、息をする!」

「無茶言うなあああ……」


 覇気はきなく呻いた蓮安とともに、シロは冷えた廊下を歩く。郷愁は跡形もなく吹っ飛び、こうして彼の匣庭はこにわでの一日は始まった。


 *****


「いやー、まったく飲み会明けの茶漬けほど至高の食べ物はないのだがねェ!」

「社……絶対に許さない……潰す……次は絶対に酒で潰す……」

「……蓮安先生、本音が漏れまくってますよ」


 意気揚々と先頭をきる社の背中を睨みつけ、呪詛めいた声音で蓮安が呟く。それにシロはため息をついた。


 遅めの昼を花凛カリン堂でとり、シロたちは深灰シンハイ西区の大通りを歩いている。


 短い雨の季節はあっという間に過ぎ去り、初夏の風が吹く空は抜けるような晴天だ。だが、二日酔いの身にはずいぶんときつい。滅多に酒に酔わないシロですらそうなのだから、青白い顔をした蓮安の心情は推してはかるべしといったところである。


「それにしても、十無さんは元気そうですよね」


 シロが隣を見やれば、藤色の髪の少年は常のようにのんびりと笑った。


「お酒は飲んでないからね」

「弱いんですか?」

「お酒というより水分にね」


 意味ありげに十無が微笑んだところで、社が「さぁて!」と両手を叩いた。


「それでは今日も元気に依頼と行こうじゃないかねェ! 世のため人のためェ!」

「嫌だ。私は帰るぞ」

「なぬっ!?」


 振り返った社に、蓮安は苛々とした様子で指を突きつけた。


「何度も言っているだろう。墨水堂ぼくすいどうを店として開ける気は毛頭ない。あと私は疲れてるんだ。あちこち体が痛いし、眠いし、気持ち悪いし、お前だけ元気なのも気に食わないし」

「そーいうわけにもいかんだろうがねェ!」社が負けじと主張した。「そこに寂れた店あらば、再興したくなるのがこの凄腕ベンチャー社長、社というものよ!」

「また始まった……」


 シロは遠い目をして呟いた。


 蓮安邸の門前に掲げられた墨水堂の看板は、先代が呪い屋を営んでいた名残だ。社はこれを目ざとく見つけ、以来、事あるごとに店をやり直すべきと主張するのである。


 彼が蓮安邸に居候をはじめて一ヶ月。ほぼ毎日欠かすことなく繰り返されるやりとりは、もはや日常茶飯事だ。


「まぁ断られるんでしょうけど」

「いいや、そーんなことはないのだねェ!」シロのぼやきを耳ざとく聞きつけ、社はぐるんと振り返った。「吾輩の秘策を見たまえよ!」


 シロの眼前に、社は勢いよく一枚の紙切れを突きつけた。墨水堂、本日改装開店と題されたそれを手に取り、シロは読み上げる。


あずまの国から渡来したベテラン術者である社と、従業員の蓮安があなたの快適生活をがっちり支援。屋根裏から床下、旦那様の靴下の中まで、どんなにささいな妖魔もにっこり笑顔でがっちり捕縛。お財布にも優しい月間払いで、大切なご家族をばっちりお守りいたしま、うぐ」

「おい待て、シロくん」


 シロを押しのけるようにして覗き込んだ蓮安が、不満げに唸った。


「私の扱いが雑すぎるだろう。もっとないのか? 可愛いとか可憐とか器量良しとか」

「いや……書いたの僕じゃないんですけど……」呆れ声で蓮安に返してから、シロは宣伝紙チラシの一番下に目を留めた。「というか、なんですか。この『何でも言うこと聞く券』っていうのは」

「いーいところに気がついたんだがねェ!」


 社はもったいぶった様子で黒色眼鏡サングラスを指で押し上げた。


「それが秘策だよ。いいかね、ビジネスの肝は親近感。所詮しょせんは人と人との付き合い、信頼のうえに仕事は成立するのだからな。そこでまずは一発、お試し期間を作り、客の要望を完璧にこなして吾輩たちの名前を売る! すると当然、立役者の吾輩はビジネス界から引っ張りだこ! かくして黄金かつ薔薇ばら色のライフがスタートするというわけなのだがねェ! なーっはっはっはっ!」


