第二話 結局、自分のためかよ

「いやー、うんうん。困ったな。ここの料理は花凛堂かりんどうほどじゃあないが、それなりに食えるから、ついつい食べすぎてしまう」

「食い意地を張らないでください」

「いたっ」


 シロに後頭部を小突かれた蓮安リアンが、肉まんへと伸びかけていた手を引っ込めた。涙目でこちらを睨んでくる女を無視して、シロは漆喰しっくいの壁に背を預ける。


 物置小屋から脱出した二人は、入り口近くの広間に身を寄せていた。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人混みの中だ、と蓮安はのたまっていたが、実際は入り口近くの食事台から料理を拝借したいだけのことなのだろう。


 それにしても、どうして警備の人間が自分を襲ってきたのか。彼らは外から雇った人間で、その手続きはイチル――シロとともに店を営む友人の一人だ――に任せていた。まさか店主の人相を伝え忘れていたというのか。いいや、そんなはずはないとシロはすぐに打ち消した。彼女の仕事に手抜かりがあったことなど一度もない。


 視界の片隅で、蓮安が春巻きをかすめ取った。シロはうんざりしながら、翡翠ひすい色の目をじろりと動かす。


「いい加減にしてください、蓮安様。食べる前にあなたがすべきことがあるでしょう」

「む、必要なことは話してやったろう」


 春巻きの肉汁をすすりながら、蓮安はちらと目を上げた。


「ここは匣庭はこにわだ。で、あの牛の化け物は匣庭に引き寄せられた怪異かいいだ」

「いや、それで説明終わりみたいな顔しないでくださいよ。なんで僕たちが警備の人間に追いかけられたんですか」

警邏けいらは幻影だぞ、シロ君や。匣庭はこにわの意図に反する行動をしたから排除しに来たんだろうさ。まぁ匣庭の意図が暴かれればここは消滅するし、当然の反応だがね」

「……その、シロ君って名前やめてもらえませんか」

「どうして? むしろ君は喜ぶべきだ」


 指先についた油をぺろりと舐めて、蓮安はおもむろに歩き始めた。夜色の服の裾をたなびかせた彼女はのんびりと言葉を紡ぐ。


「なにせ古来より、名付けはいわいと相場が決まっている。それに、白はいい色だろう? 何者にも迎合げいごうしてしまう弱々しい色だ。音の響きだけで言えば犬みたいでもある」

「悪口かよ」

「ふふん。図星を刺されたからって、へそを曲げるなよ、シロ君――いやぁ、それにしてもここは随分と古ぼけた建物だな! 電気が通っている時代なのに、明かりがすべて燈籠とうろうだなんて!」


 上機嫌で文句を並べる蓮安に、シロはため息をついた。


 二人はそろって広間の中央に進む。


 演劇の舞台を囲むように、細い水路が円形に走る。そのさらに外縁に、立呑たちのみ用の卓があちらこちらと置かれていた。牛の化け物はシロにとっては異常事態だが、客たちはそれに気づいていないらしい。卓の八割ほどが埋まった光景は見慣れたもので、彼はほっと胸を撫で下ろす。


 かかとの高い靴で床を鳴らし、蓮安はひらりひらりと客の間をぬって進む。誰かに話を聞く気はないらしく、演目の終わった舞台や、部屋のそこかしこに置かれた装飾品を眺めては、手近な卓から食べ物をくすねようとする。


 シロがその手をぱちりと叩き、蓮安が不満げにシロをにらむ。そんなやりとりを何度か繰り返したところで、シロは当てどもない旅に音を上げた。


「あの、何を探してるんですか。あなたは」

「匣庭の意図」

「それなら人に話を聞いたほうがいいのでは? 匣庭の意図って、要は匣庭の原因になった人間を探すということでしょう。あんな牛の化け物、一回見たら誰だって忘れないでしょうし、噂話として情報が出ている可能性もある」

