何処にもいない

増田朋美

何処にもいない

何処にもいない

その日は雨であった。土砂ぶりというわけではないけれど、曇っていて日が出ず寒い日であった。その日、杉ちゃんとジョチさんは、竹村さんの行う、クリスタルボウルの演奏会を聞きに行くことにした。クリスタルボウルは、山のお寺の鐘のようで、結構好きなのだと杉ちゃんは言っていた。

その演奏会は、富士市内の公民館の一部屋を借りて行われていた。みんな、寝転んで聴いていても良いことになっているから、自宅から敷布団を持ってきて、平気で寝ている客もいる。車いすの杉ちゃんには、それは出来なかったが、それでも、リラックスして聞いていただけるようにと竹村さんは言っていた。

「それでは、演奏を始める前に、クリスタルボウルについて説明いたします。元々は、仏具であった物を改良したものです。当初は、白くて大きな器型の、クラシックフロステッドボウルが主流ではありましたが、現在は、透明のウルトラライトボウル、パワーストーンを混ぜ込んでいる、アルケミーボウルが主流になりました。今回こちらへ持ってまいりましたのは、アルケミーボウルと呼ばれるものです。症状に寄って、楽器を使い分けていますが、今回は比較的軽症者向けの、クリスタルボウルとなっております。」

竹村さんは、にこやかに笑って、クリスタルボウルの説明をした。

「それでは、演奏にはいらせて頂きます。クリスタルボウルは、しっかり座って聞く楽器ではございません。横になったままでもかまいませんし、眠くなったら眠ってくださっても、結構です。気分が悪くなったら、途中で退席しても全く大丈夫ですからね。お気楽に過ごしてください。」

そういって、竹村さんは、マレットをとって、ガーンとクリスタルボウルのふちを叩いた。何だか不思議な音色であるが、とても懐かしい音でもある。ゴーン、ガーン、ギーン、と音を立てたり、マレットでふちをこすったりして生み出されるその音は、脳波を安定させるとか、感情を落ち着かせる効果があるそうだ。この不思議な音色は、確かに眠たいという気持ちにもさせられる。でも、決して悪いものではなく、優しく心に響く音でもあった。

杉ちゃんが、何気なく、隣の人に目をやると、その若い女性は、ぐすんと言って、涙を流しているのがみえた。杉ちゃんは、そのあとでも、クリスタルボウルの音を聞いていたのであるが、その女性は、演奏が佳境に入るほど、ますます涙をこぼして泣くのであった。杉ちゃんは気になって彼女に声をかけた。

「一体どうしたんだよ。失恋でもしたのか?このクリスタルボウルの音を聞いて、何か思いだしたの?」

「ええ、まあ、失恋というわけではないんですが、一寸、昔やったことを思いだしてしまったんです。罪は、償ったつもりなのに、なんででしょう。こうして思いだしてしまうのですね。全くどうしたらいいものか。」

そう彼女は言った。

「昔やったこと?それは、どういうことですか?何か、いけない事でもされたんだろうか?」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ、ごめんなさい。私何をいっちゃったんだろ。ごめんなさい、今の事は、気にしないでください。」

と、彼女は答えた。

「いや気にしないなんて出来るもんか。お前さんみたいに、クリスタルボウルを聞いておいおい鳴くような奴は、見たことない。」

と、杉ちゃんがいった。

「お前さんは何か隠してるだろ。そういうことは、隠しちゃいけないよ。黙っていてそれがたまりすぎて、爆発したら大変なことになるぜ。なあ、何をやったんだ?何かいけないことをやったんだろうか?そういう事だよな?聞かせてもらえないかなあ。」

杉ちゃんのこのセリフが始まってしまうと、答えが出るまでそこをうごかないのが杉ちゃんというものであった。クリスタルボウルの片づけを手伝っていたジョチさんが、

「すみません。概要だけでいいですから、言ってやってください。でないと、杉ちゃん、答えが出るまで離れないのです。」

と、彼女に頭を下げた。

「それはきっと、感情が自然に漏れてしまったというか、そういうことでしょう。クリスタルボウルの音を聞くと、今までしまい込んでいたというか、とうの昔に忘れていた気持ちが現れてくることもあるんです。それは、いいことなのか悪いことなのかは、クライエントさんの判断によると思いますが、アルケミーボウルでそういう効果が出るという人は、よほど繊細な人なんでしょうね。」

竹村さんは、クリスタルボウルを専用のケースにしまいながら言った。クリスタルボウルという楽器は、硝子で出来ているということから、非常に繊細で重いのである。

「まあ、そういうことなら、セッションの効果が出たということでもありますね。もし、もっと深い癒しが必要でありましたら、僕の所に来てください。もっと、精神症状が重度な方のための楽器もございます。」

