第四話 どうか、

 陽の差し込む廊下を進み、二人は厨房ちゅうぼうへ向かった。中はがらんとしていて、調理台へ盆を置いたシロは頭をかく。


「弱ったな。ハイネばあはここにはいないか」

「ご飯……」

「そんなに情けない声を出さないでくださいよ、蓮安リアン様。ええとたしか、あそこに朝の残りがあったはず……」

「どうして旦那様が迷い猫と一緒にいるんですか」


 硬い声に、シロたちは振り返った。


 厨房の入り口にほっそりとした女がたたずんでいる。こちらをにらむ彼女の顔色はひどく悪く、その周囲の気はひどく乱れていた。眉をひそめたシロは、そこでようやく女の正体に気がつく。


珠栄シュエイ、かい?」

「おかしいわ。あなたなら、昨日たしかに追い払ったはずなのに」珠栄はシロに応じることなく、ゆらりと足を踏み出した。「女、ここはあなたのような異物がいていい場所ではないの」

「待ちなさい、珠栄。君は何を言ってるんだ?」


 尋常ならざる様子に、シロは戸惑いながら珠栄の腕を掴んだ。彼女はいまだ前を向いたまま、「邪魔をしないでください」と呟く。


「これは旦那様のためです。どうか、立ち去って」

「落ち着いて。たしかに蓮安様は怪しくて傲慢ごうまんで面倒な人間だけど、悪い人じゃない」

「様だなんて、やめてください。そうやって呼ばれるべきなのは、あなただけですよ」

「それこそ僕のガラじゃないって、昨日話したばかりだろう?」シロはぎこちなく笑った。「さぁ、珠栄。まずはそこの椅子に座って。今の君、ひどい顔色だ。そんなんじゃ、君の子供だっておびえてしまう」

「子供は、いいんです」

「え……?」


 顔を上げた珠栄がうっそりと笑った。よどんだ眼差しがシロをとらえ、彼のうなじがぴりと痛む。


「ねぇ、旦那様。子供はらないです。もう必要なくなっちゃった。だって私が産んでも、誰も面倒を見てくれなかったのだもの。あの人だって、私のことを愛人呼ばわりして、ひどいと思いませんか? それに子供は鬱陶うっとうしいですよね。こっちの気持ちなんか知らずに、昼となく夜となく泣きわめくんだもの」

「な、にを言ってるんだ……子供は可愛い、ものだろう? 君が産みたいと願って……」

「えぇ、最初はそう願いました。でも、覚えてらっしゃらない? 私はあの後、きちんとお願いしたでしょう? ねぇ、」


 ふらりと伸ばされた珠栄の手が、シロの服のすそを掴んだ。彼女のやせた唇がゆっくりと動く。


「――様。どうか、お願いです。私の子供を殺してください」


 うなじがひときわ強く痛み、シロは凍りついた。周囲の景色が消え去る。このけがれきった声を、自分はたしかに知っている。その認識を起点に、がらくた箱をひっくり返したかのように、ざらりとした記憶が一気に再生された。


 崩れかかった廃屋に赤子の声が響いている。ひどい濁流の音に紛れて、やせ細った女が自分にすがりついた。かつて子供を欲したあどけない目は、いまや悲しみと絶望にくらんでいる。


 そして彼女はおぞましい願いを告げ、自分はそれを叶えた。


「っ……!」

「おい、シロ君!」


 ぶわりと血生臭さが蘇り、シロは口元をおおって後ずさった。こみ上げる吐き気とうなじの痛みにうずくまる。蓮安の焦ったような声がした。それを最後に、シロの意識がぶつりと途切れる。


 *****


 シロがゆっくりとまぶたを上げれば、茜色の光に照らされた天井が見えた。額を押さえながら身を起こす。ベッドとたくが置かれた見慣れた自室だった。外に通じる露台は開け放たれていて、穏やかな深灰シンハイの夕暮れが見える。


