第19話 文化祭 6
涼夏の部屋に入ると、とりあえず胸いっぱいに部屋の空気を吸い込んだ。涼夏の香りが鼻腔を抜けて、その爽やかさに私はまぶたを閉じて微笑んだ。
「肺が涼夏で満たされた」
「ねえ、ナッちゃん。この人、今日どうしたの?」
涼夏が奈都の袖をクイッと引いて、怯えたように体を震わせる。奈都がカーペットの上に腰を下ろして、明るい笑顔で涼夏を見上げた。
「私も無性にチサが好きな時とかあるし、たぶんそれだよ」
「それはわかる。でも、好きの表現方法が超越してる」
「私から見ると、帰宅部はみんな頭がおかしいけど」
奈都が爽やかにそう言って、涼夏が目を丸くして固まった。絢音が床の上を転げ回りながら笑っている。この子はたぶん、本当に私たちのことが好きなのだろう。私も床に座って、絢音の髪を撫でながら涼夏を見上げた。
「それで、猪谷さんは私たちをどう祝おうっていうの?」
「いや、別に何もないけど。お昼はたこ焼きパーティーでもしようかなって」
涼夏が困惑しながらベッドの端に腰掛けて、足首を組んだ。のんびりと4人で過ごして、プレゼントを渡して、夜は少し豪勢にご飯を作って、食べて解散というプランらしい。最近みんな文化祭の準備で忙しいし、あまり喋る時間が取れていない。何をするでもなくのんびり過ごすのは大いにありだ。
「いいプランだと思う。涼夏、頑張ったね」
「なんで偉そうなの?」
「16歳だから」
私が自信たっぷりに胸を張ると、絢音が奈都に抱き付いてぶんぶんと首を振った。
「千紗都が面白い。今日もう私ダメ。一生分笑える」
奈都が困惑気味に絢音の髪を撫でた。考えてみると、帰宅部のボディータッチ文化は絢音が引き起こしたものだが、本家が奈都を抱きしめているところは見たことがない。いや、ハグくらいはあっただろうか。覚えていないが、動揺している奈都が可愛い。
「ナッちゃん、すり寄って来た猫の対処方法がわからない女の子みたいな顔してる」
涼夏が笑うと、奈都が顔を赤くして俯いた。
「どうすればいいの?」
「絢音は抱き枕の一種だと思えばいいよ」
「なんだそりゃ……」
奈都が困った顔で絢音を抱きしめる。絢音はしばらく笑っていたが、やがて奈都の胸の中で動かなくなった。笑い死にしたのかもしれない。
「絢音が薬になったら、私も学年6位の秀才力を手に入れる」
奈都の胸に顔をすり寄せている絢音を見つめながらそう言うと、涼夏が驚いたように顔を上げた。
「えっ? 千紗都、ずっとミイラの話をしてたの? 私を食べたいって、そういう意味?」
「そういう意味も何も、ずっとミイラの話だったよね?」
今さら何を言っているのだろう。私が首を傾げると、絢音がもう一度肩を震わせながら、笑いを堪える声で言った。
「私は最初から気付いてた。涼夏が気付いてなくて面白かった」
「いや、情報量が少なかったって! あの時、もうミイラの話、終わってたじゃん! しかも、能力が得られるとか、どっから出てきたの?」
「それは私の中の設定」
しれっとそう言うと、涼夏は絶句して固まり、絢音は奈都の胸の中で笑い声を立てた。どうでもいいが、とても気持ち良さそうだ。私も奈都の胸に顔をうずめたい。
しばらくくだらない話をしてから、たこ焼きの前にプレゼントを渡すと言って、涼夏が引き出しからリボンのついたシールを貼った紙袋を2つ取り出した。包みの大きさがだいぶ違い、涼夏が机の上に並べていたずらっぽく笑った。
「どっちがいい? 人間性を問う質問だよ」
「つづらの話だね? なんだっけ」
両手で持ち上げてみたが、どちらも指先でつまめるほど軽かった。綿でも入っているのだろうか。
「舌切り雀だね。私は千紗都が先に選んで、残った方でいいよ」
絢音がそう言いながら、選択権を私に譲った。遠慮したというよりは、私の選択を楽しみたいのだろう。口元の微笑み角度がいたずら寄りだ。
「舌切り涼夏。切った舌は塩で焼いて食べる」
「この人との友情は今日で終わったから、片方ナッちゃんにあげるね」
