静物の運動

雨宮吾子

01

 初夏に輝く日輪の虹彩が色とりどりの菖蒲の花を照らしている。手前には紫の、その奥には赤紫の花々が咲いているが、一口に紫や赤紫といっても濃淡があり、所々には紋や覆輪といった模様を楽しむことがもできる。そこは人のように、あるいは人以上に多様な個性を持った花たちの戯れの場だった。

 風はなく、花々は静止している。しているのだけれども、色や模様の遷移が見た目に美しく、さながら運動が行われているかのようだった。その静止しながらに運動しているという部分に面白みを感じた迫水は、迷うことなくシャッターを切った。運動している様を描き出すために、一部分を切り取って撮るのではなく、全体を見渡すようにして撮る。何度か構図を変えて撮り、その写真を確認する。カメラの液晶画面を食い入るように見つめる様は、無邪気な子供のようでもあるが、言うまでもなく迫水は立派な青年だった。

 日増しに強くなる日射しが容赦なく照りつけるために、一つ所に立ち止まっていると額に汗の粒が浮かぶ。それでも迫水は不快を感じていないかのように納得した表情を浮かべ、後ろに回していた帽子のつばを前に戻した。汗のために湿った少し長めの頭髪にようやく居心地の悪いものを感じ、照りつける虹彩を恨んだ。

 迫水はふと思い立って、手のひらを太陽にかざしてみると、白い肌のうっすらと赤みがかった実相が露わになった。迫水はそこに生の横溢を見たが、すぐに目をそらして、コンクリートに伸びる自分の陰影を見つめながら、僅かに身動ぎした。影絵で遊ぶ子供のような、それでいて顕微鏡を覗き込む科学者のような、ある一つの交点上にある仕草だった。それが、迫水が自分の存在を確認しなければならないときに必ず行う行動だった。

 しかしさすがに日射しの横暴さに辟易した迫水は、木々に寄り添う形で設置されているベンチに座った。迫水にとってそれは、木陰を作り出してくれるただの樹木だった。あれだけ熱中して写真に収めた菖蒲でさえ、迫水にしてみればただの花だった、迫水が写しているものは外界の事象だったが、写そうとしているもの、あるいは吐き出そうとしているものは内面の観念だった。自然も静物も、全ては内面の観念に至るための媒体でしかないのだった。

 被写体を求めて歩き始めた迫水は、そろそろ菖蒲の顔に飽きていた。住宅地に程近い公園の中に作られた菖蒲園は、午後の余暇を過ごすにはいささか手狭だった。休日の公園は人で満ち溢れている。子供に急かされてやってきたのだろう父母や、散歩の途中で立ち寄ったらしき老夫婦など、そのほとんどが家族連れだった。その風景はいくらでも被写体になり得たが、迫水は興味を示さなかった。迫水は人物を撮らないのだ。

何故かと問われるに、そうするだけの信念があるわけではなかったが、いくつかの理由を挙げることはできた。まず、人物の肖像よりも自然の風景を撮る方が楽しかった。偶然に知り合った人物を写したところで、時間による変化を経た現実と、ある一瞬を切り取った写真との比較をすることはできないが、同じ場所に同じように存在している自然が相手ならそれができた。迫水は時間という観念に感興を抱いていた。

 しかし、それは表層的な理由だ。もっと深層的な理由を述べるとすれば、それはいうなれば他人を偶像視してしまうことを忌避する心情だった。迫水にとっての他人の像とは、美麗なるものと醜悪なるものとの二種類しかなかった。もし一度でも人物を写真に収めれば、それはたちまち偶像になることだろう。そして、それを崇拝してしまうか破壊してしまうことしかできないだろう。迫水は自分のそうした極端な心理を理解していた。ごく平凡な理性の働きが、他人に傾倒することを阻害し、他人を排斥することを防いだ。その結果として、迫水の人生には挫折という概念は存在しなかった。

 迫水は散策を中断して喫茶店に入った。運ばれてきたコーヒーを少し冷まして口にしようとしたとき、携帯電話のバイブレーションが作動した。休日には特定の相手からの電話にしか出ないと決めていたが、念のために相手を確認する。画面に表示された名前を確認すると、迫水は呼吸を整えてから、電話に出た。