 ぐっと拳を握りしめた社を眺めながら、シロは顔をしかめた。


「いや、本音」

「ふふ。駄目だよ、お兄さん。無一文の屑野郎にも、夢を見る権利くらいはあげないとねえ」

「馬鹿らしい。面倒くさい。ゆえに却下」


 にこにこと微笑む十無の隣で、蓮安が乱雑に言い切った。もはや社を黙らせる気も失せたらしく、ふらりときびすを返す。


「ところで、記念すべき一件目の依頼は匣庭がらみの案件なんだがァ」


 くるりと振り返った蓮安は、神妙な面持ちで頷いた。


「よし、受けよう。今すぐ行こう」

「いや、え? 蓮安先生ちょろすぎませ、って!?」


 シロのつまさきを踏み抜いて黙らせた蓮安は、青白い顔ながらも「よしよし」と尊大にうなずいた。


「やっぱり時代は人助けだよな! というわけで、さぁいざ行かん! 匣庭へ!」


 *****


「十無さん。僕、思うんですが」

「うん」

「蓮安先生って時々どうしようもなく阿呆ですよね」


 にこにこと微笑みながら十無はうなずいた。というか、肯定するのか。いやまぁ、彼が内心でどう思っていようが構わないのだけれども。


 意気揚々とした蓮安と社を先頭に、シロたちは東区の片隅を訪れていた。辰鼓楼しんころうから昼の三刻を告げる太鼓の音が響く中、細い路地の一つで立ち止まった社が安っぽい革製の手帳と見比べて頷く。


「ここが目的地だな」社は手帳を閉じて言った。「依頼者いわく、最近出来た妙な賭博場とばくじょうの調査をしてほしいとのことでねェ。なんでも、どこにあるのか分からないんだとか」

「なんだ、それは。賭博場があるんなら、場所も分かるだろう?」


 蓮安の疑問に、「グッドクエスチョン」と社はにやりと笑った。


「不思議なことに、あるのはうわさと借金まみれの人間だけなのだよ。誰も彼もが、気づいたら賭博場がふわっと目の前に現れたと話すばかりでな。それでも、なんとか話をつなぎ合わせれば、この路地がきな臭いということになったらしい」


 一行は薄暗い路地に足を踏み入れた。


 灰色の壁に挟まれた路地はまっすぐで、西区で見られるような雑多感は一切ない。壁に手をついた十無がしみじみと言った。


「東区に来るのは久しぶりだけれど、ずいぶんと珍妙な家の形をしているんだねぇ」

「家というよりは店を積み重ねたもの、というほうが正しいですね」シロは肩をすくめて応じた。「西域の流行りを取り入れた建築なんです。骨組みは金属、壁は石を溶かして固めたもの、だったかな。あまり凝った形はできませんが、同じような間取りの部屋を作るのには適してるんだとか」

「なんだねェ、若造くん。君は随分と詳しいようだな。さては建築家か?」


 社の問いかけに、シロは頬を掻いた。飲み会までひらいた社であるが、この男はシロの正体も、蓮安が匣庭の主であることも知らないのである。果たしてなんと言ったものかと迷っていれば、蓮安がちらと振り返った。


「シロくんはここで店を開いていたことがあるのさ。随分とちぐはぐで、おかしな内装の店だったけどな」

「……おかしな内装で悪うございました」


 からかうような彼女の言葉に、シロはぼそりと呟いた。事情を知らない社は「ははぁ、なるほど」と芝居がかった所作で頷く。


「君もまた、勇気あるベンチャー企業の社長だったというわけか。それで店が倒産し、一蓮安の家に転がり込んだと」

「いや。それは社さんのことであって、僕のことではないです」

「なはは! まぁ気落ちするなよ、若造くん! ベンチャー立ち上げで失敗はよくあることだからねェ! かくいう我輩も、東の国で五の企業の立ち上げに失敗し、六番目の会社で社員に有り金を横領されて一文無しになった身であるからしてェ!」

