第2話

 とある月曜日。

 太郎様と花子様は、静かな場所にいました。

 青い光。高い天井。均等に並べられた長机と長いす。奥には説教台と小さなオルガンがあり、壁に装飾のない十字架が掛かっています。

 ここは田中のご兄妹がよく通っているプロテスタント教会です。とは言え、田中のご兄妹はキリストを信じる者ではありません。ただ、人間世界の騒々しさから離れて、静かにしていられるのがこの場所だと言うだけなのです。お金もかからずに静かにしていられるのは教会くらいです。

 日曜日以外もこうして開いている教会はそうそう多くありません。それで、必然的にこの教会に来るようになりました。

 田中のご兄妹は、説教台から離れた席に隣り合って座って、太郎様は天井を、花子様は十字架を見つめていました。

 実に静かな時間です。

 そうして静かにしているところに、近付いてくる人があります。少女でした。

 年の頃は高校生くらい。肩までの黒髪、黒い服、首には十字架をかけています。プロテスタントでは十字架を首にかける習慣はありませんが、この方は黒服に十字架をかけているのが常なのです。

 栗花落つゆりエリヤ様とおっしゃいます。

 今この教会堂の中には、田中のご兄妹と、その隣に立ち止まったエリヤ様、そしてオルガンの横にいる一人の人。その四人だけでした。

 オルガンの横にいるのは、年齢も、国籍も、性別も分からない人です。美しい白髪、教会の光のような青い瞳。身長は高いですが、見る人によって年齢も国籍も性別も異なります。

 この人はヨハネスと呼ばれていて、命を持ちません。どういうことかと申しますと、蟲の世界に落ちて、命を代償にして生還した人なのです。命がないのに生還、と言うのもおかしな話ですが。

 ヨハネスを助け出したのは、エリヤ様です。ですから、ヨハネスはいつもエリヤ様について歩いています。命がないので、ぽっかりと空虚な表情をしているのですが、エリヤ様を心から慕っているのは確かでしょう。

