蟲引き

兎丸エコウ

第1話

「それで……?」

 女性はそう言って眉根を寄せました。無理もありません。女性の元を訪れた二人の少年少女は、出された茶にも手を出さず、ただじっと女性を見つめているのです。

 女性と卓を挟んで正座しているのは、少年の方が田中たなか太郎たろう様、少女の方が田中花子はなこ様と申しまして、このお二人は兄妹でいらっしゃいます。

 太郎様のほうは常に表情を見せないお方で、声を荒げることもなければ笑うこともありません。黒い短髪、夜のような黒い瞳、不健康に青白い顔。左目には眼帯をしております。

 対して花子様のほうは常に笑顔でいらっしゃる方で、しかしそのお顔が何か妖しさを醸していらっしゃいます。黒いおかっぱ髪、淡い琥珀のような茶色い瞳、花のような肌。

 お二人とも中学生のようにも、大学生のようにも見えます。詳しい年齢はわたくしも存じておりませんが、出会ったときにはまだ小さかったのを覚えております。

 そんなお二人と向かい合っているのは襟谷えりたに琴音ことね様といって、二十五歳の若い女性です。ゆるやかな染められた髪が、穏やかな顔立ちによくお似合いです。淡い桜色のお洋服も、とてもお似合いです。

 太郎様も花子様も、ただじっと琴音様を見つめていらっしゃいます。それぞれにそれぞれらしい表情をして。

 それに気圧されてしまったのでしょう、琴音様は少し苦しそうになさいました。不安げに両の手を握っておられます。

 琴音様と田中のご兄妹はこれが初めての対面でございます。今日初めて、田中のご兄妹がここを訪れたのです。

 それにもかかわらず琴音様がお二人をこうしてお屋敷に招き入れたのは、琴音様にもやむにやまれぬ事情があるからでした。

 その事情を田中のご兄妹がご存じだったので、何やら分からないがこれは真面目なことだと察して、琴音様はお二人を客間へ通されたのでした。

 琴音様のお屋敷はとても広く、庭師の手入れがされた庭もあります。和風の平屋で、琴音様お一人では持て余すような広さですが、今はこのお屋敷には琴音様しかいらっしゃいません。この客間から見える縁側も庭も、今は孤独の風景に見えます。

「それで……その」

 琴音様はもう一度口を開きました。

「父のことで……いらっしゃったのでしょう?」

 琴音様はおそるおそるという様子でそう問いかけました。それに対して花子様が答えました。

「ええ」

「あなたたち、父と何か関係が……?」

「いいえ?」

「それじゃあ……?」

「お父様、三日前からいないのでしょ?」

 琴音様は無言で頷きました。

「私達、それを捜しに来たと言うことなの」

「父を捜しに? それは、誰かに頼まれたの? 私は……」

「私達は、不可解な失踪を調査して、いなくなった人を見つけ出す、そうすることが仕事なの」

「不可解な……失踪」

 琴音様はきゅっと口を引き結びました。

 今度は太郎様が口を開きました。

むし、というものがいる」

「蟲……?」

「蟲だ。もちろん昆虫の類いとは違う。人間が生きる世界とは別の場所に生きている生き物のことだ。生き物、と言っていいかは分からないが」

「それで……」

「蟲は普段こちらの世界には干渉してこないが、人間の手を借りて人間の世界に干渉してくることがある。人間の許しがあって初めてお互いの世界が繋がると言ってもいい」

 琴音様は神妙なお顔をして太郎様のお話を聞いています。

 太郎様はそこで初めて、茶に手を伸ばしてひとなめしました。

「蟲には様々なものがいるが、基本的には無害だ。有害なのは蟲のいる世界だ」

「どういうことでしょう?」

「人間の世界のものが蟲の世界に落ちると、人間以外のものは新たな蟲になる。だが、人間はその罪深さ故に蟲にはなれない。蟲の世界はおどろおどろしく、血と絶望で満ちている。蟲の世界に取り込まれた人間は、皮膚は溶け眼窩から眼球をこぼれ落としたまま、永遠に這いずり回っている。そうして落ちた人間は『這いずるもの』と呼ばれる。まあ見たままだ」

