感想 なぜ零戦は白なのか?

作品名:あおに鳴く/あおに鳴く・続

著 者:灼

出版社:一迅社



 ※あくまで、個人の感想です。



 単行本表紙に男が二人、背を向けあって座っている。

 一人は学ランを、もうひとりは特攻服姿。零戦乗りだろうか。

 現代に通じる学生服の起源は、陸軍下士官をモデルに東京帝国大学が一八八六年(明治十九年)に定めたものとされている。

 ということは、どちらも軍服を着ているみたいなものですね。

 死んだ魚のような目をしてこちらを見ている銀髪男子高校生は、どこか暗い影を落としている雰囲気を漂わせている。「いいんだよ。いざという時には、きらめくから」と、言いそうだ。

 現代と戦時中を題材にしていることを、読む前から表している。

 タイトルの合間に「IN THE FLOW OF TIME(時間の流れの中で)」と、モールス信号表記でタイトルが添えられている。

 意味ありげな英文「Alone in the deep. It leads to anywhere of this blue.(深く一人で。それはこの青のどこにでもつながる)」からも、どんな作品がはじまるのかを読者に期待させる。

「続」の表紙は打って変わり、まるで花畑で二人向き合って寝転がっているような、華やかさがある。



 司朗と菊次郎が銀髪、鴻が黒髪に描かれているのは、作者が銀時✕土方好きだからと推測する。根拠は、作者ピクシブのプロフィールに「銀土が好き」と記載されているから。



 この作品を端的に説明するなら、「愛に満たされなかった与田鴻と嘉山司朗が、嘉山菊次郎を介して問題を解決するタイムスリップ物語」である。



 設定に興味が惹かれたし、読んでみると実に良くできていた。



 全十一話、一年間の物語。

 一話は四月八日、入学式後の二人の出会いからはじまり、七話は五月二日の話。

 話の大部分は一ヶ月ほどで起きたエピソードが描かれている。

 八話は五月十九日に行われた四十九日法要。

 九話は、おそらく夏休み。終戦記念日と思い出した記憶の回想。

 十話は、記憶の回想からはじまる夏休み中の話。

 最終話の十一話は、十一月二十四日に行われた剣道の新人戦のダビングと収穫された里芋から十一月終わりの冬からはじまり、年を越し、春までの出来事が描かれている。終盤にかけて、怒涛の展開を迎えるのだ。



 どのような内容かといえば、同性同士の恋愛であり、SFやミステリー要素もあるダブル主人公の「泣ける話」である。



 泣ける話の構図は「喪失→絶望→救済」であり、この作品もこの流れで作られている。だからこそ鴻は、記憶喪失で現代にタイムスリップしてくるのだ。

 また、葛藤の流れである中心軌道が貫かれている。

 葛藤構造は、「旅人が新天地にやってくる→旅人の鞄には鍵がかけられ、中に秘密がある→中身を知る人物が現れ開けようと誘惑する→誘惑を跳ね返し鍵がかかっていることを確認→新天地の秩序が乱れる→取り戻すために鞄を開けねばならない→開けたら旅人は去らねばならない→苦悩の末、自ら開ける→秩序を取り戻す→旅人は本来いるべき場所へ向かう」であり、本作にも当てはめて読むことができる。

 物語が冒頭へと戻るのも、はじめと終わりを比較させ、体験を通して主人公とともに読者の私たちも成長したことに気づかせるためだ。



【受】与田鴻(菊)について

 不良青少年を意味する「ヨタ公」から来ているのか?

 零戦に乗って戦闘を前にしていたはずの与田鴻は、タイムスリップして現代へやってきた際、記憶を喪失している。

 ちなみに鴻は、嘉山家に書生として来ているような描写がある。

 明治や大正時代の書生とは、地方から高等学校や大学に通うために上京し、他人の家に住み込みで雑用等を任される学生を指していた。時代が下った昭和初期ごろには、住み込みで仕事を手伝ったり秘書をしたり家の雑務をこなす人を指すようになった。

 学生を取り巻く環境として、家庭は兄弟が多くとても学費を払えるほどの経済的余裕がないし、生活を補填するアルバイトもなければ奨学金制度もない。学生比率は同世代の一パーセントにも満たない。

