第四話 だから、じっとしてろと言ったでしょう……!

 晴天を気持ちよさげに渡る鳥を見送って、シロは額に滲む汗をぬぐった。


 丹朱タンシュから紹介された空き家で一晩を過ごし、シロたちは深灰西区の外れ、ロウという名の地を訪れていた。


 旧市街のおもむきが色濃く残る町並みであった。年月を経て深くつややかな輝きをもつ木造の建物が連なり、張り出した露台の柵が優美な格子模様の影で賑わう人々を彩っている。


 あちこちに出された露店の一つで、紅葉もみじ色の唐服に身を包んだ蓮安リアンは、丹朱タンシュとともに甜茶てんちゃを楽しんでいる真っ最中だ。それを眺めながら、シロの隣で十無ツナシがのんびりと言った。


「ここは良いところだねぇ。勞はさびれた場所だって、噂では聞いていたのだけれど」

「どうにも観光地に近い位置づけのようですね」軒先のきさきに掲げられた看板と、やり取りされている品物の値段をちらと見てからシロは肩をすくめた。「ですが、楽しむのもほどほどにしないと。いつまでたっても手がかりは見つかりませんよ」

「もちろん、分かっているとも」


 返事だけは頼もしい。胸中でぼやきながら、シロは手元の地図に印をつけて蓮安たちに声をかけた。


 深灰の南端、勞と呼ばれる地区で、ヤシロに捕まった。そう丹朱が切り出したのは、昨晩の夕食後のことである。


「その時に妙な気配を感じたんですよ」

「妙な気配、ですか?」

「はい。術の気配がいつもと違うと言いますか」


 空の皿を重ねていた丹朱は、僧服のすそをはらってシロの前に正座した。冷えた水熟桃すいじゅくとうを食べ終わった蓮安が、べとつく両手を振る。その手を引いて十無が井戸へ向かうのを見送った後、丹朱は話を続けた。


「元より社さんは、あずまの国から来た術士なのだそうです。単にそのせいなのかもしれませんが……すきを見て手がかりを探しまわれど、何も見つけられぬという次第でして」

「はぁ……でも僕たちが手がかりを見つけられるとも思えませんが……」

「ご謙遜けんそんを。あなたさまがたは、かくも有名な術士でしょう」


 期待と確信をこめて丹朱は何度も頷く。その妙な押しの強さに負けて、かれこれ三刻半ほど歩き回っているのだが、シロを除き、誰一人として真面目に探している気配がない。


 どうしてこうも、貧乏くじを引くことになるのか。例の頭痛を誤魔化すようにシロが眉間みけんんだところで、唐服のすそがくいと引かれた。


「しーふー、見て見て。丹朱のおじさんに真っ赤なかんざしもらったよ。にあってるでしょ?」

「そーですね」

「むむむ、こっちを見、きゃっ!!」


 蹴ろうとしてきた蓮安の首根っこを、シロは掴んで引き上げた。猫よろしく吊り下げられた蓮安は、頬を膨らませてシロをにらむ。


「しーふーったら、なまいき。ずーっとかんがえごとばっかりで、ちっともわたしのこと見てくれないしぃ」

「なんで蓮安先生のことを見なきゃいけないんですか」

「うつくしくてかわいい、れでぃでしょ」

「自画自賛かよ」

「あーやだやだ、しーふーはちっとも、男女のきびがわかってない」


 白けた顔をするシロに向かって、蓮安はやれやれと頭を振った。


「そんなんじゃ丹朱おじさんに負けちゃうよ? この服をくれたのも、桃をくれたのもおじさんだったじゃない。それにそれに、昨日のおひるのじんせーけいけんもすごかったし。おじさんがちょっとした人助けしたらね、いろーんな人からお礼言われてたんだから」

