第四話 だから、じっとしてろと言ったでしょう……!
晴天を気持ちよさげに渡る鳥を見送って、シロは額に滲む汗をぬぐった。
旧市街の
あちこちに出された露店の一つで、
「ここは良いところだねぇ。勞は
「どうにも観光地に近い位置づけのようですね」
「もちろん、分かっているとも」
返事だけは頼もしい。胸中でぼやきながら、シロは手元の地図に印をつけて蓮安たちに声をかけた。
深灰の南端、勞と呼ばれる地区で、
「その時に妙な気配を感じたんですよ」
「妙な気配、ですか?」
「はい。術の気配がいつもと違うと言いますか」
空の皿を重ねていた丹朱は、僧服のすそをはらってシロの前に正座した。冷えた
「元より社さんは、
「はぁ……でも僕たちが手がかりを見つけられるとも思えませんが……」
「ご
期待と確信をこめて丹朱は何度も頷く。その妙な押しの強さに負けて、かれこれ三刻半ほど歩き回っているのだが、シロを除き、誰一人として真面目に探している気配がない。
どうしてこうも、貧乏くじを引くことになるのか。例の頭痛を誤魔化すようにシロが
「しーふー、見て見て。丹朱のおじさんに真っ赤なかんざしもらったよ。にあってるでしょ?」
「そーですね」
「むむむ、こっちを見、きゃっ!!」
蹴ろうとしてきた蓮安の首根っこを、シロは掴んで引き上げた。猫よろしく吊り下げられた蓮安は、頬を膨らませてシロをにらむ。
「しーふーったら、なまいき。ずーっとかんがえごとばっかりで、ちっともわたしのこと見てくれないしぃ」
「なんで蓮安先生のことを見なきゃいけないんですか」
「うつくしくてかわいい、れでぃでしょ」
「自画自賛かよ」
「あーやだやだ、しーふーはちっとも、男女のきびがわかってない」
白けた顔をするシロに向かって、蓮安はやれやれと頭を振った。
「そんなんじゃ丹朱おじさんに負けちゃうよ? この服をくれたのも、桃をくれたのもおじさんだったじゃない。それにそれに、昨日のおひるのじんせーけいけんもすごかったし。おじさんがちょっとした人助けしたらね、いろーんな人からお礼言われてたんだから」
「わー、すごいですねー。それ、昨日の夜も聞きましたけどねー」
「おやおや、しーふー」蓮安はからかうような声音で言った。「しっとはよくないぜ。おとこなら、どどんと負けをみとめなくっちゃ」
「
シロはうんざりしながら手を離した。地面に飛び降りた蓮安の文句を聞き流しながら、丹朱へと話しかける。
「すみません、丹朱さん。さっきの蓮安先生のお茶代、払いますよ」
「なんのなんの、気にしないでください。あれも店の厚意で頂いたものですから」
「僧侶のお兄さんは大人気だねえ。昨日の桃も、蓮安先生の服も、他の人から譲ってもらったものなんだろう?」
十無の言葉に、手に持った
「ははは、皆さんお優しいですからね。いつまでも恩を忘れないでいてくださるのは、ありがたいことです。それで、どうですか。調査のほうは?」
シロは改めて手元の地図を見やって、首を横に振った。
「社を知っている人間は見かけませんでしたね」
「そうですか。これは
「はっきりしませんね……」
「申し訳ない。建物が壊れるのも構わず、雨あられと術が降り注いでおったもんですから」
「ねーねー、わたし、ここにいきたい!」
背伸びした蓮安が、地図の裏側から中央を指差す。
「うんりゅーてら……ほーがく……んんん?」
「
シロが正しい読み方を教えてやれば、丹朱が眉をひそめる。
「そこですか。あまり安全な場所ではないのですが」
「ほーが……んん、ほーらく、ってことは、こわれてるの」
「えぇ、お嬢さん。そのとおりです。大規模な崩落は十数年前の話ですが、いまだに、残った建物がちらほらと崩れておりましてね。そう、それから、夜な夜な崩落に巻き込まれた亡者の幽霊が出るとか出ないとか」
「おばけ」蓮安はぱちりと目を瞬かせ、至極真面目な顔でシロを見上げた。「しーふー。おばけがでても、わたしがまもってあげますからね」
「なんで僕が守られる前提なんですか」
「だいじょーぶよ。こわくなったら、おとりにしてにげるから」
「結局逃げるのかよ」
げんなりと肩を落とすシロへ蓮安はにんまりと笑い、目的地の方向へと駆け出した。
シロ達も彼女を追いかけて歩を進める。丹朱は人気者のようで、道行く人からあれこれと引き合いがあった。まるで妖魔らしくない穏やかな光景を眺めながら、シロは
あちこちから声なき願いの雑音が聞こえる。昨日よりましとはいえ、願いを叶える
「蓮安先生のそばにいたほうがいいよ」
声をひそめて忠告する十無に、シロは首を横に振った。
「問題ありません、これくらいなら」
「おや、頑張るねぇ」
「先生に借りを作りたくないだけです。どうせ、あとから請求されるでしょう」シロは小さく息を吐き、言葉を続けた。「それより十無さん、なにか変わった気配はしますか?」
「ううん、気配は普通だけれどね」
「なにか気になることでも?」
十無は頷き、シロから受け取った地図を広げてみせた。
「