「おう!これで新しいクライエントさんを獲得だな。竹村さん。良かったね。それで、なにについて

話しているのか、それを話してもらおうぜ。」

竹村さんに続いて、杉ちゃんが言った。彼女は、もう話すしかないと思ったのか、

「お話しいたします。」

と小さい声で言った。

「私の名は、岡江と申します。岡江哲子と申します。職業は、今現在のところ、すし屋で働かせていただいています。」

「はあ、そのすし屋が何で、こんな所にいるんだ?」

と、杉ちゃんが口をはさむ。

「実は私、恥ずかしい話しではありますが、一度捕まったことがあるんです。あ、でも、殺人とかそういうひどい話ではありません。私は、薬物依存症で、覚醒剤で捕まりまり、刑務所に服役もしました。今思うと、なんでそんな事したんだろうって、思いますけど、あの頃の私は、ほかに逃げ道がなくて、薬をやるしかなかったんですね。きっと、そうなるしかないと思うくらい、私はダメな人間だったと思います。」

哲子さんは、縮こまってそういう話を始めたのであった。

「そうですか。僕は、そんな事問題にはいたしません。それは仕方なかったというか、成長するのに、必要な事でもあるのですからね。」

「一体なぜ、そのようなものに手を出したんですか?誰かに紹介されたとか?それとも、無理やり売りつけられたとかそういうことですか?」

竹村さんがそういうと、ジョチさんがそういうことを言った。

「ええまあ、そういう感じです。学校の勉強があまりにもできなくて、親や学校の先生に、だめだとかそういうことばかり言われて、自分はだめだというか、憂鬱でたまらない日々を過ごしていました。それで、始めて覚醒剤を打った時は、本当に、ダメな自分から解放されたみたいで、まるで空を跳んでいる見たいでしたよ。」

「そうだったんですか。確かにそうだったかもしれません。学校というところは、オウムより怖い宗教ということも、僕は知っています。学校にずっといて、精神がおかしくなった人も何人かいますから。あなたも、学校以外に鬱憤を晴らせる場所があったら、覚醒剤に手を出す必要もないと思いますね。」

ジョチさんは、彼女に言った。

「私の事、嫌な人間とか、悪い人間とか言わないんですか?」

彼女、岡江哲子さんは、三人を見た。

「いいえ、言いませんよ。あなたも被害者のひとりであることは、分かりますからね。刑務所にはいったと言いますけれども、法律でそうなっているだけで、あなたが傷ついた部分を癒すことは出来なかったでしょうからね。犯罪者というレッテルはあるとは思いますが、それだけがあなたではありませんから。」

と、竹村さんは言った。

「まあ、こういう犯罪はですね。本人が三分の一、親が三分の一、社会が三分の一の責任があると有名な医者の先生が言っていたことがありました。僕は医者という立場ではありませんが、そういう人を何人か相手にしてきましたから。」

「もし、良かったら、定期的に竹村さんの所に通ってさ。しばらく癒してもらったらどうだ?まあ、事実自体は変えられないとしてもだ。癒されて考えが変わったら、又変わってくるかもしれないよ。竹村さんのセッションはすごい格安だと聞いているよ。」

杉ちゃんがデカい声でそう推し進めため、岡江さんは竹村さんに、金額はどのくらいなのかと聞くと、竹村さんは事情がある方なら、千五百円で大丈夫ですといった。

「そうですか、それなら御願いしてもいいですか。その金額であれば、週に一回はこちらにくることが出来ます。」

「分かりました。じゃあ、来週の今日、部屋を取っておきますから、ラインかメールのアドレスを教えていただけますでしょうか。連絡を取れる手段を教えてください。」

岡江さんがそういうと、竹村さんは言った。

「格安スマートフォンなので、ラインは出来ません。スマートフォンの携帯メールでもよろしいですか?」

「ええ、全くかまいません。それでは御願いします。」

岡江さんは、スマートフォンの番号を手帖に書いて、それを破り、竹村さんに渡した。

「ありがとうございます。じゃあ部屋が決まったら、連絡いたします。よろしくお願いします。」

と、竹村さんはにこやかに笑って、それを受けとった。

「よろしくお願いします。」

という彼女に、杉ちゃんも竹村さんも一礼したのであった。

それから一週間後。杉ちゃんとジョチさんは、また公民館に行った。公民館の和室に行くと、竹村さんが、今度は透明のクリスタルボウルをもって待っていた。

「あれ、今度は白いクリスタルボウルじゃなかったの?」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ。本来、症状が重い患者さんにはクラシックフロステッドボウルが一番ではあるんですが、彼女の場合、罪は大きいと思いますので、それより軽いウルトラライトボウルということにしたんです。クラシックですと、長時間聞いていたら、かなりの衝撃になる可能性もありますからね。」