「やあ」

「こんにちは。今日もいい天気だね」

 電話をかけてきたのは万里子という名の恋人だった。迫水は先に述べたように厄介な心理を有していたが、そんな自分でも意外に感じるくらいに万里子のことを気に入っていた。

 万里子のどこが好ましいのか、迫水は以前に考えたことがあったが、それは性格でも容姿でもないという結論に至った。万里子は性格も容姿も優れていると思えるから、そんなことを誰かに言ったならきっと贅沢だと言われてしまうだろうが、他人に必要以上の期待を抱くまいとする迫水が気に入ったのは、彼女の対人関係における明晰さだった。伝えたいことをはっきりと表現し、相手の意見をしっかりと受容し、双方にとって最適な合意に至る術を万里子は体得していた。

「カメラと散歩しているんでしょう」

「まあ、そうだな」

「良い写真が撮れたのなら、また見せてくれない? 私に写真の醍醐味は理解できないかもしれないけど、見ていると心が豊かになっていくような気がして」

 人間の認識とは面白いもので、生半可な知識を以てするよりも全くの無知を以てした方が、事の本質を射抜くことがしばしばある。迫水が今までに交際してきた相手は、少なからず写真に興味を示す女性ばかりだったが、写真というものに詳しくはない万里子の方が、作品の意図や趣きをよく理解してくれた。万里子には豊かな素養がある。知的な満足をもたらしてくれるのも、迫水が万里子を気に入る理由の一つだった。

「家に帰って写真を選別したら、すぐにメールでデータを送るよ」

「ありがとう。ところで今日の夜だけど、食事できないかな。私の両親が一緒に食事をしたいって言ってるの」

 迫水は緊張した。それがこの電話の本題だった。

「ん、今日の夜か。二人きりで良ければ少しだけでも時間を作るよ。明日は大事な仕事が入っていて、色々と準備が要るんだ」

 その言葉の裏に隠れている心情を万里子が推察できないはずはない。それだけに迫水は大きな嘘を吐かず、最小限の言い訳をした。

「そう、分かった。だったら迫水くんの家で食べましょう。何か材料を買って行くから、それでどうかな?」

「構わないよ。そうだ、せっかくだからそのときに写真を見せよう」

 こうして余暇は潰れたり、と電話を切った迫水は心の中で呟いた。それと同時に、夕飯の支度をする手間がなくなると喜びもした。自宅に他人を招くことは好きではなかったが、結局は万里子の提案に同意してしまったところから、男性操縦という言葉の乾いた響きが思い出された。世の中の男女がするのと同じように、自分たちも水面下での心理戦を行なっているのだとしたなら、この美しく清らかな交際も卑俗の色を帯びるのだった。そして、それをこの先の何十年も続けていくのだとすれば……。そこまで考えて、空白に陥った。迫水は未来のあることをどうしても信じることができなかった。今というものを切り取る写真に魅せられたことの弊害かもしれないと思いながら、カメラを捨てようなどとは全く考えもしなかった。そうすることは何よりも大きな喪失になるだろうから。

 ようやくありつけたコーヒーは、砂糖の足りない刺々しい味がした。深淵から浮かび上がる苦味が、末路の暗いことを告げているようにも思えた。






 迫水が自分の人生を振り返るとき、そこに無味乾燥という以外の印象を抱くことはできなかった。他人を偶像に仕立て上げる性癖を持ち、その反動として自分のことをつまらない人間だと思っていた迫水は、不思議と周囲に好かれた。自分にも他人にも期待するところのない性格が、従順なものと理解されたらしい。素直だと誤解されることすらあった。迫水が自分をどんな人間であると考えたかはさておき、豊かな好奇心や知識欲は備えていたから、学校での成績も良く、両親が望むままの大学に入ることができた。

