同じ空の下で、君とまた

吉野玄冬

第1話

 戦場は一つの色に支配されている。

 獰猛な黒。それは万物を喰らい尽くし、呑み込んで、自らの糧としていく。

 その中で唯一、血潮だけが紅玉ルゥビーンのように赤い輝きを放っていたが、それさえもすぐに黒ずんでしまう。一瞬の煌めきだ、生命いのちと同じように。


 頭上では黒暗の雲煙くもけぶり天蓋そらを覆っている。

 先刻まで敵陣には迫撃砲や大砲が数多と降り注いでおり、更には自走式多連装ロケット砲カチューシャも一切の容赦なく撃ち込まれたことで、焦土と化していた。


 それらの耳をつんざくような轟音は、今なお頭の中に響き続けている。その後では散発的に撃ち放たれる銃声も小鳥のさえずりのようだった。

 鼻先には様々な物の焼け焦げる臭いに混じって、どうしようもなく不安な気分になるような甘い臭いが漂ってくる。それはきっと、人体が燃える臭い。


 惨烈な事象が波濤のように押し寄せてくる。


 そんな中、わたしは狙撃用の塹壕から身を乗り出すと、目前の胸壁にモシン・ナガンM1891/30スリーラインを乗せて、立射の構えでエメリャノフPE望遠照準器を覗き込んだ。


