第三話 ありきたりな話さ

 深灰シンハイ一の大衆食堂との呼び声高い花凛かりん堂は、昼どきを迎えて大変な賑わいだった。


 狭い店内にただよう香辛料の香り、厨房ちゅうぼうからひっきりなしに響く鉄鍋で油を焦がす音、ごったがえする客の注文をさばいてまわる溌剌はつらつとした看板娘の声に、人目をはばからず交わされる客たちの世間話。


 その人混みにあって、シロは頭痛をごまかすように眉間をむ。水餃子すいぎょうざ焼売しゅうまい、焼き魚の甘酢がけ――それらがのっていて、今ではもうすっかり空になってしまった皿が並ぶ卓を囲むのは、蓮安リアン十無ツナシである。それはまだいいのだが。


「……どうして丹朱タンシュさんがここにいるんですか」

「ややや、ご迷惑をおかけして申し訳ない」


 向かいに当然のように座った丹朱は、野菜のおひたしをついばんでいたはしを止め、ぱんと両手を打って頭を下げた。


 眼前の食事に一切手をつけぬまま、十無が「まぁまぁ」とのほほんとたしなめる。


「食事は賑やかなほうが楽しいと書物にもあるし、お兄さんもそう目くじらをたてないであげてよ」

「しーふー。わたし肉まんもたべたい」

「いや、危機感」

「ははは。皆さんお優しくて、助かるなあ」


 照れたように禿頭とくとうをかく丹朱に、シロはがっくりと肩を落とした。優しいんじゃなくて、能天気なだけだ。というか、なぜ自分ばかりが気を揉まなくてはいけないのか。


 もうなんというか、このまま放っておいて良いんじゃないか。いやだがしかし、さすがにこのままというのも……などと悶々もんもんと悩む間に、シロのそでがくいと引かれる。


「ねーえ、しーふーってば!」


 唇の端に水餃子の汁をつけた蓮安が、しびれを切らしたように声を大きくした。シロはため息まじりに小さな手を引きがす。


「はいはい、蓮安先生。我慢してくださいね。というか、注文したもの、ほとんど全部食べたでしょう」

「むむむ」

「それよりも重要なのは、今の状況ですよ。丹朱さんに話を、った!?」


 卓の下で、シロは思い切りすねを蹴られた。痛みに呻きながら蓮安をにらめば、彼女はなぜか手で顔を覆い、これみよがしに大きな声で湿っぽく言う。


「わたしったら、とってもかわいそう! こんなにもかわいくて、こんなにものに、おいしいごはんもまんぞくに食べられないなんて! あーあー! このままじゃ、ひもじくてひもじくて、がししちゃ、もご」

「あぁもう分かりました、分かりましたってば! お姉さん、肉まん一つ! 食べやすいように小さめに作ってください!」


 蓮安の口を無理矢理に塞いだシロは、不審の眼差しを向ける店員へ早口に注文を伝えた。ぱっと蓮安の目が輝くのを腹立たしく思いながら、シロはやや乱暴に彼女を解放してガタついた丸椅子に座り直す。


 十無がにこにこと笑った。


「四十五戦四十四敗一引き分け」

「えぇそうですね、ご報告どうも」乱暴に返したシロは茶を飲みながら、じろりと丹朱を見やった。「丹朱さん、あなたも呑気のんきに笑ってないで、きちんと状況を説明してくださいよ」

「あぁはい、いやこれは失礼失礼」


 丹朱は再びひょいと頭を下げ、居住まいを正した。


「改めまして、先程は無理に家の外へ追い出すなどという暴挙に出てしまい、大変申し訳ありません。ですが、これもさる事情があってのこと。そして願わくば、あなた様がたのお力をお借りしたく、こうして訪ねて参ったのです」

「すでに嫌な予感しかしませんね……」

「その事情というのはずばり」丹朱はシロの苦言を無視して、ぴんと指を立てた。「ヤシロさんを止めてほしい、というものなのです」

「社を止める? あなたは社の仲間じゃないんですか?」


 シロの言葉に、「まぁ、そう見えましょうな……」と申し訳無さそうに丹朱が頬をいた。なぜか辺りをきょろきょろと見回したあと、少しばかり身をかがめて声を落とす。


それがし、このような見た目をしておりますが実は妖魔ようまたぐいでして。人を害するでもなく自由気ままに生きていたのですが、数ヶ月前に社さんに捕まって以来こき使われていると、こういう次第なのです」

「妖魔って……」


 思っても見なかった告白に、シロは茶杯を取り落しそうになった。真っ先に脳裏をよぎったのは、自身の匣庭で見かけた牛の怪異かいいだ。だが、あれと目の前で気弱な笑みを浮かべる丹朱とはまるで雰囲気が違いすぎる。