「それでは……父が消えたのも、蟲の仕業だと言うんですか?」

「蟲は自ら何かすると言うことはない。人間の意思が働いて初めて動くものだ。生き物のようで生き物ではない」

「よく分かりません」

「まあそう言うな」

 今度は花子様がお茶をお飲みになりました。

「まあ、このお茶美味しい」

 妖しさをたたえた笑顔のまま、そうおっしゃいました。そのせいで、本心かどうか分かりません。

 太郎様は花子様のお言葉を無視なさいました。琴音様もどのように反応していいのか分からないご様子です。

「蟲の意思では人間を蟲の世界に落とせない。つまり人間の関わりが必要なのだ。だからはっきりさせたいことは一つ」

「誰が蟲の世界へお父様を落としたかだわ」

 花子様はお茶を持ったままそうおっしゃいました。

 そう言われると琴音様はさっとお顔を赤くなさって、抵抗するようなご様子を見せました。

「でも……父がいなくなったのが蟲のせいとは限らないのでは?」

「蟲のせいではない。人間のせいだ」

「人間のせいと言っても……。父は確かに、三日前の夜、突然家から姿を消しました。でも私も詳しいことは分からないんです。警察にも届けましたが、まさか家出とも……」

「重要なのは三日前の夜、お前の父親に何が起こったのかと言うことだ」

「私にも分かりません……。何しろ家がこの広さですから、数日顔を合わせられないこともあるくらいです」

「それなのに、三日前にはいなくなったことに気付いたわけだ」

「それは……」

 琴音様は言いよどみました。

 太郎様はそれを見て、ふと瞳を閉じられました。

「蟲が干渉した場所には、歪みが生じる」

「歪み?」

「そうだ。気配の歪みだ。蟲が干渉すれば必ずそうした痕跡が残る。それを探せば、蟲が関わったかどうか瞭然というものだ」

「それで……あなたたちは、父を捜してどうするんですか?」

「俺たちはどうもしない。ただお前の父親を見つけることが金になる。それだけだ」

「というと……?」

「金のためにお前の父親を見つけたい。それだけだと言っている」

「いえ、私が言いたいのは……誰かが、父を捜すように依頼したのかと言うことです」

「まあそんなようなものだ」

「よく……分からないのですが」

「お前はどうだ。父親を見つけたいのか」

「それはそうです。私は父とたった二人で生きてきました。その父がいなくなったら……これからどうやって生きていけばいいか」

「嘘だな」

 太郎様は断言しました。

 琴音様はそれにぎくりとしたようなお顔をなさいました。表情の正直なお方です。

「この広い屋敷にたった二人。蟲は人間の意思がなければ干渉してこない。それなのに片方が蟲の世界に消えた。つまりお前がやったんだ」

「待ってください!」

 琴音様は身を乗り出しました。

「蟲の世界というものに父が落ちたかも分からないのに、でたらめなことを言わないでください!」

「でたらめなものか。この屋敷には、蟲の気配がある」

 そう言われると、琴音様はぎゅっと口を閉じて身を引きました。

 太郎様のお言葉で、その蟲の気配というものをそろりと感じた、そのように見えました。

 そろり、そろり。

 地を這うような、空気を撫でるような、謎の気配。

 わたくしにも分かります。そのような気配が、この屋敷には満ちております。一度蟲に侵食された家や土地には、蟲の気配が濃厚に残るもの。そういうものなのです。

「む……蟲なんて、でたらめです」

 琴音様はやっと声を絞り出しました。

「そんなもの、聞いたこともない話です。あなたたち、私をからかっているんでしょう。それで楽しむなんて、酷い人達!」

「さて。酷いのは誰だかな。それを調べるのも俺たちの仕事だ」

「私なんにもしてないわ!」

「それはすぐに分かることだ。お前が酷いのか、それとも別の人間が酷いのか」

 太郎様がそう言うと、花子様はお茶を置いて懐から虫眼鏡を取り出しました。

「誰が悪いのか、見せてもらうわ」

 そう言って、花子様はご自分の目を虫眼鏡に映しました。その瞬間、虫眼鏡に横一文字に切れ込みが入り、ぎょろんと眼球が現れました。眼球はずずと虫眼鏡のレンズから這い出すと、手鞠てまりほどの大きさになって花子様のそばに漂いました。