と、竹村さんは説明した。竹村さんがクリスタルボウルを布巾で拭きながら、演奏の準備をしていると、

「こんにちは。お約束通り参りました。」

彼女、岡江哲子さんの声がして、本人が和室にはいってきた。

「来てくださってありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。」

と、竹村さんは彼女を座布団の上に座らせた。本来なら寝転がってくれても良いと竹村さんは行ったのであるが、それは悪いからと、岡江さんは座ったままでいた。

「それならば、演奏を始めましょう。演奏は、ウルトラライトボウルですから、さほど苦しくはありませんので、ゆったり聞いてくださいませ。」

と、竹村さんはそういってマレットを持った。またゴーン、ガーン、ギーンという音がなり始める。やっぱりお寺の鐘の音に何処か似ているのであった。叩くだけではなく、マレットでクリスタルボウルのふちをこすることによっても音は出る。その音は、何とも言えない不思議な音で、とても美しい音でもあった。

「泣きたかったら、泣いても結構ですよ。そのためのクリスタルボウルセッションですからね。」

ジョチさんが岡江さんにそっという。

やっぱり、岡江さんは、涙を流してしまうのであった。

演奏は、45分で終了した。でも、何だか長いようで短い演奏であった。

「ありがとうございました。先生、これ、お約束の謝礼です。」

と、岡江さんは、茶封筒を竹村さんに渡す。

「ああ、こちらこそありがとうございます。今日は仕事をお休みされたんですか?」

竹村さんが聞くと、

「ええ。まあ、私は、親がやっているすし屋で働かせてもらっているようなもので。まあ、ただ働きにも近いものです。私は、家族の間でしか価値はありません。親は、ずっと生きていて欲しいって言いますけど。私は、もう薬物依存症ですし、もう、社会的には、いらない人間ですよね。それでも、なんで生きているのかなって思うこともあるんですよ。」

と、彼女はそういうことを言った。

「確かにそうかもしれないが、お前さんは竹村さんには、大事なクライエントだし、僕やジョチさんにとっては大事な友達でもあるんだな。僕たちは、そういう事でお前さんを放り出すような真似はしないよ。」

杉ちゃんがそういうと、

「でも私は、もう、やってはいけない事で捕まりました。もうそれはだれにも変えることはできないじゃないですか。そういう、幸せになることは、もうできないんじゃないかな。私は、そういう事だと思います。」

と、彼女は小さい声で言った。

「私はきっと、幸せになっちゃいけない人間なんですよ。だから、こういうことをして、社会に出られなくなったんだと思います。社会は、そういうことをして、世のなかに反抗していた私に、罰を与えたんだと思います。私は、学校というところがどうしても嫌で、何とかそこから出ようと、薬物に走りました。だから、私はこうして制裁を受けたんだと思います。やっぱり私は、ちゃんと生きなければならなかった。それが、いけなかったんだと。」

「そうだねえ、、、。」

と、杉ちゃんは腕組みをした。

「そうかもしれないけどさ。お前さんの学校がどんな学校だったか教えてもらえないかな?」

「ええ、昔は確かに、進学校として名をはせていたことは認めます。私の母がいたころは、名門の女子高だったそうです。でも、今はまじめな人なんて何処にもいません。みんな、汚い声で授業中に携帯電話で話したり、ゲームをしたり。先生も、自分たちの方を向かせようと、汚い言葉を浴びせて。もう、まるで地獄でした。」

「なるほど。それはもしかして、吉永高校ですか?」

とジョチさんが言った。

「ええその通りですが、どうしてそれを前もって知っているんです?」

彼女は一寸驚いたような気がしてそういうと、

「ええ、別の意味で名が知られていますよ。確かに、10年前だったら名門校としてまだ効かれていたかもしれないんですけど、隣に私立学校が出来たせいで、今は教育どころか、刑務所みたいな生活を強いられるって、うちのクライエントさんは言ってますよ。」

と、竹村さんはにこやかに笑って言った。

「大体のクライエントさんたちは、吉永高校というと、周りの大人たちはいい学校だと口をそろえて言いますので、自分の苦しみを信じてもらえないと言って、泣いている人が多いのです。」