 大学で知り合った友人は多彩で、彼らに接する迫水の心は豊かに育っていった。その中で最も迫水に影響を与えたのは、渡辺という名のつまらない男だった。迫水がつまらないと思った人物は今までの人生の中でこの男ただ一人だったし、ともするとこの先の人生を含めてそうなるかもしれない。それは会話が面白くないという意味であったし、渡辺の内面の乏しいことを意味したものでもあった。迫水がそうでないというわけではないが、渡辺は明らかに卑俗な類の人間だった。そんな渡辺がただ一つだけ得意としたものが写真であり、世界の事象を切り取って様々な解釈を周囲に披瀝するのだった。迫水はその自慢の仕方も、写真で男女関係の皮肉を表現しようとしたりするいやらしさも、写真に添えられた出来損ないの詩のようなものも好まなかった。だが、空間や時間を一枚の写真の中に収めるという概念には魅了された。それは迫水が初めて獲得した言語であったかもしれない。迫水が初めて交際した女性も、同じく写真を撮るという行為を愛していた。そのことから、迫水は彼女を愛することができた。

 以後の女性遍歴は、それまでの迫水を知る者を驚かせた。知り合ってすぐに交際を始め、一ヶ月程で別れてしまうという、迫水らしからぬ軽薄さだったためだ。だが、迫水にしてみれば、他人の偶像視を避けるためにはそうするしかなかった。他人を理解し関係を深めていくことは、迫水にとって自殺行為だったのだ。その悲哀を全身に纏う迫水は、不思議と以前よりも好かれるようになった。またしても、様々な経験を経た人間の味わいと曲解されたらしい。

 大学を卒業した迫水は、大手企業の営業職に就いた。他人に好印象を与える自分の性格を十分に理解していたのだ。果たして、迫水は社会人としての成功を得た。このときに同じ会社で知り合ったのが、万里子という華やかなる美しい女性だった。






 作業を終えて欠伸をしていると、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、両手に大きな買い物袋を持った万里子が立っていた。

 撮影した写真の八割に落第点を与えたばかりの迫水は、よほど目の光沢が失われていたらしく、聡い万里子はすぐに機嫌を伺った。

「無理を言ってごめんなさい。食事を作ったらすぐに帰ろうかな」

「いや、ゆっくりしていってくれ。目が疲れたよ、画面を睨みすぎたらしい」

 迫水は自分らしからぬ言い訳をしていると感じながらも目頭を押さえてみると、思っていた以上に疲労していたことに気付いた。明日の仕事のことを考えると頭がくらくらするような感じもしたが、努めて外見には表さないようにした。万里子はその口ぶりに含みがないことを確かめると、お邪魔しますと言って部屋に上がった。

 築十年のワンルームマンションは質素な外観で、迫水の美的感覚にはそぐわなかったが、中に住んでしまえばどうせ外観は分からないのだからとこの部屋を借りてしまった。職場にも万里子の実家にも近いマンションを彼女が探してくれていたのだが、迫水はどうにも気に入らなかった。結局、万里子の家からはかなり離れてしまったのだが、彼女は口実を見つけては甲斐甲斐しく足を運んでくるのだった。

「いつ来ても綺麗な部屋だね。だから好きなの、迫水くんのこと」

 たしかに男性の一人暮らしにしては、迫水の部屋はよく整頓されている。いや、厳密には持ち物が少ないだけなのだ。迫水にとって大事なのはカメラと写真のデータが入ったパソコン、それにラジオと少しばかりの書籍だった。迫水はつまらない人間の住む部屋はつまらないものだと自嘲しながら、そこに引け目や自己否定の感情は存在しなかった。現実のあるがままを受け止めていると、少なくとも自分ではそう思っていた。

それにしても、いかにも心のこもった褒め言葉だった。万里子が迫水に対して想うのと同じように、迫水は万里子のことが好きだった。

「すぐに作るから」

 万里子はそう言いながら、いつの間にかボウルの中でひき肉をこね始めていた。てきぱきとした動作が心地良い。艶やかな長髪は後ろに束ねられ、万里子の端正な横顔が現れていた。その美しさに迫水は息を飲むというよりも、却って撥ね付けられるような強い感情を覚えた。その肌の質感を、迫水は知らなかったから。

