極星とメメント

湊波

序幕 私が蝶か、蝶が私か?

第一話 では君の名前はシロにしよう

「では君の名前はシロにしよう」

「なんですか、その適当な名前は」


 シロは不満を隠しもせずにささやいたが、すぐ隣の女は意にも介していないようだった。ようだった、というのは、シロからは女の顔が見えないせいだ。


 苦し紛れに飛び込んだ物置である。扉の隙間から差し込む細い光が唯一の光源だ。シロは息をついた。壁に貼られた胡散臭うさんくさ魔除まよけの紙――陳腐ちんぷな龍の絵が描かれている――を手のひらでくしゃりと歪め、凝り固まった首を動かす。


 床に打ち捨てられた姿見が一組の男女を映している。蜂蜜はちみつ色の髪の男がたおやかな女を壁際に追い詰めているように見えなくもないが、事実はもちろん違う。


 ぴたりと密着した身体を、女が不満げに動かした。


「おい君、もう少しそっちに寄れないのかね。レディファーストという言葉があるだろう」

「わ、ちょっと身体動かさないでくださいよ! こっちだって、ぎりぎりなんですから」

「図体がでかいのは君の責任だろう。その分だけ、小さくなる努力をしたまえよ」

「そんな無茶苦茶な……! って、待って待って当たりますってば!」

「ほう? 当たるとは、どこが? なにが?」

「あぁもう、そのニヤニヤ声、本当に腹が立、」


 がたんと外で物音がしたところで、シロ達はそろって声を止めた。侵入者はどこだとか、あっちに行ったぞだとか、生死問わず捕まえろだとか、ありきたりで物騒なやりとりの嵐が過ぎ去ったところで、女がシロの耳元で――恐らくこれもわざとだ――上機嫌に呟く。


「まったく、面倒なことになったな」

「……その言葉、そっくりそのままお返ししたいんですが」

「面倒事は私のせいではないぞ」


 シロの腕の下をくぐり抜けた女が扉を開ける。まばゆい光に彼が目を細める中、女はつややかな黒髪を揺らして外に出た。


 朱塗りの柱と漆喰しっくいの塗られた壁が延々と続く廊下である。磨き上げられた石床が、揺らめく灯籠とうろうの明かりを弾いた。


 女はかかとでかつんと床を鳴らし、夜色の唐服を揺らして振り返る。


「さぁシロ君。探偵ごっこの続きと洒落込しゃれこもうじゃないか」


 *****


 シロが夜色の女と出会ったのは、勾欄こうらんのかきいれ時、夜の九刻の頃だった。


 勾欄といえば一般には劇場を指すが、シロの所有する店は料理と酒に舌鼓を打ちつつ演劇を楽しむ小劇場だ。とはいえ、ここも虚飾きょしょく華燭かしょく魔都まとうたわれる深灰シンハイの一角。白漆喰の壁の内側は炊かれた香で薄くけぶり、優美な透かしで彩られた吉兆の装飾品の下では、卓を挟んだ客たちが談笑にも、灰色どころから真っ黒な取引にも花を咲かせている。


 そんな中で、シロは女に捕まった。今日も今日とて店の様子におかしなところはないと、心地よい疲労と共に思った矢先のことだった。


匣庭はこにわ、ですか」

「そうだとも。ここで匣庭が発生している」


 舞台を見下ろす桟敷席さじきせき、卓を挟んだ向かい側で、唐服をまとった女はにやりと笑った。


 とにかく夜という言葉が似合う女であった。まとう衣は動くたびに濃淡を織りなす闇色で、銀のかんざしを挿した長髪も墨色だ。シロがまじまじと女を見やれば、彼女は紅を引いた口元を不愉快そうに歪める。


