第9話

 風の爽やかな日でした。

 いつになく過ごしやすい日で、こんな日が永遠に続けば快適なのにと思わせるものがありました。

 日差しも強くも弱くもなくちょうどいい感じです。そんな日差しがさし込んでくる教会堂の中には、ほとんど人がおりません。それでもいつもよりぽつりぽつりと人がいるのは、この陽気と気候に誘われて、ふらりとやってきた人が多いからでしょうか。

 そんな中、教会堂の後ろの席に座って、太郎様と花子様はぼうっとしていました。祈ったり聖書を読んだりしている人が大半な中、何をするでもなく座っているお二人は何だか異質です。

 ヨハネスはオルガンに座って、田中のご兄妹以上にぽかんとした顔でぼうっとしています。

 太郎様と花子様がそうしていると、そこに近付いてくる人がありました。エリヤ様でした。

 エリヤ様は相変わらず天使のような微笑みをたたえて、お二人を見下ろしました。

「……今日は、すごしやすいね」

「本当だわ。いつもこうならいいのに」

「ふふ……」

 エリヤ様は笑みをこぼすと、前の席に腰を下ろしました。

「どう? 最近……」

「お仕事がないわ」

「そうなの……?」

「と言っても、数日穴が開いているだけなのだわ。そんなに問題ないわ」

「そう……」

 エリヤ様は安心したように微笑みました。

「エリヤこそどうなの?」

「どうって……?」

「あの気持ち悪い男、また現れていない?」

「悪口は、だめよ」

「じゃ、柊喜久馬は現れていない?」

「うん……。とっても平和」

「そうなのね」

 エリヤ様はふと、聖書を開きました。

「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを受けるべき子らでした」

 そして聖書を閉じると、すっと目を閉じて、また開きました。

「わたしも、柊さんのことは悪く言えない……。なぜなら、人はみな欲と罪の奴隷になっているから。キリストに従っていても、従いきれない中途半端さがあるの……。わたしもそう。完璧なんてできない」

 太郎様はエリヤ様を見ました。

「人間なんてそんなものだ」

「そうだね……。だからこそ、イエスの十字架が必要だった。イエスは人間の罪全てを背負い、わたしたちの代わりに死んでくださった……。そうして甦られたのは、神が人間をお赦しになった証し。赦すつもりがなければ、イエスは甦ることなく、罰せられた姿のままだったでしょう」

「だがそれは無駄だったのではないか。人間はいまだに欲望が優先だ」

「神はそれでも人間を愛し、ご自分の胸にかき抱きたいと思っておられる。だからこそ、いつまでも自分を愛するのではなく、自分を愛してくださる主を愛するの……」

「愛くらい受け取るのが難しいものもない。特に愛を知らずに育った人間は、愛の概念が分からん」

「でもそういう人ほど、愛の理想型を自分の中に作り出し、渇望するもの……。そしてその理想型は、間違っていないの。神の愛とは、愛に飢えた人が求める愛と、同じ性質のものなのだから……」

「そんなものか」

「そういうものよ」

 エリヤ様はそっと微笑みました。

 教会堂の中では、いつもの平日より人がいる割に、静かな空気が流れています。

 そんな静かな教会堂の中に、突然花子様のすまーとふぉんが鳴り出しました。しかし、その音に反応する人はいません。みな、自分の祈りや聖書に集中しているのです。

 花子様はすまーとふぉんを耳に当てました。

「ええ。ええ。そうなのね。分かったわ」

 短く会話を終えると、花子様はすまーとふぉんをしまいました。

「兄様。お仕事だわ」

「そうか」

 太郎様は天井を見つめたまま返事をしました。

「……お仕事なのね」

「行ってくるわ」

「気を付けて。……主の平安がありますように」

 エリヤ様はいつものようにそう言うと、席を立ちました。するとそれを見ていたかのように、ヨハネスがオルガンを弾き始めます。

 エリヤ様はそれに乗せて、歌いました。

「やすかれ、わがこころよ、主イエスはともにいます……」



 向かった病院は、改築されたばかりで真新しく、光って見えました。向かうのは、ここの精神病棟です。

 そこに入院なさっているのは、加藤かとう睦彦むつひこ様という方です。統合失調症で入院なさっています。隣の家から聞こえる、トタン屋根が風に軋む音が気になりだしたのが最初だったといいます。それがあまりの騒音に聞こえるようになり、妄想が始まりました。そして裸で暴れ回ったり、自殺を試みるようになって、入院ということになったのでした。

