第19話 文化祭 4

 次のLHRまでには係も決まり、文化祭の準備もにわかに進み始めた。ただ、それはクラスだけでなく、各部活も同じである。部活は文化祭の準備だけではなく、当然通常の練習もしている。大会や発表が近い部もある。どうしても部活が忙しくてクラスが手伝えないという子も出始めて、そのたびに私たち帰宅部が走り回っていた。

 男子で部活に入っていないのは江塚君と川波君の他に3人いて、みんな指示さえ出せば積極的に動いてくれるのは嬉しい誤算だったが、それ以上に抜ける人数が多かった。遅くまで残って当日のシフト表を作っていたら、涼夏が私の向かいに座って大きく息を吐いた。

「皆さん、もっと責任感を持って取り組んでください」

 そう言いながら、ぐったりと机の上に突っ伏して腕を伸ばす。今日は廊下の窓の下に貼る、店の名前やクラスを書いた貼り紙を作ってくれていたはずだ。もちろん、それも元々の涼夏の係ではない。

「ユナ高は元々部活が盛んだからねぇ」

 髪をぐりぐりと撫でると、涼夏が顔だけ上げて私を見つめた。

「千紗都は楽しそうだね」

「そう?」

 小さく首を傾げて見つめ返す。確かに最初の頃は楽しかったが、今このシフト表作成がなかなかに面倒くさい。作るたびに、この時間はダメだとか、誰々と一緒は嫌だとか、必ず誰かが文句を言ってくる。一度いい感じのものが出来たが、生徒会からステージ企画の時間が発表されると、この時間はあれが見たいとかこれが見たいとか、再び色々な注文がついた。

 とりあえず次を最終案として出して、後は個人間で調整してくれと言うつもりだが、いい加減にして欲しい。もっとも、私が作り始めたのが早すぎたのも否めないので、仕方なく作り直している。

 そんな愚痴を零すと、涼夏が苦笑いを浮かべた。

「愚痴ってる千紗都も可愛いな」

「すごい脱線したから。まあでも、充実はしてるよ。こんな経験なかなか出来ないし」

「ポジティブだな。キスしたい」

 突然すごいことを言い出した。今この瞬間、教室には私と涼夏しかいないし、少しくらいは大丈夫かと顔を近付けたら、開け放していたドアから男子の声がした。

「なかなか面倒なことになったぞ。おっ、猪谷さんだ」

 江塚君が嬉しそうな顔で入ってきて、私たちの近くに座った。涼夏が「猪谷さんだよ」とわけのわからない返しをする横で、江塚君がからかうような目をして言った。

「今、キスしようとしてた? 誰もいない教室で美女が二人。禁断の恋」

「そうだね。後10秒遅いか、声を出さずに入ってきてたら、そういうのが見られたかもね」

 テキトーにそう言うと、江塚君が声を上げて笑った。機嫌が良さそうだが、何が面倒になったのか聞くと、途端に渋い顔になった。

「千円の徴収を出し渋ってるヤツが何人かいる。まあ、事情は色々あるだろうけど、返ってくる大前提なのになぁ」

「あー」

 私も困ったように唸った。中にはお小遣いが3千円という子もいるし、そういう子ほど親の理解が得られなかったりもする。無い袖は振れない。こればかりは仕方ない。

「人数によっては、私が立て替えてもいいよ?」

 涼夏がそう言って、無邪気に微笑んだ。アルバイトをしている涼夏には、極端な話、全員から徴収する全額すら出せない額ではない。しかも返ってくる前提だ。説得する手間を考えたら、その方が早いと考えるのは自然である。私も同意するように頷いた。

「涼夏が立て替えるかは別にして、出せない子は飛ばしてもいいんじゃない? 返金もないだけで、その分仕入を調整するとか」

 私たちの言葉に、クラスの文化祭実行委員長は静かに首を振った。

「公平じゃないのは文化祭の理念に反する」

「でも、そもそも親ガチャが公平じゃないんだし、仕方なくない?」

 涼夏が不思議そうに江塚君を見つめた。親ガチャなどという単語が出てくるのは、涼夏自身がそれを失敗したと思っているからだろうか。涼夏が片親なのは江塚君も知っている。居心地悪そうに「まあそうだけど」と前置きしてから、明るく笑った。