「おいおい、匣庭の発生は一大事件だろう! 反応が鈍すぎるぞ。大丈夫か? 脳みそは入っているのかね?」

「馬鹿にしてます?」

「おうともよ」

「……さようですか」


 あっけからんと答えた女は運ばれてきた料理に箸を伸ばした。シロはため息をつき、気を紛らわせるように茶を一口飲む。


「お客様、」

蓮安リアンだ」

「蓮安さん」

「待て、さんづけは嫌だな。蓮安様か蓮安先生がいい」

「……蓮安様」シロはうんざりしながら言った。「あなたがどういう悪徳商法に僕を引きずり込もうとしているのかは知りませんが、その程度の話じゃ深灰どころか、この店でもだまされる人間はいませんよ」

「悪徳商法だと? 失敬な。私は親切心から言ってやってるんだ。なるほど確かに匣庭のすべてはまやかしだがね、私の言葉だけは真実だよ」

「なんですか、その匣庭っていうのは」

「匣庭を知らないのか? あぁまったく、まさかそこからとは!」


 水餃子すいぎょうざを口に含んだ女――蓮安は、大げさに天を振り仰いだ。シロが白けた視線を送る中、彼女はぴっと箸先を宙に向けた。


「匣庭とは蜃気楼しんきろうだよ」

「はぁ、痛っ」

「もっと心を込めて返事をしたまえ」卓下でシロの足を踏み、蓮安は話を続けた。「いいか? より噛み砕いていうならば、匣庭とは現実と混じって発生する結界だ。重要な点は三つ。一つ、匣庭は人間の強い願いによって発生する。二つ、匣庭の中ではあらゆる認識が都合よく書き換えられ、発生の引き金となった存在の願いが常に叶えられる。三つ、匣庭の中では生死聖邪、実態の有無に関わらず、あらゆる存在が混在する」

「馬鹿らしい。生者と死者が混じるなんて、三文芝居の台本じゃあるまいし」

「現実は三文芝居よりひどいもんさ。それに死んだ人間の見た目は生者と変わらん。匣庭が消滅すれば消えてしまうが、中にいる限りは凡人が見破ることは難しいだろうな。そう、たとえば、」


 蓮安は言葉を切って、擬宝珠ぎほうじゅと優美な曲線で彩られた欄干らんかんを指でなぞった。暗闇の中に浮かぶほっそりとした白い指先を追いかければ、階下の小舞台がシロの目に飛び込んでくる。


 龍を模した仮面をつけた役者が四人、天帝に見立てた雲の飾りに語りかける。大地は穢れきってしまった。いまや人の子らに情けはいらず、あらゆる罰をもって罪をあがなわせるべし。


 朗々とした声が響く中、蓮安は指先で客席の人間を示し始めた。


「あそこで劇も聞かずに酒を楽しんでいる客がいるな? あれは死人だ。卓を挟んで相槌あいずちを打っているのは生者。今、卓の間をすり抜けていった給仕がいたろう。あいつは生者だが、今呼び止めたじじいは死者だな。舞台に立っている役者にも偽りがあるぞ。たとえば黒色の仮面を被ったあいつは幻だ。匣庭が消えれば消滅する」

「縁起でもないことを言わないでください」


 シロはやや乱暴に卓上へ茶杯を置いた。ひょいと両眉を上げた蓮安を睨む。


「この店で、おかしなことなんて何も起きていません。それで十分でしょう」

「本当に?」蓮安が黒瑪瑙くろめのう色の目を光らせた。「本当に君は、それを信じているのか?」


 ほんの少し冷えた空気に、シロは思わず口をつぐんだ。うなじがぴりと痛む。


 そこで燈籠が染める朱色の闇を裂いて、赤子の泣き声が聞こえた。顔を跳ね上げるシロへ、面白がるように蓮安が言う。


「聞こえたか。さすがだな。この手の異質にさとい点は称賛に値す、」

「今の、赤ちゃんですよね」シロは椅子から腰を浮かせ、ゆっくりと呟いた。「大変だ、助けにいかないと」

「……は?」

「だって、こんな夜遅い時間に子供がいるなんておかしいでしょう。何か困りごとがあるんですよ、きっと」

「あ、おい!」


 蓮安が伸ばした腕を軽々と払って、シロは急かされるように人波へと踏み出した。薄暗い店内には多くの客が行き来しているが、誰一人として赤子に気づく素振りがない。身勝手な客人達に、シロは小さく舌打ちしながら広間を出る。


