第3話

 中央女子狙撃学校を修了したわたし達は列車に乗せられ、複数ある前線へとそれぞれ運ばれて行った。

 わたしの出征先はレニングラード。レイラも一緒だ。

 そこは長い間、酸鼻を極める状況に陥っていたが、現在は既にソ連軍がドイツ軍の包囲を打破しており、完全に押し返すまでもう間もなくという状態だった。


 勝利は目前というタイミングでの初陣は幸運だったと言えるだろう。敵軍の本隊は既に撤退しており、殿による反撃はそれほど苛烈なものではない。

 迫撃砲やカチューシャで敵陣を破壊し尽くした後に、残ったフリッツを始末するのがわたし達に初めて与えられた任務だった。


 そこでわたしは、初めて人を殺した。


 敵陣の制圧を完了すると、他の兵士達と砲火によって蹂躙された黒い大地の上を歩いた。

 フリッツの死体が無数に転がっている。中にはカチューシャの爆熱によって骨だけと化しているものもあった。


 そこでわたしは自らが殺した兵士と対面する。

 彼は懐に家族らしき姿が一緒に写った写真を入れていた。

 それを見た途端、自分への嫌悪感と彼への罪悪感が噴出した。


 同じ人間で、大切な家族がいる。

 そんな人をわたしはこの手で殺した。


「うっ……!?」


 瞬間的に込み上げてきた胃液を塹壕の土壁に吐き出す。

 わたしは撒き散らされた吐瀉物を前にして、懐からトゥーラ造兵廠・トカレフ1930/33TTピストルを取り出した。

 そして、その銃口を自らのこめかみに当て、引き金を――。


「おい、貴様! 何をやっているッ!!」


 傍にいた他の兵士に力づくで止められる中、わたしは自らの行動に当惑する。

 今、何をしようとした……?


 その夜、初日を無事に終えた女性兵士達は同じ天幕の中に集められた。

 既に半年以上も前線にいる上級軍曹は言う。


「奴らに同情しちゃ駄目よ。憎むの」


 彼女は残虐非道なナチの行いを語り、自分達の行いの正当性を熱弁した。

 それを聞いて、楽になった者もいた様子だった。

 けれど、わたしは違う。とても自分の行いが正しいと思うことは出来なかった。


 彼らだって別に自分の意志で戦争を始めたわけじゃない。もっと上の誰かの命令で来ているに過ぎない。本当にソ連の兵士は残虐な行いを何もしていないのだろうか。もし立場が反対だった時、しないと言えるだろうか。人を殺すことがこんなにも苦しく辛いことなのだから、それが原因となって凶行に出てしまったんじゃないか。


 脳内に考えるべきでない言葉が止めどなく溢れてくる。

 わたしは彼らへの憎しみを宿すことが出来なかった。

 今ならリュドミラのことが分かる気がする。彼女と出会って感じた不安の正体も。


 敵を憎しんで、殺して、殺して、殺して、わたしの憧憬あこがれとなった彼女は、けれど未だこの大空ばしょに囚われ続けている。決して自由に飛んでなどいない。


 わたしが切望した鳥籠の外には、別の鳥籠があるだけだった。





 わたし達は一九四四年一月二四日に投入され、一月二七日にはレニングラードでの戦いが終了した。

 その日は勝利の証として祝砲が何度も鳴り響いており、夜には前線の拠点でもちょっとした宴が行われ、兵士達は楽しそうに騒いでいる。


 しかし、わたしは離れた場所のベンチに座り込んで、俯きながらリュドミラに貰った煙草を喫っていた。

 この四日間で何人殺しただろう。一発撃つ度に自分の心にも孔が空いていくようだった。


 ずっと暗闇の中を歩いているようだ。今の自分がどこに行こうとしているのかも分からない。絶望の泥濘ぬかるみが全身に纏わりついてくる。虚無に引きずり込もうとしてくる。

 そして、抗う気力は既にない。もうこれ以上、足を動かすことは出来そうになかった。


「カーチャ……こんなところにいたの」


 レイラはわたしを探していた様子だった。

 わたしは普段通りを装って、莞爾にっこりと笑顔を作ろうとする。

 けれど、上手くいかない。身体の奥底から生じているような戦慄きに支配される。

 煙草が指先から地面に落ち、わたしは自分の身を抱えるようにした。


「ねぇ、レイラ……わたし、間違ってたのかな」


 これまで誰かに明かすことのなかった想いが、心の裡からポロポロと零れ出していく。


「ずっと世界が息苦しかった。自由に生きたいと願ってた。そんな時に、リュドミラのことを知って、憧れて、彼女のようになれたら何かが変わるかもって思った。でも、違った。変わらない、何も変わらないんだ。わたしが求めたものは何処にもない……こんな気持ちじゃもう、わたしは戦えない……」