「風呂に入ってくるよ」

「……そうね、ゆっくりしてきて」

 どこか居心地の悪さを感じながら、迫水は浴室に入った。脱衣所がないので浴室で服を脱ぎ、廊下に脱いだ衣服を置く、キッチンから見える角度ではないが、浴室との間に仕切りはなかったので、互いの配慮を必要とした。

 やや暗い照明の下で迫水は何かの儀式を行うかのようにして身体を清めた。そうするときの、無私に近い感覚。抑圧された感情が、この儀式を経て霧散していくのだ。そしてぬるめの湯船に身体を沈める。心臓の鼓動を止めるようにして目を瞑ると、キッチンからの物音が一つの像となって浮かび上がってくるようだった。今この瞬間も万里子は美しく存在しているだろうか?

 美というものは見えない瞬間にこそ最も美しく存在できる。外面に見る美と内面に広がる美の実感が伴ってこそ、それは初めて美といえるのだ。いかに屈折した迫水とて、美しいものを愛する心は人並みに持っていた。写真に収めるものは、美しくあればあるほど良かった。

 ところが、迫水は万里子の写真というものを撮ったことがない。やはり偶像視を忌避する心理が、ここでも頭をもたげてくるのだった。万里子は美の基準にはもちろん適っていたが、同時にこれ以上ないほど人間らしい被写体でもあった。万里子を写真に収めてしまえば、彼女を無限に肯定し続けなければならなくなってしまうかもしれない。だから迫水はどこかで万里子の美の翳りを望んでいるのかもしれなかった。万里子の最も美しい姿を切り取ることは、迫水にとってこの上ない苦痛なのだった。

 それでも、迫水は万里子のことが好きだった。でなければ、こうして清らかで美しい交際を続けることもなかったはずだ。

「迫水くん?」

 不意に万里子の声がしたので迫水は思わず立ち上がった。

「……どうした」

 万里子のことを考えていたまさにそのときに彼女が磨りガラスの向こうにいる。生身のままで彼女と向かい合う心の準備は、まだできていない。

「ご飯、できたわ」

「ありがとう。それだけかい」

「ええ、それだけ」

 その最後の口調に何か力強いものがこもっていたことを、いつもは鋭敏な迫水が聞き逃した。今は持ち上がった自分の気持ちに苦心して、それを悟られないかと不安になっていたから。




 思っていた以上に長風呂だったらしく、迫水が着替えを終えたときには三十分近く経っていた。

「うん、美味しい」

 手製のハンバーグを口に運び、心の底から湧いてきた感想を素直に告げた。その真心のこもった言葉に、万里子の表情は綻んだ。そのおかげもあってか、会話はいつも以上に弾んだ。元来が無口な気質の迫水だったが、饒舌な万里子と時間を過ごすようになってから、いくらか口数が増えたようだった。

「今日は家でくつろいでいたの。部屋の掃除をして、ラジオを聴きながら休憩して、そうこうしているうちに昼食の時間になって……。食後は紅茶を飲んだの」

「どんな番組を聴いたんだ?」

「ラヴェルにサティにドビュッシー、フランスの作曲家の特集だったかな。迫水くんはそういう音楽に興味がある?」

「つまらない歌詞を聞かされる歌よりはずっと好きだな」

 迫水も好きな音楽の話題は、しかしいつしか万里子の両親の話になっていた。万里子の巧みな誘導によって、迫水はその話題を強いられたのだ。

「今日は会えなくて父が残念がってたわ。迫水くんの仕事や体調のこと、色々と気にしてたから」

「それは悪かった。君のお父さんは元気?」

 迫水は万里子の父のことを尋ねるとき、君の、お父さんと必ず言うようにしていた。

 万里子の父は不動産会社を経営していて、末娘の万里子の嫁ぎ先を迫水に決めているらしかった。今はまだ結婚のことなど考えられない迫水は、万里子の両親との接触を避けたがったが、その反対に彼らは迫水との交流を深めようとしているのだった。