涼夏が私を見ずに、大きい袋を奈都に押し付けた。私は慌ててそれを分捕ると、自分の物だと胸に抱え込んだ。
絢音がくすくす笑いながら、小さい袋を手に取って開けた。私も開けると、小さい方には手袋、大きい方にはマフラーが入っていた。どちらも可愛いが、今日も外は汗ばむような蒸し暑さだった。日本中のどこにも、冬の気配はない。
「えっと、ありがとう」
「うん。冬になったら使ってね」
涼夏が爽やかに笑った。確かに、別に夏だからと言って、夏に使うものをあげる必要はない。絢音が「この発想はなかった」と言いながら、手袋を一度はめてから、袋に戻してしまった。どこで買ったか聞いたら、涼夏はネットだと言った。なるほど。インターネットなら季節外れの物でも手に入る。
奈都は私にはポーチを、絢音にはブックカバーをくれた。ブックカバーは文庫サイズだ。絢音はよく教室でも小説を読んでいる。それをクラスの違う奈都が知っているかはわからないが、良い選択だ。私経由で知り合った仲なので、自分がもらう以上に緊張していたが、とても無難なチョイスで安心した。奈都は世間ズレしたところがあるので、内心ハラハラしていた。
絢音が次は私だと言いながら、紙袋を押し付けてきた。開ける前に「下着だから今着替えて」と言われて、思わず手を止める。
「友達のプレゼントに下着?」
「今、友達同士で下着を贈るのがトレンドなんだって」
「そんなトレンドは聞いたことがない」
困惑しながら開けると、中には薄い箱が入っていて、どうやらパスケースのようだった。開けてみると、しっかりした作りのシンプルなデザインで、使い勝手が良さそうだった。
ただ、下着ではなかったことを少しだけ残念に思う自分がいて、絢音がそれに気が付いて、的確に指摘してきた。
「下着の方が良かった?」
「絢音の選ぶ下着に興味がなかったって言ったら嘘になるね」
「じゃあ、来年は下着にするから、直前にサイズ教えてね」
絢音がくすっと笑う。私の方は普段使っているヘアオイルとハンドクリームで、「私と同じ香りになるよ」と言って渡すと、絢音が嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
その瞳があまりにも純粋だったから、私は頭を抱えて大きく首を振った。
「やめて! そんな目で私を見ないで!」
「急になんだ?」
涼夏が目を丸くして、事情を知っている奈都が小さく肩を震わせた。プレゼントのことをすっかり忘れていて、買いに行く時間もなかったから、普段使いしているケア用品の予備を可愛くラッピングしただけである。洗いざらい告白してから、「私をなじって!」とすがりつくと、絢音は冷たい目で私を見下ろした。
「サイテー。正直、見損なった……」
「絢音……」
本当になじられるとは思っていなかったので涙目になると、絢音がくすっと笑って私の髪を指で梳かした。湿度は高いが、絢音の手の中でさらりと流れ落ちる。
「トリートメントとか気にしたことがなかったけど、そっか。千紗都はちゃんと手入れしてるから綺麗なんだね」
絢音が目を細めて、うっとりと私の髪に指を絡める。自分ではわからないが、もしかしたらそうなのかもしれない。髪の毛だけなら涼夏と戦えそうだが、そう言ったらどうせまた顔もだと言われるだけだろう。
しばらくプレゼントの感想を喋ってから、たこ焼きパーティーをしようとリビングに移動した。私は孤独な人生を送ってきたのでしたことがないが、一般的にはどうなのか。たこ焼き器を準備する涼夏に尋ねると、涼夏は「私はあるねぇ」となんでもないように言った。そもそも、したことがあるからしようという発想になるのだろう。
「まあ、私は料理部だったからね。中学時代は友達と遊ぶのに、何かを作るっていうのが普通にあったんだよ」
「料理が遊びになるっていうのは、勉強は遊びの一つだっていう、絢音に近いものを感じる」
私が真顔でそう言うと、涼夏が「勉強は遊びじゃない」と断言した。そういう話ではないが、私も同感なので頷いておいた。
