蜜の味

 池内 誠(いけうち まこと:仮名)さんという男性が体験した話。


 池内さんには、大学時代から10年以上続けている趣味がある。裁判傍聴だ。


 このエピソードは、池内さんが裁判を傍聴している時に体験したものである。


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 罪を犯す人はどんな気持ちで犯行に及ぶのか。逮捕された後はどんな表情をしているのか。裁判はどんな流れで進むのか。


 ニュース番組や新聞では報道されない部分に興味を持ったのことをきっかけに、裁判傍聴にハマった池内さん。


 裁判は平日にしか行われていないため、会社勤めを始めてからは行く頻度がかなり減ってしまった。それでも月に1回は有給休暇を取り、法廷へ足を運んでいる。


 一般的に裁判は、予定時間の10分ほど前に開廷する。それまでは法廷のドア前に並んで待たなければならない。先着順で傍聴でき、座席がいっぱいになるまで入れる。


 殺人や強制わいせつなど、人々の注目を集めた事件は、数十人もの列ができることも珍しくない。


 ある日、池内さんはとても興味深い裁判を見つけた。罪状は「殺人未遂」。かなり人気になることが予想された。


 確実に法廷に入れるよう、開廷の30分前に向かった池内さん。先頭に並ぶことができた。


 数分後、池内さんの後ろに1人の男性が並んだ。マスクをつけ、灰色のジャンパーを着た60歳くらいの人である。どこにでもいそうなおじさんであるが、池内さんは違和感を覚えた。


『………じゃねぇぞこの野郎』


『………ふざけんなよコラ』


 男性はブツブツと何かを呟いているのである。小声だったためはっきりと聞こえなかったが、怒っているような口調だった。


 関わらない方がいいと思った池内さんは、男性と目を合わせないようにして開廷の時間を待った。


 ドアの施錠が解除され、法廷に入る。傍聴人は、基本的にどの席に座ってもいい。池内さんはいつも、検察官の近くに座るようにしている。弁護人側に被告人が座るため、対岸の検察側からだと被告人の顔がよく見えるからだ。


 池内さんが席に座ると、さっきの男性が左後ろの席に座った。「この男性も自分と同じことを考えているのかな」と思った。その直後、


『ヒーッヒッヒッヒ…ククククク…ヒーッヒッヒッヒ』


小さく乾いた笑い声が後ろから聞こえた。男性が笑っているのだ。声を抑えるようにしているが、はっきり聞こえる。


 さっきまで怒り口調だったはずが、雨が止んだかのように感情が急変している男性に、池内さんは不気味さを感じた。


 もしかしたら本や漫画を読んでいるのかもしれないと思い、ちらりと後ろを見る。男性は証言台の方をじっと見つめて笑っていた。


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 その裁判は大いに荒れた。被告人が判決に対して反抗し、裁判長に怒りをぶつける場面もあった。


 ドラマや映画とは違い、現実の裁判は基本的に淡々と進行する。フィクションのイメージで傍聴すると期待外れに終わってしまうのだが、今回のように被告人が激情する裁判も全くないわけではない。


 傍聴する側としては、一波乱あった方が見応えがある。そう感じるものだろう。


 ちょうど被告人が声を荒げた時だった。


『クーックックックックッヒッヒーッヒッヒッヒッククククククククククッヒッヒッヒッ…クククククククッ…ヒーッヒッヒッ』


 男性の小さな笑い声は最高潮に達した。


 池内さんからすると、殺人未遂の罪を認めない被告人より、後ろで笑顔を噛み殺そうとしている男性の方が恐ろしく感じた。


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 裁判が終わると、男性はどこかへ立ち去った。きっとまた別の裁判を見に行くのだろう。


 男性のことを不気味に思った池内さんだったが、1つの疑問が頭に浮かんだ。


『自分とあの男性に違いはあるのだろうか。』


 恐らく男性は、裁判を一種の見世物として楽しんでいる。判決が出て、被告人の人生が崩れ落ちていく瞬間。それを楽しみにしているのだろう。


『他人の不幸は蜜の味』という言葉があるが、彼は法廷に甘い蜜を舐めに来ているだと思う。


 法廷に入る前は怒っていたのに、裁判が始まると一転して笑い声を上げていたことから、男性にとって裁判傍聴は、日頃の鬱憤を忘れられる最高の趣味なのかもしれない。


 では自分はどうか。『他人の不幸を見たい』という気持ちは一切ないと言えるのか。

答えはNOだ。


 今日の裁判、被告人が声を荒げた瞬間に高揚している自分が確かにいた。


 最初のうちは裁判自体に興味を持って傍聴していたはずだった池内さん。しかし、いつのまにか人の不幸を楽しむ闇へと向かっていたのかもしれない。


「それでも裁判傍聴はやめられない」と語ってくれた。


※ご本人や関係者に配慮し、内容を一部変更しています。

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