第4話
よく晴れた日でした。
太郎様と花子様は朝から教会堂でぼうっとしていました。こうして晴れていると、教会の青い光がよりいっそう輝いて見え、清涼でいながら神秘的な雰囲気を醸し出します。
今日もあいすがあればもっとよいのですけれど、わたくしもそうわがままを言うわけには行きません。太郎様か花子様があいすと言い出すまで食べられないのは仕方のないことですし、食べられるまで我慢するのです。そうすれば、我慢していた分だけ、あいすへの愛は深まるというものです。
ああ、あいす。甘美な冷たさ。
わたくしがあいすのことを考えていると、お二人に近付いてくる人がありました。
エリヤ様とヨハネスでした。ヨハネスは珍しくオルガンの横にいないで、エリヤ様の後ろについてきていました。たまにこういうことがあるのです。まるでヨハネスにも意思があるかのように振る舞うことが。
命がないので、本来自分の意思などあるはずがありません。それでもエリヤ様を慕っているように見えるのは、心というものがまだ残っている証しなのか、それとも心があった名残なのか。
エリヤ様は田中のご兄妹がお顔を上げたので、ささやかに微笑みました。
「……おはよう」
「ああ」
太郎様の反応は淡泊です。
「……この頃は、どう?」
「最近なかったくらい良かったわ」
「……そう。よかった」
エリヤ様は田中のご兄妹の前の席に腰を下ろしました。ヨハネスは立ったままです。
「それで、どうだったの……?」
「妻の介護に絶望がつのって、妻を蟲の世界に落としたそうだ」
「……そうなの」
エリヤ様は教会堂の青い光の中、神秘的な表情を見せました。現実から遠く離れた表情のようです。
エリヤ様は聖書を開くと、それを読み始めました。
「私をあわれんでください。主よ。私は苦しんでいるのです。私の目は苦悶で衰え果てました。私のたましいも、私のからだも。悲しみのうちに、私のいのちは尽き、嘆きのうちに、私の年は果てました。私の咎によって、私の力は弱まり、私の骨は衰えてしまいました」
聖書を閉じると、エリヤ様はそっと窓を見つめました。
「……耐えられないような悲しみや苦しみは、ある。だからこそ主の助けが必要なの」
「神にすがったって、現実は変わらないさ」
「大切なのは、現実を変えることに執着することではないの……。どんなときでも、主が共にいてくださり、共に背負ってくださると分かることなの」
「それが本当に助けになるなら、苦労も絶望もしない」
「ダビデも言ったわ。なぜ私をお見捨てになったのかと。イエスも同じことを言ったわ。それでもイエスは言ったの……父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのか分からないのです、と」
「甘いことだな」
「主は必要なら悲しみを喜びに、絶望を希望に変えてくださる。……わたしたちに必要なのは、それを待つ忍耐なの」
「そんなものか」
「そういうものよ」
ささやかな時間でした。エリヤ様の黒服の上で、十字架がきらりと輝きます。装飾のない質素な十字架ですが、それがエリヤ様によくお似合いなのです。
ヨハネスは相変わらず、立ったままぼうっとしています。その白い髪が教会堂の青い光を受けて、水面のように光っていました。
静かな時間が暫く続くと、不意に花子様のすまーとふぉんが鳴り出しました。花子様はそれを手に取ると、耳に当てました。
「ええ。ええ。そうなのね。それなら夕方を狙っていくわ」
簡単に会話を終えると、花子様はすまーとふぉんをしまいました。
「兄様。お仕事だわ」
「そうか」
花子様が夕方に行くと言っていたので、太郎様はすぐには動きませんでした。
エリヤ様が田中のご兄妹の顔を、首を傾けて覗き込みます。
「……お仕事なのね」
「ああ」
「気を付けて。……主の平安が、ありますように」
そう言うとエリヤ様は立ち上がりました。そうしてオルガンの方へ向かいました。ヨハネスもそれについていきます。
エリヤ様はオルガンの前に座ると、それを弾きながら歌い始めました。
「主よみもとに近づかん……のぼるみちは十字架に……」
実に静かな時間でした。
その学校に着いた頃には既に放課後になっていて、部活動をする生徒達の活発な声が聞こえていました。
夕方と言っても、日の長くなってきた季節です。それほど日差しも赤くありません。そんな清涼な光の中、若い中学生達が運動しているのを見るのは、気持ちがいいものがあります。