「ようまにも、いろいろあるものね」


 運ばれてきた肉まんへ、ふうふうと息を吹きかけていた蓮安がしたり顔で言った。そのまま白い皮へ美味しそうにかぶりつく彼女のかたわらで、十無ものんびりと頷く。


「姿形は違えど、妖魔も人と同じように色々な性格があるそうだしねぇ。種族の中でも違いがあるっていうのは、お兄さんも納得のいくところじゃないかい」

「それはまぁ、そうですが……」シロは渋々頷いて思考を巡らせた。「ええとじゃあつまり、丹朱さんも喜んで社に協力しているわけではない、ということですか? 彼に命じられて仕方なく?」

「あぁはい、そうです! そう! まさにそのとおりで! あの人ときたら、べんちゃーとやらをたてるために人を集めてこいだの、金を明日までに用意しろだのと、昼夜問わず無理難題ばかりでして……いい加減に解放されたいのですが、彼を倒さねば私にかけられた術も解けず、ほとほと困り果てておるのです」


 弱りきった声で肩を落とす丹朱に、シロは少なからず気の毒になった。なんというか、どこかで聞いたような話であるというか。まさに我が身のことであるというか。


 肉まんを食べ終わった蓮安が、口をもぐもぐと動かしながら首を傾ける。


「んー。でも、おじさんをたすけて、わたしになにか良いことはあるの?」

「それはもちろん。社さんから家を取り返すことができますとも」


 ゆっくりと頷いた丹朱はしかし、そこで少しばかり眉をひそめて蓮安をたしなめる。


「ですが、お嬢さん。なんでも見返りを求めてはいけませんよ。誰かの願いを叶えるというのならば、それは自分のためではなくて他者のためでなくてはね」

「むむむ……? でもわたしのじんせいは、わたしのためにつかわなきゃ、でしょ?」


 きゅっと眉根を寄せた蓮安の抗議を、丹朱は子供らしい横暴さと受け取ったらしい。からりと笑って腰を浮かせる。


「ならば、少しばかり人生経験を積みましょうか」

「じんせーけいけん」

「そうですとも。お兄さんがた、少しばかりお嬢さんをお借りしますね」


 ほがらかに言った丹朱は、蓮安を誘って席を立つ。花凛堂の外へ出ていく背中を手を振って見送りながら、十無が感心したように言った。


「手慣れてるね。やっぱり、僧侶っていう職業だからなのかな。子供の相手が上手だ」

「馬鹿なこと言わないでくださいよ、十無さん。僧侶なのは見た目だけで、妖魔なんでしょう。あの人は」

「ふふ、これは失礼」いつもの調子で謝った十無は、ちらとシロを見やった。「でも、龍のお兄さんも丹朱さんのことは悪人だとは感じていない、でしょう?」


 穏やかな眼差しに、シロは目をそらした。痛む頭をゆるく振って、「人は見た目によらないですからね」と返す。


「それに、今のところは丹朱さんが唯一の手がかりになりそうですし」

「社さんのことだね。龍のお兄さんは、蓮安先生が子供になってしまった原因も、彼にあると思うかい?」

「出来すぎではありますが、まぁ、疑わざるをえない状況ではありますよね」


 シロはしばらく考えてから言った。


「ベンチャーって、要は作りたての店のことでしょう? 理由は分かりませんが、社は店を欲していて、不幸にも蓮安先生の家に白羽の矢が立った、というところでしょうか。でも、そのままじゃあ蓮安先生の抵抗を受けるから、子供になるような術をかけた、とか。かなり乱暴で、お粗末な筋書きですけど。ところで十無さん、社が言っていた墨水堂ぼくすいどうというのは?」

「あぁ、それは先代が営んでいた店の名前だよ。でも……そうだな、うん。墨水堂のことを知ってるのは妙ではあるね。あそこがお店として開いてたのは、蓮安先生がこっちに家をつくる前の話だから」

「……家を造るって、それはもしかして匣庭はこにわの一部として、ということですか」


 シロの問いかけに、十無は一つ頷いた。私がまだいなかった頃の話だけれど、と前置きして言葉を続ける。


「蓮安先生の家――というか墨水堂は、元々は先代が東区に立ち上げたまじないの店だったのさ。深灰の大火ですっかり焼け落ちてしまったのだけれどね」

「深灰の大火って、たしか百年前のですよね? 深灰の東半分がまるごと焼け野原になったっていう」

「そう。その後に建物を再建しなおしたから、東区だけ電気と水道が通っているわけだね」


 頭痛をごまかすようにこめかみをもんでいたシロは、意外な気持ちになった。まさか、彼女の匣庭がそんなにも長く続いていたとは。やたらと匣庭の事情について詳しいのも、そのせいなのか。


