第五話 すてきな虹が、かかりますように
泥沼から引きずりあげられるような目覚めだった。
痛みに呻きながらシロは身を起こす。西日に染まる板間は、昨晩すごした空き家だった。けれど一体なぜ、ここにいるのか。
はっきりしない頭で周囲を見渡したシロは、すぐ後ろにちょこんと正座する幼子を見つけてぎょっとする。
「
「……
蓮安のぶっきらぼうな声に、丹朱が入り口から顔をのぞかせる。
「あぁ良かった。目を覚まされましたか」
「丹朱さん、ご無事だったんですか」
「えぇ、
穏やかに言った丹朱は、土埃まみれの僧服の袖をはらって座り、事の次第を話した。
現れたときと同じように、黒い大男たちは突然姿を消したらしい。丹朱はあわやというところを十無に助けられ、そののちに廃屋の中で気を失っているシロを見つけたのだという。
「ひとまずは手当をと思い、ここまで運んで参ったのです」
「すみません、ご迷惑を」
「なんの。転移の力を使いましたゆえ、お気に召されるな。ですが」
丹朱は言葉を切り、まじまじとシロを見やった。
「近くにいらっしゃった
シロは苦笑いした。
「……そう、大した事情ではありません。ご年配の男の人がいたでしょう? その傷を治しただけのことですから」
「傷を治す、ですか」
「願われるなら、これを叶えることはできます。龍とは、そういうモノですので」
丹朱が目を丸くした。予想通りとはいえ、驚きとも崇拝ともとれる眼差しは心地よいものではなく、シロは身動ぎして目をそらす。
蓮安の静かな声がしたのは、そんな時だった。
「しーふーはあのとき、おじいさんを助けるべきじゃなかった」
空気が凍りついた。シロは信じられない思いで幼子を見やる。
「なんですって……?」
「あなたは、おじいさんを助けるべきではなかったと言った」
蓮安は
「おじいさんのけがは、わたしのせいでしょ。だったら、わたしがなんとかすべきだった」
「馬鹿言わないでください。僕が治さなければ、あの人は死んでいたでしょう。それとも、なにか案はあったんですか」
「ない。だからそう。しーふーのいうとおり、あのおじいさんは死んでいたんだ、本当は」蓮安はほんの少し瞳を揺らがせた。「そしてわたしは、その死をせおっていくべきだった。それがわたしの願いのせきにんだから。わたしがみんなにみとめられたいと願って、でも失敗したから」
「そんな……」
「そんな横暴、許されるはずがないでしょう。お嬢さん」
ぴしゃりと叱りつけたのは丹朱だった。彼は険しい顔で蓮安を見つめる。
「願いは、誰かのためであるべきです。誰かを想って行動する願いしか価値を産まない。だのに、お嬢さんの論はひどく自己中心的だ。それで傷つくのがあなただけならばまだいい。でも、違うでしょう? あなたの暴論のせいで、巻き込まれて傷ついている人がいるんですよ?」
「わかってる」
「なら、先の発言をきちんと謝りなさい」
「いや」
「お嬢さん」
蓮安はおもむろに立ち上がった。ぐっと唇を噛んだまま、家の外へ飛び出していく。
慌てて追いかけようとするシロを、丹朱は深々と息を吐いて制した。
「ほうっておきましょう、シロさん。なに、この辺りは人通りも多いですし、危険もありますまい。腹が減れば戻るはずです」
「そ、うですね……」シロはため息をつき、丹朱へ向き直った。「すみません。折角助けていただいたのに、蓮安先生がご迷惑を」
「彼女も
呆れたようにつぶやいた後、丹朱は気をとりなおすように首を横に振った。
ひとまず某は、十無さんを迎えに行ってきましょう。そう言って立ち上がった丹朱をシロは感謝と共に見送って、再び薄い布団の上へ身を投げ出す。
あまりにも強情な蓮安の言葉がいまだに信じられない。あの人を助けなくてよかった、なんて。
やっぱり自分と彼女の考え方はちっともあわないのだ。今更になってこみあげてくる腹立たしさに首を振って、シロは蓮安のことを頭から追い出す。
疲労と痛みに悪態をつきながら仰向けになって、シロは息をついた。考えるべきことは山とある。さしあたってはそう、自分たちを襲った黒い巨人だ。
十無はあれを
何かがつかめるようで、つかめない。もどかしさにシロは目を閉じた。こんな時、蓮安ならば呆気なく真実を導いてみせるのだろうか。