 入院されてからもう三十年だそうです。発症が二十一歳の頃でしたから、五十一歳になっているはずです。

 睦彦様には妻がいました。景子けいこ様とおっしゃいます。そしてお二人の間にはゆうみ様というお子さんが一人。そのゆうみ様には夫がありませんが、こずえ様という娘さんがいます。梢様は四歳におなりです。

 この四人の中で、たった一人の男性、睦彦様が消えてしまいました。二日前のことです。

 太郎様と花子様は精神病棟の四階に向かいました。そこの個室に、ご家族で集まってもらっています。

 病室に着くと、太郎様は扉をノックしました。

 するとすぐに、扉から若い女性が顔を出しました。ゆうみ様です。三十歳のはずですが、もっと若く見えます。

「あ……もしかして」

「田中太郎だ。こっちは花子」

 太郎様が名乗ると、ゆうみ様の足下に、ひょっこりと顔を出す人があります。人、と言うにはあまりに小さな人です。梢様でした。

 ゆうみ様は梢様に気付くと、慌てて梢様を引っ込めました。

「こーちゃん、お利口に座ってて?」

「はーい」

 梢様は言うことを聞いて部屋の中に戻っていきました。

「失礼しました。どうぞ……」

 ゆうみ様に導かれて、病室の中に入ります。中にはベッドが一台あるだけ。そのベッドには、拘束具の跡でしょう、こすれた跡がありました。

 ベッドの前の椅子に腰を下ろしていた壮年の女性が、太郎様と花子様を見て慌てて立ち上がりました。そして丁寧に頭を下げます。景子様です。

 景子様は頭を下げたまま、申し訳なさそうに声を絞り出しました。

「こんなところまで……どうもすみません」

 景子様がそうしている間に、ゆうみ様が奥から折りたたみ椅子を出してきます。それを見て、太郎様はゆうみ様を制しました。

「椅子はいらない」

「え? ですが……」

「どうせすぐ帰る。気遣いは無用だ」

「そうですか……」

 ゆうみ様はそう言って、ご自分は梢様の隣に腰を下ろしました。梢様は椅子に座って脚をぶらぶらさせています。

 景子様はようやく頭を上げると、そっと椅子に座り直しました。憔悴したようなご様子でした。

 こうして親子三代の女性が並んでいると、顔の特徴がよく似ていることに気付きます。三人ともゆるやかな癖毛で、丸い目をお持ちなのです。

 暫し部屋の中がしんとしました。そして最初に口を開いたのは景子様でした。

「それで……あの、夫を……。捜してくださるというお話しなのですが……」

「ああ」

「警察の方にも届けたのですが、防犯カメラにも何の映像もないと言って、手がかりすらないと……どうしていなくなったのか分からないと言われてしまって……。それでも、見つかるものでしょうか……」

「見つける。任せろ」

 太郎様が断言すると、景子様はうっと涙をにじませて、ハンカチで目をぬぐいました。

「私……夫に帰ってきてほしいんです」

 その景子様の肩を、ゆうみ様が支えます。ゆうみ様は優しくお背中を撫でてあげました。

「私は……この三十年。夫の病状が少しでも軽くなるように、ずっと努力してきました……。かつてのあの人に戻ってほしい。ゆうみや梢に、あの優しくて愉快だったあの人を見てほしい……。その一心で」

