第2話

 いよいよ中央女子狙撃学校での日々が始まった。

 軍隊式の暮らしを送る上で、身につけざるを得ない習慣が色々とあった。

 分かりやすいところで言えば、早起きと早食いだ。


 早起きとはもちろん、単に早い時間に起きることではない。素早く起きて準備することだ。

 上級曹長の「起床!」という号令と共にわたし達は寝棚から飛び出し、すぐさま軍服に着替える。それは時間を計測されており、遅ければ「就寝!」という号令で寝棚に戻らされ、一からやり直す羽目となる。


 早食いはそのままだが、昼食の時間であろうとお構いなしに小隊の号令が掛かる為に必要とされた。一日中身体を動かすことも少なくないので、空腹となる速度は以前までの比ではなく、もし昼食を食べ損ねてしまえば恐ろしいことになる。


 どちらも初めは上手く出来ず大いに苦しんでいたが、わたし達は少しずつ順応していった。それはまるで身体の裡側から兵士という存在に作り替えられていくようだった。

 戦闘に関する技術もその身に覚えさせるように厳しく叩き込まれた。


 前線で主に用いられているスリーラインやトカレフM1940スヴェタの扱い、塹壕の掘り方や匍匐前進の仕方、狙撃を行う際の弾道の計算法、白兵戦となった場合の戦い方、と挙げていけばキリがない程だ。

 その日の訓練が終われば死んだように眠り、朝になって号令が掛かれば、身体が勝手に支度を行い訓練に赴く。


 ただひたすらその繰り返しで、目眩めくるめく日々は過ぎていく。

 そんな中で、やはり寝食を共にする生徒達との仲間意識は自ずと育まれていったのだが、レイラだけは周囲から浮いてしまっていた。彼女には冷淡な態度を取る者が大半だった。


 その原因は、レイラの両親が『人民の敵』である、という一つの噂。

 一九三〇年代の後半に掛けて、多くの人が『人民の敵』として拘留、処刑された。どうやらその中にレイラの両親もいたらしい。

 レイラはその噂を否定することもなく、それは彼女の孤立を一層強めていた。





 ある日、わたし達は自分達で掘った塹壕の中にいた。

 昼食もそこで取り、その後は短い休憩の時間となっていた。皆、疲れ切った身体を癒すように思い思いのひと時を過ごしている。

 わたしは一人で土壁にもたれていたレイラに近づき、声を掛けた。


「何してるの?」

「……何も」

「そっか」


 わたしは彼女の隣にそっと腰を下ろした。

 二人の間には沈黙の緞帳が垂れる。


 ふと頭上に広がる天蓋そらに目をやった。何となく手を伸ばしてみる。

 今のわたしは、少しは近づけているのだろうか、あの大空ばしょに。

 停滞せず、前に進むことが出来ているだろうか。


「……あまり私と一緒にいると、カーチャも後ろ指を刺されるわ」


 わたしがぼんやりしていたところに、レイラは沈黙を破ってそう言った。


「どうして?」


 彼女の言葉がどういう意味かは分かっていた。それでも、問いかける。


「……私は『人民の敵』の娘だから」

「本当なの?」

「……ええ」


 レイラはきっと、わたしが立ち去ると考えていたのだろう。

 でも、それはわたしという人間のことを全然分かっていない。


「い、いひゃいっ!?」


 とりあえず両頬を引っ張ってやった。

 突然の攻撃に目を白黒させて、素っ頓狂な声を上げるレイラを真正面に見据え

て、言う。


「わたしさ、そういうの嫌いなんだ。誰かがこう言ってるからとか、親がこうだからとかで人を判断するの。わたしはわたしが感じたことを信じるよ。そんで、わたしはレイラを良い人だと思ってる。だから、何か言ってくるようなのがいたらこう返すよ。うっさい、って」


 言い終えると、引っ張っていた手を離した。彼女の両頬はほんのり赤らんでいた。


「それとも、迷惑?」

「そんなこと、ない、けど……」

「なら、何も気にすることはないね。はい、この話おしまい」


 わたしがそう言うと、レイラは俯いた。


「……ありがとう」


 少しして、そんな呟きが耳に届いた。

 それからすぐに号令が掛かり、訓練が再開された。





 入学時は身を溶かし尽くすような暑さだったが、気づけば身を切り裂くような寒さへと移ろいでいた。

 年明けにはわたし達は卒業し、前線へと駆り出されることになる。

 その前に待ち構えているのが修了試験だ。これまで得た技術の全てを試されるような内容となっているらしい。


 そんな試験が間近に差し迫った十二月のある日、訓練前のわたし達に思わぬサプライズが用意されていた。

 練兵場に集められたわたし達は、演壇に立つ学校長を仰ぎ見る。


「本日は特別に赤軍指揮官養成校ヴィストレルより同志リュドミラ・パブリチェンコ狙撃教官に激励に来ていただいた。知らない者はいないと思うが、先日には最高の栄誉であるソ連邦英雄の称号を授与された偉大な人物よ。心して傾聴するように」