「まあ、先生と一緒に説得を続けるよ。ちょっと仲間に愚痴りたかっただけ」

「それくらいは聞いてあげよう。私の江塚君への愛情ポイントは鰻下がりだけど」

「元々ゼロだろ。鰻、下がんなよ」

 江塚君が無念そうに頭を振った。随分と仲良くなった。元々涼夏は男子が苦手ではないし、友達もたくさんいる。江塚君もその一人だ。

 川波君が他の男子と一緒に作業を終えて帰ってきたので、そろそろ帰ることにした。涼夏と並んで教室を出ると、廊下で珍しい顔に遭遇して思わず声を上げた。

「奈都! 今部活終わり?」

「うん。二人がこんな時間にいるのはレアだから、一緒に帰ろうかな。あっ、デートの邪魔だったら言ってね」

「私たちがナッちゃんを邪魔に思う世界などない。逆は知らんけど」

「私も涼夏が大好きだから!」

 奈都がムキになるように否定して、教室の方に走っていった。奈都は毎日部活があり、帰宅部の私は数えるほどしか奈都と一緒に帰ったことがない。朝は毎日一緒に来るのに、考えてみれば不思議だが、朝一緒だからこそ帰りは無理していないのはある。

 教室から出てきた奈都と合流して帰路につくと、開口一番文化祭の進捗を聞かれた。やはり今はこの話題が一番ホットだ。

「遅れてはないけど、部活が忙しい子が多くて、帰宅部の私たちが走り回ってる」

 私がそう答えると、奈都は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「それは本当に申し訳なく思ってる」

「別に奈都には言ってないけど」

「人のこと言えない状況だから」

「そっちはどう?」

 涼夏が大きな瞳で奈都の顔を覗き込んだ。奈都の所属するバトン部は、模擬店でポテトとジュースを売るらしい。もちろんステージでバトンの演技もするし、やはりなかなかクラスの方に顔を出せないとため息をついた。今日も奈都がいつも部活の練習を終える時間より遅い。

「まあ、模擬店の方は先輩たちがいるから、私たちは指示通りに動いてるだけで楽だけどね。来年のために覚えろとは言われてるけど」

「先輩がいるのは楽でいいな。考えてみると、私は帰宅部だし、先輩の知り合いが一人もいない」

 涼夏の隣で私もコクリと頷いた。今は生徒会に顔を出しているので、こちらが一方的に名前を知っている先輩は何人かいるが、知り合いと呼べるような仲ではない。名前すら覚えてもらっているか怪しい。

「涼夏は料理部だったから、去年は後輩とかいたんだよね?」

 奈都が無邪気に質問する。それは、私が部活を辞めたから後輩がいないという皮肉だろうか。もちろん、そんなわけはないが、敢えてがっくりと肩を落とすと、奈都が慌てた様子で私の肩を掴んだ。

「そういうことじゃないから!」

「いいの。今澤部長、来年バド部の後輩が入ってくるといいですね」

「私、今はバトン部だし! 大体、一つ下の後輩はチサだって知ってるでしょ?」

「もう忘れた。歴史に葬り去った」

「忘れないで!」

 実際、私が部活を辞めたのは中2だから、一つ下の後輩はいた。何故か憧れの眼差しを向けられていたが、大会に一度も出たことがない私に対して、バドミントンで憧れていたわけではないのは明らかだ。

 私と奈都のやりとりにくすくす笑ってから、涼夏がそういえばと手を打った。

「私が1年だった時に3年だった料理部の先輩が一人、結波にいるや。声かけたことないけど」

 それは初耳である。涼夏自身も、今思い出したように言ったから、特に親しくもなければ意識もしていないのだろう。ちなみに、私の母校のバドミントン部からユナ高に来ている先輩は、同世代では一人もいない。これは奈都とも確認したから間違いない。

「涼夏の唯一の知り合いの先輩なのに。色々高校のこと、教えてもらうチャンスだったじゃん」

 入学してすぐは、初めての高校生活に不安もあれば、不慣れなこともたくさんあった。部活に入っている子はそういう相談を先輩にできるが、帰宅部では難しい。先輩に知り合いがいるのなら、声をかければ良かったのにと言うと、涼夏はあっけらかんと笑った。

「私は別に何の不安もなかった。それに、向こうは私のことなんて覚えてないだろうし」

「涼夏は絶対に、中1の時から目立つくらい可愛かった。知らないけど断言できる」

「私が可愛いのはメイクしてるからだよ」

「いや、そんなことはない」

 私と奈都の声がハモって、思わず顔を見合わせて笑った。涼夏がやれやれと首を振る。可愛い自覚はあるようだが、それがメイクのおかげだというのはどこまで本音なのだろう。すっぴんを何度も見ているが、ノーメイクでも涼夏の可愛さは学年でトップクラスだ。

 上ノ水まで歩くと、改札をくぐってイエローラインに乗った。電車の中は音がうるさいのであまり喋らず、途中の駅で涼夏と別れる。

 帰宅部の私たちには遅い時間だが、サラリーマンには普通に帰宅時間だし、部活帰りの学生も多い。中央駅の手前では満員になって、すぐ目の前に奈都のうなじがあったから嗅いでみた。奈都がすぐに気が付いて頬を赤らめる。