「……お母さん」

「特にゆうみには見せてあげたかったんです……。ゆうみがお腹にいるときに、睦彦さんは病気になりました。だからゆうみは、お父さんが本当はどんな人だか、知らないんです……。……ゆうみのお父さんはこんな人だったよといくら口では伝えても、何も伝えられなくて……」

 ゆうみ様は無言で景子様の背中を撫でています。ゆうみ様も言葉がないようでした。

 そうしていると、梢様がぴょんと椅子から飛び降りてきて、太郎様の脚にしがみつきました。

「だっこぉ」

「こら、こーちゃん!」

 ゆうみ様は慌てて腰を浮かせます。しかし太郎様は慌てず、梢様を抱え上げました。

「別に構わん。座っていろ。話は聞いている」

「すみません」

 ゆうみ様は座り直しました。

 太郎様は梢様が落ちないよう、しっかりとだっこしてあげました。独身とは思えないほど手慣れています。

 太郎様が安定して梢様をだっこできているので、ゆうみ様も少しほっとなさったようでした。

 その太郎様と梢様の姿を見て、景子様はさめざめと泣き始めました。

「そうやって……そうやって、睦彦さんにもゆうみのことをだっこしてもらいたかった」

「……お母さん」

「考えるのはいつも過去のことです。あの人はこんなだった。付き合っている間こんなことがあった。……もしくはあり得なかった日常です。運動会ではきっとこんなだったろう。きっとカメラを構えて笑っていただろう。卒業式では涙を流し、成人式では張り切って晴れ着を着ていただろう……そんなことばっかりです。きっとばちが当たったんです」

「ばち?」花子様が問います。

「ばちです……。過去やありもしないことを想像して、現実に生きている睦彦さんを見てあげていなかったばちです……。でも……でも」

 景子様は声を詰まらせました。

「でもたまらないじゃないですか。ゆうみはどんどん大きくなる。あの人はどんどん遠くへ行ってしまう。理想と現実は離れて行くばかり……。今頃はこうなっていたはずだった、きっと未来はこうなるはずだ、そんなことを考えてしまうのは仕方がないじゃありませんか」

「そうね」

 花子様はいつもの調子で返事をします。

「……これは、ばちなんでしょうか」

 自分でばちだと言ったのに、景子様は太郎様と花子様にそう訊ねてきました。

「ばちではない」

 太郎様は梢様を抱えたままそう言いました。

「うううっ……」

 景子様はたまらず大粒の涙を流しました。ハンカチの隙間からこぼれ落ちてくる涙。その祖母の涙を、梢様はじっと見つめていました。

 ゆうみ様はそんな母の背中を、本当に優しく撫でてあげました。

「お母さん。お母さんは充分やったよ。私は見てたよ、お母さんが一生懸命お父さんを介護するの。夫婦の愛情ってこういうものだってそれで学んだの。だから、お父さんがどんなでも、私はよかったよ」

「ゆうみっ……ううう」

「お母さん、もう疲れちゃったね。もう充分頑張ったもん。お父さんからどんなに怒鳴られても、ものを投げられても、ずっと我慢してきたもん。だから、ね、もういいってことにしよ。お父さんは本当に遠くに行っちゃったけど、もう充分だってことにしよ」

「できない……できないできない!」

 景子様は激しく首を振りました。

「そんなの無理……私はあの人のことを諦められない……! だってまだあの人、元に戻る可能性あったかも知れない」

「お母さん……」

「私まだ夢を見てるの……あの人と散歩したい。喫茶店でお茶を飲みたい。私の料理を食べて笑ってほしい。普通のこと。そんな普通のことを、いつまでも夢に見てるの。私の夢は……そんな普通のことなの。でも神さまは、そんな普通の夢も叶えてくれない。だからずっと夢を見続けて……今でもそう。私夢を見てるの……」

「……お母さん」

 ゆうみ様は言葉を失っていました。

「でもそれは病気のあの人を否定することなんだって分かってる。向き合わなきゃいけないのは現実だって。現実の睦彦さんを愛せないなら、夢の中の睦彦さんを愛する資格なんて……本当はないのよ。でもどうしても夢見てしまうの……手に入らなかった幸せをもう一度って」