夜を閉じ込めた
「蓮安先生の、匣庭の主としての力は弱まっていると思うんだ」
やけにはっきりと思い出したのは、
「とうに死んでいるから、年齢は関係ないんだよ。見た目ですら、望むままにできるからね。でも今、蓮安先生は自分の望む姿かたちすら保つことができなくて、やむなく子どもの姿になっている」
十無は目を細めた。
「もしかすると、一番もどかしい気持ちになっているのは先生なんじゃないかな」
いつの間にやら、日は完全に落ちきっていた。格子窓から漏れる外の灯りを頼りに見回せど、人の姿はどこにもない。
蓮安はまだ帰ってきていないらしい。強情さに呆れる反面、さすがにシロは心配になり立ち上がる。
太鼓の音が九の刻を告げて消える中、シロは家を出た。細く入り組んだ路地を抜けて大通りへ向かえば、ぐっと人の数が多くなる。
仕事を終えた男たちをねぎらうように、あちこちで店が開かれている。店先に吊るされた
人影がちろちろと踊る石畳を踏む。五龍の加護を願って建てられた木造の小さな
道行く人々の表情は明るく、願いの声がシロの頭を
いつの間にやら早足になって蓮安を探す。そうして半刻の後、彼はとうとう蓮安の姿を見つけた。
表情こそ疲れ切っているが、瞳に宿る強情な色は変わらない。シロは
「探しましたよ、蓮安先生」
「さがしてなんて、いってない」
「はいはい、そうですか。ほら、早く帰りますよ」
「かえらない」
「蓮安先生、駄々をこねないで」
「だって、ここが家でしょ」
シロは返答に詰まった。蓮安は汚れた
「おうちだけじゃない。このふくも、いらない。このかんざしだっていらない。こんなに小さい手だって、いらないの。なにもまもれない手なんて」一息に言って、彼女は小さく息を吐いた。「しーふー、わたし、ゆめをみたの」
「……夢、ですか」
「そうだよ。生きたいっていう声がいっぱい聞こえて、まっくろな何かがわたしの中に入ってくるの。でも、やっぱりわたしはなにも守れないの。それがね、こわいの」
とつとつと言って、蓮安は口を閉ざした。シロへとまっすぐに向けられた瞳は張り詰めたまま、涙を流すこともない。
じゃあ、泣かないからといって、彼女が普段どおりであると言えるだろうか。
ふと浮かんだ疑問に、シロは蓮安から目をそらした。彼女を腹立たしく思う気持ちは、依然としてある。けれど。
シロは風雨にさらされた
ゆっくりとまばたきをし、シロは蓮安にむかって膝を折った。
「……分かりました。なら、少しだけ帰りましょうか」
「かえらないって言った」
「そうです、あの家には帰りません。今の、この時間だけは」
人の気配がないことを確かめて、裏口へと向かう。社は不在のようだった。こんな夜だから、飲みに出かけているのかもしれない。
夜闇に沈む縁側へ蓮安を下ろせば、彼女は戸惑ったようにシロを見上げる。それに気づかぬふりをして、彼は中庭の地面に手をつけた。目を伏せ、地下を走る水の気配をとらえて口を動かす。
『
水の気配が濃くなり、首裏の
「ちょっとした人払いの術です」
「……いいの」
「ずっとはいられませんよ。少しだけです。さっきも言ったようにね」
シロは蓮安の隣へ腰をおろした。
蓮安が指先でそうっと淡い光に触れるたび、風に吹き散らされた桜花のように、光はふわりと辺りに散る。彼女はしばし物珍しげに遊んでいた。けれどふと、表情を暗くして手を握る。
「……やっぱりおねがいごとは、だれかのためじゃないと、だめなのかな」
シロは小さなつむじを見下ろした。ぶらぶらと揺らしていた蓮安の足先から
わたしはね、と蓮安は言った。
「いっぱい修行をして、しーふーみたいに立派なじゅつしになって、みんなにわたしのことをずっと覚えていてほしいの。でもね、丹朱おじさんが言ったでしょう。願いはだれかのためじゃないと、って」
「…………」
「しーふー。わたし、ちゃんとだれかを助けるよ。いいことをして、わたしのことを覚えていてほしいんだから。ねぇ、でもこれってへんなの? わたしのために、だれかを助けたいと思うのはいけないこと? だれかのために、って思えないのは、だめなことなの?」
