第10話
ある晴れた平日のこと。
太郎様と花子様は教会堂へおもむきました。教会堂に入ってみると、そこにはエリヤ様とヨハネスだけがいました。このように、エリヤ様とヨハネスだけがいるということはよくあることなのです。
ヨハネスはオルガンの横でぼうっとしていて、エリヤ様は前の方の席で祈りを捧げています。これもよく見る光景です。その光景は、実に神秘的で、この青い光の中では信仰の深さとは何であるかを思わず考えたくなります。とは言いましても、わたくしも神を信じる者ではないのですが。おそらく、蟲の中の誰もが、神という存在を信じていないでしょう。その概念すらないかもしれません。蟲というものは、神を感じぬものなのです。
太郎様と花子様はいつも通り後ろの方の席に座って、それぞれ天井を見たり十字架を見たりなさいました。こうしているときの田中のご兄妹は、特に何も考えていらっしゃらないのが常です。神も地獄も、蟲の世界すらも、お二人の中にはありません。もともと静かにしていられる場所を求めてここに来ているのですから、こうして頭を空にしているのも自然というものでしょう。
そうして暫く経つと、太郎様は懐からちょこれーとを取り出してきました。なんと、体温でも溶けない、焼きちょこです。
「ムスビ。食うか」
「はい」
わたくしはすぐに、というよりもほとんど慌てて眼帯の下から這い出しました。ああ、ちょこれーと! あいすの次に愛しています。たまりません。
花子様も懐から虫眼鏡を取り出して、そこに自分の目を映しました。
「ホウリも食べる?」
花子様が訊ねると、すぐにホウリが出てきました。出てくるときに勢いがつきすぎて、ぽんっという音がしました。ホウリもちょこれーとがたまらないのです。
太郎様は封を切って、机の上にちょこれーとを並べました。わたくしとホウリは、田中のご兄妹も手を伸ばして食べるだろうことを考えて、小さな体のままちょこれーとを食べ始めました。
むしゃむしゃ。
さくさく。
むしゃむしゃ。
さくさく。
焼きちょこなので食感が独特です。たまらないおいしさです。
そうしていると、エリヤ様が祈り終えました。
エリヤ様は席を立ってこちらにやってきました。さらりさらりという服の衣擦れが、本当に静謐で、神秘的に感じられました。
そうしてそばに来ると、ちょこれーとを一生懸命に食べているわたくしとホウリを見下ろして、ふふと微笑みました。ちょこれーとの甘さに酔っている中では、その笑顔を見るだけでとろけてしまいそうです。
「チョコレート、おいしそう」
「食うか」
エリヤ様の言葉に、太郎様がそう言います。
エリヤ様が頷いたので、太郎様は一粒つまんでエリヤ様に差し出しました。エリヤ様は体をかがめると、太郎様の指先にあるちょこれーとの粒を口に含みました。
体を起こすと、エリヤ様は天使のごとく微笑みました。
「……おいしい」
「そうか」
そう言って、太郎様も一粒口に含みます。
花子様はちょこれーとに手を伸ばして、二粒持っていくと一粒ずつ口に含みました。
「……最近は、どう?」
「最高だわ」
「……そう」
エリヤ様は前の席に腰を下ろすと、髪の毛を耳にかけました。
「どんな様子だったの?」
「病にかかっている自分をもうこれ以上世話させられないと感じて、自ら蟲の世界に落ちたようだ」
「……そうなの」
エリヤ様は切なそうな笑みを見せました。そして聖書を開くと、それを読み上げました。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」
エリヤ様はそっと聖書を閉じました。
そして暫く黙り込むと、エリヤ様はそっと口を開きました。
「……誰かのために自分が犠牲になることは、ある。もちろん、誰かが自分のために犠牲になることも。だから人は、互いを大切にしないといけない」
「だが、人は大切にされることに飢えていて、大切にすることに飢えている人間はいない」
「飢え乾きは、与えられないと潤わないと思っている人は、多いと思うの……。でも本当は逆なの。与えて初めて、人は潤うの」
「与え方が独りよがりになる人間も多い」
「何を与えるべきか、何を与えてはいけないか……。何が愛で、何が毒か。それは、神にしか完全に見分けられない。だから人は成長が必要なの。人はみんな赤ん坊。与えて欲しがりで、何も分からず、時には人を困らせる。だから目を開いて、与えることを覚え、何を与えるべきか学ぶの……」
「それを学ぶには、人間は機会を奪われすぎている」
「大切なのは、自分がきっかけになること……。待つのではなく、行動する者になるの。そのためには、祈って、主に助けを求めるの。どのように行動するべきか。これは愛か、これは毒か、教えてくださいと助けを乞うの」
「祈って答えてもらえるなら苦労はしない」
