第8話

 曇りの日でした。

 時々晴れ間が覗くものの、基本的には曇っています。比較的涼しく、過ごしやすい日でした。

 そんな日では、教会堂の中も心なしかひんやりして感じられます。太郎様と花子様は後ろの方の席で、それぞれ天井を見たり十字架を見たりしていました。

 実に静かな時間です。

 エリヤ様は今、前の方の席で祈りを捧げています。黙ったまま、心の中で祈りを捧げているご様子はとても神秘的で、触れると壊れてしまいそうな繊細さも感じます。その傍らには、ヨハネスがぼうっと立っていました。

 暫く祈り続けていると、やがてエリヤ様は顔を上げました。そうして席を立ってくると、田中のご兄妹の元へやってきました。ヨハネスはエリヤ様の後を追わず、ぼうっとしたままです。

「……どう、最近」

 エリヤ様が微笑みます。

「ご機嫌だわ」

「そう。……よかった」

 エリヤ様は前の席に腰を下ろすと、太郎様と花子様のお顔を覗き込みました。

「どんな様子だったの?」

「厳しい両親の言いなりになるのに耐えられなくなり、夢遊病のまま両親を蟲の世界へ落としたようだ」

 太郎様が答えます。

「……そう」

 エリヤ様は天使のごとく微笑むと、聖書を開いてそれを読み上げました。

「私は善を望んだのに、悪が来た。光を待ったのに、暗闇が来た。私のはらわたは、休みなくかき回され、苦しみの日が私に立ち向かっている。私は日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、集いの中に立って助けを叫び求める」

 聖書を閉じると、エリヤ様は教会堂の窓を見つめました。そこからは青い光がぼんやりと差し込んでいます。

「苦しみのただ中にあっては……人は、盲目になる。けれどヨブのように、主を叫び求める人もいる」

「叫び求めたくらいで助かるなら、誰もがそうするだろうな」

「叫び求めていいの……。主はそれを待っておられるから」

「待つくらいなら、苦悩が起こる前に助けてくれてもいいものだ」

「苦悩や悲しみが起こるのは、人間が罪深いから……。その罪の故に、自分や誰かを苦しめてしまうの。主はそのことをよくご存じだから、罪人つみびとのために涙を流し、共にいてくださる。そのことを分かって、主を探し求めれば、主は来てくださる」

「来てくれるという割に、救われない人間が多すぎる」

「主は来てくださるの。苦悩や悲しみを恐れてはだめ……。主はわたしたちの羊飼い。呼び求めれば、慈しみと恵みが、いつまでもわたしたちを追ってくるから。主はいつくしみ深く、苦難の日の砦。ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。主は、知っていてくださるの……」