「前向きかよ」


 社にばしばしと肩を叩かれながら、シロがげんなりと呟く。その時だった。


「あーそーぼー」


 出し抜けに響いた軽やかな声に、シロたちは揃って口を閉じた。互いに顔を見合わせる。


「なんですか、今の」

「すぐに他人の答えを求めるのは、君の悪い癖だぜ。シロくんや」辺りをぐるりと見回した蓮安は、再び行く先へ目をやって鼻を鳴らした。「あれだな」


 整然とした路地は相変わらずだが、道の真ん中にびた空き缶がぽつんと置かれている。蓮安の反応からするに、突然現れたということだろうか。


 うなじがかすかにうずき、シロは眉をひそめて首筋を撫でた。


「……良くない感じがしますね」

「なるほど。シロ君が反応するということは妖魔の類か。いいね、いよいよ匣庭が近くなってきたらしい」


 好戦的に笑う蓮安の隣で、十無がのんびりと言った。


「ということは、僕は役立たずだねえ。下がっていたほうが良さそうだ」

「ふふん、ならば吾輩だな」

「え、ちょっと待って下さい。社さん戦えるんですか?」


 シロの問いかけを無視して、社はずかずかと先頭に歩み出た。もったいぶった所作で胸元から黒色の人型を取り出した男は、にやっと笑って己の胸を叩く。


「モチのロンだとも! 吾輩、東の国の術者なのでなァ!」


 蓮安が顔をしかめた。


「なーんか妙に自信があるのが、腹立つんだよな。あの男」

「それ、蓮安先生が言います?」

「シーローくーんー? どういう意味かな、それは?」

天神てんじん地祇ちぎに願いたてまつるゥ! くだりて我らを守り給え!』


 威勢のいい掛け声とともに社が放った人形は、見る間にシロの背丈を超えるほどの巨人になった。その体躯は黒色、鼻口の代わりに赤の一つ目がついている。路地が狭いせいで窮屈きゅうくつそうだが、宙に向かってえる様はなかなかに迫力満点だ。


 社が得意げに巨人の体を叩いた。


「うぉっほん、紹介しよう! これが吾輩の最強にして唯一の式神、一ツ目くんであーる!」

「阿呆! 誇らしげに自己紹介してる場合か!」


 蓮安の叱責に社と一ツ目が目を瞬かせる。


 びゅるりと赤紫せきしの強風が吹き抜けた。羽蟲はむしのはばたく無数の音にシロが顔をしかめ、顔に腕をかざした蓮安が悪態をつく。その時にはもう、疾風はやては一ツ目を飛び越え、空き缶の手前で渦を成している。


「はーい、残念でした」


 例の軽やかな声とともに、渦の中から少女が姿を現した。青白い肌にばっさりと切り揃えた黒髪。シロたちを睥睨へいげいした彼女は、腐る寸前の林檎りんご色の唇をにんまりと釣り上げて笑いながら、缶へ片足をかける。


「お兄さんたちの負けね。というわけでえ、」

払暁ふつぎょう一閃いっせん


 凛とした声が響き、黒髪の少女の姿が文字通り真っ二つになった。「あらあら」と実に緊張感のない声を残して少女が消える。代わりに地面へ降り立つ影がある。


 それもやはり、少女であった。ゆるく波打つ赤い髪、丈の短い西域風の唐服、そして唐紅からくれないの義足。見覚えのある後ろ姿に、シロは目を丸くして呟いた。


「イチル……?」

「ごきげんよう。いいえ、久方ぶりと言うべきかしら」


 赤髪の少女は振り返り、刀を鞘に収めながら冷ややかに言った。


「いずれにせよ、ずいぶんと間抜けな顔ですこと。黄龍コウリュウ

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