第三話 ありきたりな話さ
狭い店内にただよう香辛料の香り、
その人混みにあって、シロは頭痛をごまかすように眉間を
「……どうして
「ややや、ご迷惑をおかけして申し訳ない」
向かいに当然のように座った丹朱は、野菜のおひたしをついばんでいた
眼前の食事に一切手をつけぬまま、十無が「まぁまぁ」とのほほんとたしなめる。
「食事は賑やかなほうが楽しいと書物にもあるし、お兄さんもそう目くじらをたてないであげてよ」
「しーふー。わたし肉まんもたべたい」
「いや、危機感」
「ははは。皆さんお優しくて、助かるなあ」
照れたように
もうなんというか、このまま放っておいて良いんじゃないか。いやだがしかし、さすがにこのままというのも……などと
「ねーえ、しーふーってば!」
唇の端に水餃子の汁をつけた蓮安が、しびれを切らしたように声を大きくした。シロはため息まじりに小さな手を引き
「はいはい、蓮安先生。我慢してくださいね。というか、注文したもの、ほとんど全部食べたでしょう」
「むむむ」
「それよりも重要なのは、今の状況ですよ。丹朱さんに話を、
卓の下で、シロは思い切りすねを蹴られた。痛みに呻きながら蓮安を
「わたしったら、とってもかわいそう! こんなにもかわいくて、こんなにもいたいけないのに、おいしいごはんもまんぞくに食べられないなんて! あーあー! このままじゃ、ひもじくてひもじくて、がししちゃ、もご」
「あぁもう分かりました、分かりましたってば! お姉さん、肉まん一つ! 食べやすいように小さめに作ってください!」
蓮安の口を無理矢理に塞いだシロは、不審の眼差しを向ける店員へ早口に注文を伝えた。ぱっと蓮安の目が輝くのを腹立たしく思いながら、シロはやや乱暴に彼女を解放してガタついた丸椅子に座り直す。
十無がにこにこと笑った。
「四十五戦四十四敗一引き分け」
「えぇそうですね、ご報告どうも」乱暴に返したシロは茶を飲みながら、じろりと丹朱を見やった。「丹朱さん、あなたも
「あぁはい、いやこれは失礼失礼」
丹朱は再びひょいと頭を下げ、居住まいを正した。
「改めまして、先程は無理に家の外へ追い出すなどという暴挙に出てしまい、大変申し訳ありません。ですが、これもさる事情があってのこと。そして願わくば、あなた様がたのお力をお借りしたく、こうして訪ねて参ったのです」
「すでに嫌な予感しかしませんね……」
「その事情というのはずばり」丹朱はシロの苦言を無視して、ぴんと指を立てた。「
「社を止める? あなたは社の仲間じゃないんですか?」
シロの言葉に、「まぁ、そう見えましょうな……」と申し訳無さそうに丹朱が頬を
「
「妖魔って……」
思っても見なかった告白に、シロは茶杯を取り落しそうになった。真っ先に脳裏をよぎったのは、自身の匣庭で見かけた牛の
「ようまにも、いろいろあるものね」
運ばれてきた肉まんへ、ふうふうと息を吹きかけていた蓮安がしたり顔で言った。そのまま白い皮へ美味しそうにかぶりつく彼女のかたわらで、十無ものんびりと頷く。
「姿形は違えど、妖魔も人と同じように色々な性格があるそうだしねぇ。種族の中でも違いがあるっていうのは、お兄さんも納得のいくところじゃないかい」
「それはまぁ、そうですが……」シロは渋々頷いて思考を巡らせた。「ええとじゃあつまり、丹朱さんも喜んで社に協力しているわけではない、ということですか? 彼に命じられて仕方なく?」
「あぁはい、そうです! そう! まさにそのとおりで! あの人ときたら、べんちゃーとやらをたてるために人を集めてこいだの、金を明日までに用意しろだのと、昼夜問わず無理難題ばかりでして……いい加減に解放されたいのですが、彼を倒さねば私にかけられた術も解けず、ほとほと困り果てておるのです」
弱りきった声で肩を落とす丹朱に、シロは少なからず気の毒になった。なんというか、どこかで聞いたような話であるというか。まさに我が身のことであるというか。
肉まんを食べ終わった蓮安が、口をもぐもぐと動かしながら首を傾ける。
「んー。でも、おじさんをたすけて、わたしになにか良いことはあるの?」
「それはもちろん。社さんから家を取り返すことができますとも」
ゆっくりと頷いた丹朱はしかし、そこで少しばかり眉をひそめて蓮安をたしなめる。
「ですが、お嬢さん。なんでも見返りを求めてはいけませんよ。誰かの願いを叶えるというのならば、それは自分のためではなくて他者のためでなくてはね」
「むむむ……? でもわたしのじんせいは、わたしのためにつかわなきゃ、でしょ?」
きゅっと眉根を寄せた蓮安の抗議を、丹朱は子供らしい横暴さと受け取ったらしい。からりと笑って腰を浮かせる。
「ならば、少しばかり人生経験を積みましょうか」
「じんせーけいけん」
「そうですとも。お兄さんがた、少しばかりお嬢さんをお借りしますね」
ほがらかに言った丹朱は、蓮安を誘って席を立つ。花凛堂の外へ出ていく背中を手を振って見送りながら、十無が感心したように言った。
「手慣れてるね。やっぱり、僧侶っていう職業だからなのかな。子供の相手が上手だ」
「馬鹿なこと言わないでくださいよ、十無さん。僧侶なのは見た目だけで、妖魔なんでしょう。あの人は」