「わー、すごいですねー。それ、昨日の夜も聞きましたけどねー」

「おやおや、しーふー」蓮安はからかうような声音で言った。「しっとはよくないぜ。おとこなら、どどんと負けをみとめなくっちゃ」

嫉妬しっとでもないですし、負けてもないですってば」


 シロはうんざりしながら手を離した。地面に飛び降りた蓮安の文句を聞き流しながら、丹朱へと話しかける。


「すみません、丹朱さん。さっきの蓮安先生のお茶代、払いますよ」

「なんのなんの、気にしないでください。あれも店の厚意で頂いたものですから」

「僧侶のお兄さんは大人気だねえ。昨日の桃も、蓮安先生の服も、他の人から譲ってもらったものなんだろう?」


 十無の言葉に、手に持った錫杖しゃくじょうを揺らした丹朱はどこか嬉しそうに禿頭とくとうを掻いた。


「ははは、皆さんお優しいですからね。いつまでも恩を忘れないでいてくださるのは、ありがたいことです。それで、どうですか。調査のほうは?」


 シロは改めて手元の地図を見やって、首を横に振った。


「社を知っている人間は見かけませんでしたね」

「そうですか。これは面目めんぼくない」丹朱は弱ったように眉を下げた。「もう少し追い回されていた時のことを思い出せれば良かったのですが……どうにも、捕らえたれた時の記憶があやふやでして。このあたりも社さんから逃げ回っていた時に通ったような、通らなかったような……」

「はっきりしませんね……」

「申し訳ない。建物が壊れるのも構わず、雨あられと術が降り注いでおったもんですから」

「ねーねー、わたし、ここにいきたい!」


 背伸びした蓮安が、地図の裏側から中央を指差す。


「うんりゅーてら……ほーがく……んんん?」

雲龍寺うんりゅうじ崩落跡ほうらくあと、ですね」


 シロが正しい読み方を教えてやれば、丹朱が眉をひそめる。


「そこですか。あまり安全な場所ではないのですが」

「ほーが……んん、ほーらく、ってことは、こわれてるの」

「えぇ、お嬢さん。そのとおりです。大規模な崩落は十数年前の話ですが、いまだに、残った建物がちらほらと崩れておりましてね。そう、それから、夜な夜な崩落に巻き込まれた亡者の幽霊が出るとか出ないとか」

「おばけ」蓮安はぱちりと目を瞬かせ、至極真面目な顔でシロを見上げた。「しーふー。おばけがでても、わたしがまもってあげますからね」

「なんで僕が守られる前提なんですか」

「だいじょーぶよ。こわくなったら、おとりにしてにげるから」

「結局逃げるのかよ」


 げんなりと肩を落とすシロへ蓮安はにんまりと笑い、目的地の方向へと駆け出した。


 シロ達も彼女を追いかけて歩を進める。丹朱は人気者のようで、道行く人からあれこれと引き合いがあった。まるで妖魔らしくない穏やかな光景を眺めながら、シロは蜂蜜はちみつ色の髪で隠したうなじのうろこを気づかれぬようにでる。


 あちこちから声なき願いの雑音が聞こえる。昨日よりましとはいえ、願いを叶えるりゅうの本質をぴりぴりと刺激するような環境は、やはり好ましくない。


「蓮安先生のそばにいたほうがいいよ」


 声をひそめて忠告する十無に、シロは首を横に振った。


「問題ありません、これくらいなら」

「おや、頑張るねぇ」

「先生に借りを作りたくないだけです。どうせ、あとから請求されるでしょう」シロは小さく息を吐き、言葉を続けた。「それより十無さん、なにか変わった気配はしますか?」

「ううん、気配は普通だけれどね」

「なにか気になることでも?」


 十無は頷き、シロから受け取った地図を広げてみせた。


にぎわっているわりに、このあたりの地形は変なんだよね」

「変、ですか」

「そう。街ってね、社寺しゃじがある場所を基本に作られるものだから、雲龍寺へ続く道は可能な限りまっすぐ、遮るものがない状態のほうが縁起がいいんだけれど。ここは細かい路地が入り組んでいて、まるで道を寸断しようとしてるみたいだ」

