第2話 悪霊の神々すら不憫に思う勇者
「……⁉」
俺は動けずにいた。視界に飛び込む摩訶不思議な光景。一見すると木の幹と見紛う程の立派な大樹の根が周囲を張り巡らし、その真ん中に俺は居た。大樹の隙間から差す木漏れ日は、その温かみと柔らかさで全身を包み込んでくれている。そして純度を100パーセントにまで高めた水が地面を濡らしている。そしてこの水が、俺自身の体液なのかと思える程に優しく皮膚を愛撫するのである。そんな崇高な場所に居て、これって疑似的な子宮体験だよなと思った俺は心が少し汚れている。
いやいや、この際大樹だろうが子宮だろうがどうでもよい。ここは何処だ?
思い返す。確かに俺は公園で寝ていた。この目覚めぐあいから、うたた寝ぐらいの軽いものであった筈だ。子供たちの遊ぶ声、近所を走る車の喧騒。それらを聞きながらふと眠りにおちた、それが最後の記憶である。
誰かが運んだのか?だとしたら誰が、何の目的で?家族も友達もいない、知っている人間といえば大家の婆ぐらいのものである。まさか、婆がテレビ局にでも電話して壮大なドッキリを仕掛けているのか?いやいや、その線は薄いどころじゃない。最近のコンドームより薄いぞ、使ったことないけど。
だが、そうでもしないと現状に説明がつかん。そう、ここはまるで日本ではないみたいだ。異国……どころではない、なんと表現すれば良いのか、全くの未知に対して適切な表現ではないのかもしれないが、異世界としか形容できない不思議な世界だった。
とにかく、安全の確認であるが、その分はあまり心配していなかった。これも超感覚的なもので、確証などは一切ないのだが、この場所は俺に敵意はない、それどころか味方のような気さえしていたのだ。
出口と思しき場所が眼前にあるのだが、果たしてこの場を勝手に離れてよいものか、正直検討もつかない。さらに言えば、この場所には先ほどまでいた筈の現実世界(ここが本当に異世界ならば)にない心地よさまで備わっているのだ。軽々には動けない、そして動きたくないのが正直な本音だった。
だが、この時の俺は異世界に転生したショックもあって、変な高揚感があった。それはまるで、RPGに出てくる勇者のように、これから始まる大冒険に胸躍らす、そんな勇壮さを生まれて初めて感じていたのだ。
おかしいだろう?でも、仮に君が俺の境遇になったら、必ず同じ気持ちになった筈だ。いいや、思い返せば、そうなるのが当然なのだ。何せ俺は、勇者なのだから。
旅立たないやつは勇者になれない。それでは町人その1で終わりだ。せいぜい武器屋の近くで、
「武器は持っているだけじゃ意味がないぜ、ちゃんと装備しないとな!」
とだけ喋って天寿を全うするのだろう。そんな人生、今まで以上に悲惨である。
だから俺は踏みしめたのだ、この偉大なる、そして勇気ある、本当の意味での人生の一歩を。
大樹から外に出て一望する事で、不確かだったこの世界の認識は確証へと変わる。
見た事もない木々や花々、雲つくどころではない、頂きすら見えない巨大な山脈、そしてファンタジー小説からそのまま抜け出したかのような牛の顔を持つ、双頭の獣!