「主との対話は、聖書と、祈りによってだけ。祈って分からなければ、聖書をよりどころにするの。聖書は神のことば。神の愛だから」
「神の愛か。漠然としているな」
「愛は寛容であり、愛は親切。決してねたまず、自慢せず、思い上がらない。自分の利益を求めず、無礼な振る舞いをしないもの。愛は自分のやり方を押し通そうとはしないの……。それに、苛立たず、腹を立てない。人に恨みを抱かず、人から悪いことをされても気に留めず、決して不正を喜ばずに真理を喜ぶ。愛は、どんな犠牲を払っても誠実を尽くし、全てを信じ、最善を期待し、全てを堪え忍ぶの……」
「そんなものか」
「そういうものよ」
四人とわたくしとホウリしかいない教会堂は、実に静かでした。わたくしとホウリがちょこれーとを食べる音だけが響いています。
教会堂には、牧師様も、信徒も求道者も、誰も現れる気配がありません。こんなに素晴らしい天気なのに誰も来ないのを見ていると、まるで誰かがこのようにこの空間を用意したかのように感じられます。
そんな静かな青い光の中、ふと、エリヤ様が顔を上げました。
「正しい人は、苦しむことが多いもの」
「突然、何だ」
太郎様はいつもの調子で問いかけます。
「この世界は罪によって呪われている。だから、正しい人は、呪われた世界の中で正しさのゆえに苦しんでしまう。ゆがんだ世界の中では、まっすぐなものはまっすぐさを保とうとするほどに苦しむもの」
「そうかもな」
「世界は神のみこころによってできているの。でも、人の心は神に逆らうようにできている。神を、神の愛を捨てること、それを最大の罪と呼ぶの」
「そうか」
「でも、それでも神は人間を赦し、愛してくださる。そのことに気付いて、愛されているように神を愛せば、それだけで人間は救われる。それは人間同士でも同じこと。互いに愛し合い、赦し合うことができれば、この世に罪なんてない」
「理想論だな」
「……でも、それが真理」
エリヤ様は微笑みました。
「蟲の世界は……血と絶望の世界。それは、愛を知らない人の心にとても似ている」
「そうか」
「ひとたびそこに落ちてしまえば、人間は罪深さの故に、蟲にはなれない……。でもね、わたし時々考えるの」
「何を?」
と、花子様。また二粒食べています。
「人間は愛を待ち望むが故に、蟲にはなれないんじゃないかって」
「新説ね」
確かにそうです。人が蟲になれない理由は、未だに解明されていません。それは、人間が罪深いからとされていますが、それが事実だとは誰にも分からないのです。
エリヤ様は天使のようなお顔をして、ふっと息を吐きました。その息の香りは若々しく、また清純でした。
「人は愛されたいと思うもの。それは、蟲の世界に落ちてからも同じこと……。愛を諦めるか、愛を求めなければ、きっと蟲になれるんだわ。愛を求める蟲がいないように。でも、這いずるものが愛を求め、それに応える人間がいたとしたら……。もしかしたらと思うの。……私がヨハネスを助け出せたのも、きっとそう」
「そうって? なあに?」
「わたし、蟲の世界に落ちた這いずるものを見たとき、ああ……悲しいと思ったの。誰にも愛されず、蟲の世界でたった一人で、這いずっているだけの存在。誰にも愛されないことは、絶望だわ。だからわたしは、這いずるものに手を差し伸べたの。絶望を捨てて、愛情を受けてと。そうしたら、救い出せた」
「そうだったのね」
花子様はまた二粒口に放り込みました。
「這いずるものは多分、愛を待ち望んでいるの……。でもそれが永遠に与えられないから、永遠に這いずるばかりなんだわ」
「新しい考え方だわ」
エリヤ様は手を組み合わせて、祈る姿勢を取りました。
「永遠の愛さえあれば、蟲の世界も、きっと」
きっと。
しかし、蟲の世界が愛によって救済されたら、わたくしたちはどうなるのでしょう。
不意にそんな思いがよぎりましたが、そんなことはすぐに過ぎ去っていきました。蟲の世界が救済されたら、蟲の世界が終末を迎えたら。そうしたら、きっとわたくしたちは新しい何かになる。そんな不思議な予感がしたのです。ですからわたくしは不安などなく、焼きちょこをむしゃむしゃさくさくと食べ続けました。
「そうだといいわね」
「……そうだね」
エリヤ様は指をほどきました。
その時、いつの間に移動していたのか、ヨハネスがオルガンの前に座っていました。
そしてヨハネスはオルガンを弾き始めます。
そのオルガンの音に乗せて、エリヤ様は歌い始めました。
「神ともにいまして、ゆく道をまもり……あめの
天使のような歌声でした。
エリヤ様の歌の翼と共に、穏やかな時間は過ぎていきました。
蟲引き 兎丸エコウ @tademaru_echow
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