太郎様と花子様は校門に付けられた呼び鈴を鳴らし、反応があるまで待ちました。呼び鈴にはカメラがついていて、訪問者の顔が分かるようになっていました。
ややあって、スピーカーから声が聞こえてきました。
「はい、ご用件をお伺いします」
「田中太郎だ。こっちは花子」
用件を言わずに、太郎様は名を名乗りました。既に用件は伝えてあるので、それだけで相手に分かるようになっていたのです。
名乗ると、スピーカーから「ああ……」という声がしました。
「あなた方がですか……。どうぞ、お入りください」
太郎様も花子様も返事をなさいませんでした。それで、声の人はぷつっと声を切ってしまいました。
田中のご兄妹は、下校のために開け放された校門をゆっくりとくぐっていきました。校内を歩く見知らぬ人に、何事かと視線を向ける生徒もいます。ですが、多くの生徒はあまり関心を示しませんでした。
生徒達にとっては、田中のご兄妹は外の世界のもの。言わば背景です。自分たちの世界に関係がなければ、無視されます。ですが太郎様も花子様も、注目されるのが目的ではないので、無視をし合うのもお互い様という感じで歩いていました。
校舎に入って職員室に着くと、太郎様はおもむろにその扉を開けました。
職員室の中はざわざわとしています。放課後も、教職員の皆様は仕事が多いと見えます。試験の期間でもないのに、パソコンに向かって何やら打ち込んでいる人の多いこと。お忙しいものです。
「あなたがたが、そうですね」
ふと、声をかけてくる教員の方がいました。その声はインターフォンで聞いた声でした。
見ると、三十代半ばくらいの若い先生が立っていました。
この学校では、昼休みや放課後に屋上が開放されています。女子生徒が消えたのも、一週間前の放課後のことでした。
「どうぞ、こちらに応接室があります」
洋介様が手で廊下を示すと、太郎様はそれを妨げました。
「別にいい。屋上が見たい」
「そうですか……。そうですね。こちらです」
洋介様も、早くことが進むのに納得なさったようでした。洋介様の先導で、屋上へ向かいます。一階、二階と上り、四階に着いて、その上が屋上です。屋上への階段は、よく生徒が利用することを示すように、埃一つ立っていません。
その階段を上り、屋上への扉を開けると、その向こうにいくつかの生徒のグループがあるのが見えました。それぞれおしゃべりをしている様子です。男子生徒もいましたが、女子生徒の方が多い印象でした。
洋介様は太郎様と花子様を屋上に招き入れると、屋上の扉を閉じました。
「監督の職員はいないの?」
花子様が問います。
「いません。基本的に、生徒には自由にしてもらっています」
「危なくはないの?」
「柵も高いですし、よじ登って向こう側へ行くことはできません。何より生徒同士気を付けてくれているので、危険なことをしている生徒がいればすぐに知らせてくれます」
「そうなのね」
花子様はそう言って屋上を見回しました。
実に穏やかな屋上です。生徒達がわっと笑い声を上げても、その声は空に吸い込まれていきます。
「一週間前の放課後も、いつもと同じ様子だったそうです。生徒達がそれぞれにグループを作って、自由に過ごす。少しやんちゃをしているグループもあったようですが、中学生はそれくらいで普通です。消えた生徒はどちらかというと大人しくて、他の生徒と交流するような子ではありませんでした。ですから、屋上にいたというのが不思議でならないんです」
「普段、その生徒は放課後どうしていたんだ」
「普段はすぐに帰宅するような子でした。部活にも委員会にも入っていませんでしたし、友達も少ないようで……あ、でも、時々仲のいい数人のグループとふざけ合っているのを見ることがありました。でもそれも授業の合間くらいで、恥ずかしながら……学校が終わった後も、そのグループと遊びに行ったりしていたかどうか、私は把握していません」
「仲のいい友人がいたのか」
「はい。五人ほど」
「多いな」
「そうでしょうか。中学生くらいでは、普通では?」
しかし、大人しくあまり交流をしないという情報と、五人も友人がいるという情報とは、何だか一致しない感じもします。
花子様も納得できる情報とは思わなかったのでしょう、更に質問を重ねました。
「ふざけ合っていたというのは、どういう感じ?」
「ごく普通の感じですよ。くすぐったり、小突き合ったり。それはあの子の性格から考えれば少し激しい戯れだったかも知れませんが、付き合いのあるそのグループというのがクラスの中心的なグループで、活発な子達だったものですから」
