02

 万里子の鋭敏さが仇となった。あれからの迫水は外見には何の変化も見られなかったが、その内面には虚無が広がりつつあった。そして、万里子はそれを見抜いた。その変化は生と死を連想させた。一つの生が頂点に達した次の瞬間に死の領域が広がっているのだということを。

 迫水にやましいところはないはずだった。苦渋の末に陽炎の女の写真を消去し、万里子が獲得し得る物証はなくなったのだから。それは行為とその結果とを無に帰するものではなかったが、少なくとも迫水の心を平安にした。今の迫水が自分の心を意識するとき、それを表現するには平坦という言葉だけが相応しかった。カメラを持ち歩くことをやめたし、歪な執着をやめた。歪な執着。迫水はその内実を表現する言語を持たなかった。内面の全ては曖昧模糊としてしか存在し得なかった。

「ねえ、カメラは持っていかないの」

 本格的な夏の足音がいよいよ迫ったある日のことだった。万里子から海に誘われた迫水は、彼女のその言葉で、久しぶりにカメラを持ち歩く気分になった。気まぐれにそうした、という以上のことではなかったけれども、少なくとも迫水はカメラを手にするという選択をしたのだった。

 さて、海までは万里子の運転である。彼女にはいささか無骨に過ぎる国産のセダンで迫水を迎えにきた。迫水はこの車に乗る度に彼女の両親の気配を感じずにはいられなかったが、乗り心地の良さに満足していたので機嫌良く応じることができた。

 会社の近くで見つけたランチの美味しい店の話、リバイバル上映された洋画の話、今度催される展覧会の話。車内での会話は弾んだ。やがていつものように万里子の両親の話になると会話は途切れがちになったが、その間隙を音楽が埋めた。繊細なピアノに絡み合うジャズギターの豊饒な音色。二人はしばらくその演奏に聴き入った。曲が終盤に差しかかったところで、迫水はこの曲をどこかで聞いたことがあるのを思い出した。あれはいつのことだっただろう。

 忘却の彼方に陽炎の女が立っている。恐ろしいまでに鮮明な記憶。右手の指環の煌めきの、その虹彩の襞までをも覚えている。

 何故だろう、女の写真はもう存在しないはずなのに。形を喪ってこそ、鮮やかに煌めくその姿。女の姿は迫水の瞳孔に焼き付いている。

 そして、どこからかやってきた些細な会話が想起された。あれは万里子がいつになく迫水の写真に熱中しているときのことだった。花々の咲き誇る様を見て、彼女は花言葉の話を始めたのだった。

「昔、同級生の女の子に貴女はヒガンバナのような人ねって、そう言われたことがあったの。そのときはどうしてそんなことを言うのか分からなかったわ。だってヒガンバナって、どうしても死を連想させるでしょう。でもね、彼女はいじわるでそう言ったんじゃなかったの。ヒガンバナの花言葉を知ってる?」

「さあ、花言葉には疎いからな」

「いろいろな意味があるらしいけれど、彼女は情熱という意味を伝えたかったらしいの。それを知って、自分は情熱的な性格なのかもしれないって思い始めたの。それにヒガンバナは秋の花でしょう、彼女は私が秋に生まれたことを知っていたのね。ねえ、私って情熱的かな?」

 情熱的に違いない、と迫水は答えたはずである。その後の記憶がどうも曖昧だった。

 しかしなるほど、ヒガンバナは死を連想させた。陽炎の女を形容するとしたなら、ヒガンバナ以上に適切なものはなかった。あの女が纏う、酸素のような、それ無くしては成立し得ない死の印象は、迫水を悲観的な思考の縁に立たせるのだった。

 写真に収めることで本当にあの女を殺してしまったのではないか? そうすることによって、あの女を絶対的な存在にしてしまったのではないか?