「発想が貧相だな、君は」


 水路の紋様を眺めていた蓮安は、肉まんの最後のひとかけらを口に放り込んだ。


「言っただろう。ここの客のほとんどは、匣庭に引き寄せられた死人か幻だ。どいつもこいつも匣庭にとって有利な情報しか言わんだろうさ」

「あんな化け物が出てるのに?」

「匣庭に害を成さなければ、あいつらが姿を現すこともない」

「じゃあ、なんで僕たちの前には現れたんですか」

「そりゃ、アレだ。私が匣庭を壊そうとしていることがバレたんだろ」

「は?」シロは耳を疑った。「え、じゃあ、僕が襲われたのは」

「とばっちりだろうな、うん」


 広間の片隅、細い水路の分岐点の一つで立ち止まり、すまんすまんと蓮安が笑った。いっそ清々しいまでの笑みに、シロの我慢がぷつんと切れる。


「もう、結構です」

「あ、おい、ちょっと!」


 シロは蓮安の腕を掴んだ。手近な扉の一つから従業員専用の細い廊下に出て、勝手口を乱暴に開く。勢いそのまま、口汚い文句を並べる蓮安を強引に外へ放り出した。


 夜を迎えた深灰の華街は、路地裏にまで毒々しい紅緋べにひ色の看板灯ネオンの光を撒き散らしていた。店内とは正反対の猥雑わいざつな世界の中、がれた石畳に尻もちをついた蓮安が、きっとシロを睨む。


「いきなり何をするんだ! まったく、大型犬みたいな優しい顔は見た目だけか!? 短気にもほどがある!」

「大型犬でもありませんし、短気でもありません。訳の分からない客を追い出すのは主人の仕事の一つですから」

「私は追い出されてなんかやらないぞ! 第一、君だって本当は分かっているだろう! ここは現実じゃ、」


 蓮安の言葉を遮って、シロは音を立てて扉を閉めた。わめき声が遠ざかり、シロは香のかれた静かな廊下の空気を吸ってほっとする。


「あの、旦那様。なにか問題でもありましたか?」


 細い女の声にシロは振り返った。廊下の奥から出てきたのは、近頃雇ったばかりの従業員の珠栄シュエイだ。お団子頭の女の不安げな顔へ、シロは安心させるように微笑む。


「大丈夫。紛れ込んだ野良猫を追い出しただけだよ」

「猫、ですか」

「それより、旦那様と呼ばなくても。そんなに大層な存在じゃないし」


 広間へ戻りながら、珠栄が「でも」と顔をくもらせる。


真武シンブ様が、旦那様のことはきちんと敬うようにと」

「真武は少しばかり神経質だからなぁ。僕でも息が詰まる時があるというか」シロはめったに笑わないおいの顔を思い出し、肩をすくめた。「まぁ、そこまで気にしなくても……というのは簡単だけど、やるのは難しいか。そうだな、じゃあ彼の前でだけ、きちんと呼ぶっていうのは?」

「は、い……善処はします。シロ様」


 おずおずと頷く女に、シロは思わず和んだ。蓮安とは天と地ほども差がある。一方的にまくしたてる彼女よりも、珠栄の方がずっと好ましいというものだ。


「そういえば珠栄、君の子供は元気にしている?」

「はい」珠栄は小さな声でぼそぼそと返した。「昨日でちょうど三歳に。ここの人たちが良く面倒を見てくださってるので、助かってます」

「ハイネばあなんか、張り切ってるだろう? 彼女は子供の面倒を見るのが大好きだから」

「これを仕事にしてしまいたいと仰ってました」

「う……それは困るな。堅物の真武とイチルを説得できるのは彼女だけなのに」

「お二人はシロ様の言うことは聞かないんですか?」


 珠栄がちらと顔を上げる。かすかに痛んだうなじをさすりながら、シロは「そうだね」と呟いた。


「僕では彼らを変えることはできなかったよ」


 *****


 願いを叶える龍の話が、ずっとずっと響いている。


 かつて大地は人々の行いにより、けがれにまみれておりました。

 これを憂いた天帝は、天より五龍をつかわして人の罪をはかろうとしました。


 ほうぼうを見て回った五龍のうち、四龍は人の世を嘆いたので、天帝は人を罰する力を彼らに与えました。のこる一龍は人の救いをうたので、天帝は人の願いを叶える力を彼に与えました。