「そんなものか」

「そういうものよ」

 静かな時間でした。ヨハネスは相変わらず、前の方で立ってぼうっとしています。

「ところで、エリヤ」

 花子様がエリヤ様に声をかけます。

「おかしなことはない?」

「おかしなこと……?」

「気持ち悪い男が来たりはしていない?」

「悪口は、だめよ」

 エリヤ様はやんわりとたしなめると、小さく首を振りました。

「……ううん、知らない人が来ることは、ないかな」

「本当に気を付けてよ。本当に気持ち悪いんだから」

「悪口は、だめよ」

 エリヤ様はもう一度たしなめました。

 エリヤ様は目を閉じると、そっと微笑みました。

「心配してくれてありがとう。……でも、わたしはだいじょうぶ」

「エリヤなら、心配いらないと思うけど。念のためだわ。念押しするわ」

「ふふ……」

 目を開いて、エリヤ様はくすりと笑います。まさに天使の微笑みでした。

「でも……その柊喜久馬さん、なかなか来ないね……」

「エリヤは来てくれるのを待っているの?」

「そうではないけど……」

「でも名前を呼ぶと、出てくるかも知れないわ。あの嫌な虫と一緒だわ」

「嫌な虫……?」

「ゴキブリよ」

「まあ……」

 エリヤ様はおかしそうに笑いました。

「呼んだからって、出てこないわ」

「出るものなのよ。本当だわ」

「出てきたら、どうするの……?」

「兄様に退治してもらうわ。私は別に、怖くなんてないけど」

「そう……」

 エリヤ様はまたおかしそうに笑いました。

「あの男も、似たようなものだと思うわ」

「そうかな……」

 エリヤ様は首を傾げました。

 その時でした。教会堂の扉が乱暴に開かれたのです。

 ばんという大きな音と共に現れたのは、いつか見た、ひょろりと背の高い気味の悪い男でした。

「その通り! ゴキブリは呼べば出る!」

 喜久馬様は大声を張り上げます。

 それに顔を向けたのは、優しい顔をしたエリヤ様だけでした。太郎様も花子様も、全く視線すら向けません。ヨハネスはもとよりぼうっとしています。

 一瞬しんとしました。

 それに不満げに口を尖らせると、喜久馬様は太郎様と花子様を順番に指さしました。

「ちょっとちょっとちょっと、なんだよう。僕のこと無視ぃ?」

「用なら聞かんぞ」

 太郎様は冷たく言い放ちました。

「なんだよう! 普通、何の用だっていうところだろうぅ?」

「じゃあ訊いてやる。何の用だ」

「訊くならこっち見て! ねえ!」

「訊いてやったんだから満足だろう。帰れ」

「冷たいなあ。相変わらず冷たい」

 喜久馬様は体をくねらせて不満そうにしました。

 その間に、花子様がエリヤ様に耳打ちします。

「ね、気持ちが悪いでしょう」

「悪口は、だめよ」

「ちょっとそこぅ! 気持ち悪いのは確かに僕の売りだけど! もうちょっと気を遣ってくれないかなあ!」

 エリヤ様は喜久馬様を見ました。そして立ち上がると、そっと両手をそろえました。

「ようこそ、青い家エクレシア福音教会へ」

「やあ! やあやあ! あんたが栗花落エリヤ! 実物は本当に綺麗だなあ!」

 喜久馬様は踊るように入ってくると、エリヤ様の前に立ちました。そして高い背をにゅっと曲げて、まじまじとエリヤ様の顔を見ました。

「うん、実に綺麗だ!」

「ありがとう」

「それじゃさっそく」

 と言うと、喜久馬様は体を起こして右腕を振り上げました。

「血と絶望の世界へ落としてあげるよぉ!」

 喜久馬様が腕を振り下ろした、その瞬間でした。

 白いものが、高速で飛んできて喜久馬様を弾き飛ばしました。弾き飛ばされた喜久馬様は、空中で体勢を整えると、教会堂の扉まで飛んでいってそこに着地しました。

 喜久馬様は顔を上げて、自分を弾き飛ばしたものを見ました。

 エリヤ様の前にゆらりと立ち上がったのは、ヨハネスでした。ヨハネスが喜久馬様を弾き飛ばしたのです。

「そいつが例の死体か……!」

 弾き飛ばされたときに口を切ったのか、喜久馬様は口をぬぐいました。

 ヨハネスは喜久馬様を見ず、虚空を見つめています。

「死体風情が、僕の邪魔をできると思うなよぅ!」

 と言うと、喜久馬様は右脚を踏みならしました。

 するとどうでしょう、喜久馬様の右脚から、血の世界が広がってくるではありませんか。広がりだした蟲の世界は止まることを知らず、教会堂を飲み尽くしました。

 教会堂の中は血と絶望の世界に変わり、様々な蟲が行き来しています。青かった教会の中は赤黒い世界に変わり果てました。

 しかし、太郎様も花子様も、エリヤ様やヨハネスを心配するそぶりを見せません。花子様は両手で頬杖をついて成り行きを見ていますが、太郎様に至っては見もしません。

 赤黒い世界では、髪が白く、服も白いヨハネスは目立っていました。青い空間だった教会堂の中にいたときとは、また違う神々しさを放っています。

 そのヨハネスにかばわれているエリヤ様も、赤黒い世界にありながら天使のようなお顔を崩していません。

 そのエリヤ様を見て、喜久馬様は体をのけぞらせて笑いました。

「綺麗だねえ綺麗だねえ! でも残念、その綺麗なお顔はもうすぐ溶けちゃう!」

 喜久馬様は笑いながら右腕を振り上げました。するとその右腕は機械のように枝分かれして、鎌のような形になりました。

「僕も蟲引きでねえ! この義肢は蟲のマユちゃん! よろしくちゃんっ」

 エリヤ様は異形の鎌を見ても動じませんでした。ただ落ち着いて、ヨハネス越しに喜久馬様を見ています。

「柊さん」

「なあにぃ?」

「どうして、人々に蟲の世界のことを教えるの?」

「そうだなあ、最後に教えてあげちゃう! それはねえ、だって楽しいから!」

「楽しい?」

「そう楽しい! 人々が憎悪を向け合って、あおりあって、欲望のままに他人を陥れていくのを見るのが楽しい! だってそうじゃん? 人間の汚い部分ってさ、他人事で終わるならどこまでも娯楽じゃん? 僕にとってはどんな人間も他人他人他人! だからぜーんぶ娯楽!」