 そんなエリヤ様は、田中のご兄妹を見ると、微笑みました。

「今日も、来たの」

「ええ。来たわ」

 太郎様は視線を向けただけでしたが、花子様はいつもの調子でお返事しました。

 エリヤ様はごく一般の信徒ですが、毎日教会にお通いです。ですから、ここへ来れば必ずエリヤ様に会うことができます。

「どう……? 最近」と、エリヤ様。

「まあまあだわ」

「そうなの。……よかった」

 エリヤ様は手に小さな聖書をお持ちでした。十字架と共に、聖書はエリヤ様の必携品です。その聖書を胸に抱えて、エリヤ様は田中のご兄妹の前の席に腰を下ろしました。

「今回は、どんな感じだったの……?」

 エリヤ様はささやかながら、とてもお美しい声をお持ちです。そのお声で歌うと、まるで天使のようなのです。

 エリヤ様の問いかけには太郎様が答えました。

「父親から虐待を受け、それに耐えかねて父親を蟲の世界に落としたそうだ」

「……そう」

 エリヤ様はお優しいお顔をなさいました。普通の高校生にはとてもできない表情です。

 エリヤ様はそっと聖書を開くと、それを読み上げました。

「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」

 エリヤ様は聖句を読み上げると、そっと聖書を閉じました。

「復讐は神のなさること。……人間が復讐してはいけないの」

「だが、復讐とは現実を変える手段になる」

「神の復讐は、人間の復讐とは違うの……。神の復讐は、よい復讐よ」

「分からんな」

「ふふ……」

 エリヤ様は穏やかに微笑みました。

「人間は復讐するとき、罪を犯してしまう。けれど……神は決して罪を犯されない。罪の伴わない復讐は、いいものでしょう?」

「まあ、そうかもな。何より自分でしなくていいのは手間がなくていい」

「まあ……ふふ」

「とは言えだ、自分でしなくては溜飲の下げようもないだろう」

「そんなこと、考えなくてもいいの……。だって、主がよくしてくださるから」

「そんなものか」

「そういうものよ」

 太郎様はエリヤ様から視線を外して、壁に掛けられた十字架を見つめました。

 その時、花子様がすまーとふぉんを取り出しました。そうしてそれを耳に当てて、会話を始めます。

「ええ。ええ。そうなのね。分かったわ」

 会話はすぐに終わりました。花子様はすまーとふぉんをしまうと、太郎様のお顔を覗き込みました。

「兄様。お仕事だわ」

「そうか」

 それを聞くと、エリヤ様は席を立ってお二人を見下ろしました。

「気を付けて。……主の平安がありますように」

「ああ」

 太郎様と花子様も立ち上がりました。エリヤ様はオルガンの元へ行き、それを弾き始めました。

「いつくしみ深き、友なるイエスは、罪咎とが憂いを取り去りたもう……」

 ヨハネスが傍らに立つところで、エリヤ様は美しい声で歌い始めます。それを背中に聞きながら、太郎様と花子様は教会を後にしました。



 田中のご兄妹が向かったのは、小さなアパートの一室でした。天気は曇ってきていました。そんな薄曇りの空の下では、小さなアパートなど寂れて見えてしまうもの。実際、築年数のかなり経ったアパートでした。

 今回用があるのは、このアパートの二階です。太郎様と花子様は階段を上がって部屋を目指しました。

 そこは二階の一番奥の部屋でした。このお部屋にお住まいなのは、結城ゆうき林子りんこ様という方で、たったお一人で赤子を育てていらっしゃいます。しかし先日、その赤子が忽然と消えてしまったのです。

 これは蟲が関わっていると夜船様がおっしゃるので、ここに来たというわけです。

 太郎様は玄関のチャイムを鳴らしました。

 すると、暫く経ってから女性が顔を覗かせました。年齢は三十一歳のはずですが、もっと老けて見えます。お洋服もくたびれたものをお召しです。

「あ……」田中のご兄妹の顔を見て、林子様は疲れた声を漏らしました。「あなたたちが……?」

「田中太郎だ。こっちは花子」

「よろしくよ」

 林子様は太郎様と花子様のお顔をまじまじ見ると、お二人を招き入れました。

「どうぞ……」

 太郎様と花子様は招かれるままに林子様の部屋へ足を踏み入れました。

 部屋はかなり雑然としています。あちこちが散らかっていて、ほとんどが衣類やお菓子の空き袋です。林子様はお菓子を食べて生活しているのでしょう。ついでに飲み物のペットボトルも部屋の色々なところに転がっています。

 部屋の真ん中にはテーブルがあるだけで、四畳半一間、トイレのみ風呂なしの生活としては荒れている方だと言えるでしょう。

 赤ん坊がいた痕跡として、ミルクの缶やほ乳瓶、おむつなどの乳幼児の必需品が置いてあります。赤ん坊は一歳になったばかりのはずです。今まで聞こえていた赤子の泣き声が聞こえなくなって、近所では林子様を心配する声が多く聞こえるとか。それくらい、赤子が消えたのは突然でした。

 林子様と田中のご兄妹は、テーブルを挟んでお互いに正座しました。

「それで……」林子様は疲れ切った声を出しました。「かんなを……娘を、見つけてもらえるんでしょうか……」

「そのつもりだ」

 太郎様のはっきりとしたお声を聞いても、林子様はうなだれるだけ。何を思っておいでなのでしょう。

 憔悴した様子を見せる林子様に、太郎様も花子様もねぎらいの言葉をかけることはしませんでした。それは仕事の外の話だから、そんなことはしないのが常なのです。

 そんな田中のご兄妹を上目遣いに見て、林子様は少しそわそわしたご様子を見せました。

「あのう……」

「ああ」

「かんなのことを……少し聞いてくれませんか」

「いいわよ」

 花子様の返事に、林子様は語り始めました。

「かんなは本当に可愛い子だったんです。それは、確かに夜泣きも激しくて、一度泣いたらなかなか泣き止まないかんしゃく持ちでしたけれど、それでも可愛かったんです。泣くのは元気な証拠だから、私は嬉しかったんです……」

 太郎様も花子様も、返事も相槌も挟みませんでした。それで、林子様は話を続けました。

「ミルクを飲むのが下手で、ミルクの時間の度に泣いていました。飲ませようと思うと拒否したり、嫌がったりして、でも飲みたがったりして、そういうちぐはぐなところも可愛かったんです。おむつを替えるときも、お湯につけてあげるときも、よく泣きました。可愛い子だったんです」