 かたん、と控えめな物音がした。扉を開けた真武シンブが、ほっとした様子で駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか、叔父上」

「真武……」

「あぁ、無理なさらないでください。今ハイネを呼びますから」

「僕は、一体なにをしてた?」


 ぼんやりとシロが問いかければ、真武は痛ましげに目を細めた。


「厨房で倒れていたんです。覚えていませんか?」

「厨房で……そっか、食事を、探して……」


 けれど、なぜ食事を探していたのだったか。ひどく記憶が曖昧で、シロは我知らず毛布を握る手に力を込める。自分は何か大事なことを忘れている気がする。そう、例えば一人だったか。いいや、そんなはずはない。誰かが隣にいた。夜色の、誰かが。


 シロの思考を遮るように、真武がきっぱりと首を横に振った。


「叔父上、そう思い詰めないでください。ご自身を責めるのはあなたの悪い癖です。あの場所はひどい瘴気しょうきだった。身体に不調をきたして当然です。特に我々のような存在にとっては」

「僕たちの、ような……」ゆっくりと言葉を繰り返し、シロは顔を上げた。「それって、どういうことだ? たしかに、なんだかひどい空気だったことは覚えているけど……それしきで、倒れるなんて」

「…………」

「そもそも、僕は誰かと一緒だった気がするんだ。あの場所が良くないというのなら、彼女にだって害があるはず」

「……誰もいませんでしたよ、あそこには。誰も」

「でも、」

「叔父上」


 いさめるように呼ばれ、シロは口をつぐんだ。


 残照が真武の黒髪を物悲しく照らす。シロよりも幼さの残る――けれどたしかにシロと同じくながい時を生きている彼は、翡翠ひすい色の目を細めて、シロの手をとった。


「なにもかも、全て忘れてしまえばよいのです。ここはあなたが作った、あなたのための世界だ」

「僕、の……?」

「そうですとも。人間は際限なく穢れた願いを叔父上に押しつけた。心優しいあなたはそれでも人を否定しませんでしたが」真武の目の奥で、瞳が獣のごとく細められた。「俺はずっとおかしいと思っていましたよ。アレらは排除すべきだと、俺たちは奏上したはずです」


 きしりと氷が軋むようなかすかな音が、シロの耳を打った。穢れた水が寄せては返す音が遠く聞こえる。それに混じって蘇るのは五龍を歌った伝説だ。


 かつて大地は怨嗟えんさまみれた。これを憂いた天帝は五龍をつかわし、人の罪をはかった。ほうぼうを見て回った五龍のうち、世を嘆いた四龍には厳罰の力を、救いをうた一龍には願いを叶える力が与えられ、互いの領分を犯してはならぬと天帝は龍達に誓約させた。