「……それをいえば、地形も妙ですね」地図とあたりの景色を見比べたシロは眉をひそめた。「南に山、北にさわ、ですか。本来であれば逆のはずですが」


 北に岩山、南に水沼すいしょう、東西にと呼ばれる丘陵きゅうりょう。四神相応を模した地形は運気を呼び込むと言われるが、勞はこれとは正反対の作りをしている。


 そこで、蓮安が急に立ち止まった。顔を上げたシロもぎょっとする。


 さきほどの瀟洒しょうしゃな町並みから一転、さびれた光景が広がっていた。木造の建物の多くは倒壊し、陰気な野草におおわれている。あちこちに建てられた石柱もなかばほどで粉々に砕け、辺り一面に散っていた。道行く人間はまばら、建物の奥から視線を感じて顔を向ければ、粗末な身なりをした住民が無遠慮な視線をシロ達に向けている。


 人の数は格段に減っている。であるのに、雑音めいた願いの声は先ほどよりずっと大きい。シロの漠然とした不安を感じ取ったのか、蓮安が彼の唐服の裾を掴んだ。


 先頭を歩いていた丹朱が首を傾げた。


「どうしました、皆さん。雲龍寺の本社はもう少し先ですが……」

「へんだよ、おじさん。ここ、すっごくへん」

「変?」

「来るよ!」


 十無の鋭い声を合図に、周囲の視界が暗雲色の霧に覆われ一気に悪くなる。ぎしりと軋む音をとらえると同時、シロは蓮安を抱き寄せて後退した。


 土石を巻き上げて巨大な拳が地をえぐり、シロの頬を鋭い痛みが裂いていく。少し先から丹朱の悲鳴が聞こえ、錫杖だけが地面に転がった。


「しーふー、はなして!」

「っ、術もろくに使えないんですから、じっとしててください!」


 暴れる蓮安を腕に抱えたまま、シロは追撃の拳をかわして錫杖を拾い上げる。雲龍寺の本社に続く道は、のっぺらぼうの黒い巨人で塞がれていた。はっきりと見えるのは三体だが、その奥にもいくつか影がうごめいている。


 恐怖に怯えた住民の悲鳴とともに、あちこちで逃げ回る人々の姿が見える。シロが十無と合流すれば、藤色の髪の少年は常にない険しい顔で「妙だ」とつぶやいた。


「こうもいきなり状況が変わるなんて」

「蓮安先生の家に来た妖魔ですよね?」

「形は似てるよ。でも、目がない」

「そんな些細ささいなこと、気にしてる場合ですか」

「些細。そう、そうだね。でも……」十無は目を伏せた。「そもそも、こんなふうに妖魔が徒党ととうを組むなんて話、聞いたことがない。術らしき気配も感じない。なら蓮安先生の匣庭はこにわが弱まってるせい……ううん、違う、この感じは……」


 こんな状況であるのに、十無はなにごとか考え込むように目を細める。シロは手荒く蓮安を十無へ押しつけ、前方に飛び出した。


 錫杖を横薙よこなぎに振るって巨影を牽制けんせいし、さらに返す手で真正面の巨大などうを狙う。巨影は体をよじり、錫杖の先端はかするにとどまった。それでも鈍い手応えがあり、シロは確信をもつ。妖魔といえど肉体があるのだ。ならば術などなくとも仕留めることができる。


 振り回された巨腕を錫杖で跳ね上げ、踏み込むと同時に顔面めがけて切っ先を押し込んだ。場にそぐわぬ澄んだ錫杖の金属音が空気を鳴らす。肉を断つ手応てごたえがあり、真っ黒な血が噴き出した。


 頬に降りかかる生臭い液体にシロは眉をひそめ、なれど勝利を確信して錫杖を引き戻そうとする。黒影は往生際悪く錫杖を掴んだ。黒い霧がまたたく間にを伝ってシロの指先に触れる。