 上官に知られてしまえば、ただじゃ済まない。

 それでも、話さずにはいられなかった。例えレイラが誰かに話してしまっても、構わないと思えた。

 彼女は隣に座ると、少しして口を開く。


「……私ね、七年前に両親が軍人に連れていかれてからずっと、周りの人に冷たい目で見られて来た。頼った親戚からも。どこまでも『人民の敵』という烙印が付いて回った。だから、戦争が始まった時、嬉しかったの。やっと役に立てるって。命を賭けて戦えばきっと認めて貰えるって。それで死んでも構わない。そう思ってた」


 それは彼女の口から初めて聞く心情だった。

 以前の「祖国を守る為」という言葉の奥には、彼女の抱える悲哀があったのだと分かる。


「でも、今は違う。もう、そんなことはどうでもいいって、思えるようになった」

「……どうして?」


 問いかけると、レイラはこちらを向いた。

 彼女は慈しむような表情で告げる。


「だって、カーチャが私をてくれたから。多分、私が本当に欲しかったのは、それだけだったの」


 彼女はわたしの手に自らの手を重ねた。

 冷え切った身に沁み込んでいくような温もりがそこにはあった。


「私にはあなたの求める答えをあげられない。でも、傍にいることは出来る。辛いなら私が支えるから。だから、生きることを諦めないで」

「レイラ……」


 彼女の真摯な言葉がわたしの心に響き渡る。暗闇の世界に一筋の光が差したようだった。

 わたし、独りじゃないんだ。

 そう思った瞬間、心身を苛み続けていた絶望が和らいでいくのを感じた。


「ねぇ、見て」


 レイラが頭上を指さす。

 その先に視線を向けると、満天の星空が飛び込んできた。儚くも眩い煌めきの奔流に圧倒される。それはまるで宝石をちりばめたように綺麗だった。


 戦場に来て初めて、何かを美しいと感じたように思う。

 ずっと変わらずそこにあったはずなのに、まったく見えていなかった。

 そして、それは切望していた答えもきっと、同じだった。


「……馬鹿だなぁ、わたし。こんなにすぐ傍にあったのに」

「元気出た?」

「うん……ありがとう、レイラ」


 わたしは重ねられた手を返し、そっと握る。

 しばらくの間、わたしとレイラはそのままでいた。

 これから先、この日レイラと一緒に見た星空を忘れることはないだろう。

 例え、何があっても。





 一九四四年二月一三日。

 戦場はレニングラードからその西側、ロシアとエストニアの境界線に当たる、ナルヴァ川付近へと移った。

 ドイツ軍はナルヴァ川東岸に陣地を構えており、ソ連軍は複数の部隊で包囲するような形で進軍している。


 わたしとレイラは北方から攻める部隊に配属された。

 敵陣地からおよそ八〇〇メートルの位置に拠点を確立することに成功しており、他方面からの部隊も接近し包囲が完了次第、攻め入る手筈となっている。

 ここで勝利を収めれば、ソ連軍は圧倒的優位に立つことになり、ドイツ軍を領土内から完全に駆逐するのも時間の問題だろうとされていた。


 そんな状況の中、わたしとレイラは二人一組となって自陣と敵陣の中間地帯の見張りに付いていた。

 狙撃用陣地には空き家の屋根裏部屋を利用している。

 夜明け前からそこで過ごし、日が暮れれば自陣に戻る、ということの繰り返しだ。

 敵が現れれば、少ない人数なら狙撃し、大人数なら急いで味方に知らせる。


 既に数日が経過しているが、現在のところは動きがない。

 今はわたしが休憩し、レイラが見張りを行っていた。

 彼女は用意した狙撃穴から、膝射でスリーラインを構えてPE照準器を覗き込んでいた。

 全身と銃には家の木壁を模した偽装を施している。離れた場所から見つけるのは困難だろう。


「ねぇ、カーチャ」

「ん、なに?」


 レイラは照準器からは目を離さずに声を掛けてきた。


「私、戦争が終わったら、元々住んでたキエフに戻ろうと思うの。やっぱり私にとってはそこが故郷だから」

「そうなんだ」


「リュドミラも確かキエフに住んでいたのよね」

「そうだね」


 わたしはレイラの意図が良く分からず、気のない返事続きとなってしまう。


「その……良かったら、遊びに来て。行きたい場所があったら、案内するから」


 レイラは何やら緊張している様子だったが、わたしはいざ言われたことに拍子抜けした。


「もちろん。約束するよ」

「……良かった」


 レイラは僅かに肩を震わす。その頬は緩んでいた。

 嬉しそうだ。きっと、『人民の敵』の娘として冷遇されてきた彼女にとって、それは簡単じゃなくて、断られるかも知れないと不安があって、特別なことだったのだろう。

 彼女にはもっと笑っていて欲しいな、とわたしは心の底から思えた。


 少しして、先程までとは違う鋭い声音が届く。


