第四話 どうか、
陽の差し込む廊下を進み、二人は
「弱ったな。ハイネ
「ご飯……」
「そんなに情けない声を出さないでくださいよ、
「どうして旦那様が迷い猫と一緒にいるんですか」
硬い声に、シロたちは振り返った。
厨房の入り口にほっそりとした女が
「
「おかしいわ。あなたなら、昨日たしかに追い払ったはずなのに」珠栄はシロに応じることなく、ゆらりと足を踏み出した。「女、ここはあなたのような異物がいていい場所ではないの」
「待ちなさい、珠栄。君は何を言ってるんだ?」
尋常ならざる様子に、シロは戸惑いながら珠栄の腕を掴んだ。彼女はいまだ前を向いたまま、「邪魔をしないでください」と呟く。
「これは旦那様のためです。どうか、立ち去って」
「落ち着いて。たしかに蓮安様は怪しくて
「様だなんて、やめてください。そうやって呼ばれるべきなのは、あなただけですよ」
「それこそ僕のガラじゃないって、昨日話したばかりだろう?」シロはぎこちなく笑った。「さぁ、珠栄。まずはそこの椅子に座って。今の君、ひどい顔色だ。そんなんじゃ、君の子供だって
「子供は、いいんです」
「え……?」
顔を上げた珠栄がうっそりと笑った。
「ねぇ、旦那様。子供は
「な、にを言ってるんだ……子供は可愛い、ものだろう? 君が産みたいと願って……」
「えぇ、最初はそう願いました。でも、覚えてらっしゃらない? 私はあの後、きちんとお願いしたでしょう? ねぇ、」
ふらりと伸ばされた珠栄の手が、シロの服の
「――様。どうか、お願いです。私の子供を殺してください」
うなじがひときわ強く痛み、シロは凍りついた。周囲の景色が消え去る。この
崩れかかった廃屋に赤子の声が響いている。ひどい濁流の音に紛れて、やせ細った女が自分にすがりついた。かつて子供を欲したあどけない目は、いまや悲しみと絶望にくらんでいる。
そして彼女はおぞましい願いを告げ、自分はそれを叶えた。
「っ……!」
「おい、シロ君!」
ぶわりと血生臭さが蘇り、シロは口元をおおって後ずさった。こみ上げる吐き気とうなじの痛みにうずくまる。蓮安の焦ったような声がした。それを最後に、シロの意識がぶつりと途切れる。
*****
シロがゆっくりと
かたん、と控えめな物音がした。扉を開けた
「大丈夫ですか、叔父上」
「真武……」
「あぁ、無理なさらないでください。今ハイネを呼びますから」
「僕は、一体なにをしてた?」
ぼんやりとシロが問いかければ、真武は痛ましげに目を細めた。
「厨房で倒れていたんです。覚えていませんか?」
「厨房で……そっか、食事を、探して……」
けれど、なぜ食事を探していたのだったか。ひどく記憶が曖昧で、シロは我知らず毛布を握る手に力を込める。自分は何か大事なことを忘れている気がする。そう、例えば一人だったか。いいや、そんなはずはない。誰かが隣にいた。夜色の、誰かが。
シロの思考を遮るように、真武がきっぱりと首を横に振った。
「叔父上、そう思い詰めないでください。ご自身を責めるのはあなたの悪い癖です。あの場所はひどい
「僕たちの、ような……」ゆっくりと言葉を繰り返し、シロは顔を上げた。「それって、どういうことだ? たしかに、なんだかひどい空気だったことは覚えているけど……それしきで、倒れるなんて」
「…………」
「そもそも、僕は誰かと一緒だった気がするんだ。あの場所が良くないというのなら、彼女にだって害があるはず」
「……誰もいませんでしたよ、あそこには。誰も」
「でも、」
「叔父上」