「……そう」

「そうだよ、めちゃくちゃ楽しい! まるで漫画読んでるみたいだよね、虐待に耐えかねて父親をドボン! 育児に耐えかねて子どもをドボン! 介護に疲れて妻をドボン! ぜーんぶ楽しかった!」

「そうなの……あなた……」

 エリヤ様は天使の視線で喜久馬様を見つめました。

「かわいそう」

「ああー?」

 喜久馬様はエリヤ様の言葉に、笑いながら顔を歪めました。

「かわいそう? 僕が? え? 何言っちゃってんの?」

「……あなたはとてもかわいそう。快楽に溺れて、快楽の奴隷になっている。人はもっと自由になれるはずなのに、快楽にとらわれてそれを放棄している」

 喜久馬様は目をぴくぴくとけいれんさせました。エリヤ様の言葉がとても気に触った様子です。

 ですがエリヤ様は、喜久馬様の怒りに動じていませんでした。ただ淡々と、いつものように天使の顔をなさっています。

 そのエリヤ様の表情を見て、喜久馬様は体をのけぞらせながら奇声を上げました。

「かあーっ! いけ好かないねえ、本当にいけ好かないねえ! 涼しい顔しちゃってさ、これからどろどろに溶けちゃうって言うのに!」

 喜久馬様は飛び上がりました。エリヤ様めがけて鎌を振り上げます。

「落ちろぉ、栗花落エリヤぁ!」

 エリヤ様はそれを見ませんでした。ただ、そっと目を閉じました。

「ヨハネス、乱暴はだめよ」

 鎌がヨハネスごとエリヤ様を貫く、と思われた瞬間、ヨハネスが懐から銀色の拳銃を取り出しました。そしてぼうっと虚空を見つめたまま、引き金を引きました。

 ガンッ! という激しい音がして、鎌が弾かれました。喜久馬様はもう一度空中で体勢を立て直すと、間合いを取って着地しました。

「ちょっとちょっと、銃刀法違反じゃないっ? そんなの反則じゃない? まあ、銃弾なんてマユちゃんには効かないけど!」

 喜久馬様がもう一度駆け出そうとした刹那、鎌が急に形状を崩して叫び声を上げました。黒板を爪でひっかくような不快な叫び声です。

「ま、マユちゃんっ?」

 喜久馬様はさすがに動揺しました。マユは枝分かれし、と思うとまとまり、また枝分かれし、ということを繰り返しました。

「マユちゃん、マユちゃん! ちょっとどうしちゃったんだよう!」

「……以前、中世の吸血鬼退治の専用キットを譲ってもらったことがあったの」

「ああ?」

 エリヤ様はそっと喜久馬様を見つめました。

「……銀の弾丸。蟲には、銀」

 エリヤ様は静かにおっしゃいました。その言葉を聞いて誰よりもそろりと寒気がしたのは、他ならぬわたくしでした。

 蟲には銀。そうなのです。触れる分には構いませんが、体内に入るとそれは猛烈な毒となります。銀を撃ち込まれれば、どんな蟲でもひとたまりもありません。

 マユはのたうち回りました。喜久馬様にも制御できないほどに激しく。

「銀んん……!」

 喜久馬様は顔を歪めました。

「でも僕は諦めないぞう! 商売の邪魔なんだよ栗花落エリヤッ! 落ちて落ちて、這いずるものになってしまえーっ!」

 ぼろり。

 喜久馬様の左の眼窩から、眼球がこぼれ落ちました。

「……え?」

 喜久馬様は呆然としています。

 そうして何事か理解できていない間に、頬の皮がべろりと溶けて剥がれました。

「え? え? ええ? な、なんで?」

 喜久馬様は頬をおさえました。右の方の眼球も、今にもこぼれ落ちそうです。

 腕の皮が、脚の皮が、どんどん溶けて剥がれていきます。喜久馬様は混乱していました。

「え? え?」

「……残念だわ」

 エリヤ様は静かに言いました。

「落ちるのは、あなたが先」

「え? なんでっ? だって、落ちる順序は」

「……落としたいと最も思われている人間が、一番最初」

 エリヤ様が混乱している喜久馬様に、優しく話します。

「蟲の世界は、人間の心を映すもの……。だから、人間の意思がなければ現実世界には出てこられない。その代わり、ひとたび現れれば人間の心を色濃く映す」

「そうじゃん! だってそうじゃん! 今この場で一番落としたいと思われてるのはあんたじゃん!」

「……でも、現実はそうじゃない」

「なんでっ……」

 言いかけて、喜久馬様ははっとしました。

「死体……!」

 ヨハネスはまだ銀色の拳銃を握ったまま、虚空をぼうっと見つめています。その瞳には意思がなく、その表情には魂がありません。それでも、この中で一番強い思いを持っているのは、間違いなくヨハネスでした。