 この時代、世間は学生に期待している。

 書生を養うのは社会奉仕や公共の福祉などを熱心に実行したり支援したりする篤志家側からしてみたら、地元出身のインテリ書生を抱えることはステータスの一種にもなっていた。養う側には書生が中央官僚になった際、人脈から多くのメリットが得られるといった打算もあったのだ。

 おそらく与田鴻の家族は兄弟が多く、彼は末子だったのだろう。しかも鴻は賢く優秀だったため、嘉山菊次郎の父は与田の家に手切れ金を渡して養子縁組したのだ。菊次郎からの口添えがあってこそだろうが。

 なので司朗から見れば鴻は、義理の大叔父にあたる。

 夢でうなされているとき、たくさんの手で首を絞められる描写がある。締りをよくしようと首を絞められてされたことがあるから、という意味ではなく、首を絞められても仕方ないことをした覚えが、記憶を無くす前の鴻にはあることを示唆しているのだろう。

 うなされているときはまだ記憶をなくしている状態なので、夢に出てくる相手が誰なのか(菊次郎であるのかすら)わからない。司朗が夢に出てくると菊は言っているほどだ。

 つまり、司朗と菊次郎は似ていることを作者は読者に伝えているのだ。同時に、後の展開の伏線にもなっている。

 とはいえ、読者もこの時点では菊次郎の顔を把握していない段階なので、「夢に出てきたのは司朗?」と訝しがっても仕方ない。

 ここまでが前半。

 ミステリー要素が原因で、菊と読者は受け身になりがちだった。

 一巻ラストの大ゴマは読者に対して、「前半を引っ張ってきたミステリー要素はどうでもいいから、後半は理性的に見るのではなくて感情的にハラハラしてください」というメッセージを送っているのだ。……きっと。

 次巻より、菊と名付けられた鴻と嘉山司朗との共同生活を経て、惹かれ合っていく二人。

 司朗の幼馴染である大貴と仲良くなった菊は、重澄の車で送ってもらい、司朗が出場する高校剣道の予選会へ応援に行く。

 会場は、埼玉県立武道館。

 平成二十六年関東大会県予選が四月二十六日(土)、二十七日(日)、五月二日(金)に行われている。

 個人戦で二位の賞状をもらっているので、五月二日だと推測。

 司朗たちが暮らしているのは埼玉県秩父郡長瀞町か皆野町近辺と推測されるので、電車だと片道一時間五十分くらいかかる。

 ちなみに、鴻がタイムスリップして司朗と出会ったのが、高校の入学式の日なので、おそらく四月八日。祖父・菊次郎が亡くなったのが一週間前ということは、四月一日。なので、四十九日法要は五月十九日(水)だろう。

 夏を迎え、記憶が戻った鴻は知るのだ。司朗は、鴻が好きになった嘉山菊次郎の孫であり、菊次郎はこの世の人ではなくなっている現実に。

 晩秋の頃、重澄から聞いて鴻は知る。菊次郎は、鴻が戻ってくるのをずっと待っていた。それ故、愛のない家族に育てられた司朗は、充分な愛を与えられなかったと。

 元凶は鴻自身にあったのだ。

 年を越し、春を迎えて一周忌。

 大好きな司朗を救うためにも、落とし前をつけに元の時代へ戻っていく。

 ラスト、司朗の部屋の写真立ての写真が、祖父とのツーショットから父母と三人の家族写真に変わっている。過去に戻った鴻は戦死せず、生きて菊次郎の元へ帰ったのだろう。

 その結果、菊次郎は家族へ愛を注ぐことができ、写真立ての写真が家族写真に変わったのだ。つまり、鴻の行動によって大好きな司朗を救済したのである。

 ゴム動力のエアプレーン、畑の野菜、剣道、カレー、おにぎり、アンパン。他愛もないアイテムだけれど、しつこいほどクローズアップされ、過去と現在を強く結びつけている。思い出は懐かしくてきれいで大切だが、大切なのは現在と未来。

 現在と未来のために、鴻は元の時代へと戻ったのである。



【攻】嘉山司朗について

 名前の由来は、鴻のことを「知ろう」という意味か?