 琴音様は異形の眼球が現れたのを見てさっと青くなりました。恐怖に引きつった顔をなさっています。

 それに全く関心なく、太郎様は声を出しました。

「ムスビ」

「はい」

 そう返事をして、太郎様の眼帯の下、太郎様の眼窩から這い出してきた一匹の黒い蜘蛛のようなもの。不肖ふしょうわたくしでございます。

 わたくしは糸を太郎様の眼窩に繋いだまま、太郎様の肩に留まりました。

「この蜘蛛のような蟲はムスビという」

「この子はホウリ」

 太郎様と花子様が、それぞれに蟲を紹介します。琴音様は言葉を失っているご様子です。

「そんな……私……何もしてないわ」

「それはこれから分かることだ」

「私を……蟲の世界に落とすの?」

「そんなことしないわ。蟲の世界を探すの」

「そうして私を落とす気なんでしょう! 帰って! 今すぐ帰って!」

「落ち着け。落としはしない」

 取り乱した琴音様に対して、太郎様も花子様も冷静です。こう言った場面には慣れっこなのです。

「帰って! 帰ってよ!」

「落ち着けと言っている。何もお前を断罪しようというのではない。人間にそんな資格はない」

「私を悪者にしようと言うんでしょう! みんなそう! 私が何を訴えたって、そんな嘘をつくなんてお父さんがかわいそうだといつも言う! いつも!」

 花子様は虫眼鏡を持ったまま、ただじっと琴音様を見つめていました。そのように取り乱し、声を荒げる人の何と多いこと。蟲が関わると、人間はどこか感情の緒が切れてしまうのです。琴音様のこの取り乱しようも、蟲が関わっていることを濃厚に示していました。

 自分のしたことがどんなことか、琴音様は分かっておいでなのです。それで、贖罪を求められることが恐ろしいのです。

「私悪くない! 私が悪いんじゃない! でもあなたたちはそう思わないんでしょう、私も蟲の世界に落として、這いずるものにするつもりでしょう!」

「そんなことしないわ」

「だって、そうじゃなかったらどうしてここに来たの?!」

「言ったと思うけど、私達お父様を捜しに来ただけなのだわ。あなたに危害は加えないわ」

「そんなの嘘!」

「嘘じゃないわ」

「嘘! 嘘!」

 琴音様は嘘という言葉を繰り返しました。人間を信じられない、人間を信じるという機会を失った人の、あまりに悲痛な叫びに聞こえました。

 しかし太郎様も花子様もそんな琴音様の心情にはご興味がありません。ただ淡々となさっておいでです。

「ホウリ」

 花子様はホウリに命令しました。

「探して。蟲の世界の入り口を」

 ホウリは無言でふよりと漂い始めました。ホウリは喋るための口がないので返事ができません。それで黙っているのです。

 ホウリが動き出したので琴音様はびくりとしてホウリを見つめました。ホウリはふよりふよりと縁側に出て行きました。

「兄様」

「ああ」

 太郎様と花子様は立ち上がってホウリの後を追いました。それに、「待って!」と声を上げて琴音様がついてきます。

 琴音様は太郎様に追いすがりました。

「お願いやめて、私本当に悪くないのよ!」

 服を引っ張ってそう訴える琴音様に対して、太郎様は足を止めて振り返りました。

 琴音様は今にも泣き出しそうな緊張した顔で太郎様を見つめました。太郎様は相変わらずの無表情でいらっしゃいます。

「信じよう」

 と、太郎様は言いました。

 それに琴音様が何をお思いになったか、わたくしには分かりません。しかし、琴音様がどこかほっとしたのだけは分かりました。

「だが、父親は捜さねばならん。それだけは許せ」

「どうしても……どうしても父を捜すの?」

「ああ」

「そうして……父を救うの?」

「救いはしない。もはや救われない世界に行ってしまったのだから」

 それを聞いて、琴音様は落ち着かれたようでした。琴音様は太郎様の服をはなして、そっと両の手を握りました。

「……分かりました」

「そうか」

 ホウリは太郎様と花子様が立ち止まっているので、途中で進むのを待っています。ホウリは単純ですが、花子様と太郎様に対しての尊敬は人一倍、いえ蟲一倍です。ですからお二人が立ち止まれば、勝手に進むということをやめるのです。

「兄様」

 花子様が促します。

「ああ」

 太郎様と花子様は再び縁側を歩き出しました。それをホウリがもう一度先導し、わたくしたちの後を琴音様が心細そうについてきます。

 そうしてホウリが止まったのは、一枚の障子の前でした。

「そこ……私の部屋です」

 琴音様が観念したように言いました。

 ホウリが障子を見つめると、障子は独りでに開きました。その向こうには、布団が敷きっぱなしになっている、質素な和室がありました。

 あるのは机と布団だけ。押し入れのふすまが、何か異質な感じがします。

 ホウリの後に続いて、田中のご兄妹も琴音様のお部屋に足を踏み入れます。それを、後ろから琴音様が見ていました。

 琴音様の部屋に入ると、濃厚に蟲の気配がしました。そして同時に香る、男女の香り。娘さん一人の部屋とは思えないほど、どろどろと濃い男女の香りがしました。それこそむせかえるほどです。