 景子様は声を上げて泣きました。

「でも、今度は本当にいなくなってしまった! どんな病気でも、私の夢が叶わなくても。でもあの人はいてくれた。ずっとここにいてくれたの、私のそばに! 会いに来れば会うことができる距離に、ずっとずっといてくれた! それで良かった……」

「……お母さん」

 ゆうみ様はうつむきました。

「……ごめんねお母さん。私お母さんの気持ち、ちゃんと分かってなかったよ……。お母さんはずっとつらい思いばかりしてると思ってた。お母さんがお父さんのことを愛してるのは知ってたけど、それでも苦しさが上回ってると思ってたよ。だから、今回お父さんがいなくなって……お母さん楽になれると思っちゃった」

「楽になんてならない……! ああしていればよかった、こうしてあげたらよかった。そんな後悔ばっかりで。もっと苦しい……」

「お母さん……ごめんねお母さん」

「……いいのゆうみ悪くない。お母さんが弱いのが悪いの」

 梢様は、祖母が泣いていて、それを母が慰めている光景を、じっと見つめていました。一応、非常事態だと言うことを理解している様子でした。

「それで、二日前には何があったんだ」

 景子様がある程度落ち着くのを待って、太郎様が問いかけます。

 景子様はハンカチを鼻に当てたまま答えました。

「二日前は……普通に面会に来ました。ゆうみと、梢と一緒に。それで、少しだけ一緒に過ごして……睦彦さんは拘束されていて、暴れていました。だから私達は、落ち着いたらまた来ますから、連絡してくださいと看護師さんに伝えて、すぐに帰ったんです。それが……それが最後になってしまって! もっと一緒にいてあげれば良かった……」

「あのね、こーちゃんね」

 突然、梢様が口を挟みました。

「こーちゃんね、じいじちょっとこわかったけど、ばあばがだいすきだってね、しってたよ」

「そうなのか」

 太郎様は真剣に話を聞きます。

「こーちゃんね、じいじがいってたよ。じいじね、あのね、ばあばだいすきだってね、いってたよ。ばあばやさしいってね、だからばあばだいすきだってね、いってたよ。こーちゃんもね、ばあばだいすき」

「梢……!」

 景子様は声を詰まらせました。

 太郎様は三人の女性の話を聞いて、総合してこう断言しました。

「嘘ではないな」

 その言葉を聞いた瞬間でした。景子様は堰を切ったように泣き出し、ゆうみ様も涙をにじませました。梢様は太郎様にしがみつき、そんな祖母と母を見ていました。

「問題は、二日前に何があったかだ」

 その太郎様の言葉には、ゆうみ様が応えました。景子様は話せる状態ではありません。

「お話ししましたが、二日前は本当にいつも通りの面会だったんです。父は拘束され、それから逃れようとして暴れていましたが、でもそれくらいで……それもいつも通りと言えばいつも通りで、変わったところは特に何も」

「そうなのね」

 と言って、花子様が虫眼鏡を取り出します。

「二日前に本当は何があったか、見せてもらうわ」

 と言うと、花子様は虫眼鏡に自分の目を映しました。レンズに横一文字に切れ込みが入り、ぎょろんと目玉が現れます。そしてそれがレンズから這い出してくると、梢様はびっくりして声を上げました。

「うわあ、こわいい」

 そう言って太郎様の首筋に顔をうずめます。

 太郎様はそれに構わず、わたくしのことも呼びました。

「ムスビ」

 わたくしは顔を伏せている梢様をびっくりさせないように、無言でそっと眼帯から這い出しました。そして梢様から見えないよう、太郎様の背中に回りました。

 眼帯から這い出してきて分かったことは、この病室には悲しみと申し訳なさとが滲んでいると言うことでした。誰の悲しみで、誰の申し訳なさか、景子様もゆうみ様もお泣きになっている今は分かりません。ですが、嘘の気配は微塵もありませんでした。