 嘉山の姓は、新潟県新潟市と埼玉県日高市鹿山がルーツとあるので、祖父・菊次郎は埼玉県日高市鹿山出身か?

 埼玉県秩父郡の長瀞高校(もちろん架空。実在しない。モチーフにしたのは埼玉県立皆野高等学校か)に入学したばかりの嘉山司朗は、登場したときから喪失している。

 四月八日の入学式から帰宅後、司朗が池の畔で飛ばしたゴム動力エアプレーンは、一週間前に亡くなった祖父・菊次郎の遺品。祖父と仲が良かったからこそ、寂しさから思い出に浸っていたのだ。

 祖父が好きだった与田鴻が出兵し戦地から帰ってこなかったことが原因で、菊次郎は家族に愛を注げなかった。愛に飢えた形ばかりの家に育った息子夫婦の間に生まれた司朗は、親からの愛情を得られなかったばかりか、その両親は旅先で他界。祖父がなくなった今、司朗はまさに孤独だった。

 幼少時の写真は、祖父・菊次郎と一緒に写ったものしかない。撮影したのは重澄らしい書き込みがある。つまり、両親は幼い司朗を残して亡くなったのだ。

 突然、池の畔に現れた特攻服の鴻を家に住まわせたのは、寂しさを紛らわすために愛玩動物を飼うのと同じである。また、彼に祖父の名から一字をとって「菊」と名付けるのも同様の理由からだろう。

 菊が叔父・浅井重澄の元に行こうとする夢を見るのも、不安と寂しさの現れである。

 司朗は普段から寂しさを表に出していない。菊が現代にやってきたのは「自分が呼んだせいかも」と思わず吐露したとき、「恥ずかしいから忘れて」と赤面して泣きそうな顔で菊に懇願する。この姿からも、寂しさを抱えていたのは明らかである。

 そんな司朗に対して菊は、拒絶や否定やバカにもせず、「悪くないな、司朗が呼んだなら」と受け入れてくれた。

 彼の言葉に司朗は救われたのだが、強がって「ひよこ状態の奴がそんな事を言うな」と言ってしまう。だがこれを機に、二人は惹かれ合っていく。

 記憶が戻った菊が、祖父・菊次郎が好きだったと知った司朗は絶望した。祖父の若かりし頃の見た目が自分と似ているため、祖父の代わりに好きになったと思うのも無理からぬ事。だからこそ、「二人目でいいから」自分を好きになってくれと言い、菊にキスして体を求めたのだ。

 これまで司朗が栽培してきた野菜や手作りカレーパン、おにぎりなどの食事はすべて、具現化された「菊の愛」といってもいい。

 司朗は「菊の愛」を受け取り続け、少しずつ不安から脱していった。だからここでの司朗は、発言や行動が強気になれるのだろう。

 特攻する際、一人で死ぬのは嫌だから道連れにと選んだのが祖父だったと話す菊に「誰かと生きたいにすればいい」と司朗は告げた。孤独であった司朗も、誰かと生きたいと常々願っていたから口にできた言葉だろう。

 祖父の一周忌が過ぎたとき、菊から祖父の遺骨を分けてほしいといわれる。つまり司朗は、一年もの間、菊と暮らしてきたのだ。

「司朗の事が大好きなんだ」と告白した菊から、菊次郎との落とし前をつけに元の時代へ戻ると告げられる。

 別れ際、司朗は自分も連れて行けと言うも、「道連れはもう必要ない、心中してくれるなら、俺と生きてくれ」と言われ、抱き合い、菊は消えた。

 司朗の部屋の写真立てには、親子三人が笑っていた。

 両親が旅先でなくなったかどうかはわからない。

 幼い頃は親子三人仲良く暮らし、その後旅先で両親はなくなり、残された司朗は祖父と暮らしてきたと考えるのが自然かもしれない。

 とにかく、菊が元の時代へ戻ったことで歴史が変わり、与えられなかった愛を取り戻し、司朗は救われたのだ。

 ラスト、菊次郎のエアプレーンを再び青空へと飛ばして「アンタの願いは叶えた。次は俺の番だろ。鴻さん」と言ったのは、菊次郎の元へ返したのだから次は自分(司朗)の元に返ってくる番だ、という意味だろうか。だとすると、またタイムスリップして再会できるのを願っての行動と読み取れる。