 うなじが何かを訴えるかのように鋭く痛む。けれどもはや、シロは体を動かす気になれなかった。そうすべきではないのだと、すべてを思い出した彼は強く思う。


 そしてそんな思考さえも見抜いたように、痛ましげに目を細めた黒髪の少年は、シロの真名まなを正しく呼んで、静かに願った。


「どうか、人間を滅ぼしてください。あなたにはそれだけの力があるはずだ」



 *****



 しゃがみこんだシロに手を伸ばす。けれど蓮安が触れるより先に、彼の周囲の空間がぐにゃりとゆがんだ。


 蓮安は反射的に手を引く。ばちんと空気がぜる異質な音がする。そして次の瞬間にはシロの姿が眼前から消え、蓮安の周囲の景色が変わった。


 がらんとした厨房は、中央に演劇の舞台を備えた広間となった。物理法則を無視したそれは匣庭はこにわの特徴そのもので、蓮安は舌打ちする。


「空間の再編成か……! まったく余計な手間をかけさせてくれる……!」

「いやね、汚らしい言葉でわめいて。行儀の悪い野良猫だこと」


 ほんの少し離れた場所で、珠栄があざける。それを睨み、蓮安は一つ柏手を打った。


『――石は流れる、木の葉は沈む』


 東の国の書物にあった言葉を紡ぐ。珠栄の顔がぎくりと固まった。そうさ、君はこの言葉が不愉快だろうとも。胸中で乱暴に呟いて、蓮安はさらに言葉を重ねた。


『牛はいななく、馬はえる――本性をあらわせ、赤牛怪せきぎゅうかい


 ぎ、と軋むような音が響き、珠栄の体がひび割れる。現実にはあらざる光景だが、蓮安は驚かなかった。


 匣庭は怪異を呼び寄せる。シロは赤子をつれた女などいないと言ったが、匣庭の中で認識が歪むのはよくあることだ。特に怪異は、己の身を守るために姿を偽る。


 けれど、名前に刻まれた本性までは偽れない。真名のもつ真髄はここにある。


 身を折った珠栄が、獣のようなうなり声を上げた。


 重苦しい空気が一気に形を成す。赤黒い穢れをまとった水が周囲を満たす。蹄が床を鳴らす。赤子が泣く。かくして人面の異形の獣があらわれ、びりと空気を震わせて怪異がく。


極夜きょくやに打つ、四色ししょくを染める』


 淀んだ気に唐服の裾と黒髪をなびかせながら、蓮安は細糸のわえられた小さな竹筒を数本放った。呪墨じゅぼくしたたらせながら糸が方円を描く。こんっと軽やかな音を立てて筒が地面に突き立つ。


 怪異がぐっと首をらしたと同時、蓮安は言葉を継いだ。


『厄災を退けよ、九字紋くじのもん


 赤牛の口から放たれた濁流を、黒光放つ護身の紋が弾き飛ばす。


 牛が雄叫おたけびを上げ、濁流を割って突進した。顔は赤子のくせに、その頭部にはねじれた角が生えている。性根の悪さがあらわれたかのような姿に鼻を鳴らし、蓮安は素早く次なる紋を完成させた。


『悪しきを砕け、矢尻紋やじりのもん


 柏手を合図に方円から無数の矢が放たれ、怪異を射抜く。牛の巨体に比べれば心もとない武具だった。されど、水辺に住まう牛の怪異は古来よりやじりにて祓われる。書物の記述を蓮安は疑わなかったし、それは果たして真実だった。


 悲鳴を上げながら猛進を続けていた赤牛怪が、最後には蓮安の目と鼻の先でどうと倒れ込む。どろりとした血が全身から流れ出した。物悲しげに己を見上げる濁った眼に、蓮安は空になった竹筒をつま先で踏んで息をつく。


「なるほど、たしかに君の人生は運が悪かったのだろうさ。だが残念。私には君の事情は関係ないし、君をあわれんでやるほどの優しい心も持ちあわせていない。だからどうぞ、勝手に恨みたまえ。少なくともその権利だけは君のものなのだから」


 乱暴な手向たむけの言葉に、妖魔が巨体をぶるりと震わせる。それきり、動かなくなったしかばねを呼吸一つ分の間だけじっと見つめ、蓮安は身を翻した。


『極夜に打つ、四色を染める』竹筒一つを地に放ち、蓮安は静かに呟いた。『探しびとを示せ、九曜紋くようのもん


 さざなみのように揺らめきながら方円が描かれた。己が心の動揺に舌打ちしながら、蓮安は紋を見つめる。中央に大きな円が一つ、それを取り巻く小円が八つ。円が黒ずんだ方角に匣庭の主はいる。それを見逃すまいと、蓮安は薄暗い空気の中で目をらす。


 そこで、前触れ無く演劇の舞台に燈籠とうろうの明かりが灯った。浮世離れした灯火に照らされた九つの円の内、中央が黒く濁っている事に気づいた蓮安は顔をこわばらせる。


 頭上からこごえるほどの殺気が降りかかった。蓮安が顔を跳ね上げると同時、蜂蜜色の髪の男が刃を振り下ろす。

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