 中央駅で大半の人が下りると、奈都が非難の声を上げた。

「なんでいきなり嗅いだの!?」

「そこにうなじがあったから」

「私、運動部だから! 体育館、まだまだ暑いから! わかるよね?」

「わかる。汗臭い奈都、興奮する」

 真顔でそう告げると、奈都は両手で顔を覆って首を振った。

「私のチサが完全に壊れた。頭のおかしい変態になっちゃった」

 ひどい言われようだ。思わず半眼でジトッと睨んだ。

「嘘泣きしながら私をディスるのは楽しい?」

「事実だよ!」

「汗臭い奈都に興奮したのもまた事実だ」

 冷静にそう告げると、奈都が諦めたように肩を落とした。

 最寄り駅で降りると、奈都が夜空を見上げながらニッと笑った。

「いよいよチサの誕生日だね」

 そういえばそうだった。今週末は涼夏が私と絢音の誕生日会を企画してくれていて、それに奈都も参加する。それもあって、私の誕生日はすっかり週末の気分でいた。

「忘れてた」

 素直にそう言うと、奈都が「そんなに文化祭の準備が忙しいのか」と無念そうに呟いてから、明るい瞳で私を見つめた。

「プレゼント、当日がいい? 週末がいい?」

 一体何をくれるのだろう。奈都の誕生日にはお揃いのブレスレットをプレゼントした。小さなものなら朝もらってもいいが、涼夏はプレゼントを渡すのを楽しみにしているだろうし、誕生日当日もどうせ文化祭の準備でバタバタして落ち着かないだろう。週末の方がいいと言うと、奈都は大きく頷いた。

「じゃあ、そうするね。忙しそうだけど、チサもプレゼントは準備した?」

「私はもらう側だから。クリスマスじゃないんだし」

 奈都はプレゼント交換でもするつもりだったのだろうか。準備しているわけがないと軽く手を広げると、奈都が一瞬驚いたように眉を上げてから、心配するように私の顔を覗き込んだ。

「チサとアヤの合同の誕生日会だよね? アヤもチサのプレゼントを用意してないの?」

 そう言われて、思わず5秒ほど固まった。それは考えなかった。思わずそう呟くと、奈都が大きな動きで手を振った。

「いやいやいや! 考えるでしょ!」

「どうしよう」

「私に聞かれても知らないから」

「奈都が私にくれたものを、そのまま絢音にプレゼントする」

「最低だから!」

 奈都が間髪入れずにそう突っ込む。大袈裟な動作が可愛い。

 忘れていたものは仕方ない。どうにか時間を作って買いに行くとしよう。私には何かを手作りするスキルはないし、それが何かを買うより早いということも絶対にない。

 別れ際、そっと奈都を抱き寄せると、奈都が驚いたように「えっ」と声を漏らしてから、納得したように私の背中に手を回した。

「帰宅部のハグだね?」

「うん。いくら奈都が幽霊部員でも、それくらいの情は持ち合わせてる」

「帰宅部は掛け持ちできない部だって聞いたけど」

 そう言いながら、奈都が私の髪に顔をうずめながら、背中を強く引き寄せた。絢音ではないが、薄い夏服は肌の感触がダイレクトに伝わってきて気持ちが良い。奈都が私の背中に指を這わせながら、熱っぽい声で言った。

「帰宅部、毎日こんなことしてるのか。ヤバイね」

「いや、もう少し軽い感じだから」

「久しぶりに1時間チャレンジしたい。チサをむさぼりたい。いい匂いがする。柔らかい」

 奈都が興奮気味に私の腕や腰の肉を揉んだ。砂糖の味を覚えた子供か、肉の味を覚えたライオンか。部屋で何度も1時間チャレンジしているのに、初めての帰り道でのハグは、奈都には少し刺激が強すぎたのかもしれない。

「奈都、頭のおかしい変態みたいだよ?」

 汗の匂いのする奈都のうなじを嗅ぎながらそう告げると、奈都は私を抱きしめたまま首を左右に振った。

「チサが可愛いからいけないの。私はリトマス紙と同じくらい、自然な反応をしてる」

「私のせいなの?」

「手芸部に転部して、チサのぬいぐるみを作って部屋に飾りたい」

 それはさすがにドン引きだ。道行く人の視線が痛かったので体を離すと、ニヤけた顔をしている奈都の唇をそっと塞いだ。10秒ほど唇を吸ってから顔を離すと、奈都は感極まったように顔を覆って崩れ落ちた。

「チサがハグしてキスしてくれる、なんて幸せな世界。私、帰宅部に入る」

「いや、バトンへの情熱はどこに行ったの?」

「文化祭が終わったら辞める」

「辞めなくても、ハグもキスもするから」

「チサ、自分を安売りしちゃダメ」

「どっちだよ!」

 わけがわからず、二人で笑ってから、また明日と言って別れた。

 奈都のいる帰宅部。奈都にはバトン部を続けてほしいが、たまにこうして一緒に帰ることができたらいいなと思う。

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