「変、ですか」
「そう。街ってね、
「……それをいえば、地形も妙ですね」地図とあたりの景色を見比べたシロは眉をひそめた。「南に山、北に
北に岩山、南に
そこで、蓮安が急に立ち止まった。顔を上げたシロもぎょっとする。
さきほどの
人の数は格段に減っている。であるのに、雑音めいた願いの声は先ほどよりずっと大きい。シロの漠然とした不安を感じ取ったのか、蓮安が彼の唐服の裾を掴んだ。
先頭を歩いていた丹朱が首を傾げた。
「どうしました、皆さん。雲龍寺の本社はもう少し先ですが……」
「へんだよ、おじさん。ここ、すっごくへん」
「変?」
「来るよ!」
十無の鋭い声を合図に、周囲の視界が暗雲色の霧に覆われ一気に悪くなる。ぎしりと軋む音を
土石を巻き上げて巨大な拳が地をえぐり、シロの頬を鋭い痛みが裂いていく。少し先から丹朱の悲鳴が聞こえ、錫杖だけが地面に転がった。
「しーふー、はなして!」
「っ、術もろくに使えないんですから、じっとしててください!」
暴れる蓮安を腕に抱えたまま、シロは追撃の拳をかわして錫杖を拾い上げる。雲龍寺の本社に続く道は、のっぺらぼうの黒い巨人で塞がれていた。はっきりと見えるのは三体だが、その奥にもいくつか影がうごめいている。
恐怖に怯えた住民の悲鳴とともに、あちこちで逃げ回る人々の姿が見える。シロが十無と合流すれば、藤色の髪の少年は常にない険しい顔で「妙だ」とつぶやいた。
「こうもいきなり状況が変わるなんて」
「蓮安先生の家に来た妖魔ですよね?」
「形は似てるよ。でも、目がない」
「そんな
「些細。そう、そうだね。でも……」十無は目を伏せた。「そもそも、こんなふうに妖魔が
こんな状況であるのに、十無はなにごとか考え込むように目を細める。シロは手荒く蓮安を十無へ押しつけ、前方に飛び出した。
錫杖を
振り回された巨腕を錫杖で跳ね上げ、踏み込むと同時に顔面めがけて切っ先を押し込んだ。場にそぐわぬ澄んだ錫杖の金属音が空気を鳴らす。肉を断つ
頬に降りかかる生臭い液体にシロは眉をひそめ、なれど勝利を確信して錫杖を引き戻そうとする。黒影は往生際悪く錫杖を掴んだ。黒い霧がまたたく間に
――死にたくない。
「っ……!?」
虚ろな声が届き、シロのうなじの
シロはぞっとした。目の前の巨影は、決して妖魔などではない。
「匣庭……!」十無のはっとしたような声が響いた。「そうだ、この気配……! これはすべて匣庭の主だよ!」
「しーふー! たおして!」
蓮安の切羽詰まった声が響くなか、シロは横あいから振るわれた巨人の腕に思い切り頭を殴られた。蓮安たちの近くまで吹っ飛ばされ、地面へしたたかに体を打ちつける。
だらりと、
「しーふー、」
「じっとしててください……っ!」
駆け寄ってくる蓮安の腕を
十無はどこにいったのか。どうして蓮安はじっとしていてくれないのか。そもそも、どうすればこの場を切り抜けられるのか。まとまらない思考で考えたところで、家屋全体が大きく揺れる。
天井が崩れ、開けた視界から例の巨人が顔をのぞかせた。住民が悲鳴を上げる。頭痛に顔を歪めながらシロは錫杖を構える。
その脇をすり抜けて、頼りない軌道を描いた竹筒が地に立った。
『きょくやにうつ、ししょくをそめる! やく……やさ……わるいやつをたおせ、おゆみのもん!』
蓮安の焦った声と同時に、いびつな紋から無数の矢が飛び出した。矢の嵐は黒影を退け、そして蓮安以外のすべてを襲う。
幾本かがシロの腕を掠めた。次いで、老婆の悲痛な叫び声が響く。振り返った蓮安の顔から見る間に血の気が失せた。矢の一本が
「あ……わた……わたし……」
「だから、じっとしてろと言ったでしょう……!」
シロが思わず怒声を上げれば、蓮安がびくりと体をこわばらせる。
術が解けて矢が消える。それでも口元から血をこぼした男はぐったりとしていて、胸の動きもひどく弱々しい。老婆が必死に体を揺すって名前を呼ぶが、一向に返事はなかった。
当然のことだ、男の体は死に近づいている。
そしてだからこそ、生を望む声なき願いがシロの鼓膜を大きく揺らす。
シロは奥歯を噛み、血で濡れた手で龍鱗を撫でた。地面に膝をついて死にかけの男の胸元へ指先を添える。
水面に一滴のしずくが落ちたように、鱗がかすかな冷たさをもって揺らぐ。頭痛がわずかに遠ざかった。最初から大人しく願いを叶えていれば、痛みなど感じることもなかったのだ。ひどく冷めた龍としての本質がそう
『かの者の願いを叶えよ』
するりと指先から何かがこぼれて落ちる感覚とともに、シロと男の周囲を
シロが手を離すと同時、老婆は歓声を上げて男を抱きしめる。けれどシロが知覚できたのはそこまでだった。
ぐらりと体が傾ぐ。地面に体を打ちつける痛みも、外からひっきりなしに届く悲鳴と願いの声もどこか遠い。
けれど意識を失う寸前の、ひどく泣きそうな顔をした蓮安の眼差しだけは鮮烈だった。
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