第三話 私はね、それがいっとう許せないのさ


「どうして、あなたがここにいるんですか!」

「や、シロ君! 出迎えご苦労! 元気にしていたか? その慌てっぷりは能天気に絶好調ということだな、よしよし」

「まったく! ぜんぜん! 良くないです!」


 客間に飛び込んだシロを、椅子にゆったりと腰掛けた蓮安リアンが迎えた。彼女は優雅に茶杯を飲もうとする。それをすんでのところでもぎ取って、シロは蓮安を見下ろした。


 彼女は肩をすくめ、懐から出した煙管キセルに火をともす。


「そう騒ぎ立てるなよ。警備だ、警備。心優しい私は君のことが心配でたまらなかったというわけさ」

「どの口が」

「事実だろう? 昨日からここまで、私は君を害していない。君が私を手ひどく追い出したことはあったがな」

「面倒事に対処するのは主人としての使命です」

「まぁたそれか。つまらんな。実につまらん。君との会話はいつだって平行線だ」


 蓮安が大げさに首を振りながら立ち上がった。聞き分けのない子供のような仕草に、シロは卓上へ茶杯を置きながら頬を引きつらせる。一体誰のせいだと思ってるのか。会話を混ぜっ返しているのはそちらだろう。


 ぐつぐつと湧き上がった文句を言おうと口を開く。その鼻先へ、不意に煙管を突きつけられた。


「昨日の妖魔の正体が分かった」

「……あの牛のことですか」

「覚えていてくれて何よりだ。そう、君が愚かにも助けようとした化け物のことだよ」


 蓮安が煙管をくるりと回し手元に引き寄せる。鼻先をくすぐる白煙にシロが顔をしかめる中、再び椅子に腰掛けた彼女は優雅に足を組んだ。


「頭は人面、体は牛。おまけに水を呼び寄せるときた。ならばアレは赤牛怪せきぎゅうかいだ。水辺に旅人を誘い、沈めて食らう。この店には至るところに水が流れているだろう? 水の眷属けんぞくたる妖魔には、実に住みやすい環境というわけだな」

「名前が分かったのは結構なことですが、それが一体何になるというんです?」

「無論、妖魔を討つことができる」


 蓮安は煙管の先を揺らした。


「名前なんか、と君は言うが、名前とは命そのものだ。より現実的に言うならば情報の塊でもある。名前を頼りに文献を紐解けば、あずまの国にも赤牛怪に類似した妖魔がいると分かってね。水辺の牛の怪異は、赤子と女に擬態して人を惑わすのだそうだ」

「回りくどいな。結局なにを言いたいんです?」

「この店に、赤子連れの若い女が働いているな?」


 朝の清浄な空気に、煙管の白煙がゆらりと登る。それを吹き散らすようにシロは息をついた。


「残念、はずれです。そんな人、ここにはいません」

「ほう?」

「なにが、ほう、ですか。間違ったんですから、もう少し、しおらしい態度をとったほうが可愛げがありますよ」

「え? 私は今のままでも十分に美しくて可愛いだろう?」

「自信過剰かよ」


 きょとんとして返す蓮安に、シロはうんざりしながら呻いた。


 壮大な肩透かしだった。彼女の剣幕に気圧されて、少しでも話を聞いてしまった己を悔いる。当の蓮安は「認識が歪められているのか……」などと真面目くさった顔で考え込んでいるが、その言葉もやっぱり当てにはならないのだろう。


 手近なぼんに、茶杯とともに茶菓子の皿をのせた。窓の外から響く小鳥のさえずりに、シロは目を細める。そう、赤子連れの女など、ここにはいないのだ。彼女の願いは聞き届けられた。赤子は生まれ、皆に祝福されてすくすくと育っている。


 つきりとシロの項が痛んだ。鳥のさえずりに混じって、悲鳴のような雨音が届く。どうか、どうか、お願いです。この子を……ください。私の幸せのために、どうか。


 ぱん、という澄んだ柏手が、シロを現実に引き戻した。椅子から立ち上がった蓮安がなぜかにんまりと笑う。


「分かった。じゃあまず、シロ君と私の仲を深めようか」


 嫌な予感に、シロは後ずさった。


「いや、なにも分からないんですけど」

「なになに、分からないからこそ、私のことがもっと知りたいだって? 素晴らしい! 君の頭はえないが、察しの良さは私の助手にぴったりだよ」

「そんなこと言ってないですし、知りたいとも思ってないんですってば!」


 早口に言って、シロは身を翻した。その背中に向かって、蓮安の軽やかな声が飛ぶ。


『極夜に打つ、四色を染める 門扉もんぴを閉ざせ、金輪紋かなわのもん


 シロの手が扉に触れる直前で、後方から飛んできた墨色の糸が扉に三組の円を描いた。がきん、という嫌な音がする。いくら引いても固く閉ざされたままの扉に、シロの腹の底が冷えた。ここまでするか、普通。というか、さっきのそれは化け物を倒す時に使った術だろう。


「シーロー君」


 上機嫌な声とともに、うなじを指先でざらりと撫で上げられた。悲鳴を飲み込んで、シロは勢いよく振り返る。背伸びした蓮安は、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべた。