 入れ替わり演壇に上がったのは、軍服を纏い略帽ピロートカを被った褐色ブルネットの髪の女性。

 それは紛れもなくわたしが何度も写真を見て憧れ続けてきた、リュドミラ・パブリチェンコだった。


 途端にわたしの心臓は激しく高鳴り始めた。

 わたしの運命とも言える存在が、ほんの数十メートルの地点にいるのだから、当然だ。


 一言一句聞き逃してたまるか、という思いでリュドミラのスピーチに集中する。

 それは簡単な自己紹介に始まり、自身の経験から戦場で役に立つ話をいくつか聞かせてくれた。最後は締めとして次のように語った。


「私は同志スターリンから次のような言葉を賜りました。私のすべきことは、死の危険を冒してまで自分の手でナチを百人殺すことではなく、百人の狙撃手にかけがえのない知識を伝授し、彼らがそれぞれ十人のナチを殺せるようにすることだ、と。その為に今はヴィストレルで狙撃教官を務めています。あなた達は私が直接指導したわけではないけど、それでもこのソビエト連邦の同志として、そして同じ狙撃手として、より多くのナチを殺しこの国を守ってくれることを心より願っています」


 わたしは精一杯の拍手を送る。すっかり高揚し、昂る気持ちが抑えられなかった。


「同志リュドミラは本日の訓練をしばらく見学していくそうよ。あなた達が如何に優れた兵士であるかを見せなさい」


 再び演壇に上がった学校長はそう言った。

 それはわたしをその後の訓練に普段以上の熱量で励ませた。





 昼食の時間となり、普段よりも更に急いで食べ終えたわたしは、すぐに食堂を飛び出した。

 学校内や周辺を奔走し、リュドミラの姿を探す。

 一縷の希望に過ぎなかったが、わたしは幸運にも彼女を見つけることが出来た。


 リュドミラは練兵場の森林地帯の傍で、倒木を椅子代わりに腰かけて、煙草を喫いながら本を読んでいる。

 彼女は声を掛けるまでもなく、気配で察したのか、こちらを振り向いた。

 怜悧な光を灯した焦げ茶色のひとみがわたしを射貫く。


「あら、あなたは……」

「あ、あの! わたしはエカテリーナ・バラノフであります、同志リュドミラ!」

「ふふっ、そんなにかしこまらなくていいわよ」


 リュドミラは自らの隣を指し示した。わたしは恐る恐ると腰かける。

 すると、彼女は銀のシガレットケースを開き、中に並んだ煙草をこちらに見せた。


「吸う?」

「あ、はいっ」


 わたしはガチガチに緊張しながらも反射的に受け取っていた。

『カズベク』と書かれた煙草を口に咥えて、ライターも貸してもらい、火をつける。


「……ごほっごほっ!」


 一息で咽せた。

 そんなわたしを見て、リュドミラは微笑を浮かべる。


「もしかして初めてだった?」


 涙目になりながらコクコクと頷いた。


「なら、肺に入れないようにするといいわ。口内で泳がしてからそっと吹く感じで」


 言われた通りにすると、確かに今度は咽せなかった。

 煙草の芳醇な香りが口の中に満ちて、穏やかな気分になる。


「こうしてると、夫と初めて会った時を思い出すわ」


 リュドミラは過去を追想するように視線を遠くに向けた。

 彼女の夫はセヴァスポトリで亡くなったと見た覚えがある。

 思わず言葉を失くして視線を下に向けると、彼女の手元の本が目に入った。


「……『戦争と平和』ですね。わたし、読んだことあります」

「ええ。レフ・トルストイの作品はどれも好きだけど、特に好きなの。何度通読したか分からないわ」


 少しの間、わたし達は朗らかな雰囲気で本の話を続けた。

 やがて、一度会話が途切れたところでリュドミラは話題を変える。


「エカテリーナは優秀ね。訓練を見させてもらったけど、特に耳が良い。視覚外への反応が誰より早かったわ。それは狙撃手として立派な武器になる」

「そ、そんなこと……ありがとうございます」


 急に褒められて動揺したわたしは顔が熱くなるのを感じた。寒さとは関係なく赤くなっていそうだ。

 リュドミラはそんなわたしの目元を見てふと呟く。


「あなたの眸、青空のように澄んだ色をしているわね……」


 彼女は何故だか一瞬だけ悲しそうな顔をしたかと思えば、ポケットから再び銀

のシガレットケースを取り出して、わたしの手に握らせた。


「これ、あなたにあげるわ」

「えっ、でも……」