「泣くのが可愛かったのね」

「はい。それはもう、かわいがって育てていました。少しずつ大きくなって、でも一歳なんてあっという間で……これからもっと大きくなっていくんだわと思うと、これからが楽しみで。……それなのに」

 林子様はうっと涙をにじませました。

「……かんながいなくなってもう五日です。近所の方は心配してくれますし、警察の方も懸命に捜してくれていますが、見つかる気配もなく……。目を離したつもりはなかったんです。目の離せない子でしたから。でも、お風呂のためのお湯を洗面器に溜めている間に、かんなはいなくなりました……」

「つまり、五日前のその時に何が起こったかだな」

 林子様は黙り込みました。ただ、上目遣いに田中のご兄妹を見つめています。太郎様も花子様も何も言いません。

「かんなは……誰に連れ去られたのでしょうか」

 田中のご兄妹が何も言わないので、林子様は口を開きました。そうした瞬間、堰を切ったようにさめざめと泣き出したのです。

「……可愛い子だったんです。私のかんなは、今どこに……」

「それを捜すのが俺たちの役目だ」

「でもどうやって……見つかりっこありません」

「お前は見つかってほしくないのか」

 林子様は首をふるふる振りました。

「そんなはずないじゃありませんか。でも……警察の方も手の打ちようがないとおっしゃいますし、忽然と消えるなんてあり得ないと言って……私を疑うんです」

「それはそうだろうな」

「でも、私本当にあの子を愛していたんです。あの子をどうにかするなんて、するはずがないじゃありませんか……」

 林子様は鼻をすすりました。

「あの子がいなくなって、私がどれだけ苦しんでいるか、警察の方には分からないんだわ……。ご近所の方は分かってくださって、とてもよくしてくれるけれど……」

「あなたは慰めの言葉がほしいのね」

「そんなんじゃありません……ただ、かんなが見つかってほしいんです」

「本当にそうなの?」

「本当です……」

「そうなのね」

 花子様は頷きもせずにそう言いました。

「だったら見つけてあげるわ」

「でも……そんなのどうやって」

「俺たちは蟲引むしびきだ」

 林子様はお顔を上げました。

「蟲引き……?」

「蟲と共存している人間をそう呼ぶんだ。俺たちには蟲がいる。蟲を使ってお前の娘を捜す」

「蟲って……そんな怪しいもの、信頼できません。警察の方もお手上げだというのに」

「だがそれが唯一の手段だ」

「でも……」

「お前の娘は蟲の世界に落とされたはずだ。それを捜し出す」

「捜し出したら……娘はどうなります?」

「どうにもならん」

「元の娘として帰ってきてくれるんですか?」

「それは無理だ。蟲の世界に落ちた人間は赤子だろうと老人だろうと這いずるものになる」

「這いずるもの……」

 林子様は顔を覆うと、わっと泣き出しました。

「這いずるものなんて! それじゃ、あの子は今どうなっているの?」

「蟲の世界で、皮膚は溶け眼球がこぼれ落ちた姿で這いずっているだろうな」

「そんな、そんな!」

 林子様はぶんぶんと首を振りました。

「そんなの耐えられません……せめてあの子は無事と言ってください」

「それは言えないな。現実と異なる」

「うう、うう」

 林子様は涙を流しました。実にかわいそうな姿です。

「そんなの嘘です……あの子がそんな姿になっているなんて、酷い嘘です……」

 花子様は太郎様の顔を覗き込みました。

「兄様。この人、かわいそうだと言ってほしいだけで捜す気がないわ」

「まあそう言うな」

「このままではらちがあかないの」

 花子様のご発言に、林子様はわっと泣き声を上げました。

「酷い! あなたたちこそ、捜す気なんてないんだわ! 私が泣いているのを見ても何とも思わない冷血な人達! 帰ってください、今すぐ帰って!」

「捜す気がないのはお前の方だろう」

「酷いことを言わないで! 私がかわいそうだと思わないの? なんて酷い人達!」

「かわいそうとは思わないな」

「酷い! 本当に酷い! もう帰ってください! 本当にもう帰って!」

「お前こそ娘がかわいそうだと思わないのか」