 ――死にたくない。われたくない。あぁ、娘の誕生日に祝いの品を、


「っ……!?」


 虚ろな声が届き、シロのうなじの龍鱗りゅうりんが逆立つ。これは紛れもなく願いの声だ。人々の。自分が叶えるべき。あるいは守るべき。


 シロはぞっとした。目の前の巨影は、決して妖魔などではない。


「匣庭……!」十無のはっとしたような声が響いた。「そうだ、この気配……! これはすべて匣庭の主だよ!」

「しーふー! たおして!」


 蓮安の切羽詰まった声が響くなか、シロは横あいから振るわれた巨人の腕に思い切り頭を殴られた。蓮安たちの近くまで吹っ飛ばされ、地面へしたたかに体を打ちつける。


 だらりと、ひたいを生ぬるい何かが伝った。ひどい吐き気がして、シロは口元をおおう。無遠慮な願いの声が、ここにきていっそう濃くなった。死にたくない、喰われたくない、助けてほしい。生々しく混沌としたざわめきは呪詛じゅそそのもので、おぞましい。


「しーふー、」

「じっとしててください……っ!」


 駆け寄ってくる蓮安の腕をつかみ、シロはなんとか手近な廃屋へと身を隠す。住人とおぼしき老夫婦が身を縮こまらせるなか、シロは血で濡れた髪を苛々とかきあげた。


 十無はどこにいったのか。どうして蓮安はじっとしていてくれないのか。そもそも、どうすればこの場を切り抜けられるのか。まとまらない思考で考えたところで、家屋全体が大きく揺れる。


 天井が崩れ、開けた視界から例の巨人が顔をのぞかせた。住民が悲鳴を上げる。頭痛に顔を歪めながらシロは錫杖を構える。


 その脇をすり抜けて、頼りない軌道を描いた竹筒が地に立った。


『きょくやにうつ、ししょくをそめる! やく……やさ……わるいやつをたおせ、おゆみのもん!』


 蓮安の焦った声と同時に、いびつな紋から無数の矢が飛び出した。矢の嵐は黒影を退け、そして蓮安以外のすべてを襲う。


 幾本かがシロの腕を掠めた。次いで、老婆の悲痛な叫び声が響く。振り返った蓮安の顔から見る間に血の気が失せた。矢の一本が老爺ろうやの胸元に突き立っている。


「あ……わた……わたし……」

「だから、じっとしてろと言ったでしょう……!」


 シロが思わず怒声を上げれば、蓮安がびくりと体をこわばらせる。おびえきった彼女の顔にシロは舌打ちし、痛みをおして不運な老夫婦に近づいた。


 術が解けて矢が消える。それでも口元から血をこぼした男はぐったりとしていて、胸の動きもひどく弱々しい。老婆が必死に体を揺すって名前を呼ぶが、一向に返事はなかった。


 当然のことだ、男の体は死に近づいている。

 そしてだからこそ、生を望む声なき願いがシロの鼓膜を大きく揺らす。


 シロは奥歯を噛み、血で濡れた手で龍鱗を撫でた。地面に膝をついて死にかけの男の胸元へ指先を添える。


 水面に一滴のしずくが落ちたように、鱗がかすかな冷たさをもって揺らぐ。頭痛がわずかに遠ざかった。最初から大人しく願いを叶えていれば、痛みなど感じることもなかったのだ。ひどく冷めた龍としての本質がそうささやいた気がして、けれどシロはこれを無視して呟く。


『かの者の願いを叶えよ』


 するりと指先から何かがこぼれて落ちる感覚とともに、シロと男の周囲を翡翠ひすい色の燐光が包む。光は傷口に触れるそばからほどけて消え、老爺の傷が癒えるのにさしたる時間はかからない。


 シロが手を離すと同時、老婆は歓声を上げて男を抱きしめる。けれどシロが知覚できたのはそこまでだった。

 ぐらりと体が傾ぐ。地面に体を打ちつける痛みも、外からひっきりなしに届く悲鳴と願いの声もどこか遠い。


 けれど意識を失う寸前の、ひどく泣きそうな顔をした蓮安の眼差しだけは鮮烈だった。

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