実にチープな設定だろう?俺が脚本家だったら恥ずかしくて高層ビルから紐無しバンジー敢行しちゃうレベルの安易さだ。でも実際に起きたのだ、そのチープが、その安易が。そして、いかに定番な出会い、定番な戦いであっても、物語で起きるのと実際に対峙するのではまるで違う。それもその筈、現実世界の野生でアフリカ象に遭遇したら、ライオンに遭遇したら、ワニに遭遇したら?答えるまでもない、死ぬほど怖い。でも、俺がこの時遭遇した双頭の牛はアフリカ象よりも巨大で、ライオンよりも俊敏でいて、そしてワニよりも大きな口を持ち、肉食獣の鋭い牙を爛々と不気味に光らせ、その射貫くような相貌はじっと此方を見据えているのだ。
足が震える?そんなものじゃない、極限の恐怖に直面すると、人は止まるのだ。その場所の時間だけを切り取ったかのように、写真で収めたかのように、全ての動きを止めるのだ。嘘でも誇張でもなく、この時俺の心臓は、生れ落ちて30年、初めてその稼働を止めたのだ。
吠えた。双頭の牛は威嚇するようにその場で足を何度も踏みしめながら、吠えた。その一声が、こちらの心臓を、肺を、直接握り潰すかのような威力をもって襲い掛かる。
恐怖に思考は完全に止まった。肉体は動くことを止め、膀胱だけが弛緩しきりその場に小便をまき散らしている。
異世界にいけば異能力が発現し、無双出来る?出来る訳ねーだろ。そんな都合の良い話、ある訳ねーんだ。だって、現に俺が証明しているじゃないか。異世界に転生して最初の仕事が失禁って、もう嫌だ!帰りたいぜ、現実世界に!
え?なぜ、完全に思考が止まっているのにあれこれ考えているのかって?あのね、野暮だよその質問。後日談に決まってんじゃん、こんな回想。あそこで失禁してそのまま死んでたら、もうこの物語終わっちゃうじゃん。やめてよね、本当に。
え、物語の続きはって?急かすなよ。俺だってまだ、興奮冷めやらぬ状態なんだ。
双頭の牛、表記が煩わしいから象牛(なんて適当なネーミングだろうか)と以後書いていくが、ともかく象牛。その巨大な蹄が、始めて地をかき鳴らし、突進の構えをとった。もう、俺に出来るのはただ茫然と、自分が殺されるであろう近い未来をその瞬間まで待ち受けるだけだった。
象牛が駆けた。鈍重なイメージとかけ離れた、ネコ科動物のしなやかさでもって駆け出したのだ。仮に俺の足が言うことを利いたとしても、その残酷な角を、蹄を避けることなど出来なかっただろう。異世界転生から10分、早くもその物語に終幕が見えたところで、幾条の弓矢が象牛を襲った。そのうちの一本がうまいこと右前足を射貫き、象牛はその場でもんどりうって倒れた。この時にようやく、時を止めた肉体の針は再び動き出し、失われた酸素を求めるように大きな呼吸で肺を酸素で満たし、そして急な酸素を拒絶するように咽たのだった。
だが、おかげで脳に酸素が行き渡る事で思考が可能になった。象牛が死んでいないまでも、足をやられ移動は大幅に制限されている。手負いの獣は怖いというが、手負いだろうが元気だろうが象牛なんざ怖すぎる。逃げの一手だ。俺を助けた人間、いいや、この異世界に人間がいればの話だが、ともかく俺を助けた者は象牛に弓矢を射ってからというもの、その気配を完全に消している。だが弓矢の刺さっている向きから、凡その方角は算出できる。そして風下から撃たれていることから、弓矢の主には知恵があること、そして今なお隠れていることから象牛よりも肉体的に弱いことが解る。この弓矢の主の思惑は正直解らない。俺を助けたのか、それとも狩りの場にたまたま居合わせただけなのか。どちらにせよ、今は危険を推し量る余裕はない。弓矢の主が俺を助けてくれたと信じて、その方向に逃げ込むしかない。
走った。こんなに本気で走ったことは、人生で一度もなかった。生きるために走る。日本人がとうの昔に置き忘れた生命への渇望、その一足。風下へ30メートルは走った場所に鬱蒼とした茂みがあったのだが、その中から、