 火のついたような赤子の声をたどって人気のない廊下を進めば、地面に置き去りにされた小さな包みにたどり着いた。


 シロはほっと胸を撫で下ろした。相変わらず、泣き声は鼓膜が痺れるほどに大きいが、それも元気の証だろう。求めているのは母親か。ならばまず、客に尋ねて回らねばならない。あるいは食べ物だというのならば、ハイネばあを探して食料を調達しなければ。


 とにかくも、これで何かを求める耳障りな泣き声を消すことができる――伸ばした指先が包みに触れる直前でうなじが痛み、ひやりとした異質な思考がシロの脳内でささやく。


「阿呆! 早くそこから離れろ!」


 凛とした怒鳴り声が、赤子に触れる寸前でシロの手を止めさせた。我に返った彼は、そこで自分が巨大な水たまりの中にいることに気がつく。


「え……?」


 ばしゃりと派手な水音を立てて、赤子の入った包みがいびつに動いた。シロがぎょっとして身を引く間にも、包みが立ち上がる。


 まず見えたのは、ひづめのある四本足だった。それに支えられた胴体は肥え太った牛そのものだ。なれど、ほどけた包みの下から現れた頭部は赤子のそれで、涙の代わりに赤く粘ついたなにかを水面にぼたぼたと落とす。


 シロが息を飲むと同時に、異形の獣は、ひび割れて引きつった雄牛の声でく。


極夜きょくやに打つ、四色ししょくを染める』


 蓮安の祝詞のりと柏手かしわでを合図に、シロのこめかみを掠めるようにして、淡く輝く墨色の糸が幾筋も伸びた。彼と異形を隔てるように、糸は宙で素早く円を組む。さらに幾本かは直行と斜光を繰り返す。


 方円の向こうで赤子が顔を歪めた。虚ろな瞳がシロに向けられる。助けてと、ありえぬはずの掠れ声が木霊する。我知らず震えたシロの指先が糸に触れ、その軌跡がわずかにずれた。


『厄災をすすげ、流水紋りゅうすいのもん


 蓮安の声が響くと同時、紋様の描かれた方円がきしりという音を立てて砕けた。あふれ出た漆黒の水流が異形の獣を飲み込む。耳をつんざくような悲鳴を上げて、獣がもんどりうった。蹄が床を乱暴に掻き、その姿が水に飲まれて消え失せる。


 不思議と体が濡れることはない。それでも、じとりと湿った薄ら寒さが皮膚を刺して、シロは震える息を吐き出す。


「お、終わった……?」

「阿呆! 取り逃がしだ!」

「いっ」


 小突かれた後頭部を押さえて、シロは振り返った。その胸ぐらを掴んだ蓮安は彼を引き寄せようとして――けれど体格差でびくともしない事実に舌打ちし、怒り心頭といった面持ちで吐き捨てる。


「まったく、とんだ邪魔をしてくれたものだな。お前が陣に触れたせいで、術にほころびが出来た。アレさえなければ、厄介事が一つ片付いたというのに」

「はぁ? 一体何を、わ、ちょっと引っ張らないでくださいよ!」

「ぐずぐずするな。警邏けいらに捕まる前にとっとと逃げるぞ」

「逃げる? 待ってくださいよ。僕はここの主なんだ。警備の人間に襲われるなんてこと、」


 一発の銃声が響いて、シロはぎょっとした。右手のすぐ横の地面から薄く白煙が上がっている。


「……まじかよ」

「いたぞ! 侵入者だ!」


 思わず漏れたシロの悪態と共に、慌ただしく黒服の男たちが廊下に押し寄せた。その手に握られているのは銃や剣というおおよそ友好的でない武器だ。


 蓮安が、シロの腕をもう一度乱暴に引っ張る。その剣幕に気圧されて、シロは思わず立ち上がった。


 そして二人はさんざん逃げ回った挙げ句、物置小屋に飛び込み、冒頭の名前のやりとりをすることとなる。

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