 あの彼岸に見た一輪の花は、人の形をしていた。もう二度と見ることはできないという現実が、その美しさを芸術的な崇高さにまで至らしめていた。そう思えば思うだけ、観念の中の女はその存在を大きくしていくのであった。迫水は、あの女を所有してしまったのだ。

「お昼は何がいいかな。ねえ、何か希望はある?」

 万里子がヒガンバナだとすれば、あの陽炎の女と同質ということになる。果たしてそうだろうか? 万里子は現実に触れることのできる存在だったが、あの女はどこまで行っても掴み得ない、幻のような存在でしかなかった。万里子とあの女とはまるで違う。

「ザクロ……」

「えっ?」

「ザクロの花言葉を知っているか?」

「急にどうしたの。……そうね、ザクロの花言葉は、円熟した優美とか優雅な美しさとか、そういうものだったと思うけど」

 そう、あの女はザクロだ。真赤なドレスに身を包み、弾けるようにして四散してしまった女。あの女はザクロだ。

 迫水は円熟から崩壊に至るまでの一瞬を見てしまったのだ。その一瞬の光が永遠の記憶となって焼き付いたに過ぎない。過ぎないのだけれども、迫水はそうすることによって女を所有してしまった。世界に存在しなくなった女を、観念の中に所有したのだ。

 曖昧になりつつあった自我の枠を、ピアノの音色がつんと押した。

 ちょうど信号が青に変わり、車が発進したところだった。沿道の古めかしい個人商店に子供用の浮き輪が並んでいる。海は近い。家々が視界に現れては消える。その繰り返しだ。あの女と出くわした日の、電車から見ていた風景のことを思い出した。隣に万里子のいることが、今は無性に嬉しかった。




 二人は海から少し離れたコインパーキングに車を停め、そこから歩いていくことにした。海沿いに車を停める場所はないだろうからと予測しての判断だったが、その途中に小さなうどん屋を見つけたことは二人に思わぬ喜びをもたらした。万里子は海老の天ぷらが乗ったうどんを、迫水は手打ちそばを頼んだ。食の細い迫水にはそれで充分だった。

 食事が運ばれてくるまでの間、窓際の席に座った二人は外の様子を眺めた。窓からは海が望めるというわけではなく、立ち並ぶ民家や舗装のされていない道が見えるだけである。そんな何でもない風景をぼんやりと眺めているだけの時間を、二人は退屈に感じなかった。一方の万里子は迫水と過ごす時間を純粋に楽しんでいて、もう一方の迫水は相変わらず陽炎の女という存在について扱い難くも考え続けている。次第に高くなっていく観念の波は、迫水の内面世界の果てから外部の現実世界に思考を漏らしているのだが、迫水はそれと気付かずにいる。

 それでも食事が運ばれてくると、さすがに迫水は思考を中断して夢中でそばを食べた。食事の美味しさを万里子と共有する余裕もあった。最後にそば湯を飲み干したとき、その湯気の向こうに見えたものは、陽炎の女の姿だった。そして実際に迫水を見つめていたのは、万里子という恋人だった。

 はたと気付いて罪悪感を覚えた迫水は、テーブルの上の伝票に手を伸ばした。その手が、同じく伝票を目指して伸ばされたのであろう万里子の手の下敷きとなった。手を動かそうとしない万里子の目を見て、迫水は当惑した。

「俺が払うよ」

「そうじゃないの」

「そうじゃないって?」

 万里子は俯いて言葉を発するかどうか迷った末に、嘘偽りのない気持ちを吐き出した。

「いつまでこんなまやかしの交際を続けるつもりなの。清らかな交際という欺瞞を」

 迫水を現実へと回帰させたのは、万里子の冷ややかな言葉だった。




 水着を持ってこなかった二人は、最初から海に入る気などなかったのだが、いざ海を前にしてみるとどうしても物足りなさを感じずにはいられなかった。開放された砂浜は肉体という肉体で満ちている。砂浜から一段高い歩道に立って見る景色は、そんなわけだから決して麗しくはなかった。水平線に商船でも航行していたなら、迫水は納得のような満足をしたかもしれない。あちらの波打ち際で遊ぶ幼児の好奇心の迸りは、こちらで眺める万里子の慈愛に満ちた性格を刺激したが、迫水には苛立ちを与えるだけだった。