 だけど、元の時代へ帰るために一度目を飛ばしたのだから、二度目は素直に「鴻は彼自身の道へ進んでいったのだから、今度は司朗自身が自分の道を切り開いていく番だ」とするのが自然かもしれない。

 それでもなければ、「また鴻に会いたいなぁ~」という気持ちで投げただけかもしれない。



 攻め受けにわかれている二人には、少々図々しい強引さや発言、行動に強気な一面が見られ、いじったり辛かったりたまにボケツッコミを入れたり少々くさいセリフを言ったり、当然のようにスキンシップする姿が見られる。家事能力も高い。見た目の爽やかさからも、女性ウケするキャラだと感じた。



 漫画はコマに区切られて描かれている。

 舞台演劇をスクリーンに移し替えることで映画は生まれ、映画の一コマを切り取るようにして描かれたものが漫画だ。(アニメもまた同じ)

 なので、漫画には舞台演劇の上座下座が見て取れる。

 上座・上手は右側、下座・下手は左側である。

 上座・上手には、ポジティブ、主人公、強者、安心、極めて自然なもの、大きいを置く。

 下座・下手には、ネガティブ、敵・対話者、弱者、悲しい苦しい、虐げられる、小さいを置く。

 攻めの司朗が右に描かれ、受けの菊は左に描かれている。

 鴻が菊次郎にキスをして「この家のこと、御自分のこと、どうか大事になさってください。鴻からのお願いです」と懇願するとき、鴻が右側に立っている。意を決しての行動だからこそ、右側に立っているのだ。

 ほかにも、重澄に問いただされる鴻の場面でも、重澄は強者の右側に立ち、お鴻は弱者の左側に立っている。

 鴻が司朗に元の時代に戻ることを打ち明けたとき、話の主導権をとっている鴻は右側に立ち、受け手の司朗は左側に立っている。

 立ち位置で、それぞれの状況の力関係がわかるように描かれているので、どちらが攻め受けなのかが一目瞭然である。



 食事シーンが多いのも特徴だ。

 最初の食事シーン。

 記憶喪失の鴻である菊がテーブルに並んだ食べ物を言い当て、ご飯を食べて「知ってる味だ」とつぶやく。

 司朗は祖父・菊次郎と生活をしていた。その当時から食事を作っていただろう。ということは、菊次郎から料理の作り方を習ったのかもしれない。

「知ってる味だ」と言ったのはつまり、菊次郎が作った食事を過去に食べていて、菊次郎から習った司朗が作った食事が似ていたからだろうか。それとも漠然とご飯を食べたことがあるから「知ってる味」と、言ったのだろうか。

 菊次郎が野菜を栽培している描写はあったが、台所に立って作っていた描写はない。おそらくご飯の支度は母親がしていただろう。

 また、なにをもって美味しいかとするのは個人差もあるし、各地方の生活習慣の要素もある。炊飯の仕方や炊いたあと、どのようにするかでも味は変わる。なにより、米の品種が違う。鴻がいた時代には「コシヒカリ」「ひとめぼれ」「ななつぼし」「つやひめ」「ゆめぴりか」も無かった。

 ここは単に、ご飯を食べたことがあるという意味なのだろう。

 司朗が「ご飯食えるならひとまず大丈夫」と菊次郎が言っていた、と語るシーンがある。

 ちなみに、このセリフのような言葉が最初に漫画に書かれたのは、松本零士の「銀河鉄道999」といわれる。

 スリーナインが襲撃された直後、メーテルが哲郎に「まず食べなさい。それからが男の戦いよ」と冷静に言い、このあとワインで乾杯までしている。

 その後、荒川弘の「鋼の錬金術師」や羽海野チカの「3月のライオン」など、女性作家に受け継がれていった。灼さんの漫画にも系譜されているといえる。

 菊は電化製品に戸惑い、ボタンを押しただけで白米の炊ける現代の炊飯器を不思議がっている。

 電気釜が初めて登場したのは、大正十三年(一九二四年)のこと。

 街の店や嘉山家には電気が通っている描写(電気スタンドやラジオなど)があるが、嘉山家には電気釜はなかったのだろう。あるいは、嘉山家の台所に立っていないから見たことがないのかもしれない。