 迫水にしてみれば、こんな自分のところへこんな器量の良い娘をやろうとしている彼らの真意が図りかねた。もし迫水が第三者の立場であったなら、迫水も立派な青年であることを認めただろうし、既に社会的成功を収めた万里子の両親が末娘の思うままにさせていることを理解しただろうが、残念ながらそれは無理なことだった。

 それはさておき、会話はさらに展開を続けている。

「ええ、元気。この前も母を連れて金沢へ旅行に行ったの」

「金沢か。この季節には良いだろうな」

「今度、四人で行きましょうか」

「それって、本気?」

「……冗談よ。もし旅行に行くとしたなら、迫水くんと二人が良いから」

 万里子の脅迫じみた言葉に迫水はほとんど辟易したが、万里子はその手を緩めずに次の言葉を繰り出していた。

「ねえ、私の写真を撮ってくれないかな」

「悪い、写真に収めるのは風景だけだと決めているんだ」

「それは前にも聞いたけど、私は迫水くんの特別になりたいの。ねえ、いいでしょう」

 迫水は直感的にあることを理解していた。万里子もまた直感的に、迫水が抱く偶像視に対する畏れを見抜いていると。見抜いているからこそ、写真に収められることを何度も求めているのだ。しかし同時に言えることは、写真に収められるまでは万里子と迫水とは他人同士だった。迫水だけでなく、万里子もまたそう考えているはずだ。

 この無言の駆け引きは、二人の紐帯の最も重要な要素になっていた。関係の終着点が見えないからこそ、この関係はどこまでも続いていくのだった。万里子を写真に収めてしまえば、つまり関係の終着点が見えてしまえば、この関係は崩壊してしまうかもしれないと、少なくとも迫水はそう感じていた。

「いつか、気が向いたら撮ろう。今の状態だと良いものは撮れないし、それは君にも失礼だろう」

「そうね。私も執拗に迫ってしまってごめんなさい」

「いや、謝ることはないよ。それより、今日撮って写真を見たいのなら、用意しておいたから」

 そうやって万里子に示されたのは、日輪の下で健気に咲き誇る花々の写真だった。それが健気であればある分だけ、万里子の頬は急速に熱を帯びていくのだった。しかしその嫉妬のような感情は、潮が引いていくようにして自然に解消していった。万里子はある鍵を、しっかりと握っていたのだから。




 翌週の日曜日の快晴は前日の雨のせいもあってか、伸びやかな気分を迫水に与えた。盛夏の兆しもみられる蒸し暑さだったが、本格的な夏の熱気が押し寄せるよりも先に、遠出を済ませておこうという気分になった。そこで以前から狙っていた郊外の住宅地に足を運び、日常的な風景の様々を写真に収めることにした。アスファルトで舗装された坂などに風情はないようにも思えるが、却って陽炎の立ち上る様子が撮影できて、どこか情緒的な作品に仕上がるのだった。また、どこへ続くともしれない階段などに遭遇したときには、子供らしい感興の赴くままに駆け上がっていったりもした。つまるところ、迫水は生物の運動を愛しているのだ。色彩の遷移する花々、陽炎の立ち上る坂、頂きへと続く階段。意思を持たない物体を生物とするなら、自然は即ち静物であった。その生物の最たるもの、あの天空に輝く日輪を迫水は愛した!




 自家用車を持たない迫水は、撮影を終えると電車で帰途に就いた。折しも夕方の混み合う時間だったから、座席の空きがなく、迫水は扉に左半身を委ねて窓外の風景を眺めていた。同じ風景を見ることは二度とできない。時間は過ぎゆき、日射しは最後の輝きを強める。栄枯盛衰の虚しさを知ってしまった子供のように、メランコリックな感情が満ちるのを感じながらも、迫水はそれを抑えることができなかった。あの祖父母に連れられた少年は、その先に避けられぬ別れがあると知れば、その小さな肉体の奥に何を想うだろう。あの少女は容貌の衰えが避けられぬと知れば、あの老人は孤独な死が待っていると知れば……。彼らを写真に収めれば、栄光の日々の実在を残すことができれば、それが彼らの慰みになり得るだろう。しかし、それは慰みにしかならないのだ。