奈都と絢音もしたことがないようで、ふるふると首を振る。奈都が「ぼっちじゃなくてもしたことがない」と、加勢するように言ってくれたが、傷が深く抉られただけだった。よろめく私を見て絢音がくすくすと笑う。涼夏が生地と具を用意しながら言った。
「それにしても、ぼっちの千紗都って想像できないよね。我らが部長だし」
涼夏の指先越しにお皿を見ると、具はタコ以外にも、イカ、チクワ、ソーセージ、ホタテ、ホウレン草、チーズ、ツナ、餅など、思ったより遥かに多彩だった。なるほど、楽しそうだ。変な具がないのも涼夏らしい。美味しいことがまず大前提なのだろう。
「千紗都がぼっちでいたら、私なら唯一の友達になって、依存しまくってもらうのに」
タコ焼き器に生地を投入しながら涼夏がそう言うと、奈都が困ったように微笑んだ。
「私がそれをやったはずなんだけど」
「いや、ナッちゃんは部活と千紗都と二足のわらじだったから失敗した!」
「失敗はしてないと思う」
苦笑しながら奈都を弁護したが、涼夏は妄想でいっぱいなのか、まるで聞いていないように続けた。
「私なら部活も辞めて、もうおはようからおやすみまで、四六時中一緒にいて、完全に私無しじゃ生きられない体にするね! 千紗都がトイレに一緒に行こって、私の服をつまみながら言ってくれたら、私はもう昇天する」
「今すぐ昇天して。たこ焼きの具にして食べるから」
「怖っ!」
「涼夏も十分怖いから!」
くだらない言い合いをしながらも、涼夏は手を休めずにたこ焼きを作っている。絢音は皿を持って相変わらず笑い転げている。危ないから皿は置いた方がいいと思う。
「ナツも、今涼夏が言ったみたいにしてたら、今頃私たちは千紗都と一緒にいなかったかもしれない」
絢音が柔らかく微笑むと、奈都は静かに首を振った。
「今すっごい楽しいし、二人がいなかったら、私はチサとキスとかしてなかったと思うし。二人がいて良かったって、心から思ってるよ」
「ナッちゃん、いい子! 正妻!」
涼夏が感極まったように、竹串を私に押し付けて奈都に飛び掛かった。涼夏に組み敷かれて、奈都が悲鳴を上げる。気にはなるが、それよりも今はたこ焼きだ。たこ焼きなど焼いたことがないが、一体どうすればいいのだろう。
涼夏と奈都が変な声を出している横で、絢音と二人でたこ焼きを引っくり返す。綺麗な球体になると、なんだかとても愛おしい。
「後から食べてあげるからね」
優しく微笑むと、絢音がぷっと噴いて私の肩にもたれかかった。
「千紗都、面白さに磨きがかかったね」
「そんなことはない。今日は絢音の笑いのツボが浅いだけ」
「3人でお笑いトリオを組もう。私、笑うの担当ね」
「その担当、要る?」
すべてのたこ焼きを引っくり返すと、額に浮かんだ汗を拭った。いつの間にか静かになっていたので振り返ると、涼夏が奈都の上に覆いかぶさって、うなじを舐めながら胸を揉んでいた。奈都はもう完全に諦めたように、ぐったりと肢体を床に投げ出している。私は思わず変な声を上げて、慌てて涼夏を引き剥がした。
「何してるの!?」
「いや、新しい肉体の感触に興奮した」
「私の友達に欲情しないで! 涼夏には私がいるでしょ?」
「なんだその台詞。子宮がジンとした」
「怖っ! 絢音、この人、変!」
私が涼夏を指差して訴えると、絢音は竹串でたこ焼きをつつきながら情けなく眉をゆがめた。
「いいから、たこ焼き手伝って」
「はいはい」
涼夏が仕方なさそうに竹串を取る。隣で奈都が半身を起こして、疲れたように息を吐いた。
「やっぱり、帰宅部はみんな頭がおかしい」
「すぐに慣れるよ」
応援するように背中を叩くと、奈都が驚いたように私を見た。
「えっ? 慣れた方がいい?」
それはわからないが、翻弄されている奈都は面白いから、嫌ではないならそのままで構わない。
とりあえず、まずはたこ焼きだ。奈都と涼夏が仲良しになるのは大いに結構だが、今日の主役が誰かは忘れないでいただきたい。
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