 もしもこの世にカメラというものが無ければ、と迫水は考えずにはいられなかった。もしそうであるなら、迫水は煙草を愛さずにはいられなかっただろう。家族客に触発された万里子がいつ結婚の話を持ち出すか分からない、そんな瞬間にはなおさらそう感じられた。迫水はカメラを構えることで間を保たせた。しかし、撮るべきものは何もない。視界を占める水面は人で溢れていたし、雄大な入道雲を撮ることにも面白みを感じなかった。

「こうして海に来るのは久しぶりだわ。どうせなら水着を持ってくれば良かった」

 言外に批判めいた意図を感じた迫水は、黙ってファインダーを覗き続けた。万里子が水着を持ってこなかった理由などは分かっているのだ。

「こんなに天気が良いと却って不都合だろう、君みたいに肌が白いと」

「私は構わない。迫水くんが好きになってくれるのなら、私はそれで良いの」

 万里子は最後の瞬間まで所有されることを拒んでいるのだ。迫水が万里子を写真に収め、愛の言葉を囁き、結婚という契約を交わすまでは。それまでは素肌を露出させないし、その肌に触れさせることもしない。そして、いつまでも他人行儀に迫水くんと呼び続けることだろう。

 万里子はほとんど心情を吐露することはしなかったが、内心には不安という泥のような塊が沈殿している。万里子のことを迫水はまだ愛してはいない。それでも万里子が迫水という男に固執するのは、それが自分の幸せであると信じていたためでもあり、必ず迫水という男と結ばれる確信があったためでもある。突き詰めていけば、万里子は所有されるよりも所有しようとしているのだろう。

 一方の迫水はやはり万里子を愛することを恐れていた。いずれはそうなってしまうかもしれないと思いながらも、その先へ進むことが恐ろしかった。

 そんな、二人の脇を子供たちが駆け抜けた。おそらく兄弟であろう色違いの洋服を着た二人の少年は、迫水には過日の記憶を思い起こさせた。

 ある夏の日のことである。小学校に上がったばかりの迫水は、両親が住まう部屋の窓硝子が、破片となって庭に散らばっているのを発見した。少年はどうしてだろうと考えはしなかった。喧嘩の絶えない両親の姿を見てきた少年は、またかと考えた。両親は喧嘩の最中に、何かの拍子で窓を割ってしまったのだろう。あるいは故意であったかもしれない。少年は硝子の破片を手に取ってみた。破壊された事象の一片が少年の心に鈍い光をもたらした。

 と、指先に微かな痛みを感じた。細い直線上の傷が少年を激昂させた。硝子の破片を、一心不乱に踏みしだく。細分化された破片は日輪の光彩を反射していた。栄光は少年に直接微笑むことをせず、硝子片は少年を傷つけさえした。色褪せた絶望の苦い味を、迫水は今でもはっきりと覚えている。

 あの日に喪ったものは何だったのだろう。いや、あの日に得たものは何だったのだろうか。

 少なからず言えることは、少年は自分の愛されていないことを理解した。その瞬間に自分に対するつまらなさを、観念の恐るべき効能を知ったのだ。もしも愛してくれる存在があるとすれば、迫水は無意識のうちに希求する何かを得られたかもしれない。迫水は愛することを恐れていたから。その存在とは写真だろうか。あの渡辺という男のつまらない顔を思い出し、迫水はそれを否定した。それに写真は主体ではなく、客体であった。では何が、何がこの世界で迫水を愛してくれるだろうか?