「思います! だって私の元を離れて、今はどこにいるとも知れないなんて……今すぐ会いたい、会ってあげたい!」

「嘘だな」

 太郎様は切って捨てるように言いました。

 それを聞いて、林子様はいっそう激しく泣き出しました。

「酷い! 酷い酷い!」

「本当に酷いのは誰か、それを捜すのも俺たちの役目だ」

 花子様は太郎様のお言葉を受けて、すっと虫眼鏡を取り出しました。そしてそれに自分の目を映すと、ホウリを呼び出しました。

「ホウリ」

 虫眼鏡のレンズに切れ込みが入り、ホウリが現れます。ホウリは手鞠ほどの大きさになるとふよりと漂いました。

「ムスビ」

「はい」

 わたくしも、太郎様の眼帯の下から這い出します。すると、部屋に入ったときから感じていた蟲の気配が、よりいっそう濃く感じられました。そうして、部屋に漂う、激しい怒りの感情がにおってきました。並の怒りではありません。殺意のこもった怒りです。

 わたくしと太郎様は糸で繋がっているので、そのことが太郎様にも伝わります。わたくしは太郎様の肩に留まると、じっと林子様を見ました。

 林子様は激しく泣いています。そんな自分に酔っているのが分かりました。そうして、その泣いている姿に太郎様と花子様が何も反応なさらないのを、とても不満に思っている様子でした。

「ホウリ。蟲の世界の入り口を探して」

 花子様は林子様の悲劇的な様子を無視して、ホウリに指示しました。ホウリは指示を受けてふよりふよりと漂います。

 そうして、台所に立てかけられている大きな洗面器の前で止まりました。林子様が娘を風呂に入れるのに使っていた、風呂桶がわりの洗面器です。

 林子様はまだ泣いています。しかし、それを気に留める人間はここにはいませんでした。花子様はホウリにさらなる命令を出します。

「ホウリ。ここで何があったか映して」

 命令の通り、ホウリは部屋の真ん中を向いて、そこに過去を映し始めました。

 蛍光灯だけの明かり、閉め切られたカーテン。赤子が激しく泣いています。するとテーブルの横に林子様が、なみなみと水を入れた洗面器を運んできました。

 そうして、激しく泣く赤子を力一杯に叩くと、今度は高々と掲げ、洗面器の水にぶち込みました。

 赤子は水の中でもわあわあ言っています。林子様はあらん限りの力で赤子を水の中に沈めます。そうしていると、水が赤く染まってきました。血の色です。

 洗面器の水が全て血の色になり、赤子の姿も見えなくなると、わあわあいうくぐもった声も、激しい水の飛沫もなくなりました。

 そうなると、水がすうっと透明になりました。水がすっかり透明になると、林子様はフウフウと息をつき、それから天井を向きました。そして両手で口を覆い、笑い出すのをこらえました。そうしないと、笑い声が隣室に聞こえてしまいます。

 映像はそこで終わりました。

 部屋の明るさが元に戻ると、気付けば林子様は泣き止んでいました。

 そうして呆然としたような顔をして、ただだらんと両手を下ろしていました。

「……可愛いわけないじゃない」

 林子様はそう言いました。

「いつも泣くのよ。何をしても泣くの。ミルクが飲みたいなら飲めばいいのに、飲ませようとすると嫌がって、訳が分からないじゃない。おむつ替えの時も暴れてまき散らすし、お風呂だってそう。近所からの苦情も酷い。最初は生んだんだから仕方ないと思ってた。でも、望んで生んだわけでもないのに、どうして私がこんなものに苦しめられなきゃいけないのか分からなくなった」

 林子様は先程までとは打って変わった淡々とした調子で話しました。

「一年我慢したわよ。一年! とてつもない長さだった。これがまだまだ続く。娘が生きている限りずっと。二年、三年、私はこの異常なかんしゃく持ちに縛られたまま生きていかなきゃいけない。それがどんな苦しみかあなたたちに分かる?」

 そこまで言うと、林子様はフフッと笑いました。

「でもね、娘がいなくなってから、ご近所さんが優しくなったの。かわいそうね、かわいそうね、って。快感だわ。凄く快感。あのかんしゃく持ちはいない。私はちやほやされる。こんなに最高なことってないじゃない?」