 喜久馬様の憎悪を上回るほどの、落ちろという思い。それはまさに呪詛、殺意でした。

「くぅうっ……!」

 喜久馬様がそう言うと、喜久馬様の右足から青い教会堂の床が現れてきました。そして清浄な光が世界を満たすように、元の教会堂が戻ってきました。

 青い聖なる光。壁に掛けられた十字架。元の人間の世界です。

 人間の世界が戻ってきても、マユはまだのたうち回っていました。喜久馬様はマユを抑えると、憎悪に煮えたぎった顔をしてエリヤ様の顔を睨みました。

 しかしエリヤ様は動じません。ずっと手にしていた聖書を開いて、そっとそれを読み上げました。

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」

 その言葉に、喜久馬様は激しく顔を歪めました。

「栗花落エリヤあぁ! 必ず! 必ず落とす! そうして未来永劫の苦しみを味わえばいいんだーっ!」

 喜久馬様はそう叫ぶと、乱暴に教会堂を出て行きました。

 教会堂の扉が閉まると、エリヤ様はそっと聖書を閉じました。そうして、天使のような顔をして、教会堂の扉を見つめました。

 ヨハネスは拳銃を懐にしまい、くるりとエリヤ様の方を向くと、倒れかかるように抱きつきました。

「わたしはだいじょうぶ……。でもねヨハネス、怒りも憎悪も、だめよ」

 ヨハネスはエリヤ様の言葉に返事をしませんでした。もとより返事など無理なのです。

 ヨハネスはエリヤ様をはなすと、ゆらりと立ちました。そしてそのまま、虚空を見つめ始めます。

 ゆったりと見物していた花子様は、体を起こして手を叩きました。

「お見事だわ。さすがだわ」

「……ううん。こんなのだめよ。柊さんに痛みを与えてしまったもの」

 エリヤ様はゆるゆると首を振りました。

「そんなの気にしなくてもいいのだわ。きっと明日にはぴんぴんしているんだから」

「……そうかしら」

「ああいうのは、しぶとくできているものだわ」

「なら……いいけれど」

 太郎様はそこでようやく顔を上げました。

「無事で何よりだ」

「……ありがとう」

 エリヤ様は天使のごとく微笑みます。

「だけど悪いことをしてしまったわ……。こんなことになるなんて、思っていなかっただろうし」

「自業自得だろう」

「その通りだわ」

 花子様も太郎様に同調します。

 それに対して、エリヤ様はふっと微笑んだだけでした。

 その時です。教会堂の扉が、ゆっくりと上品に開きました。その隙間から、蝶が入り込んできます。

 教会堂に入ってきたのは、夜船様でした。

 夜船様はエリヤ様やヨハネス、田中のご兄妹の姿を認めると、実に品よく微笑みました。

「お邪魔いたしますわ」

「ええ、ようこそ」

 エリヤ様も天使の笑顔で迎えます。

 夜船様は近付いてくると、ぐるりと教会堂の中を見回しました。それから壁に掛けられた質素な十字架を見て、そっとエリヤ様を見つめました。

「大変でしたね」

「……いいえ」

 それから夜船様は太郎様と花子様を見下ろしました。

「今のは、柊喜久馬でしたね」

「そうだ。知っているのか」

「存じてますわ。有名な方です」

 夜船様はくすりと笑いました。

「ああいう方がいらっしゃるから、あたくしも道楽をたしなめるというもの。あなたたちも、仕事の上でお世話になる相手なのだから、仲良くなさいな」

「でも気持ちが悪いわ」

 花子様は正直な感想を言います。花子様の率直な物言いに、夜船様は目を細めました。

「ああいう方はいくらでもいます。でもエリヤさんのように這いずるものを救い出せる存在は希少です。つまり、それをよく思わない人間の方が多いと言うことですわ。これから、こういうことが沢山起こるでしょう」