 最後に天帝は、互いの領分を犯してはならぬと龍達に誓約せいやくさせ、人々を正しく導くよう命じたのでした。


 それからというもの、星のめぐりを四等分し、四匹の龍が世界を治めることとなりました。

 一龍だけは星のめぐりが与えられなかったため、かの龍は季節を渡り、世界をめぐって、人々の願いを叶え続けたのでした。


 いつまでも、いつまでも――



 寄せては返すけがれた水が足元を洗う。その感覚に、彼の意識はぼんやりと浮上した。


 そういえば自分は、水の流れをずっと眺めていたのだった。他人事のように思い出しながら、彼は重い頭を上げて周囲を見渡す。


 辺りは一面もやで覆われ、人の姿はおろか、建物も見えなかった。風もないのに揺れる水面だけが延々と続いていて、かすかな雑音を作って鼓膜を揺らす。


 この世界には何もないが、彼はそれにひどく安堵した。目を閉じて身をゆだねる。そこからどれほど経ったのか。


 水音に混じって、誰かが自分の名前を呼ぶ声がする。彼は再び目を開けた。景色は相変わらずだが、一度拾い上げた声は羽虫のように耳につきまとった。


 誰かが自分の名前を呼び、無遠慮に願いを望む。大半が見知らぬ人間のものだったが、幸せとはほど遠い友人たちの声も混じっていた。


 穢れた人の願いなど叶える価値もないと、誰かが怒りもあらわに吐き捨てた。

 私は結局、どうでもいい存在でしかないのと、誰かが涙に声を震わせた。

 こんな生まれでなければ、もっと幸せな世界があったでしょうと、誰かが寂しく呟いた。


 そして自分は、どうしたのだったか。ぼんやりと考えたところで、ぴりとてついた痛みがうなじに走る。


「――ならば、君の名前はシロなのだろうよ」


 耳元ではっきりとした女の声が聞こえ、彼は――シロはぱちりと目を瞬かせた。慌てて振り返れば、夜色の唐服をまとった女がにこりと笑む。


「やぁやぁ、シロ君。気分はどうかな」

「は……? ええと、蓮安様?」

「んんん? なになに、気分がさっぱりよろしくない? そいつは困った。一大事だ」

「いや、そんなことは一言も言ってないんですけど。って、聞いてますか?」


 返事の代わりに、蓮安は柏手を一つ鳴らした。澄んで乾いた音は、不思議なことに足元に水紋を呼んで、世界を揺らす。


 水が、夜を溶かした漆黒に変わった。シロが顔をしかめる中、蓮安は満足げに周囲を見渡す。


「実にいい景色だな」

「どこかですか。足、汚れるんですけど」

「そんなもの、また洗えばいいのさ」薄布で出来たすそをたくしあげた蓮安は、はだしのつま先で水面とたわむれた。「生きてる限り、いくらだってやり直す機会はあるんだから」

「あぁもう、そういう問題でもないんですって」シロは苛々と蓮安を見やった。「ほんと、あなたは自分勝手だな。なんだって、僕にそんなに構うんですか」

「なんでって、そりゃあ私のために決まってるだろ」


 夜色の水を蹴り上げた蓮安が、きょとんとした顔で返す。あまりにも悪びれない態度に、シロは怒りを通り越して呆れた。


 そして彼の意識が不意に浮上する。


 *****


 まぶたを上げれば、朝の光に照らされた木目が見える。穏やかな鳥のさえずりに身を起こせば、掛け布団がするりと落ちた。


「結局、自分のためかよ」


 夢の中で言い損ねた文句を呟いて、シロは首の後ろをさすりながらため息をつく。


 寝台から出て格子窓を開ければ、勾欄こうらんの最上階からの景色が彼を迎えた。

 