「クラスの中心的な人達と、基本的に交流しない大人しい生徒。ちぐはぐだわ」
「そう思われるのも無理はありません。私も最初は不思議に思ったものです。でも観察していると、それが自然な交流であることが分かってきました。消えた生徒の特徴が、その子達の好みに合ったのです」
「好みって?」
「眼鏡ですよ」
「眼鏡だったのね」
「消えた生徒は赤いフレームの少し派手な眼鏡をかけていたんです。大人しさとその眼鏡とのギャップが、個性的に映ったのも当然でしょう。最初の話題はその眼鏡のことだったのをよく覚えていますよ」
「だけど、眼鏡一つで仲良くなれるものかしら」
「子どものうちはきっかけなんて小さなものですよ。最初は眼鏡でしたが、その内顔立ちとか、体型とか、そういうことにも話題が広がっていきました」
「顔立ちや体型って?」
「太っていたんですよ」
「太っていたのね」
「それに本をよく読んでいたので、それにちなんだあだ名がついたりもしていましたね」
「どんな本を読んでいたの?」
「ライトノベルというやつです。今時の子にはちょうどいい読み物ですよ。あなた方は読まれないんですか?」
「私も兄様もその本は読んだことがないわ」
「そうなんですね。まあ……私も読んだことはあまりないのですが。なかなか荒唐無稽で、おもしろいですよ」
「そうなのね。今度読んでみるわ」
花子様は考えの読めない笑顔でそう言いました。
その時、わたくしの鼻をぷんととらえるにおいがありました。
屋上に漂う蟲の気配。それに重なってうっすらと、隠蔽の香りがするのです。何かを覆い隠す、その思いが漂います。
そのにおいは、この屋上の人間全てから漂っていました。
洋介様も、そのお一人です。
きゃっきゃっと言う笑い声が上がります。それに目を向けて、ああ、と洋介様は微笑みました。
「あの女子のグループですよ。消えた生徒と仲良くしていたのは」
見てみると、そこには校則違反の髪の色をした一人と、四人の黒髪の生徒がいました。みなスカートが短く、あぐらをかいています。体型はみな一様にほっそりしていて、顔に化粧も施しており、外見に気を遣っているのが分かりました。
確かに、クラスの中心的な存在になりそうな、そんな存在感があります。
でも、そんな生徒達を見ていると、消えた生徒とのちぐはぐさが余計に悪目立ちします。活発な、笑い声の高い生徒達。対して消えた生徒は、人との交流を控えた大人しい生徒。ライトノベルを愛読し、放課になればすぐに教室を立ち去る生徒。
そんな大人しい生徒が中心的グループの目にとまったのは、赤い眼鏡がきっかけでした。
太郎様と花子様は暫しじっとそのグループを見つめました。
すると視線に気付いたグループの一人が、ちらりとお二人を見て、それから仲間にこっそりと何か囁きました。その瞬間、どっと笑いが起こります。
中でも明るく髪を染めた一人の生徒は、手を叩いて笑っています。
「コスプレかよ、きんも」
「あれ何? 和服?」
「和服と違くない?」
「確かにちょっと違うかも」
「何あの格好。キャラなの?」
「勘違い凄くない?」
どっと笑いが起こります。
それと同時に屋上に漂ったのは、嘲笑と高慢の香り。快感と、そして一抹の不安。この生徒達は、人を笑うことで自分たちを高く上げ、さげすまれないよう逃げているのです。漂う不安の中に、悪口を武器とし、人を攻撃し続けなければ安定していられないという、切実な思いがこもっていました。
と思うと、ますます不思議です。そういう不安を抱えた生徒達が、得意の武器を振るわずにいられるでしょうか。その大人しい生徒に対して。本当に、仲がよかったのでしょうか。本当に、ただの戯れで終わっていたのでしょうか。
そのことは花子様もお思いになったようでした。
「本当に仲がよかったのかしら?」
「ええ、とても仲がよかったですよ」
「いじめ……なんて」
花子様はこっそりと囁きました。かなり踏み込んだ言葉です。
しかし洋介様は穏やかなままです。
「ははは、いじめ? まさか。あの消えた生徒は人との関わりが苦手で、クラスにもなじめていませんでした。でも、あの子達がその分を補ってくれていたんです。クラスの他の子は消えた生徒を相手にしませんでしたが、あの子達だけは違います。いつも一生懸命関わっていましたよ」
「嘲笑が得意な人間に、そんな関わり方ができるのかしら」
「確かに……人をばかにするような部分もありますが、それは大人になるに従って消えていくものですよ。些末な欠点です。今の時期はそういう欠点に目を向けないで、仲間はずれになっている生徒を仲間に入れてあげたという美点に目を向けてあげるべきですね」