「迫水くん」

 その囁きは愛と欺瞞に満ちていた。真夏の日輪の光彩を受けた万里子は、無常の美しさを所有している。その美しさが全てを肯定する栄光であるように迫水には思えた。

 次の瞬間にはカメラを構えていた。ピントも構図も意図せぬままに整っていた。世界の全ては万里子という存在に収斂しているようであった。

 そして再び、あの感触。陽炎の女を写し取ったのと同じように、肉体の活動が精神の制御を振り払って万里子を写真に収める収めようとした。その興奮の頂点に迫水は死を見た。この幸福の終着点にある死を、美のうちに含まれる本質を、迫水は切り取ることができなかった。それがあまりにも恐ろしかったのだ。

「ああ、そうか」

 これまでにはあり得ないほど鮮やかな重み、それはカメラのずっしりとした重みだった。最早、迫水は写真を撮ることができなかった。

「迫水くん?」

「万里子、俺は……」

 迫水の伸ばした手を万里子が握った。二人の関係の新たな局面を、それは意味していた。




 万里子の誕生日に合わせて盛大な結婚式が予定された。そこへ向けた舵取りは万里子の両親が買って出たが、その意思調整の手腕は流石の一言に尽きた。不仲になっていた迫水と彼の母との関係も、これを機に俄かに修復されたのだった。

 慌ただしい日々の中で、迫水は自分の性質が変化したことに気付いた。現実の事象が迫水の心理に与える影響は、これまでとは比較にならないほど強くなっていた。過去に向けられていた関心や写真に注がれていた熱量のようなものが、人として望ましいとされる方へ向けられたのだ。以前にはあり得なかった迫水の人当たりの良さは、万里子をして驚愕せしめた。万里子は夫となる男の人付き合いに関する態度については、最初から過度な期待を捨てていたのだ。

 迫水はそれまでつまらないと感じていた日々を、色鮮やかに感じるようになった。面白いと思えるもの、好きと言えるものを身の回りに発見していった。そうなった原因を辿ってみれば、それは万里子や写真といったものが媒体として存在していたが、その根本にあるものは、あの陽炎の女なのだった。

 陽炎の女がもたらしたものは、一口に言えば非日常だった。つまり、それまでにはあり得なかった新しい要素。迫水は女を写真に収めることで内面の変化を迎え、写真というものを放棄することで新しい生活の糧を得た。その最たるものが万里子だった。迫水は万里子を愛し、万里子は迫水を愛した。その当たり前の出来事の尊さ。迫水は凡人に成り下がることを自分に許したのだ。

 迫水が事実の確認をするべく、あの陽炎の女と出会った石橋にやって来たのは、夏の盛りを過ぎたある日のことだった。混乱して重くなった頭を意識で支えながら、迫水はやっとのことでここまで足を運んで来ていた。

 これより数時間前、迫水はあの菖蒲園のある公園を訪れていた。季節の進んだ今では花々は散り、夏草が生い茂るばかりだった。瞬間的に芭蕉の句を思い出したが、それ以上の感慨はない。同じ休日だったが、あの日と比べると人影もまばらに思えた。それに蒸し暑さもいくらか和らいだように感じられた。夏の暑気に身体が慣れたのであろうと、迫水は公園の中を歩き回りながら考えた。カメラが無くとも手持ち無沙汰ではなく、却ってカメラを持っていた頃の方が落ち着かない気分だったと思われたので、迫水は自分の変化に改めて驚かされた。

 少しばかり疲れた迫水は、どこか休める場所を探して歩き続けた。木陰のベンチに座った頃には、居心地の悪い汗が背中に浮かんでいた。身体が慣れたといっても、また、夏の盛りが過ぎたといっても、衰えというものを知らない暑気だった。背もたれに身を委ねて天を仰げば、枝葉の間から漏れた日光と目が合った。そうして見つめ合っていると、あの日もこのベンチで休憩したことを思い出した。この短期間に大きな変化を体験した迫水は、こうしてまた同じ場所に戻って来られたことに感慨を抱かずにはいられなかった。