「早く、こっちへ!」
と急かす声があった。小枝が表皮を切り裂くのも厭わず、無我夢中で駆け込んだ。
駆け込んだ傍から、俺の頭を上から押さえつけ、全ての物音を押し殺した。ほのかに聴こえるのは背中越しに伝わる胸部の心音、そして僅かながら漏れ出る吐息。その近さに少々のくすぐったさはあるものの、今は戦時。俺つえー異世界転生ならまだしも、俺はやっぱり弱いままだった異世界転生を果たした今、緊急時でありながら情事にうつつを抜かす余裕はない。
その場に5分は伏せていただろうか、後で話を聞くと象牛は生命力がとても高く、あのぐらいではとても死なないという。手負いに見せかけて油断したところを襲い掛かる、性質の悪い魔物で鼻が利く。あの場で性欲に負けて振り返っていたら、本当に殺されるところだった。
「よかったな、坊主。俺がいなきゃ死んでたぞ、大いに感謝しろよ」
「……はい」
性欲に打ち勝って本当に良かった。だってこいつ、ひげ面の山男みたいなおっさんだもん。どうせべたべたな設定なんだから、おっさんじゃなくて可愛いヒロインとかにしろよ、最悪獣耳の獣人でもいいから、とにかく山男はやめろよ。ケモナーでもない俺に、最低限の譲歩はしろよ、なんだよ、山男って。この異世界転生、もう飽きちゃったな。
「ところで坊主、面白い恰好で、武器も持たずに随分呑気しているみたいだが、どこから来たんだ?」
でも助けてくれたのは事実であり、流石の俺も美女とか山男とか選り好みしている場合ではないから、これまでの経緯、といっても、異世界転生してから15分ぐらいのこれまでを事細かく伝えた。
それを聞いていた山男も、最初は明らかに怪訝な表情をしていたが、俺が大樹の根から来たこと、この野生のフィールドに武器一つ携帯せずに、まるで不用心に出歩いていることから何かを得心たようで、連いて来るよう言った。
その道中は、現実世界と異世界との分断に対して驚くことばかりだった。山男も、この世界のことを丁寧に話してくれた。その一つ一つが俺と現実とを繋ぎ止める僅かな鎖を、慈悲なる鉈で断ち切るようでもあった。だが、正直未練はない。現実世界にいたところで、とりあえず押してはいけない人生の堕落ボタン全てに北斗百裂拳を叩き込んだのだ。この世界があれより下限って事はあるまい。死ぬけど。
だが、ことこの異世界に早くも順応するに至って、あんな現実世界では生きているのも死んでいるのも同義であったと思えた。未来もない、過去もない。世界の時間軸が、俺だけ点だったのだ。全ての人間が歴史的縦軸と、時間的横軸をもって良くも悪くも人生を送っていたのに対し、俺は親族の死をもって、世界から完全に孤立したのだ。いいや、他人によって左右されるような人生など、はなから死んでいるようなものだ。ただ、その日ぐらしの心臓を動かすだけの、ただ止まらないように今だけを生きる、終わりの見えない罰ゲームみたいな人生だったのである。
それに比べ、この異世界で走った時に感じた確かな一歩は、ずっと見失っていた生きる意味を、探しに出かけた一足でもあったのだ。こんなの選ぶまでもない。俺にはもう異世界しかないのだ。俺は無神論だし、神社にも教会にも行かない信心深さとはかけ離れた人間だけれども、もし神がいるのなら、現実世界から弾き出された俺に対する、慈悲の心と思わずにはいられない。
山男に同行する事早くも一週間、コンクリートとは比べ物にならない、舗装されぬ獣道にも慣れてきたところで、ようやく目的地である王都エルサドールに着いた。もう目に映る異世界全てに驚くばかりの俺だったが、王都に格別な感慨は湧かなかった。だってこの城、べたべたな西洋風王城なんだもの。それ以外に特筆すべきことなんてないぞ。人口も王都とかいう割には渋谷区どころか、スクランブル交差点で観測できる数の方が多そうだ。以上、王都の中継終わり。