「いいのよ。他にもあるし、もうじき前線に行くなら、きっと必要になるから」


 そう言うと、リュドミラは長い睫毛をそっと伏せた。

 彼女の言葉には生々しい重みがあった。それはきっと戦場を経験した者にしか分からないだろう。


「……分かりました。頂きます」


 わたしが素直に受け取ると、リュドミラはこちらの双肩に手を置いて、告げる。


「もう私が前線に出ることは恐らくないわ。だから、あなた達に託すの、私の想いを。私が奴らを許すことはない。祖国を汚し、仲間を殺し、大切な夫をも殺した、奴らを殺し尽くして」


 その言葉にはおどろおどろしい程の情念が込められていると思えた。

 それを受け止める為に、こちらの精一杯の覚悟を込めて頷く。


「……はいっ!」

 憧れの女性ひとから自分達に託された想いを知り、わたしは改めて自らの心に誓う。

 リュドミラのような英雄になるのだ、と。


 しかし、その奥底では何か得体の知れない不安が蠢いているように思えた。





 遂に修了試験の日が訪れた。

 特に重要なのは、実戦を模した試験だ。個々人によって異なる課題を与えられ、練兵場の各場所を使って数人ずつ行っていく。そうして、狙撃兵としての職務を遂行できるかを試されるのだ。


 わたしは練兵場の森林地帯での待機を指示された。試験終了の合図が出るまでは指定位置を離れてはならない、とのことだ。試験官は少し離れた崖の上から、双眼鏡でこちらの様子を眺めていた。

 十分後に開始するので、それまでは自由に準備をして良いらしい。


 まずは自分に地面と同化するような偽装を施した。狙撃兵は気づかれないまま踏みつけられるくらいでなければならない。

 その後は周辺の観察に時間を用いた。全方位が木々に囲まれているので視界は良くないが、これといって変わった様子は見られなかった。


 やがて、十分が経過する。試験開始の合図となる信号弾が放たれた。

 わたしは即座に匍匐姿勢となり、息を潜めてジッと待つ。スリーラインを構えて、PE照準器を覗き込む程度に留めた。


 静謐を湛える冬の森林の中では、自分の呼吸や心臓の音が良く聞こえる。

 そのまま十分程が過ぎた。しかし、何かが起きることはない。


 わたしは焦燥感に苛まれ始める。

 もしかして、周辺に何かが隠されていて、それを見逃してしまっているのではないか。偽装を解いてでも各方向を観察した方が良いだろうか。しかし、そうすると試験官にはこちらの焦りが一目で分かってしまうだろう。


 わたしは考えた末に、動かないことを選択する。

 狙撃兵は忍耐が肝心だ。何かしら動きがあるまでひたすら待つ。静かに待ち続けることが出来るかどうかを試されているのかも知れない。

 焦りで少し乱れた呼吸をゆっくりと整え、五感を研ぎ澄ましていく。些細な物音でも聞き逃さないように。


 更に五分程度が過ぎた頃、その音は鳴り響いた。

 火薬が爆ぜる音。銃声を模しているのだろう。

 それはわたしの背の側から聞こえてきた。音の感じからおおよその位置を特定する。

 リュドミラにも褒められた、音による空間把握の能力。


 わたしは最小限の動きで向きを変えると、PE照準器を覗き込んで特定した位置に絞って確認した。

 そこには上手く偽装された銃を持つ人形が隠れていた。どうやら初めからあったらしい。時限装置で音が鳴るように細工されていたのだろう。光も出ていたのかも知れない。


 ここでようやく試験の意図が分かる。対抗狙撃戦術、つまり敵の狙撃兵を発見し、狙撃し返すことだ。

 わたしは人形の頭部に照準線を合わせると、なめらかに引き金を引いた。銃口からの閃光と共に、無慈悲な一撃が人形の頭部を撃砕する。

 それから程なくして、信号弾が放たれた。試験終了の合図だ。


 結果、わたしは「優等」の評価で修了試験を合格した。数少ない「優等」の生徒は伍長に任命される。

 学校に指導官として残り、後進の育成に携わることを勧められたが、わたしは断った。


 前線に出なければ、リュドミラのようになれない。彼女の想いを果たすことも出来ない。

 ならば、わたしが前線に出ることを選ぶのは必然だった。


 こうして、中央女子狙撃学校での生活は終わりを迎えた。

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