「あら、それじゃ困るわ。唯一静かにしていられる場所なのに、騒がしくなっちゃ」

 花子様はエリヤ様の心配はしていませんでした。むしろご自分の環境の心配です。

 エリヤ様は花子様の言葉を聞いて、小さく頷きました。

「わたしも、こういうことは、あまり……。礼拝の時に来られても困るし、ヨハネスを静かにさせてあげたいの」

 夜船様はエリヤ様の顔を見ました。

「でも、これはあなたの宿命なのです。希有な性質を持ってしまった、あなたの」

「わたしは特別ではありません……。救い出せたのも、ヨハネスが唯一です」

「本気を出せば、もっと多くを救えますでしょう」

「いえ、本気なんて……」

「まあいいでしょう。それでも蟲の世界に人々を落とそうとする人間にとっては、十分に脅威です。蟲の世界は永遠の地獄。その永遠が、あなたの手で終わる危険すらあるのです」

「そんな……おおげさです」

「いいえ、大袈裟ではありません。一人の這いずるものを救い出した。それは前例がないではありませんが、そういうことがあると、蟲の世界の救済という話がいつも囁かれるものです」

 その話を、ヨハネスはぼうっとした顔で聞いています。いえ、聞いてはいないでしょう。ただぼうっと立っているだけなのです。

 夜船様はそのヨハネスを見ました。ヨハネスは何も反応を示しません。

 ヨハネスを暫く見ると、夜船様は改めてエリヤ様を見ました。

「あなた、この方をどうやって救い出したの?」

「特に、何も……。ただ、手を取っただけ」

「この方は、その手を受け入れたのですね。だから、救われた。命を代償にして」

「……誰にでもできることです」

「いいえ、希有な行いです。這いずるものは多くの蟲にさえ無視されるような、哀れな姿に堕ちた人間のなれの果て。それを食う蟲は蟲引きの蟲くらいのもの。蓼食う虫も好き好きというものですわ。それの手を取ったのです。一人の罪深い人間を救ったのですわ」

 確かにそうです。ヨハネスも今はこんな調子ですが、以前は這いずるものだったということは、蟲の世界に落ちろと思われたと言うことに他なりません。つまりヨハネスも、誰かの恨みや怒りを買い、憎まれた人間なのです。

 ヨハネスにどんな物語があるのか、わたくしは知りません。田中のご兄妹がこの教会に通うようになった頃には、既にヨハネスはいました。ですから過去のことは何も分からないのです。

 年齢や、性別や、国籍すら分からないヨハネス。その生前に一体何があったというのでしょう。

 エリヤ様は何もお応えになりませんでした。ただ、天使のようなお顔をして夜船様を見ています。

 夜船様はその天使の顔に応えるように上品に微笑むと、太郎様と花子様を見ました。

「とにかくご苦労様でした。これからはあなたたちもエリヤさんを助けるのですよ」

「あら、見ていたの?」

「あなたたちのことです。勝算があると分かっているいさかいには、参加しませんでしたでしょう」

「兄様、ばれてるわ」

「そうか」

 花子様も太郎様もいつもの調子です。

「エリヤさんがいなくなれば、蟲の世界の救済ということも不可能になるかも知れません。それだけは避けるのです」

「でもそうなったら、夜船さんのお遊びはできなくなるわ」

「そうしたら、新しい遊びを見つければいいだけのこと……。ご心配なく、人間の暗部を楽しむ方法は、何も蟲だけではなくってよ」

「そうなのね」

 花子様の返事に、夜船様はふんわりと微笑みました。

 そしてフクを構えると、教会堂の扉の方を向きました。

「フクちゃん。撮って」

 ぱしゃり。静かな教会堂に、乾いた音が響きます。

 そうして排出されてきた写真には、蟲の世界で左目がこぼれ落ち、皮膚も所々溶けた喜久馬様の姿が映っていました。その顔は憎悪に歪んでいます。

「うふふ……」

 夜船様は実に満足そうに微笑むと、袖から封筒を取り出しました。そしてその封筒を、エリヤ様に差し出します。

「いいものが撮れました。お礼ですわ」

「え……? いえ、受け取れません」

「お受け取りなさいな。そんなに高額でもありません」

 エリヤ様は暫し迷うと、そっと封筒を受け取りました。

「それじゃ、お仕事の話はおいおい。お邪魔しましたわ」

 そう言って、夜船様は蝶と一緒に出て行ってしまいました。

 すると花子様が立ってきて、エリヤ様の手にある封筒をそっと抜き取りました。

「お礼って、どんなかしら」

 と言いながら、中身を出します。

「二十万! いい金額ね」

「あら……」

 想像以上の金額に、エリヤ様が困ったような顔をします。

 しかし花子様は気にしていませんでした。

「ね、これから皆で、お茶をしに行きましょ?」

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