 その悲しみと申し訳なさの間に流れている、温かな感情も感じます。愛情でした。

「ホウリ。蟲の世界の入り口を探して」

 ホウリはふよりと漂うと、まっすぐにベッドの上に留まりました。間違いありません。そこが蟲の世界の入り口です。

「泣いているところ悪いが、そこにいられると危険かも知れん。立ってこっちに来てくれないか」

 太郎様が景子様方に声をかけます。太郎様の言葉の通り、お二人はよろつきながらも席を立ち、ベッドから離れました。そして太郎様と花子様の後ろに立ちました。

 それを確認してから、花子様はホウリに命令しました。

「ホウリ。何があったか見せてちょうだい」

 言われるまま、ホウリが映像を映し出します。

 病室の中には、ベッドに拘束されている男性がいました。睦彦様です。暫く睦彦様が一人の映像が続くと、やがて病室に入ってくる人たちがいました。

 景子様とゆうみ様と梢様です。

 お三方はそれぞれ椅子を引いてきて、それに座ると睦彦様を囲んで話を始めました。暫くはじっとしていた睦彦様でしたが、やがて体の動きが大きくなり始め、ベッドががたがた言うほど暴れ始めました。そこで景子様が睦彦様に声をかけ、病室を出て行きました。ややあって戻ってくると、景子様はゆうみ様と梢様に声をかけ、三人連れだって病室を出て行きました。

 すると、すぐに睦彦様は大人しくなりました。

 次に病室に入ってきたのは医師と看護師らしい人々でした。その人達は睦彦様の状態が落ち着いているので、何もせず出て行きました。

 そうして暫く、誰も来ない時間が続きました。

 すると、次の瞬間です。

 睦彦様が突然激しく暴れ始めました。そうすると、ベッドの足下から血の霧が立ち上ってきました。血の霧は睦彦様を包み込みました。完全に包まれてしまうと、睦彦様はすっと大人しくなりました。どこか安心したようにも見えます。

 そうして血の霧は睦彦様を完全に飲んでしまうと、またベッドの足下に沈んでいきました。後には、空のベッドが残っていました。

 映像はそこで終わりました。

 今の映像を、景子様も、ゆうみ様も、呆然として見ていました。

「え……」

 特に、景子様が一番呆然となさっています。

「え……今のは……つまり……どういうことなんですか」

「見たままだろうな」

 太郎様は淡泊に言いました。

 するとその声に呼応したように、ベッドの足下から霧が漂ってきました。

「お前の夫は、自ら蟲の世界に落ちたのだ」

 血の霧は病室内を覆い尽くしました。狭い病室はあっという間に血の色になり、すぐに血と絶望の世界に変わり果てました。

 小さな虫が多く這っている中、ベッドの上に這いずるものがいました。這いずるものはベッドの上でもぞもぞ動き、眼球のこぼれ落ちた眼窩をこちらに……いえ、景子様に向けました。

「あれが……あれが夫なんですか」

「そうだ」

 景子様はその場に膝を折りました。

「どうして……睦彦さん、どうして」

 しかし這いずるものは答えません。

「ムスビ」

「ホウリ」

 合図がありました。梢様はまだ太郎様の首に顔をうずめたままですが、わたくしは念のため視界に入らないようにそっと飛び出しました。

 そして這いずるものを食おうとした瞬間でした。景子様が太郎様に縋りつきました。

「待ってください! 待ってください! まだ戻ってこられるかも知れない!」

「無理だ。ああなってしまっては、元には戻れない」

「どうして睦彦さんは……どうして」

「推測だが」

 太郎様がそう言うと、景子様は太郎様を凝視しました。

「これ以上生きていてはいけないと思ったんだろう。だが病院の中では自殺の手段がない。だから、蟲の世界に落ちるしかなかった」

「え……」

「お前の夫は、お前への感謝と共に蟲の世界へ落ちたのだ」

 景子様は床に突っ伏しました。

 わたくしとホウリは、這いずるものをむさぼり始めました。

「ああ! ああー!」

 景子様の号泣が聞こえます。

「睦彦さん、ありがとう、私幸せだった、ありがとう」

 愛したもの。いまでも愛しているもの。普通の日常を共に過ごしたかったもの。ささやかな幸せを夢見ながら、叶わなかったもの。それでも互いへの感謝を忘れなかったもの。そういうものが、食われていきます。