 食欲を重視した描写は性欲の隠喩ともいわれる。

 菊のつくるおにぎりの大きさは、司朗に対する愛情の現れだろう。

 畑で収穫されたレタスが、丸く結球している。司朗とともに栽培したとはいえ、種蒔きや植え替え時期を間違わず、肥料の分量も適量を守ったのだろう。

 おにぎりしか作れなかった菊が、手のかかる自家製カレーパンを作ったのにも、凄さが見て取れる。

 カレーはレトルトの流用でもいいけれど、パン生地は彼が作ったのだろう。料理スキルの上達ぶりはまさに、司朗への愛のなせる技である。

 過去、畑で菊次郎と鴻が話しているシーンで、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ……」というセリフがある。

 わざわざカタカナで表記しているところからもわかるように、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の引用だ。一九三九年刊行の児童向け作品集「風の又三郎」への収録などによって、宮沢賢治の作品は広く世に知られるようになった。

 鴻が宮沢賢治の作品を読んでいるのかもしれない。

 だとすると、畑での会話は一九四〇年前後か。

 そもそも、当時の人々の食生活について宮沢賢治が詩にしただけであって、多くの人々にとっては当たり前の食生活だったに違いない。なので「雨ニモ負ケズ」を読んでいなくても言えた可能性がある。

 ちなみに、一日四合の玄米は、現代人が食べる米のおよそ三・五倍の量である。

 一合を百五十グラムとして計算すると、年間二百十六キログラムの米を食べていたことになる。

 対して現代人は、平均年間六十キログラムしか食べていない。

 一日四合というのは、茶碗八杯分。

 玄米には食物繊維、ビタミンB1、ビタミンB2、ナイアシン、ビタミンE、鉄分が多く含まれている。食物繊維を豊富にとることで腸内乳酸菌がビタミンB2を体内で生成するため、かなりの栄養を確保していたことになる。

 ここに、ビタミンA、ビタミンD、ビタミンK、ビタミンB12、ビタミンC、カルシウム、タンパク質を取りたいところ。

 風邪を引かなくなったとあるので、嘉山家では野菜だけでなく肉など洋食も取り入れていたことがわかる。

 食生活にこだわるのは、戦時下だからともいえる。

 昭和十四年(一九三九年)に、米穀搗精等制限令が発令され白米は禁止。法定米は7分つき米となった。

 昭和十五年(一九四〇年)には、食糧報告連盟「国民食栄養基準」が発表され、節米強化でパン食よりも大麦の粒炊きが主食となる。

 昭和十六年(一九四一年)になると、 米屋の自由営業を廃止。文部省は学校給食推奨規定を定め、貧困児童、栄養不良児の栄養補給目的から学校給食を開始。大政翼賛会で「玄米食に復帰せしめる件」が発表され、政府玄米食の普及運動が実施。昭和十九年(一九四四年)には、六大都市の国民学校給食がパン食のみとなっていくのだ。

 また、菊次郎が肺結核のような病を患っていたのも食生活に気を使っていた理由の一つだろう。この当時の主な死因第一位は、結核である。



 対の構造が多く使われていることも、特徴の一つだ。

 司朗と菊、菊次郎と鴻の関係もそうだし、それぞれで語られているエピソードも対になっている。

 司朗が記憶喪失の鴻に「菊」と名前をつけたりエロ本を見せたり、野菜をともに作ったり剣道をしたり、アンパンを食べるなどだ。

 菊次郎が書生としてきた鴻の名前を知ったとき「ヒシクイ、水鳥か。空と海を享受できていいな」と彼にいったり春画を見せたり、また養子縁組することで嘉山の姓を与えている。野菜をともに作ったり剣道をしたり、二人でアンパンを食べる描写も、リフレインされている。