「すみません」

 ほとんど眠りに近い忘我の只中にいた迫水は、突然の呼びかけにぼんやりと反応した。身なりの良い老夫婦が迫水の表情を伺っていた。

「はあ」

「写真をお願いできませんか?」

 老婦人の手に押し出されて視界に現れたのは、久しぶりに見るカメラの姿だった。断る機会を逃した迫水は、半ば困惑した頭でそれを受け取った。それは見慣れない型の小さなデジタルカメラだったが、今の迫水にとってはあまりにも重たすぎる代物だった。意図せずしてカメラを手にした迫水の目には、つい先日まで親しんでいた物がまるでオーパーツのように映っていた。

 立ち上がった迫水は老夫婦の要望に応じつつ、構図を整えていった。老夫婦はベンチに座ると、こんなことを言った。

「この葉桜も一緒に写して下さい」

 老夫婦の姿を無事写真に収めて、妙に熱のこもったお礼を受け、その二人を見送った迫水の頭はいつになく透徹していた。この木は葉桜だったのか、と今更になって気付いた。そして再び、ある観念が思考を支配していくのが分かった。

 何もかも最初から分かっていたはずのことだが、自然は静物などではなく、我々と同じように生きている存在なのだ。この桜の木も、風に揺れる色とりどりの菖蒲の花も、肉体のひしめき合う海も、彼岸に立ち上る陽炎も、全ては人間や動物と同じように生きている。時間の中に存在している以上、自然でさえ生死を免れることはできない。今までの迫水は、あと一歩のところでそのことに気付かなかった。

 しかし、どうだろう? 時間というものが人間の生み出した概念に過ぎないとすれば、その時間の流れに従っていると思われている自然の姿がまやかしであったとするならば。

 透き通っていた頭の中で管がぐちゃぐちゃと絡み合って、それを自力で解きほぐすことは不可能なことのように思われた。

 ……迫水が例の石橋を訪れたのはそのためであった。迫水は陽炎の女と出会ったあの日に変化した自分、死んでしまった過去の自分の姿を探そうと、この場所にやって来たのだ。あの日と違ってカメラは持っていない。世界はレンズ越しにではなく、正真正銘、自分の肉眼によって認識されている。

 この日も石橋の辺りはしんとしていた。対岸に目をやれば、やはり陽炎が立ち上っている。しかし、そこに女はいない。迫水は橋を渡って、対岸に立ってみようという気になった。そうすれば、何かが見つかるような気がした。

 石橋の高欄にその名が銘記されていた。鬼灯橋というらしい。迫水は変わった名前だと思いながらも足を踏み入れた。と、対岸から歩いてくる赤いドレスの女、陽炎の女の姿を見た。あの陽炎の女、最早この世に存在しないと思い込んでいた女、やはり死の印象を肉体に纏わせているあの女を。迫水は逃げ出したい思いに駆られたが、ここで引き返すことは不自然だった。鼓動の高鳴りに緊張の強まることを感じたが、同時に愉悦をも覚えた。

 正面から見る女はまさに美しかった。万里子の美が明晰さにあるとすれば、女の美は幽玄さにあった。全ての境界を侵す曖昧な存在のように。

 一歩ずつ距離が縮まっていく。迫水の視線は女の右手に注がれた。あの金色の指環は……、中指の指環は外されていた。どうしたのだろう、どこへやったのだろう。と、左手に煌めくものがあった。金色の指環は左手の薬指に光彩を放っていた!

 精神の脈拍の高まりに反して、肉体の律動の実感は急速に薄れていった。浮遊する感覚に常ならぬものを感じた。すれ違った女の横顔が、迫水の脳裏に焼き付いた。それこそはまさに死というものの相貌だった。

 迫水は、手を太陽にかざしてみた。その手の赤々とした血の色は健在だった。しかし、橋に投げかけられているはずの自身の陰影は妙に頼りないものに思えた。振り返ってみれば、女がちょうど橋を渡り終えようとしているところだった。そこに、女の陰影は存在しなかった。……




 迫水はその夏の終わりに入水自殺を遂げた。

 その三ヶ月後、万里子は別の男との結婚を果たしたという。

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静物の運動 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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