 三本の照準線の中央にドイツ兵フリッツの頭部が映る。

 先の砲火を運良く生き延びたらしいその者の姿は悲壮感に満ちていた。

 ドイツ軍の本隊はとっくに西へと退いている。彼らは殿しんがりとして、仲間を守る為に我らがソ連軍を足止めしている。その身を犠牲にして。


 そんな様子を感じてしまったからか、わたしの身体は突如として戦慄わななき始めた。

 人を撃つということ。人を殺すということ。

 それが何を意味するか、思慮が欠けていたと痛感する。訓練でベニヤ板を撃つのとは決定的に違っていた。

 わたしには彼らをこの世から抹殺すべきファシストとしてではなく、同じ人間としてしか見ることが出来なかった。


 それでも、撃たなければならない。

 憧れた女性ひとのようになる為に。彼女の願いを叶える為に。

 意志の力で己の身体を律し、無理やり引き金を引く。それは訓練時よりも遥かに重く感じられた。


 スリーラインの床尾が肩に当たり、銃口からは閃光が生じる。

 フリッツは操り人形の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

 やった、と思う。高揚感を得た。ほんの一刹那だけ。


 直後に溢れ出たのは、後悔。

 早く次のフリッツを狙わなければならない。手を止めている暇などないのだから。

 なのに、動悸が止まらない。身体の戦慄きは一層増して、思うように動いてくれない。目元からは堰が決壊したように涙が流れていた。


 たった今、わたしは何かを喪失した。そして、それが戻ってくることは二度とない。

 上手く言葉に出来ないが、確かにそう感じたのだった。


 一九四四年一月二四日、レニングラードの最前線にて。

 そこでわたしは、初めて人を殺した。





 わたしが世界に違和を覚えるようになったのは多分、思春期を迎えた頃だったと思う。

 ある時、ふと感じたどうしようもない息苦しさに、思わず叫び出しそうになったのを良く覚えている。


 小さい頃は何だって出来るような気がしていた。これから自分はどんな存在にでもなれるのだと本気で思っていた。

 けれど、現実はそうじゃなかった。


 ソビエト社会主義共和国連邦と名付けられたこの社会は、わたしに「愛国心」と「女らしさ」を求めていた。そして、模範的な人民である父母も同様に。

 別にそれ自体が嫌だったわけじゃない。国を嫌いたいとか、男のように生きたいとか、そんな風に思っていたわけじゃないのだから。


 でも、勝手に決められるのは嫌だった。自分で選ばせて欲しかった。この国を好きになることも、女らしく振舞ってい嫁になることも。

 初めから限られた中で選ぶことしか許されていない。


 それはまるで、鳥籠の中に囚われた鳥のようだと思った。

 鉄の檻の中で飼い殺されている、不自由な存在。目の前に広がる大空に飛び立つことは叶わない。


 あの空で自由に羽搏はばたくことが出来たなら、どれだけ気持ちが良いのだろう。あの空の先にはどんな美しい景色が待っているのだろう。

 初めはそんな風に空想に浸っては現状を嘆き、生き辛さに苦しんでいた。


 けれど、いつしか諦めることを覚えた。停滞は哀しい程に心地良かった。

 誰もが同じ鳥籠の中にいて、あの大空は壁に描かれた絵だ。世界は無限に広がってなんていない。

 そんな風に思っていた。


 けれど、あの日、わたしは見てしまったのだ。

 大空を自由に舞う鳥の姿を。

 それ以来、その鳥はわたしの憧憬あこがれとなった。





 一九四一年六月二二日。誰も忘れることが出来ない日。


 その日は快晴の天蓋そらから麗らかな陽気が降り注いでいた。

 そんな中に突如として、ドイツ軍が協定を破りソ連への攻撃を行った、という内容が町中のスピーカーから流れたのだ。


 わたしはモスクワの学校シュコーラで十年生だった。あと一年で学生としての期間は終わり、修了の暁には父の紹介で職に就くことが決まっている。

 また、共産主義青年同盟コムソモールにも所属しており、その活動に積極的に参加することで、いずれは高い地位を得ることが一つの目標だった。

 どちらも両親が望んでいたので、真面目に取り組んだ。わたしは何も考えずに敷かれたレールの上を進んでいた。それが一番楽だったから。


 本は現実から目を背けるのにちょうど良かった。暇な時間はレフ・トルストイやドストエフスキイ、プーシキンにチェーホフなどを読んで過ごしていた。それらを読んでいる間だけは社会の閉塞感を忘れることが出来る。


 そんな折に戦争が始まった。


 町の誰もが「我々はナチなんぞに負けやしない!」と気勢を上げた。

 開戦翌日には動員令が発表され、男は次々と兵士として出征していったし、女も志願者は看護婦や洗濯部隊として戦地に派遣されていった。


 その熱はシュコーラでも瞬く間に広がり、徴兵を望む生徒は数えきれない程にいた。

 それも、女なのに前線に出て戦うことを望む者が大勢いたことには驚いた。

 徴兵事務所に押しかけようと企む彼女達を見て、わたしは悲観的な気分に陥る。


 戦争が女という存在を求めていないことなんて、歴史を辿れば火を見るよりも明らかだろう。わざわざ虐げられに行くようなものだ。後方で出来ることだっていくらでもある。

 女に戦うことを望む者なんて誰もいやしないのだ。むしろ、忌避すらしている。


「もし負傷するくらいなら殺してしまってください。女の子が不具にならないように」


 そんな風に祈る親までいたのだから。

 女は女らしくしていれば良い。他の生き方なんて、ない。

 わたしは家畜が出荷されていくような気分で何人もの知り合いを見送った。


 それからの激動の日々は恐ろしい程の速度で過ぎていった。


 レニングラード、スモレンスク、キエフ、ハリコフとドイツ軍が制圧していき、その牙がじきにこのモスクワにまで届くのではないか、と人々の顔色は日に日に暗さを増していた。当初の楽観的な姿勢は消え失せている。

 わたしのようにコムソモールに所属する者は近くの集団農場コルホーズで働くことが多かった。主な働き手である男性が出征してしまっており、とにかく人手が足りていなかった為だ。それもまた前線で戦う兵士の為になる仕事の一つだった。


 秋にはシュコーラも再開し、あっという間に冬が訪れる。

 人々の思いとは裏腹に戦争は終結する兆しすら見せないまま、一九四一年は終わりを迎えた。





 一九四二年になると、わたしには出頭通知が届いた。それは工場での労働を命令するものだった。

 銃、手榴弾、ヘルメット、他にも前線で使用する様々な物を大量生産しており、その為に大人も子供も問わず多くの人々が労働へと駆り出されていた。


 日々が労働に塗り潰されていく。食事事情も随分と悪化していた。

 労働者には一定量のパンが与えられていたが、それは名ばかりの灰色で黒ずんだ塊だった。そもそもパンだけで身体に必要な栄養が満たされるわけもない。

 空腹状態でいると、自然と思考も鈍っていく。視界に映る全てが色彩を失って見えていた。


「カーチャ、これ見た?」


 同僚のマリアが休憩時間に見せてきたのは新聞だった。どうやら他の人が手に入れた物を貰ったらしい。

 そこに書かれていたのは、リュドミラ・パブリチェンコという女性兵士が銃を構えている写真と、狙撃兵としての活躍。特にカミシュリー渓谷で行われたドイツの狙撃手との対決について書き記されていた。


