微睡みを壊す
月の見えない夜だった。
茹だるような蒸し暑さが
追い打ちをかける、8月。
23時を回っていた。
肩あたりで毛先が跳ねる。前髪がおでこに張り付いて、ついでにシャツも背にまとわりついていた。
シーブリーズの匂いと夏の艶めかしき匂いが混ざる。そしたら安っぽさが安易に勝利してしまった。
チャイムの鳴らない夏の夜の校舎は黒の輪郭を描いて眠っていた。
眠ったふうに見せて襲いかかる黒猫のようにも見える。
雨の匂いはしないのに湿る空気のせいで息がつまって、吸って吐いてのルーティンが上手くいかなかった。
校門の柵に踵をかえし、手を掛けて身を預けたら危うくバランスを崩してズサりと鈍い音がした。
同時に地面から重い痛みが湧き上がってくる。
痛がる余韻も無くとりあえず立ち上がるとスカートに塗れた砂がこぼれていく。他の場所に降りたてばコンクリートだったから汚れずに済んだのに砂地に着陸せざるを得なかったのは、防犯カメラの死角になるのが砂地のテニスコートのエリアしか無かったからである。
砂浜みたいにサラサラこぼれる美しい砂なんかじゃなくて、ザラつきが酷くて荒い、砂利みたいな砂粒。手を着いた時に爪の間にまで執着してきた。
ひとつため息をついた、刹那、眩い閃光がこちらに向けられた。キャ、と情けない声を出したら「なんの用」と一言唸るような声が浴びせられた。スマホのライトがダイレクトに当てられたのが光線の根源だった。
恐る恐る見上げるも誰なのかはよくわからなかった。だけどギラりと光る薄茶の瞳が水晶玉みたいに美しくて、それを具現したみたいな声がまた綺麗で、思わず凝視した。それでも姿は確認できないが、やはり瞳が綺麗だった。
視線を疎むようにして黒目だけがこちらに向けられた。立てられた爪の感触のように鋭く甘く痺れ、うまく吸えない空気を波のように打つ鼓動で誤魔化した。
「だから何の用」
「…あ、」
「不法侵入だけど」
私の答えを待つことなくして砂に腰をおろしてしまった影は闇に溶け、そしてくっきりと輪郭を眼下に残した。誰なのかは分からない。だけど貴方が眼下へ落ちた時、マリンの香りがふと鼻を掠めた。
「理由はないけど」
「…」
「壊しちゃいたいなって、思っただけ」
「なにを」
「全部」
「…あっそ」
夏は壊したくなる。
校舎でもいいし、スマホでもいいし、別にシャーペンでもいい。何でもいいから木っ端微塵にしてやりたかったってだけ。
ルートなんてどうだってよかった。
「あなたは」
「は?」
「なんでここに居るの」
「別に、暇つぶし」
「…ふうん」
世の中に必要なのは理由ではない。
では過程か、と提起するとそれも頷けない。
目が慣れてきた頃、貴方が寝転んだので私も砂に身を預けた。かたくて、痛い。湿度を含みきった空気にパサパサの荒い砂が不釣り合いだった。そこに鎮座する貴方という美的ブッタイはもっと不相応だったが、作り出したマリンの匂いがやけにリアルへと近付けた。
何も話すことは無かったが、二人して真上にある暗い夜空を見ていた。漆黒じゃなく、都会の灯りで薄まったグレー。月がないのは不穏だった。
日付が変わった真夜中の校舎、不法侵入、星も月もない夜、茹だる空気、茶色の瞳、薄い唇、荒い砂。海なんかよりずっと生々しいと思った。
目を閉じると、瞼の裏に満月が見えた。
マリンの匂いと紛い物の満月が
微睡みへと誘った。
× × ×
百貨店で片っ端からマリンを謳う香水をムエットに吹きかけて回ったが、あの日の匂いには出会えない。アルコール臭が重ねられていくだけである。
結局シーブリーズのマリンで妥協したらありえないくらい廉価な匂いがした。これが悪いとかじゃない。あの日にはもう戻れないと突きつけられた、ただそれだけ。
荒い砂利みたいな砂粒とは違い、ここはサラサラでシルクみたいだった。寝転がっても痛くはないし、空は満月が陣取っていた。
砂を思い切り蹴り飛ばしてやりたかったけど、こんなにやるせなくローファーが埋もれるなんて知らなかった。潮の匂いはマリンの香水とはかけ離れていて、好みではなかった。
波打ち際で白い泡がいくつも割れた。黒い水面を泡の白が打ち止めたけど、呆気なく壊れた。
あの夏も、この夏も、全ての夏は脆い。
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