第6話

 一瞬、そこに天使が立っているのかと思った。

 人間じゃないような、聖なる霊のような。


「ようこそ、聖クローバー女学院へ」


 春風のような声が、マナトの耳をくすぐってくる。

 キュッと笑っているのは、わずかに幼さの残る口元。


 胸元から十字架をぶら下げた女性が、一歩一歩と近づいてくるたび、アロマのような香りがぷ〜んと流れてくる。


 ここの理事長は、てっきり中年のおばさんと思っていた。

 道徳とルールを絵に描いたような、威圧感あふれるシスターが出てくると身構えていた。


 むしろ真逆。

 修道服チュニックの中に優しさといつくしみを詰め込んだレディが、きれいな眼差しを向けてくる。


 言葉を交わさなくてもわかる。

 いかなる犯罪者といえども、この女性に敵意を向けるのは不可能。


 とてつもないオーラが全身からあふれ出している。

 西洋画の中から抜けてきた聖人のように。


「私が理事長を務めております、シスター・ユリアと申します。海馬マナさん、あなたのことを歓迎いたします」


 シスター・ユリアはマナトの手をつかんだ。


 年齢は30代の前半。

 すらりとした長身はモデルさんみたい。


 親近感を覚えてしまうのは、ふっくらした唇と、人懐っこい目元のせいだ。


 嘘をつくことを許さない。

 聖母のような存在といえる。


「海馬マナトと申します。ここでは女生徒として過ごすため、海馬マナを名乗らさせていただきます」

「はい、すべての事情は把握しておりますよ」


 ぷにぷにぷに。

 シスター・ユリアはさっきからマナトの指に興味津々といったご様子。


「きれいな指ですね。本当に女の子みたいです」

「どういたしまして」


 今度は顔をペタペタされる。


「女のような顔つき。絶世の美女ならぬ、絶世の美男子ですね」

「さすがにめすぎではないかと……」


 マナトが困っていると、こほん、とセイラが横槍を入れてきた。


「シスター・ユリア。マナはいちおう、男ですので。修道女シスターであるあなたが、そのように気安く触れるのは、いかがなものかと」

「良いではありませんか。これも友好の証ですよ。秘密を知っているのは3人だけなのですから」


 シスター・ユリアは少女みたいに笑う。


「まったく……」

「うふふ……マナさんが愛らしくて、つい。許してくださいね、セイラさん」


 さっそく写真を撮ってもらうことになった。

 なんでも、マナトの学生証のため必要らしい。


 白亜の壁の前に立たされる。

 引き出しからカメラを取り出したシスター・ユリアが、パシャパシャと撮影をはじめた。


「ちょっと表情に変化をつけましょうか。はにかんでみて」


 マナトは少しうつむいた。


「いい感じ、いい感じ、今度は微笑をちょうだい……そうそう……困ったような顔もいいわね……とってもプリティーよ」


 かれこれ50枚くらい撮影される。

 さすがに見かねたセイラが、こほん、と咳払せきばらい。


「そのくらいで十分でしょう。それ以上は、モデル代を請求いたします」

「あらあら、セイラさんを怒らせちゃったかしら」


 シスター・ユリアがとぼけたので、セイラの目つきがムッとなった。


「なるほど。マナの受け入れに、やけに協力的と思っていましたが、そのような魂胆こんたんがあったとは」

「人聞きが悪いわ。マナさんが私の趣味に似ていただけで、お二人を困らせようとか、そのような意図はありませんわ」


 魂胆?

 私の趣味?

 なんのことか理解できないマナトは小首をかしげる。


「さて、あいさつと写真撮影は終わりました。私とマナは移動で疲れておりますから、このあたりで失礼いたします」

「は〜い、ごゆっくり〜」


 シスター・ユリアがバイバイと手を振っている。

 マナトも手を振り返そうとしたら、セイラがやや乱暴に理事長室のドアを閉めてしまった。


「ふん……シスター・ユリアのことは、人格者だと思っていましたが、自分の立場を利用して、マナにお触りしたのは、さすがに許せませんわ」

「どうしたのですか、お嬢様? さっきのは、単なる握手では?」

「なっ……⁉︎」


 セイラは心外だというように首を振った。


「自分がされたことを理解していますか⁉︎ 顔に触られたのですよ! 大切なマナの顔に!」

「あれは私の顔をもっと近くで観察するため。それに顔へのタッチなら、お嬢様もよくやっているではありませんか」

「違います! いえ、違いませんが、それでも違います!」


 やっぱり理解できないマナトは、キョトン顔をつくってしまう。


「まあ、いいですわ。これはマナに命令です。今後、シスター・ユリアに触れられるようなことがあったら、どこを何秒触られたのか、24時間以内に私に報告しなさい。全部報告しなさい」

「はぁ……承知しましたが……」


 そんな会話を交わしながら、寄宿舎へ向かった。


「ところで、お嬢様。私の転入は急に決まりましたが……その……」

「何か心配なことでも?」


 部屋はあるのか?

 相部屋じゃなくて……。

 マナト専用の部屋は?


「……ということが、ずっと気になっていました」

「心配には及びませんわ。私がそのことを失念しているとでも?」

「いえ、お嬢様に限って、手落ちがあるとは思えません」

「そうです。ちゃんと場所は用意してあります」


 セイラはどこか含みのある笑い方をした。

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