「ふふ、これは失礼」いつもの調子で謝った十無は、ちらとシロを見やった。「でも、龍のお兄さんも丹朱さんのことは悪人だとは感じていない、でしょう?」
穏やかな眼差しに、シロは目をそらした。痛む頭をゆるく振って、「人は見た目によらないですからね」と返す。
「それに、今のところは丹朱さんが唯一の手がかりになりそうですし」
「社さんのことだね。龍のお兄さんは、蓮安先生が子供になってしまった原因も、彼にあると思うかい?」
「出来すぎではありますが、まぁ、疑わざるをえない状況ではありますよね」
シロはしばらく考えてから言った。
「ベンチャーって、要は作りたての店のことでしょう? 理由は分かりませんが、社は店を欲していて、不幸にも蓮安先生の家に白羽の矢が立った、というところでしょうか。でも、そのままじゃあ蓮安先生の抵抗を受けるから、子供になるような術をかけた、とか。かなり乱暴で、お粗末な筋書きですけど。ところで十無さん、社が言っていた
「あぁ、それは先代が営んでいた店の名前だよ。でも……そうだな、うん。墨水堂のことを知ってるのは妙ではあるね。あそこがお店として開いてたのは、蓮安先生がこっちに家を
「……家を造るって、それはもしかして
シロの問いかけに、十無は一つ頷いた。私がまだいなかった頃の話だけれど、と前置きして言葉を続ける。
「蓮安先生の家――というか墨水堂は、元々は先代が東区に立ち上げた
「深灰の大火って、たしか百年前のですよね? 深灰の東半分がまるごと焼け野原になったっていう」
「そう。その後に建物を再建しなおしたから、東区だけ電気と水道が通っているわけだね」
頭痛をごまかすようにこめかみをもんでいたシロは、意外な気持ちになった。まさか、彼女の匣庭がそんなにも長く続いていたとは。やたらと匣庭の事情について詳しいのも、そのせいなのか。
十無は目を細めて続ける。
「蓮安先生は先代のことをたいそう尊敬していたんだよ。
「……健やかというわりに周囲の被害が尋常じゃないと思うんですけど……」
「ふふ。今と比べれば、ねぇ」
シロが顔をひきつらせる中、十無は穏やかに笑う。
「あとはありきたりな話さ。先代は大火で行方不明になって、墨水堂も焼けて、蓮安先生もその時の火事が原因で匣庭の主になって……だったかな。でもほら、何をするにも拠点が必要でしょう? だから蓮安先生は、匣庭の力を使って、家を西区にそのまま造って……そうそう、門のところにかけられた看板もその時の名残でね……龍のお兄さん?」
ずきりと頭がひときわ強く痛み、シロは思わず顔を
もっとよい給料の仕事につきたい。表通りの茶屋の娘に振り返ってほしい。李家の兄ちゃんが持っていたおもちゃが欲しい。子供のことなど放っておいて、東区の
誰かの願いを叶えることで、自分は。
ひときわ暗く、ぞっとするほど冷たい願いにうなじの
「しーふー? だいじょうぶ?」
はっと目を瞬かせれば、蓮安が不思議そうな顔をして自分を見上げている。邪気のない瞳に少しばかり頭痛が遠ざかり、シロは脂汗のにじむ額をぬぐって身を起こした。
「す、みません。僕……」
「お疲れなのでしょう」蓮安のすぐ後ろに控えていた丹朱が案じるような顔つきで言った。「いえ、無理もないことです。半日しか経っていないとはいえ、今日は実に色々なことがあったでしょうから。よろしければ、今日は休まれては? 仮の宿ならば、某に心当たりがありますから」
「あぁ、それはいいね。せっかくだからご
十無がすかさず頷いた。彼はちらりとシロに
「蓮安先生。申し訳ないのだけれど、丹朱さんと一緒にお代を払いに行ってくれるかい? 私はお兄さんと一緒に忘れ物がないか見て回るからね」
「む。じゃあ、わたしがしーふーといっしょにかくにんする」
「ううん、これは蓮安先生にしか頼めないことなんだ。なんといっても、あなたが一番しっかりものだもの。だから、ね?」
十無は蓮安の手に小銭の入った袋をのせ、小首を傾けて彼女を見やった。蓮安は目を瞬かせたあと、ふんすと鼻から勢いよく息を吐いて小袋を握りしめる。
「おうとも、まかされた! ほら、おじさんもいくよ!」
「あっ、ちょっとお嬢さん! そっちは会計所じゃないですよ!」
やる気満々といった様子で駆け出した蓮安を丹朱が追いかけていく。ひどく申し訳ない気持ちになったシロが再び頭を下げれば、十無がゆるりと首を振った。
「気にしないでおくれよ。蓮安先生にとってもいい休憩になるだろうし。それよりお兄さん、不調の原因は分かるかい?」
「……人混みのせい、だと思います」シロは少しばかり迷ってから、小声でさらに付け足した。「周りの願いが濃いというか。今までは、こんなことなかったんですが」
「なるほど。人酔いならぬ、願い酔いみたいな感じなのかな」
「はは。それはなかなか言い得て妙ですね」
シロがぎこちなく笑って肩をすくめれば、十無はしばし考え込む素振りをしてからゆっくりと言った。
「もしかすると、龍のお兄さんは蓮安先生からあまり離れないほうがいいかもしれないね」
「蓮安先生から、ですか?」
首を傾けるシロへ十無は頷き、「これは推測だけれど」と言った。
「蓮安先生は匣庭の力をつかって、龍のお兄さんを不要な願いから遠ざけていたんじゃないかな」
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