 立てかけられた洗面器から、ゆらりと赤いものが漂ってきました。血でした。血は床を満たして、壁、そして天井まで這っていきました。

 四畳半の部屋は、血と絶望の世界に変わっていました。蟲が壁や天井を這っています。そうして、テーブルの上に、頭の異常に大きな赤子が転がっていました。

 泣こうと懸命に口をぱくぱくしていますが、声帯も肺も溶けているので泣くことができません。眼窩からは眼球がこぼれ落ち、皮膚も溶けきっています。

 林子様はそれをさげすむような目で見ていました。

「ムスビ」

「ホウリ」

 合図がありました。

 わたくしは体を大きくして、ホウリは口を露わにして這いずるものをむさぼり始めます。

 すると、林子様は突然はち切れたように大声を上げて笑い始めました。

 憎いと思っていた存在。邪魔だと思っていた存在。これから自分の人生を縛っていく、絶望の象徴。それが蟲に喰われていくのを見るのが、快感でたまらないようでした。

 わたくしとホウリはすっかり這いずるものを食べてしまいました。食べ終えると、洗面器から人間の世界が戻ってきました。人間の世界は血と絶望の世界を舐め尽くし、すっかり元の四畳半の部屋へ戻りました。

 林子様は笑いすぎて、ハーハーと息をついていました。それから冷静になったように、田中のご兄妹を見ました。

「ねえ、私のことを警察に言う? 自分の子どもを殺したって」

「そんなことはしない。お前は殺したのではなく、蟲の世界に落としただけだ」

「そう! そうよね! アハハッ! 私は殺してない! 落としただけよ!」

 林子様は壊れたように笑い出しました。

「私は自由になった! 誰にも裁かれない形で! だって苦しんでいたのは私よ! 自由になったって許されるの!」

「そうだな」

 わたくしは太郎様の眼帯の下へ戻りました。ホウリも虫眼鏡に戻っていき、花子様は虫眼鏡をしまいました。

 太郎様は少しずれてしまった眼帯を、そっと直しました。

「これで全て終わりだ。お前は自由になった。これからは自分の人生を生きるといい」

 その言葉は林子様に届いたのでしょうか。林子様はまだ狂ったように笑っています。

「兄様。行きましょ」

「ああ」

 太郎様と花子様は同時に立ち上がりました。そうして、笑っている林子様を置いて、四畳半の部屋を後にしました。

 アパートの階段を下りていると、ふいに目の前を蝶が通っていきました。その蝶を目で追うと、階段の下に夜船様がいらっしゃいました。

「ご苦労様」

 夜船様がそう言うのに重なって、林子様の笑い声が響いてきます。まだ笑っているのです。

 太郎様と花子様は夜船様の前に立ちました。

「今回は簡単でしたかしら」

「まあそうだな」

「そう。どれどれ……」

 夜船様は林子様のお部屋に向けてフクを構えました。

「フクちゃん。撮って」

 ぱしゃり。シャッターの瞬く音です。

 そうして排出されてきた写真には、洗面器に赤子を沈める林子様の姿が写っていました。

「うふふ……」

 夜船様は満足そうに笑うと、袖から封筒を取り出してきました。

「これは今回の謝礼です。とてもよかったわ」

「そうか」

 太郎様は何でもないような顔をして封筒を受け取りました。

「それでは、次の仕事ができたらまた連絡しますわ」

「待ってるわ」

 花子様が返事をします。

「ええ。いつもありがとう」

 と言うと、夜船様はすっすっと裾を揺らして去って行きました。

 夜船様が行ってしまうと、花子様は太郎様の手からぴっと封筒をひったくりました。

「さて、今回は?」

 そうして、中の紙幣を数えます。

「二十五万! 相当気に入ったのね」

 お金をしまい直すと、封筒を太郎様の懐に入れ、花子様は上目遣いに太郎様を見ました。

「兄様。お茶をしに行きましょ?」

「ああ」

 太郎様と花子様は、連れだってアパートを後にしました。アパートからは、まだまだ、林子様の笑い声が響いていました。

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