 ホウリは部屋の中をきょろきょろと見回すと、押し入れのふすまの前で止まりました。ホウリがそこで止まったと言うことは、間違いありません。そこに蟲の世界の入り口があるのです。

「ホウリ。何があったか見せてちょうだい」

 花子様の命令に従って、ホウリはくるりと部屋の中心、敷かれた布団の方を向くと、そこに映写機のように映像を映し出しました。過去の映像です。

 琴音様の部屋の中が暗くなります。それはこの映像が三日前の晩のものだからでしょう。三日前の琴音様は、布団の上で正座して、ただじっとしていました。何か覚悟を決めたような顔をして。

 するとそこに、突然中年男が現れました。中年男は酔っ払っている様子で、琴音様の部屋に入ってくるなり琴音様に覆い被さりました。

 その瞬間でした。押し入れのふすまが独りでに開いて、その向こうの世界が見えました。血の赤い色。肉の赤い色。漂う血の霧。その世界がぽっかりと開くと、中年男は何かわめきながらその世界に吸い込まれていきました。

 中年男が血の滴る世界に吸い込まれてしまうと、ふすまは元の通り閉まってしまいました。

 三日前の琴音様は押し倒された体勢のまま、呆然と、無気力な顔をしてふすまを見つめていました。

 ホウリはそこで映像を映すのをやめました。

 ホウリはこうして、自分の見ている過去の映像を現実世界に投影することができるのです。

 今見た過去の風景に、琴音様は一体何を思ったのでしょう。暫く黙ったままでいて、それからぽつりぽつりと口を開きました。

「いつもそうだった……毎晩。毎晩そう。分かるでしょう、あの後いつも何をされていたか。殴られて。蹴られて。抵抗できなくなってから、いつも嫌なことをされるの」

 太郎様も花子様もお返事なさいませんでした。ただ、琴音様が話すのに任せていました。

「でもそれを人に言っても、あんな立派なお父さんがそんなことをするはずがないと言われて、私はいつも嘘つき呼ばわり……。小さい頃からそうだったの。だから私は人に訴えなくなった。母は父が私のところに通ってばかりいるから、私が中学に上がる頃には出て行ったわ。私が父のことを許していて、好きで付き合っていると思っていたんでしょうね、気持ち悪いと言い捨てて行ったわ」

 琴音様はぽろぽろと涙を流し始めました。

「父は私が他の男のところに行かないように、就職も進学も、全て邪魔をしてきたわ。通うのはいつも女子校。就職は許されず、こっそり内定をもらったのがばれたとき、顔が腫れ上がるほど殴られたわ。それで怖くなって、私はもう就職活動をしなくなった。父は私を家に縛り付けることに成功したのよ。そうして父は自分が好きなときに私を」

 気付けば、わたくしたちは押し入れのふすまに囲まれていました。壁も障子も、全て押し入れのふすまになっているのです。

 そして、一枚、また一枚と、ふすまが開きました。

「私は耐えられなくなった。私は私を取り戻したかった。父の欲のためではなく……私のために生きたくなった」

 開くふすま。

 その向こうには、血と絶望の世界が広がっています。

 ついに全てのふすまが開きました。ふすまは血肉の壁に埋もれていきました。

「だから私は蟲の世界に父を落としたのよ」

 わたくしたちがいるのはもはや琴音様の部屋ではありませんでした。いえ、部屋の形も、縁側も、庭もありますが、その姿は血肉でできているのです。そして漂う血の霧。

 様々な姿の蟲がそこここをうろついています。そんな中、下半身が肥大した人型のものが這いずっているのが見えました。皮膚は溶け、髪も抜け、眼窩からは眼球がぶら下がっています。下半身は、特に局部が肥大化していました。欲望に溺れた証しです。

 その人型は、明らかに琴音様を襲っていた中年男でした。

「あれが父親だな」

「ええ、兄様」

 太郎様と花子様も、その庭を這いずる人型の肉塊を認めました。

「ムスビ」

「ホウリ」

 太郎様と花子様は、それぞれ自分の蟲の名を呼びました。それが合図なのです。

 わたくしは太郎様の肩から飛び降りると、体を大きくしました。目の前の這いずるものを簡単に飲み込むほどの大きさです。

 ホウリもぐるりと自分に切れ込みを走らせると、らせん状に自分を開きました。そこから現れたのは食べるためだけにある巨大な口。

 わたくしとホウリは、這いずるものに襲いかかりました。這いずるものはただ這いずるだけ。抵抗も反撃もできるはずがありません。わたくしたちに、生きたまま体をむさぼり食われていきます。