「そう、嬉しそうな顔をするなよ。さぁほら、椅子にでも座りたまえ」

「いや、僕は帰りた、」

「シーロー君?」

「痛っ……分かった分かった、分かりましたってば!」


 背中をぎゅっとつねられ、シロは観念して蓮安と向かあうように腰掛けた。蓮安が満足そうに頷く。


「せっかくだから、互いに一つずつ質問しあっていこう。あぁ私ってば、なんて優しくて平等なんだろうな。我ながられするぜ」

「なんで、化け物を倒すための術を僕に使ったんですか」


 シロがつっけんどんに問いかければ、蓮安はひらりと手を振った。


呪墨じゅぼくは化け物を倒すためだけの術ではないからさ。分からず屋の餓鬼ガキのお仕置きから迷い猫探し、炊事場の面倒事まで何でもござれだ」

「怪しげな押し売り販売かよ」

「私からの質問だ。シロ君はいつからここの店を始めたんだね?」

「……一年前からです」シロは渋々と答えた。「友人たちが安心して働ける場所を作りたかったので」

「お優しい。まさに主人向きのお人好しな思考だな」

「それって、褒めてます?」

「馬鹿にしてるぞ。はい、君の質問は終わり」

「はぁ? ちょっと待って下さい。そんな横暴な」

「質問二つ目。君はその友人とやらになんと呼ばれているんだ?」

「シロですよ」


 この質問に、一体なんの意味があるんだ。シロは苛々と指を組みながら、蓮安をにらんだ。


「僕からの質問はこうです。あなたはなんで、僕にこだわるんですか」

「私がこだわってるのは、あくまでも匣庭はこにわの消滅さ」

「もう少し具体的にお願いします」


 シロが強い口調で続きを促せば、蓮安は面倒くさそうな顔で煙管に再び火をつけた。


「匣庭は人間の未練から発生する。なら、人生において、未練が最も大きくなる時はいつだと思う?」

「……願いが叶わなかった時、とかですか」

「なかなか君らしい答えだが、違うな。ささいな願いごとき、未練にはなりえない。いいか、シロ君。未練は、もうその先に人生がないと知った時に最も大きくなるのさ。ゆえに、匣庭は死人によって発生し、生者も世界も巻き込んで発展する」


 朝の陽光に、煙管の独特の香りが滲んでいく。ひどく浮世離れした空気に、シロの思考がわずにかげった。何度か目を瞬かせる。薄くたなびく白煙の向こうでは、蓮安の目が少しばかり伏せられている。


「私はね、それがいっとう許せないのさ。生者が死者をしのぶことは許されても、死者が生者を引き止めちゃいけない。そんなことをすれば、何もかもが立ち行かなくなるのだから」

「――ならば、匣庭を消滅させたいというあなたの願いを、叶えて差し上げましょうか」


 つきりとうなじが痛むと同時に、シロの口から抑揚のない声が漏れた。視線の先で蓮安がいぶかしむように目を細める。


 何を疑うことがあるのだろう、と彼は少しばかりぼんやりとした思考で思った。叶えたい願いがあるのは、人として当然のことだ。そしてそうであるならば、自分は。


自惚うぬぼれるなよ、若造が」


 ぴしゃりとした蓮安の声が、シロの頭を叩いた。はっとして顔を上げれば、椅子の肘掛ひじかけにゆるりと体を預けた蓮安が華やかに微笑む。


「お前からのほどこしなど、いるものか。私の願いは私が叶える。にのまえ蓮安りあんという女の人生は、いつだってそうだったのだから」

「え……と……」シロは何度か目を瞬かせた。「その、でも、いいんですか? 願いを、叶えたいんでしょう」

「くどい。そもそも、君に何かを叶えるほどの力があるのか?」

「それは……ないですね……」


 じゃあ自分は今なぜ、願いを叶えるなどと言ったのだろう。奇妙な疑問にシロは首の後ろを撫でる。けれど同時に、ひとさじの新鮮な驚きと、ほっとした気持ちになったのも事実だった。


 シロは改めて蓮安を見やる。薄布を重ねて作られているらしい夜色の唐服、目元にうっすらと紅がひかれた白い肌。かすかに揺れる銀のかんざしでまとめられた黒髪は、朝日を浴びてつややかに輝く。


 昨晩さんざん見たはずなのに、なぜかシロは彼女が眩しいと感じた。まるで雨雲の隙間から最初に差し込む、まっすぐな陽光の一筋のような。


 そして当の本人は、「まったく、今のはくだらない質問だったな」としたり顔で頷いて、なかばまで黒布で覆われた手を茶菓子へ伸ばす。


「いや、しつこいな」

「いたっ!? おいシロ君、いきなり叩くなんて卑怯だぜ!?」

「一度下げられた物に手をつける方がどうかしてますってば」


 盆を引き寄せたシロは、うんざりしながら立ち上がった。雨上がりの光なんて彼女はそんな綺麗なものじゃないな、と今しがたまでの感傷めいた想像を片手間に払って扉へ向かう。


 術の効力は切れているらしく、扉はあっさりと開いた。そして背後から、腹の鳴る物悲しい音が聞こえる。シロはぎゅっと眉を寄せ、しばし迷った末に振り返った。


「……そんなにお腹が空いてるなら、厨房ちゅうぼうまで案内しましょうか」

「! ほ、本当か!?」


 蓮安が分かりやすく目を輝かせて立ち上がった。シロが呆れ顔で見やれば、彼女は我に返ったように居住まいを正し、こほんと一つ咳払いをする。


「い、いやいや。まぁ、この私を護衛に雇うというのだから、それくらいの待遇は成されていてしかるべきよな、うん。ちなみに私は、水餃子すいぎょうざと春巻き、それから果実をのせた豆花ドゥファが好物だ」


 決まった、と言わんばかりの蓮安の顔に、シロは今日何度目か分からないため息をついた。


「あなたを護衛に雇う気もないですし、好物もまるで興味ないです。ほら、早く行きますよ」

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