「そういうものかしら」
「そういうものですよ」
「私、教育のことは分からないわ」
「ははは、まあ確かに難しいですね」
洋介様は教育の観点で花子様の上に立てたので、少し気分がよくなったようでした。しかしそれを気にする花子様ではありません。ただ、いつもの妖しい笑みのまま洋介様を見つめています。
太郎様は笑っている少女グループから視線を外して、洋介様の顔を見ました。
「それで、消えた生徒はそういった関わりを喜んでいたのか」
「ええ、もちろんですよ。何しろ他に友達らしい子がいなかったんです。あのグループに囲まれる度、嬉しそうに笑っていましたよ。そう言えば、消えた生徒から直接言われたことがありましたっけ。あのグループと一緒にいると安心できるって」
「嘘だな」
凜、とした声が屋上に響きました。
その瞬間、屋上がしんとなりました。笑っていたあの少女グループも、太郎様の声に反応して黙り込み、こちらを見ています。
「嘘? 何が嘘です?」
洋介様はつとめてきょとんとなさっています。けれど濃厚に感じる、焦りと恐怖。わたくしの感じ取っているこれらのものは、太郎様には筒抜けです。
「消えた生徒と仲良くしていたと言うことも、その関係を喜んでいたという話も、何もかもだ」
静かな屋上には非常によく聞こえます。その太郎様の声は、少女グループにも届いていました。少女グループは煩わしそうな顔をして、こそこそと話し合いました。
洋介様もさすがに聞き逃せないと思ったと見えて、やや不機嫌な顔をしました。
「何を言うかと思えば。あなたは見ていないでしょう、彼女たちの様子を。私は見ていたんですから間違いなく断言できます。あのグループの子達と、消えた生徒とは、親友と言ってもいい関係でした」
「それが本当かどうか、見せてもらうの」
花子様は虫眼鏡を取り出しました。そしてそれに自分の目を映します。するとレンズに横一文字の切れ込みが入り、ホウリが現れました。
ホウリが手鞠ほどの大きさになってふよりと漂うと、それを見ていた屋上の生徒達は全員叫び声を上げました。異形の眼球が宙に浮いているのです。無理もありません。
「きもい! きもいきもい!」
校則違反の髪をした生徒も、そう言いながら後退っていきます。
そうして生徒達がホウリを避けた結果、田中のご兄妹の前には広場が出来上がりました。
「ホウリ」
名を呼ばれると、ホウリはふよりふよりと漂って、屋上を探しました。もちろん蟲の世界の入り口を探しているのです。ホウリが近付いたり離れたりする度に、生徒達は声を上げて逃げ惑いました。
そうして、屋上の真ん中でホウリは止まりました。あそこに蟲の世界の入り口があるようです。
「ムスビ」
「はい」
呼ばれて、わたくしも這い出します。太郎様の肩に止まると、おそれと、焦りと、このままでは真実がばれるとおののいている、その様々の感情が濃密に漂ってきました。
「ホウリ。何があったのか見せてちょうだい」
花子様に命令されると、ホウリはぽっかりと空いた屋上の空間に、過去を投影し始めました。
それは教室の風景でした。教室の前に立たされて、体型や顔のことを笑われている生徒が見えます。赤い眼鏡をかけていました。
「まじありえない! お前その顔でその眼鏡かよ!」
容赦なく降りかかる嘲笑。それでも生徒は耐えていました。
別の場面になりますと、後ろの席で本を読んでいる生徒が、本を取り上げられていました。
「げ! ラノベじゃん! まじきたねえ! きも! オタクじゃん!」
それでも生徒は耐えていました。
また別の場面になりますと、生徒が洋介様に相談しているところでした。洋介様は困ったような顔をしています。
「いじめ? そんなことを言われてもね……。君が仲良くする努力をしていないんじゃないかな? 心を広く持って、皆を受け入れる気持ちがあれば、うまくいくよ」
それでも生徒は耐えていました。
そういう場面がくるくると映し出されていきます。からかいも嘲笑も、一度ではなく二度も三度も、それ以上も。洋介様への相談も、何度も何度も。
それでも生徒は耐えていました。
奇妙なことに、生徒は耐えているのに、洋介様の表情がどんどん険しくなっていきました。
そうしてまた場面が変わりました。放課後の屋上の風景です。そこに、鬼のような形相の洋介様が、生徒を引っ張ってやってきます。そうして、屋上の真ん中で生徒を転ばせると、頭を屋上の床に押しつけました。