 その様子を、琴音様はぼうっとした顔で見つめていました。自分の父親。今は這いずるものとなった変わり果てたもの。一番憎んだ存在。自分を殺し続けてきたもの。

 それが、抵抗もできず、苦しみにもだえ醜い声を漏らしながら喰われていくのです。

 わたくしとホウリはとうとう這いずるものを喰ってしまいました。

 そうすると、肉の押し入れから、人間の世界が押し寄せてきました。人間の世界が蟲の世界をすっかり覆い尽くしてしまうと、元の通り、静かな屋敷が戻ってきました。

 琴音様を縛っていた肉塊が蟲の腹に入ってしまったために、蟲の世界の全てから消えてなくなり、元の人間の世界に戻ったのでした。

 わたくしは元の大きさに戻ると、するりするりと太郎様の眼窩に戻っていきました。ホウリも花子様の虫眼鏡のレンズに戻っていきます。花子様はホウリが戻ると、虫眼鏡を懐にしまいました。

 そうして蟲の姿が見えなくなると、琴音様は気力も全て吸い尽くされたようなお顔をなさりながら、ぼうっと田中のご兄妹を見つめました。

「……父のこと、警察に言うの?」

「言いはしない。そもそも、蟲の世界のことは警察にはどうにもできん」

「私……これからどうなるの?」

「どうにもならん」

 太郎様はまっすぐに琴音様を見ました。

「これで全て終わりだ。お前は自由になった。これからは自分の人生を生きるといい」

 その言葉を聞いた瞬間、琴音様はその場に崩れ落ちてしまいました。地面に顔をうずめるようにして、おいおい泣きました。

「兄様。行きましょ」

「ああ」

 花子様も太郎様も、それ以上琴音様を見ませんでした。ただ何もなかったかのようにその場を後にして、琴音様が一人残ったお屋敷を出ました。

 そうして門をくぐったとき、蝶がお二人の前を通っていきました。それを目で追うと、蝶の向かった先に一人の女性がいました。

 年の頃は琴音様より若干若いくらい。上品な艶の髪を結い、和服をお召しになっています。そうして、首にかけているのは蛇腹カメラ。

 この方は夜船よふねしじま様とおっしゃって、田中のご兄妹の雇い主のようなものです。

 夜船様は田中のご兄妹に近付いてくると、本当に上品に微笑みました。

「ご苦労様。今回もうまくいったのですね」

「ああ」

「そう……。どれどれ」

 と言って、夜船様は琴音様のお屋敷に蛇腹カメラを向けました。

「フクちゃん。撮って」

 夜船様がそう命令すると、蛇腹カメラのシャッターが独りでに瞬きました。そうして、本体から一枚の写真が排出されてきます。

 その写真には、琴音様を襲う中年男の姿が写っていました。

 ご覧の通り、この蛇腹カメラも蟲なのです。フクという名前で、過去の情景を写真にすることができます。

 夜船様は出てきた写真を見て、満足そうに微笑みました。

「そう。今回はこんな感じでしたのね」

「まあ、そういうことだ」

「ありがとう。楽しめました。これ、今回の謝礼ですわ」

 そう言って、夜船様は袖から封筒を取り出してきました。太郎様はその封筒を受け取ると、懐にしまいました。

 夜船様は、こういったことがご趣味なのです。つまり、人間が人間を蟲の世界に落としたその物語を写真に写すのが。そうしてその調査を田中のご兄妹に依頼して、解決してからゆるりとやってきて、写真を撮るのです。その謝礼はかなりのもの。夜船様は富豪の娘様なので、言ってみれば、お金持ちの道楽のようなものです。

「次のお仕事はおいおいお伝えしますわ」

「そうしてくれ」

「今回もありがとうございました」

 夜船様はにっこり微笑むと、くるりと踵を返して歩いて行ってしまいました。

 花子様はひょっこりと太郎様のお顔を覗き込んで、それから懐の封筒を抜き取りました。

「さあて、今回は?」

 太郎様は花子様の勝手を、とがめもせずに見ています。

「十五万。まあまあね」

 花子様はお金を封筒に入れ直して、太郎様の懐に封筒をさし込みました。

 それから両手を合わせて、上目遣いに太郎様を見ました。

「兄様。お茶をしに行きましょ?」

「ああ」

 太郎様は淡泊に返事をすると、花子様と一緒に琴音様のお屋敷を後にしました。

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