残照が真武の黒髪を物悲しく照らす。シロよりも幼さの残る――けれどたしかにシロと同じく
「なにもかも、全て忘れてしまえばよいのです。ここはあなたが作った、あなたのための世界だ」
「僕、の……?」
「そうですとも。人間は際限なく穢れた願いを叔父上に押しつけた。心優しいあなたはそれでも人を否定しませんでしたが」真武の目の奥で、瞳が獣のごとく細められた。「俺はずっとおかしいと思っていましたよ。アレらは排除すべきだと、俺たちは奏上したはずです」
きしりと氷が軋むようなかすかな音が、シロの耳を打った。穢れた水が寄せては返す音が遠く聞こえる。それに混じって蘇るのは五龍を歌った伝説だ。
かつて大地は
うなじが何かを訴えるかのように鋭く痛む。けれどもはや、シロは体を動かす気になれなかった。そうすべきではないのだと、すべてを思い出した彼は強く思う。
そしてそんな思考さえも見抜いたように、痛ましげに目を細めた黒髪の少年は、シロの
「どうか、人間を滅ぼしてください。あなたにはそれだけの力があるはずだ」
*****
しゃがみこんだシロに手を伸ばす。けれど蓮安が触れるより先に、彼の周囲の空間がぐにゃりと
蓮安は反射的に手を引く。ばちんと空気が
がらんとした厨房は、中央に演劇の舞台を備えた広間となった。物理法則を無視したそれは
「空間の再編成か……! まったく余計な手間をかけさせてくれる……!」
「いやね、汚らしい言葉でわめいて。行儀の悪い野良猫だこと」
ほんの少し離れた場所で、珠栄が
『――石は流れる、木の葉は沈む』
東の国の書物にあった言葉を紡ぐ。珠栄の顔がぎくりと固まった。そうさ、君はこの言葉が不愉快だろうとも。胸中で乱暴に呟いて、蓮安はさらに言葉を重ねた。
『牛は
ぎ、と軋むような音が響き、珠栄の体がひび割れる。現実にはあらざる光景だが、蓮安は驚かなかった。
匣庭は怪異を呼び寄せる。シロは赤子をつれた女などいないと言ったが、匣庭の中で認識が歪むのはよくあることだ。特に怪異は、己の身を守るために姿を偽る。
けれど、名前に刻まれた本性までは偽れない。真名のもつ真髄はここにある。
身を折った珠栄が、獣のような
重苦しい空気が一気に形を成す。赤黒い穢れをまとった水が周囲を満たす。蹄が床を鳴らす。赤子が泣く。かくして人面の異形の獣が
『
淀んだ気に唐服の裾と黒髪をなびかせながら、蓮安は細糸の
怪異がぐっと首を
『厄災を退けよ、
赤牛の口から放たれた濁流を、黒光放つ護身の紋が弾き飛ばす。
牛が
『悪しきを砕け、
柏手を合図に方円から無数の矢が放たれ、怪異を射抜く。牛の巨体に比べれば心もとない武具だった。されど、水辺に住まう牛の怪異は古来より
悲鳴を上げながら猛進を続けていた赤牛怪が、最後には蓮安の目と鼻の先でどうと倒れ込む。どろりとした血が全身から流れ出した。物悲しげに己を見上げる濁った眼に、蓮安は空になった竹筒をつま先で踏んで息をつく。
「なるほど、たしかに君の人生は運が悪かったのだろうさ。だが残念。私には君の事情は関係ないし、君を
乱暴な
『極夜に打つ、四色を染める』竹筒一つを地に放ち、蓮安は静かに呟いた。『探しびとを示せ、
さざなみのように揺らめきながら方円が描かれた。己が心の動揺に舌打ちしながら、蓮安は紋を見つめる。中央に大きな円が一つ、それを取り巻く小円が八つ。円が黒ずんだ方角に匣庭の主はいる。それを見逃すまいと、蓮安は薄暗い空気の中で目を
そこで、前触れ無く演劇の舞台に
頭上から
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