生徒は初めて抵抗しました。しかし、まるでお湯が沸騰するように、押しつけられた床から血がわき上がってきます。
生徒はどんどん沈んでいき、やがて消えてしまいました。
それを見ていた屋上の生徒達は、しんとしていました。
映像はそこで終わりました。
「……だって仕方ないじゃないか」
洋介様はぼんやりと呟きました。
「いじめ? そんな問題持ち出されちゃ、たまったもんじゃないよ。いじめなんてね、いじめられないような処世術を身に付けられなかった人間が悪いんだから。悪い人間に助けてと言われてもね、困ったもんだよ」
屋上の真ん中が、ゆらりと揺らめきます。そこから血が沸騰してきて、血が屋上を満たします。生徒達は逃げようとしましたが、もう無駄でした。既に血は屋上を覆い尽くし、そこは血と絶望の世界に変わっていました。
様々な蟲が飛んだり這ったりしています。そんなものなど目に入っていないのか、洋介様は突然頭をかきむしりました。
「問題を起こすなッ! カースト上位者に媚び売って生活してるのが楽なんだよ! いじめ? そんな言葉口にしなければ存在しないんだ! 悔しかったらカースト上位者になってみろ!」
屋上の真ん中に、這いずるものがいます。腹部が大きくふくれあがり、ずるり、ずるり、と這う姿は、大きな赤子のようです。
「ムスビ」
「ホウリ」
合図がありました。
わたくしとホウリは大きくなったり口を露わにしたりして、這いずるものを食べ始めます。
その様子を、生徒達は恐怖に引きつった顔で、洋介様は邪魔なものを見るような目で見ていました。
さげすんだもの。嘲笑の対象に定めたもの。救う価値などないと見捨てたもの。そういったものが、もだえ苦しみながら、それも生きながらにして食われていくのを見るのは、どんな心地なのでしょう。
すっかり這いずるものを食ってしまうと、わたくしとホウリは元の場所に戻りました。花子様はいつものように虫眼鏡をしまいます。
すると、屋上の中心から人間の世界が戻ってきました。人間の世界が完全に戻っても、生徒達は現実に戻ってこれていないような様子でした。へたり込んだり、泣き叫んだりしています。
洋介様は頭をかきむしりすぎて、その手指に髪の毛が絡んでいました。
「俺は悪くない……俺は悪くない」
「そうか」
眼帯を直しながら、太郎様は淡泊に応対します。
「厄介なやつを消して何が悪い? あのままあの生徒にいられたら、学校を巻き込んでの大問題だ。そうなる前に解決してやったんだ。俺は悪くない!」
「そうか」
太郎様は全く意に介した様子がございません。屋上の狂乱も、見る価値を見出していないかのようです。
「これで全て終わりだ。お前は自由になった。これからは自分の人生を生きるといい」
それを聞くと、洋介様はくすくすと笑い始めました。
「終わった……終わったんだ……俺は勝った……何事もなく、これからは平和に生きられる……」
花子様もそんな洋介様にはご興味がありません。太郎様のお顔を、ひょこんとのぞきこみます。
「兄様。行きましょ?」
「ああ」
お二人は連れだって学校を後にしました。
校門をくぐったちょうどその時、蝶が飛んでいるのを見つけました。その蝶を目で追うと、そこには夜船様がいらっしゃいました。
「お疲れさまでした」
「ああ」
「今回はどうでした?」
「どうでも。いつも通りだ」
「そう。……どれどれ」
夜船様は屋上に向かってフクを構えます。
「フクちゃん。撮って」
ぱしゃり。放課後の中学校の喧噪に紛れて、その音はとてもささやかでした。
排出されてきた写真には、屋上の床に生徒を押しつける洋介様の姿が写っていました。
「ふふ」
夜船様は満足そうに笑うと、袖から封筒を取り出しました。
「今回の謝礼ですわ。ご苦労様」
「ああ」
いつものように太郎様が受け取ります。
「次の仕事はまたおいおいお伝えしますわ。それじゃあ」
と言って、夜船様はゆったりと去って行きました。
花子様はひょこんと後ろから顔を出して、封筒をつまみ取りました。
「さあて、今回は?」
と言って、中身を確認します。
「十万。そこそこね」
お金を封筒にしまうと、花子様は太郎様の懐に封筒をさし込みました。
そして、両手を合わせると上目遣いに太郎様のお顔を見ました。
「兄様。お茶をしに行きましょ?」
「ああ」
太郎様と花子様は、二人でゆっくりと歩き出しました。夕方らしく、日が斜めに陰ってきた頃でした。
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