 わたくしとホウリは、すっかり這いずるものを食ってしまいました。

 そして、梢様が顔を上げる前に、急いでそれぞれの元へ戻っていきました。ホウリまで慌てて虫眼鏡に突撃していきます。ホウリが戻ってくると、花子様は虫眼鏡をしまいました。

 やがて、ベッドの下から人間の世界が戻ってきました。狭い病室内はあっという間に元の風景に戻り、血も蟲も消えてなくなりました。

 景子様はまだ大声で泣いています。ゆうみ様も静かに涙を流していました。

「終わったぞ」

 太郎様が、梢様の頭を撫でてそう声をかけます。

 梢様はそろそろと顔を上げると、きょろきょろと周囲を見回しました。

「こわいの、いない?」

「ああ。いない」

「ばあばとまま、すごくないてる」

「ああ」

 そして梢様が下りたそうに身じろぎしたので、太郎様は梢様をそっと下ろしてあげました。

「ばあば、まま」

 梢様は景子様の頭を撫でました。

「ばあば、いたいのいたいの、とんでいけー」

 太郎様はだっこしていたことで乱れてしまった服を直しながら、いつもの声で言いました。

「これで全て終わりだ。お前は自由になった。これからは自分の人生を生きるといい」

 景子様もゆうみ様も小さく頷きました。

 それを見もせず、花子様は太郎様の顔を覗き込みます。

「兄様。行きましょ」

「ああ」

 太郎様と花子様は連れだって病院を後にしました。

 病院の敷地をちょうど出たところで、蝶が飛んでいるのが見えました。それを目で追うと、そこには夜船様がいらっしゃいました。

「お疲れさま」

「ああ」

「今回はどうでしたかしら」

「レアケースだな」

「そうですか。どれどれ」

 夜船様はフクを構えて、病院の四階に向けました。

「フクちゃん。撮って」

 ぱしゃり。その音は、いつもより切なく聞こえました。

 写真が排出されてきます。その写真には、血の霧に包まれる睦彦様の姿が映っていました。その表情は、とても柔らかく安らかでした。

「うふふ」

 夜船様はいつになく上機嫌な笑みをこぼすと、袖から封筒を取り出しました。今までに見たことがないくらい厚みがあります。

「とてもとてもよかったですわ。これでも足りないくらい」

「そうか」

 太郎様は厚みに動じた様子もなく封筒を受け取ります。

「話には聞いていましたが、自分の目では初めて見ました」

「そうか」

「いいものが撮れました。また次の仕事は、おいおいご連絡差し上げますわ。それでは」

 夜船様は本当に上機嫌に去って行きました。

 夜船様が行ってしまうと、花子様はひょこんと太郎様の手にある封筒を覗き込みました。そしてそれをまじまじ見ると、いつものようにそれを抜き取って中身を見てみました。

「わあ、なあにこれ」

 封筒の中には、かつてないほどお金が入っています。

「数えられるかしら? ……いち、に……」

 花子様はかなり時間をかけて数え終えました。そしてその金額に驚きました。

「百万だわ! こんなことってあるのね」

 その金額にはわたくしもびっくりです。花子様は暫く紙幣を見つめてから、封筒にしまい直しました。

 そしてそれをいつものように太郎様の懐にさし込みます。

「兄様。お茶をしに行きましょ?」

「ああ」

 太郎様は懐の厚みに、全く興味がないようでした。太郎様と花子様は、連れだって病院から離れていきました。

 気持ちのいい、本当に気持ちのいい日でした。

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