 思えば、迫水の魅了された写真というものにはどんな効能があるのだろう。そうした疑念を抱くことは最終的には虚しさを募らせることにしかならないかもしれないが、今はそれを突き詰めずにはいられなかった。思考のある地点まで行き着いたとき、迫水の心に閃く何かがあった。迫水はそれを掴もうとして、思わず手を伸ばしかけた。

 不意に電車の走行音が転調した。川に架けられた短い鉄橋の上を走っているのだ。ぼんやりとした頭が冴え、悲観的な観念を振り払う。雄大な川の流れと神経質に走る電車と、彼方に浮かぶ不動の太陽……。

 気が変わった迫水は次の駅で下車すると、いそいそと線路沿いを遡った。水量の増えた川に突き当たり、川沿いを上流の方へと歩いていく。眩暈のような残光の中を迫水は無心で歩き続けた。

 やがて出会ったのは、アーチ状の古い石橋だった。車がようやく通れるくらいの幅があり、けれども通行人すら見当たらない。しんとした雰囲気を感じた。迫水は今ここに立っていることが不思議であり、また同時に強い生の実感を得た。そうした心の動きに快いものを感じた迫水は、いつの間にやらカメラを手にしていた。流れる水と静止している石橋との対比が面白く、構図の決定に苦心した。

 と、対岸にきらりと煌めくものがあった。そちらの方へ目をやると、紅色のアフタヌーンドレスを着た女性の姿が見えた。漂白されたかのように無機質な肌の色と、鈍い黒の幅の広い帽子とが対照的だった。こちらに背を向けているのでよく分からないが、そこに死の存在を予感させた。視界の端に煌めいたものは、光の反射であるらしかった。

 こんなところであんな格好をして、何をしているのだろう。迫水にしては珍しく見知らぬ他人に興味を持った。しばらくして、何もしていないのだと気付いた。彼女はただそこに立っていた。それだけである。彼女は人形ではないか? いや、彼女は間違いなく生きている。迫水は狂わんばかりに混乱した。静物の運動なら迷いなく愛することができた。しかし、生物の静止を見たのは、これが初めてだった。生ける者の完全なる静止があり得るだろうか? 誰しもが時の洗礼を受ける、いや、受けねばならなかった。もしも、それを免れる特別な存在がいるとすれば……。

 迫水は彼女にピントを合わせた。すると、右手の中指に金色の指環が煌めいているのが分かった。彼女は何者のものでもない、それさえ確認できれば良かった。良かったのだが、彼女に合わせたピントを外すことができなかった。シャッターに指がかかる。筋肉の不思議な硬直がシャッターを切ろうとする。迫水は我を忘れていた! 無我夢中になってファインダーを覗き込み、そして、シャッターを切った。

 そのとき、迫水は何者かの断末魔を聞いた。それはまさしくルシファーの堕天を告げる喇叭の音であり、楚軍の四面を包囲した漢軍の歌の音であり、そして、未来に起こる何者かの転生を告げる鍵の音であった。

 即ち、迫水は一瞬の彼岸の光彩を切り取ってしまったのだ!

 迫水が我に返ったとき、女の姿は既になかった。かくして、女神は写真の中に閉じ込められた。迫水は彼女を殺してしまったのだ。

 手の震えと胸の動悸とが一度に襲って着た。頭の片隅に万里子の顔が浮かび、この上ない裏切りを恥じた。しかし、次の瞬間には、あの女のことを考えていた。女を写した写真を確かめることができなかった。確かめずにおきながら、最早、今までのような自分ではあり得ないことに迫水は気付いていた。まさにあの女が立っていたその場所に、ゆらゆらと陽炎の立ち上るのが見えた。もしもあれが幻であったなら、どれだけ幸せであったことだろう。

 迫水は、思い出したように空へ手をかざした。そこに生まれるはずの血潮の赤を、そして地面に刻まれるはずの陰影の黒を、この世に現出させようとした。しかしそこに存在していたはずの太陽は、既に地平の彼方に沈まんとしていた……。

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