 十無は目を細めて続ける。


「蓮安先生は先代のことをたいそう尊敬していたんだよ。呪墨じゅぼくを考えたのも先代だったし、なにより彼は蓮安先生を拾ってくれたからね。そんな先代の下で、カエルとかヘビを男の子の背中にいれてみたり、一日中姿をくらましてたと思ったら、荷馬車が落ちるほどの穴を掘ってて、荷車の主人にひどく怒られたりと、蓮安先生はそれはそれは健やかに育ったというわけ」

「……健やかというわりに周囲の被害が尋常じゃないと思うんですけど……」

「ふふ。今と比べれば、ねぇ」


 シロが顔をひきつらせる中、十無は穏やかに笑う。


「あとはありきたりな話さ。先代は大火で行方不明になって、墨水堂も焼けて、蓮安先生もその時の火事が原因で匣庭の主になって……だったかな。でもほら、何をするにも拠点が必要でしょう? だから蓮安先生は、匣庭の力を使って、家を西区にそのまま造って……そうそう、門のところにかけられた看板もその時の名残でね……龍のお兄さん?」


 ずきりと頭がひときわ強く痛み、シロは思わず顔をうつむけた。案じるような十無の声が遠ざかり、代わりに周囲の雑音がぐっと大きくなる。


 もっとよい給料の仕事につきたい。表通りの茶屋の娘に振り返ってほしい。李家の兄ちゃんが持っていたおもちゃが欲しい。子供のことなど放っておいて、東区の酒桃庵しゅとうあんに酒を飲みにいきたい。そして、それから。


 誰かの願いを叶えることで、自分は。


 ひときわ暗く、ぞっとするほど冷たい願いにうなじのうろこが逆だって、シロは息を飲む。そこで、彼の唐服がぐいと強く引っ張られた。


「しーふー? だいじょうぶ?」


 はっと目を瞬かせれば、蓮安が不思議そうな顔をして自分を見上げている。邪気のない瞳に少しばかり頭痛が遠ざかり、シロは脂汗のにじむ額をぬぐって身を起こした。


「す、みません。僕……」

「お疲れなのでしょう」蓮安のすぐ後ろに控えていた丹朱が案じるような顔つきで言った。「いえ、無理もないことです。半日しか経っていないとはいえ、今日は実に色々なことがあったでしょうから。よろしければ、今日は休まれては? 仮の宿ならば、某に心当たりがありますから」

「あぁ、それはいいね。せっかくだからご厚意こういに甘えようかな」


 十無がすかさず頷いた。彼はちらりとシロに目配めくばせした後、常の穏やかな笑みを浮かべて腰を折る。


「蓮安先生。申し訳ないのだけれど、丹朱さんと一緒にお代を払いに行ってくれるかい? 私はお兄さんと一緒に忘れ物がないか見て回るからね」

「む。じゃあ、わたしがしーふーといっしょにかくにんする」

「ううん、これは蓮安先生にしか頼めないことなんだ。なんといっても、あなたが一番しっかりものだもの。だから、ね?」


 十無は蓮安の手に小銭の入った袋をのせ、小首を傾けて彼女を見やった。蓮安は目を瞬かせたあと、ふんすと鼻から勢いよく息を吐いて小袋を握りしめる。


「おうとも、まかされた! ほら、おじさんもいくよ!」

「あっ、ちょっとお嬢さん! そっちは会計所じゃないですよ!」


 やる気満々といった様子で駆け出した蓮安を丹朱が追いかけていく。ひどく申し訳ない気持ちになったシロが再び頭を下げれば、十無がゆるりと首を振った。


「気にしないでおくれよ。蓮安先生にとってもいい休憩になるだろうし。それよりお兄さん、不調の原因は分かるかい?」

「……人混みのせい、だと思います」シロは少しばかり迷ってから、小声でさらに付け足した。「周りの願いが濃いというか。今までは、こんなことなかったんですが」

「なるほど。人酔いならぬ、願い酔いみたいな感じなのかな」

「はは。それはなかなか言い得て妙ですね」


 シロがぎこちなく笑って肩をすくめれば、十無はしばし考え込む素振りをしてからゆっくりと言った。


「もしかすると、龍のお兄さんは蓮安先生からあまり離れないほうがいいかもしれないね」

「蓮安先生から、ですか?」


 首を傾けるシロへ十無は頷き、「これは推測だけれど」と言った。


「蓮安先生は匣庭の力をつかって、龍のお兄さんを不要な願いから遠ざけていたんじゃないかな」

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