「……そんなことは、ありませんよ」
口を閉じた蓮安の小さな頭を、シロはそっと撫でた。「子供あつかいしないで」と弱々しく言った蓮安がふるりと頭を横にふる。
苦笑したシロは膝の上で手を組み、ゆっくりと言った。
「どんな願いであれ、それは尊重されるべきものだし、等価です。あなたは正しいことをして誰かに認められたいんでしょう。なら、それを我慢することはない。少なくとも僕は、そう思います」
袖をそっと引かれた。再び隣を見やれば、そろりと顔を上げた蓮安と目があう。
「……じゃあ、わたしのために、っておもってもいいの」
「もちろん。願いは自由なんですよ」
「でも、しーふーはさっき怒ってたでしょ」
「それは、あなたが責任という言葉に逃げて、誰かを傷つけてもいいと言ったから」
「そんなつもり、ない」
口調は強いまま、蓮安の目が少しばかり揺らぐ。それでも目をそらさないのだ、彼女は。呆れ半分に思ったシロはため息をつき、表情を緩めた。
「いいですか、蓮安先生。あなたは一人じゃないでしょう。十無さんも丹朱さんもいる。それにまぁ、僕だって。自分だけで全てできれば良いでしょうけど、自分にできないことをきちんと分かって、誰かに頼るのも責任のうちです」
「しーふーも、たすけてくれるの」
「きちんと丁寧にお願いしてくれた場合に限りますが」
「そう。そっか……そうなのね……」
蓮安が胸に手を当て、しみじみと呟いて笑った。嬉しげなのは結構なことだが、おそらく自分の最後の言葉は届いてないだろうな、とシロは思う。それさえもいつもどおりだったから、いまさら怒りが
蓮安がおもむろに立ち上がった。シロは首をかしげつつも、
「蓮安先生、ちゃんと履物をはいてくださいよ」
「はぁい」
しっかりと道中で履物を回収した蓮安は桜の根本にうずくまる。シロは近くに膝をついた。蓮安は手近な石で土を掘り返している。
「ええと、蓮安先生? 何してるんですか?」
「虹をうめるの」
「虹?」
蓮安は尊大に頷いて、袖口から取り出した木片を得意げに突きつけた。
古びた木片に刻まれた文字を、シロは燐光を頼りに読み上げる。
「虹のねもとはきみの中、わたしの中、すべての過ごした時間の中に……これって、僕が井戸から引き上げた木片ですよね?」
「もう! しーふーがわたしに作ってくれたんでしょ。うれしいなって思うことがあったら、その気持ちをうめておくといいって。そしたら、きれいな虹になって、だれかにおすそわけできるからって」
蓮安は呆れ顔で言ってから、木片を大事そうにしまいこんだ。小さな石を手で握り、呼吸二つ分の間だけ目をつむる。そうしてそのまま、彼女はシロへと石を手渡した。
「ほら。しーふーもちゃんと、うれしいな、っていうきもちをこめて」
「僕も、ですか?」
「おおいほうがいいでしょ。ほら!」
シロは仕方なく、ほんのりと温かい石を握る。
ひとまずは蓮安にならって目を閉じ、これまでのあれこれを思い返したところで、彼は苦笑した。湧き水のごとく浮かんでくるのは、文句や不満ばかりだ。
こき使わないでほしいだとか、勝手に話を進めないでほしいだとか、食い意地ばかりはっているのはどうかと思うだとか。おかしなことに、大人であっても子供であっても、蓮安に対する文句の種類は変わらない。
要するに子供っぽいのだ、彼女は。シロが納得したところで、記憶の中の大人の彼女が両眉を跳ね上げた。そんなはずがないだろう、と言わんばかりに唇を尖らせるさまは、やっぱり子供っぽいと思う。
シロは目を開けた。幼子の姿の蓮安が、夜を閉じ込めた目を期待に輝かせて尋ねる。
「うれしいきもち、ちゃんとこめた?」
「込めましたよ」
「ん、よろしい」蓮安はシロから受け取った小石を地面に置き、いそいそと土をかぶせた。「すてきな虹が、かかりますように!」
ぱん、と小気味よい音ともに両手をあわせて、無邪気に彼女が祈る。心地よい願いはシロに何を強制する力もなく、だからこそ彼もそう願わずにはいられない。
見上げた桜の古木には翡翠色の燐光が灯り、風に吹かれたように優しく若葉を揺らしている。
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