 朝靄あさもやの向こうに、無粋に突き立つビル郡や鉄塔が見える。夜になれば華美な電飾が彩るが、今は明かりが消えているせいでしなびて見えた。反対に、活気づいて見えるのは街の西側――木造りの古風な建物が密集している地域だ。今頃、商人たちが市場や露店を始める準備をしているに違いない。


 扉を叩く控えめな音と共に、灰色の髪を束ねた老婆が朝食を運んできた。


「おはよう、ハイネ婆」

「おはようございます。今日も良い朝の風ね」


 にこりと笑ったハイネは卓の上に湯気立つわんを置き始めた。


「珠栄から聞いたわ。昨日の夜は猫の世話をしていたのでしょう」

「世話ではないですけど」シロは苦笑いしながら、席についた。「ところで、昨晩のお客さんの様子はどうでしたか?」

「真武の考えた新作の演劇のことかしら。それなら大好評ですよ。やっぱり龍の神話は誰もが好きな話だものね……さぁ、噂をすれば」

「失礼します、叔父上」


 扉を三度小気味よく叩き、黒髪を後ろで一つくくりにした唐服の少年が入ってきた。その後ろに続くのは赤髪を後頭部できっちりとまとめた少女で、彼女もシロと目があえば洋装を模して作られた丈の短い唐服のすそをつまんでお辞儀をする。


「おはようございます、シロ様」

「おはよう、イチル。それに真武も。昨日の舞台は見事だったよ」

「褒めていただくほどのことでは」腰にいていた半月刀を手近な棚に置き、シンは気恥ずかしそうに目をそらした。「俺は俺のやりたいようにしただけ、なので」


 シロの隣に腰掛けたイチルが、呆れたように目を丸くした。


「まぁ、真武ったら。昨日はあれだけわたくしに自慢してらっしゃったのに」

「叔父上と比べれば、褒められるようなものではないということだ。お前相手なら俺だって自慢できる」

「ちょっと、自信過剰もそこまでくれば失礼ではなくて? 私だって、あなたと十分に渡り合えるわ」

「十度手合わせして、一度勝てるか否かというところだろう。そんなものを渡り合えるとは言わない」

「さぁさぁ、二人とも。じゃれあいはそれくらいにしなさい」


 ハイネの注意に、二人が揃って不満そうな顔をして食事へ手をのばす。どこか心和む光景に、シロとハイネは視線だけで笑いあった。


 真武、イチル、ハイネの三人とともに、シロが勾欄の店を始めたのは一年前のことだ。生真面目だが演舞の得意な真武と、経理や人員配置を得意とするイチル。そんな二人を支援しつつ、厨房を取り仕切るのがハイネという役回りで、この三人だけで店を回せるんじゃないか、とシロはひっそりと思っていたりする。


「そういえばシロ様。午前中のどこかで時間はあって? 警備のことで相談したいのだけれど」


 イチルの言葉に、シロは豆花ドゥファをかき混ぜていたさじを止めた。警備の人間に追いかけられた記憶は新しい。アレは全部幻なのさ。忌々しい蓮安の言葉が蘇り、彼は気を紛らわせるために崩した豆腐へ黄粉きなこをかける。


 イチルが目を丸くした。


「シロ様、どうしたの? そんなにかけても粉っぽくなるばっかりよ?」

「甘いものが欲しい気分なだけだよ。気にしないで」すくった豆腐の予想以上の甘さに顔をしかめながら、シロは言葉を続けた。「それより、相談事っていうのは?」

「大したことじゃないわ。ここの警備をやりたいっていう人間が来ているの。とりあえず面接をするつもりなのだけれど、よければシロ様にも確認してほしくて」

「それは構わないけど、もう人は足りているんだろう?」

「うーん、そう、そうなのよね……でも……その人は分野が違いそうっていうか、胡散臭うさんくさそうというか……見た目は綺麗な女の人だったけれど……」


 さばさばとした物言いを好むイチルにしては珍しい。シロが首を傾げれば、困惑顔の彼女は「笑わないでほしいのだけれど」と前置きして言う。


「ここに妖魔が出るっていうのよね。その人」

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