「二百以上の戦果だって。私達と同じ女なのに、凄いよね」

「…………」

「カーチャ?」


 わたしの心境はまさに稲妻が走ったようだった。

 女は兵士になんてなれない。そんな浅薄な固定観念をリュドミラという存在は打ち砕いて見せたのだから。


 彼女は紛れもなく、鳥籠の外の大空を自由に舞う鳥だった。


 そんな姿を見てしまえば、思わずにはいられない。もしかして自分も同じように飛べるのだろうか、と。

 それまで心の奥底に閉じ込めていた想いが、燎原の火のように燃え上がるのを感じた。


「……ねぇ、これ貰ってもいい!?」

「えっ、うん、多分」


 わたしはそれから休日にはリュドミラについて調べるようになった。

 兵士や国民の戦意高揚の為、『死の女』という異名と共に喧伝されていた。


 八歳上の女性が最前線でこんなにも活躍していると知った時、わたしは確かに惹かれたのだ。その凛々しい在り方に。

 胸のうちから迸る情熱が彼女に向かい、世界が彩られていく感覚。

 それはまるで、恋のようだった。





 一九四三年七月二五日。

 モスクワ南部ポドーリスク市のシリカートナヤ鉄道駅近くにある、中央女子狙撃学校の前には見るからに若く健康的な女が集まっていた。


 そこは三階建ての灰色のビルで、高いフェンスで囲まれた広い練兵場が付属しており、正門には大時計が設置されている。

 この場所は、ソ連邦国防人民委員部指令により設立された、世界で唯一の女子専門兵学校だ。


 本日は二期生の入学日であり、立ち並ぶ群衆の中にわたしもいた。


 リュドミラに鮮烈な憧憬あこがれを抱いたあの日から、一年以上が経過していた。

 あれはまさにわたしにとって運命の転換点だったと言えるだろう。

 両親を必死に説得して兵士になる許可を得て、休みの日には近くの射撃場で訓練し、家では狙撃に関する本を読んで過ごした。


 確かな目標が出来れば、労働の日々もさほど苦ではなかった。

 リュドミラのようになりたい。彼女が見た景色を知りたい。

 その一心でこの一年余りを過ごしてきたのだ。

 そうして、いよいよ今日からは本格的に狙撃の訓練が始まる。


 周りは和気藹々とした様子を見せていたが、わたしは胸の高鳴りを静めるので大変だった。

 学校前に集められたわたし達は初めに検疫の為の隔離施設へと入れられた。


 数日後には市内の公衆浴場へと連れて行かれた。そこで待っていたのは、理髪師の集団だ。

 一様に軍隊式刈り上げにされた。誰もが等しく男のような外見になってしまい、女の命とも言える髪を失ったことから涙を流す者もいた。

 けれど、わたしは足元に落ちた自分の赤毛を見て、感慨が湧くこともない。結局、元より自分にはそういう思い入れがないのだと実感する。


 その後は軍服の一式を支給され、校内にある宿舎へと案内されて一日は終わりを迎えた。

 翌日からは過酷な訓練漬けの日々となるので、気を休めておくなら今の内のようだ。


 宿舎の各部屋は五十平方メートル程度の大部屋で、そこに二段式の寝棚が向かい合って二列で並んでいる為、一部屋で数十人が寝泊まり出来るようになっていた。

 髪のことでまだ沈んでいる生徒もいたが、女が一所に集まれば自ずと賑やかな場になる。周囲では自己紹介から会話の輪が広がり、朗らかな雰囲気を形成していた。


 わたしも混ざろうかと思ったところで、ポツンと離れた場所に一人でいる生徒が目についた。

 周囲の雰囲気とは真逆の張り詰めた表情をしていて、唇を引き結ぶその様は苦痛に耐えているようにも見える。


 明日以降のことを思って緊張しているのだろうか。

 そんな風に考えたわたしは、意識的に莞爾にっこりと笑みを形作り、声を掛けた。


「わたし、エカテリーナ・バラノフ。カーチャって呼んでね」


 彼女はなぜかビクッと驚いた様子でこちらを見る。小動物のような怯えようだ。単に緊張しているだけでは説明出来ない何かがあるように思えた。

 その双眸と髪は黒曜石オブシディアンのように艶めいた黒。白皙はくせきかんばせと見事なコントラストを生んでいる。

 総じて、とても儚い存在に感じた。ほんの僅か目を離した隙に掻き消えてしまいそうな程に。


「……わ、私はレイラ……レイラ・スタドニク」


 彼女はぼそりと呟くように言った。


「そっか、レイラね。うん、覚えた。これからよろしく、レイラ」


 どうやら拒絶されてはいないようなので、もう少し踏み込んでみることにする。


「レイラはどうしてここに来たの?」

「……祖国を守る為。それ以外に、ある?」


「まあ、そうだけどさ。他にもあるかも知れないじゃない? 例えばわたしはね、リュドミラみたいになりたくて来たの!」

「リュドミラって、『死の女』?」


「そうそう。こないだまでソ連の代表の一人としてアメリカ、イギリス、カナダに行っててさ、大統領と面会したり人々の前で演説したり米軍に狙撃の講義もしたなんて話もあって、尊敬してもし切れないくらいに凄い女性ひとなの!」


 わたしがついつい熱く語ってしまうと、レイラはキョトンとした顔でこちらを見た。


「カーチャは変わってるのね」

「えっ、そうかな……」


 わたしが動揺すると、レイラは微かに笑みを零した。

 至極普通の人間だと自認している身としては複雑だが、何はともあれ、最初の交流としては上手くいったようだった。

 何となく彼女とは気が合うと思えた。どうしてかは良く分からないけど。

 その後もわたし達は軽くお互いの話をして、宿舎での初日を終えた。

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