「カーチャ。フリッツが現れたわ」


 わたしは急いで別の狙撃口から双眼鏡で確認する。

 確かに、雪原の上を歩いてくるフリッツが見えた。その足取りはおぼつかず、酔っぱらっているようだ。


「こんな戦い、早く終わらせなきゃ……」


 レイラは今にも撃とうとしている。

 わたしには何かがおかしく思えたが、その結論を出すよりも早く、彼女は引き金を引いた。

 閃光と共に銃声が鳴り響き、フリッツがビクンと跳ねて倒れる。


 直後、ぞわりと背筋を冷たいものが通り過ぎるのを感じた。

 わたしは咄嗟に叫ぶ。杞憂であって欲しいと願いながら。


「レイラ、伏せてッ!」

「カーチャ……?」


 レイラはこちらを振り向こうとした。

 その瞬間、彼女は僅かに仰け反り、後ろに倒れた。

 一刹那遅れて耳に届く、無機質な銃声。凶弾が頭部を貫いたのだ。


「あっ……あぁぁぁ」


 不安は的中した。やはり、あのフリッツは囮だった。生きた兵士による囮。狙撃手の位置を特定する為に用いられた、あまりに非人道的な策。

 わたしは狙撃穴の下からレイラの身体を引き寄せると、絶望的な気持ちで状態を確かめた。


「…………まだ、生きてる」


 意識はないが、確かに脈と呼吸があった。

 弾丸は彼女の右眼を貫いているが、すぐ横から抜けている。これならまだ助かるかも知れない。慌てて救急パックを取り出し、応急手当を行う。


 早く医者に診せないと……でも、ここは狙撃手に狙われている……のこのこと外に出て行けば撃たれるだけ……どうするどうする、考えろわたし……。


 自分一人なら逃げるのも簡単じゃないか、という考えがふと脳裏をよぎる。

 憧憬あこがれへと至りたいのであれば、ここで死ぬわけにはいかない。確実に生きる選択をした方が良い。


 しかし、レイラの顔を見た時、わたしの結論は一つだった。

 狙撃手を倒し、レイラを抱えて拠点まで戻る。それ以外にない。

 敵は一人じゃないかも知れない。もう傍まで他の兵士が迫っているかも知れない。


 それでも、やるんだ。

 レイラの撃たれた位置と場所から、大体の角度は分かる。なら、あとは正確な距離。

 わたしは目を閉じて、ほんの数分前に聞いた銃声を追想する。


 音の感じを思い出せ。例え銃火を見ていなくても、わたしにはそれが出来るはずだ。

 脳内で周辺の地形を構成し、記憶にある音の感じから、敵の想定位置に印を打つ。


 あとは早撃ちだ。敵は移動していなければ、レイラの側の狙撃口に狙いを定めているはず。わたしの側の狙撃口は見つけられていない可能性が高い。

 とは言え、顔を出せば気づくのは時間の問題だろう。相手がこちらに気づいて撃ってくるよりも速く撃つしかない。


 レイラを助ける為には一刻の猶予もないので、わたしは覚悟を決める。

 息を吐いて、軽く吸うと、そこで息を止めた。

 わたしはスリーラインの照準器を覗き込んだまま、自分の側の狙撃口から顔を出す。

 即座に敵の想定位置を視野に収めた。


「っ……」


 いた。ほとんど想定と違わない位置に白いカモフラージュスーツを着たフリッツが。

 銃口は既にこちらを向いている。まだ撃たれていないということは、向こうも照準を合わせたばかりだ。


 ならば、撃ち抜け、奴より速く。

 指に力が込められる。少しずつ引き金が引かれていく。

 薄氷うすらいの上を踏み進むような感覚。

 極限まで引き延ばされた時間の中で祈り続けた。


 そして、遂に結果が生じる。

 わたしの命運を分ける銃弾が、放たれた。


「……ッ!?」


 左肩に強烈な衝撃。灼けるような熱を感じる。

 撃たれた。けれど、左肩なら即死することはない。

 わたしは歯を食い縛って痛みを堪えながら、双眼鏡を拾って敵の位置を視認した。

 そこにはうつ伏せになったまま動かないフリッツがいた。死んだかどうかは分からないが、少なくともこれで邪魔はされない。


 わたしは自分の左肩のことは気にも留めず、レイラの身体を抱えた。

 不思議と痛みは薄れている。これなら問題ない。拠点までほんの四百メートル程だ。


「レイラ、必ず助けてみせるから」


 荷物を持っていく余裕もないので、わたしは何も持たずに空き家の外に出た。その中にはリュドミラに貰った銀のシガレットケースもあったが、後悔はない。

 敵が傍にいないことを願いつつ、必死に駆けていく。


 やがて、拠点に辿り着いたわたしは、慌てて駆け寄ってきた仲間の兵士にレイラを預けると、途端に全身から力が抜けてその場に崩れ落ちた。

 左肩から想像以上の血が溢れ出しており、深紅に染まったジャケットがわたしの最後に見た光景だった。

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