「はい、私も、何回も親や家族に言いましたが、同じ文句出て、受け入れてくれませんでした。」

彼女は竹村さんの言葉に直ぐに答えた。

「それで私、悩みを訴える友達も居なくて、学校ではずっとひとりだったんです。だから、薬でつながった人たちが、すごくうれしく思ってしまったんです。」

「そうかそうか。お前さんが間違えたのは、そこだと思うよ。でも、早く捕まってくれて良かったじゃないか。ああいう薬物ってのは、乱用が進めば、死に至ることだってあるんだからな。」

と、杉ちゃんが急いで付け加えた。確かに杉ちゃんのいう通りでもあるのだが、

「私、今思うと、学校にいる間に死んでおけば良かったんですよね。」

と、彼女は言っただけだった。

「そうですか。それじゃあ、僕たちが、お前さんの仲間が大勢いる所に連れて行ってやる。まあ、逮捕されたという子はいないけれど、いろんな経歴の奴がいて、話しを聞いてもらうことはできると思う。お前さんも、家の中でぶらぶらしているんだったら、僕たちと一緒に来た方がいいぞ。」

「そんな場所があるんですか?そんな所、刑務所以外ないですよね?」

杉ちゃんにそういわれて、岡江さんは驚くような顔で言った。

「まあ、驚くのも当然の事だが、学校や家に居場所のない奴は意外に多いよ。竹村さんだって、そこの利用者さんたちに施術しているんだし、そういうところに行った方が、世間体的にもいいんじゃないの?」

杉ちゃんは、にこやかに笑った。

「そうですね。僕もそのほうが良いと思います。製鉄所に行った方が。」

竹村さんは、クリスタルボウルをケースに入れながら、そういった。ジョチさんは急いで小園さんにスマートフォンで何か話している。そして電話を切ると、

「岡江さん、見学だけでもいいですから、行ってみましょうか。」

と彼女に言った。

一方そのころ、製鉄所では。

「ほら、大丈夫ですか。苦しいかもしれないですけど、せめて芋切干ばっかりではなくて、ちゃんと食事をしてくれれば。」

と、ブッチャーが、水穂さんにご飯を食べさせようと奮戦力投していたのであった。ほかの利用者たちも、このやり取りを真剣に見ている。中には、看護大学に通っているので、論文の題材にしたいということで、画板をもって、やり取りをメモしている女性もいる。ブッチャーが一生懸命ご飯を食べさせようとするが、水穂さんは、せき込んだまま食べようとはしなかった。

ちょうどその時、ブッチャーのスマートフォンがなる。

「もしもし、理事長さん。へ?今からですか?新しい人がですか。はあ、一寸今、水穂さんにご飯を食べさせようとしているんですが、全然食べてくれないんですよ。ああ、そうですか。分かりました。」

とブッチャーは電話アプリを切って、

「水穂さん、新しい利用者がここへくるそうです。なんでも、覚醒剤をやっていた方だそうです。彼女の手本になるためにも、ご飯を食べて元気になってください。」

と、水穂さんに改めてご飯を突き出した。水穂さんもお茶でご飯を流し込むようにしながら、やっと一口だけご飯を口にしてくれた。

「こんにちは。」

と、玄関先から声がした。もうインターフォンのない玄関なので、杉ちゃん一行はどんどん四畳半に来てしまった。ブッチャーは水穂さんに急いでお茶を飲ませて、何とかご飯の続きを食べてくれるように促した。

「おう、又やってるの。相変わらず水穂さんもご飯を食べないで困っているのか。全く困った奴だねえ。」

杉ちゃんは、水穂さんを見て、そう言った。一緒に来た岡江哲子さんが、水穂さんのげっそりとやつれた顔を見て、大変驚いた顔をする。

「私、高校で、先生の演奏を一回だけ聞いたことがありました。素敵な先生だったから、よく覚えております。私は、先生は私のようなみじめな人生とは、無関係だと思っていたのに。」

「無関係じゃないよ。しかし、流石吉永高校だ。水穂さんをお招きできるくらいだもん、やっぱりいい学校だったんだねえ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「でも、彼女が傷ついたことは確かなんですから、それを否定してはだめですよ、杉ちゃん。」

ジョチさんは急いでそういうと、

「いえ、先生みたいな高名なピアニストの方がくるんですから、吉永高校は間違ってなかったんですね。私やっぱり、悪い人間だったんですね。それはいけないと思いました。」

と、彼女は又涙をこぼした。

「いいえ、したことは確かに悪いですが、あなたが悪いというわけではありません。それは間違いではありませんよ。」

ジョチさんは、急いで訂正したが、水穂さんは小さい声で言った。

「誰も悪くないけど、誰かが悪人にならないと、成立しないことは、いっぱいあるんですよ。悪徳令嬢は、何処にも居なくても、そういうことはあるんですね。」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

何処にもいない 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る