しかし、これではあんまりだから、王都エルサドールについて少々語ろう。この都は初代国王エルサムが気付いた戦士達の強国で、異世界に存在する5大国の一つである。武芸を重んじ格式も高い、5大国の中でも士道を重んじる気質のようだ。見た目は西洋風だが、その心は武士道に通じる気もする。実際に、後に他の大国の人間とも触れ合う機会があるが、日本人の俺に一番近しい感覚を持っているのはエルサドールの人々だったように思う。他の大国のやつら、時間にルーズだし謝らないしね。脱線したが、国をあげて武闘大会も開き、世界中から豪傑達が集まってくることから、仲間探しにはもってこいなのだという。
仲間探し、良い響きだよな。異世界に転生してからというもの、顔を合わすのは髭面の山男のみ。いかに助けられた恩あれど、異世界初心者にこの仕打ちは無体ってもんだろ。道先案内人としての務めは果たしたろうから、後は田舎にでも引っ込んで早々に物語からフェードアウトするがよい。
「さて、王都に着いた訳だが、一度国王に会っていただきたい。異世界からの転生者、今後の身の振り方を考えるうえでも、必ずやご助力下さるだろう」
山男はそう言うと、城の門番に引き継いだ後は役目が終わったかのように、城の奥間へといそいそ消えていった。
さらば、モブキャラよ。二度と会うことはあるまい。
そこから応接間のような場所で1時間程待たされた挙句、近くを通り過ぎた大臣から、
「キミ、誰?」
というような軽い屈辱を味わいつつ、待つこと更に1時間。流石に堪忍袋の緒が切れる5秒前というところで、兵士がやって来て、謁見の為に国王の間へと通された。
「よくぞ来た、異世界転生の勇者よ!」
国王エルバインの祝福と共に錚々たる将軍や兵士が一斉にその場へ伏し傅いたのだ。
「エルサドール建国より続く太古の予言、未来の大樹に勇者が宿る時、その光が魔を祓うという。汝、今一度問う。神の信託を受けて現世に降臨した、異世界の勇者で相違ないな?」
「……」
「うむ!神の命を受け現世に降り立った勇者であれば、軽々にその目的も語るまい。その働きによって証明するという意気込みたるや、まさに勇者!さぁ、建国1000年を迎えし節目に現れた勇者よ、その武威をもって魔王を討ち払い世界に平和を与えたまえ!」
この爺、勝手に自己都合解釈しているが、俺が勇者かどうかなんて解らんぞ。神の信託どころか、なぜ異世界転生したのか皆目見当もつかん。思い当たるのは大家の婆に対する呪詛の念だけだが、それが原因なら勇者としては不適合であろう。何も答えなかった俺も、沈黙は金なりなんて殊勝な心掛けだった訳では勿論なく、人前で緊張して喋れなかっただけだ。俺が否応言う前に、この爺が勝手に勇者に祭り上げてしまったのだ。俺はもう知らんぞ。何かあっても勘違いした爺が悪い。最後まで責任とれよ、爺。
「では勇者よ、見事魔王を打ち倒した暁には姫をやろう!」
そうそう、やっぱり異世界転生はこうでなくちゃな!爺の勘違いから勇者にされたとはいえ、どうせやるしないのだ。少しでもモチベーションを上げなければやってられんからね!姫よ、俺は頑張るぜ!
国王は俺のやる気に気をよくしたのか、早速姫を呼びに兵をやった。その間、どこそこに魔王軍の手が回っているだとか、町の酒場に登録している歴戦の戦士を仲間に引き入れるがよいだとか、旅立つ前の資金や武器を用意してくれたのだが、そんなものは馬耳東風である。
今か今かと待ちわびた待望の姫が、ようやく現れた。玉座の後ろから従者を従え現れた、世界一可愛いと噂の姫は40歳ぐらいの般若面みたいなやつだった。
はぁ、誰か勇者代わってくんねーかな。
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