 対にすることで読者にわかりやすく見せるだけでなく、役割も同じだと言っているのだ。

 対になっているのは、叔父・浅井重澄もだ。

 彼の初登場シーンでの帰りの車の中で一服するとき、祖父の友人だと聞いた菊のことを怪しみながら「司朗もすみにおけねぇな」とつぶやいている。

 保護者的な立ち位置である彼ではあるが、二人の関係をも怪しんでいるセリフだ。だから、そのあと祖父・菊次郎の友人であるパン屋のカヨコさんに電話をかけて確かめている。

 彼は司朗が暮らす家の近くに住み、指圧師としても司朗を見てきたし、菊次郎についても関係性を匂わせている。

 四十九日法要の後、菊との会話で菊次郎がろくでなしとよばれ、実家を勘当され、結婚しても鴻のことが忘れられずに家族に愛を注げなかったことを重澄は知っている。旅先でなくなった彼の姉から聞いたかもしれないし、菊次郎に言及したのかもしれない。

 祖父の一周忌。桜を見ながら会話しているシーンで、「誰が死んでも世界は回るってな、ざまぁ見ろ」と叔父・重澄は悪態をついた。仏壇のカットが入っているので、相手は菊次郎にだろう。

 このとき鴻は、「重澄さんを残して?」と言葉をかける。

 その返事に「変に敏いよなぁ、お前」と否定もせず返している。

 つまり、彼は菊次郎についてなにかしらの感情を抱いていたのだろう。菊次郎がどういう人だったか詳しい点からも、裏付けられる。

 だからといって、付き合っていたわけではないだろう。

 すでに記憶を取り戻している鴻は過去、菊次郎と親密になれたことに舞い上がっていた時があったけれど菊次郎の婚約をキッカケに勤めを全うすることを誓っている。

 菊次郎と重澄もそんな関係だったのかもしれない。

「重澄と俺、似てるんで」と言われた重澄は「御免こうむる」と否定している。このことからも菊次郎との関係は、鴻ほどではなかったと推測できる。

 彼の名前「浅井重澄」から考えても、浅い関係だが重く澄んだ気持ちを抱えている、と捉えることができる。

 穿った見方をせず素直に読むなら、菊次郎のせいで司朗は愛に満たされず、姉は旅先で死んだのかもしれないのだから、良くは思っていないはず。

 それでも、実際のところどうだったのかは「あいつと俺の問題」であり、読者に想像の余地を与えている。



 本作品はもちろん、恋愛ものでもある。

 恋愛ものの構図は「出会い→深め合い→不安→トラブル→ライバル→別れ→結末」でできており、結末には「ハッピー」「アンハッピー」「死別」の三パターンが用意される。

 この作品の結末は、どれでもない。

 しいてあげるなら「卒業」である。

 卒業は面白かったかどうかではなく、終わってしまったという実感を得ることに目的がある。

 卒業式には四つのパターンがあって、「泣く」「感慨にふける」「開放感に浸る」「拗ねる」の感想を抱く。

 感動して泣く人もいれば終わってほしくないと泣きわめく人もいるだろうし、終わったんだなと受け止める人もいれば、こんなの駄目だと反感を抱く人もいる。

 共通して言えるのは、別れは悲しいからこそ切なく、泣けるのだ。

 この後どうなったかを考えるのは読者の自由である。

 けれど、作品としてはここで終わり。

 まさに「卒業」である。



 そもそもなぜ、対を多用しているのだろうか。

 作者はBLというジャンルで、作品をいくつも執筆している。

 BLはカップリング、対の組み合わせだ。

 対になるのは必然かもしれない。

 それとも、似たようなBLジャンルをくり返し書いているという隠喩だろうか。

 作品内の現在が平成二十六年(二〇一四年)なのは、作者のデビュー作「相生結び」が出た年と関係があるのかもしれない。

「対になった作品でも、それぞれ違いはあるから同じではない」だから、「菊次郎と司朗は似ていても違う」ということを言い表したのかもしれない。

 事実、司朗は高校一年生とは思えないほど大人びていて、しっかりしている。

 年長者である祖父と暮らしてきたから、かもしれない。



 どうして作者は、愛に満たされなかった主人公の話を描いたのだろう。

 作者の体験か、友人知人の話か。あるいは昨今の毒親による幼児虐待のニュースに思いを馳せてなのか。

 わからないが、ネグレクトや過干渉、暴力などのさまざまな行為によって子供の成長に悪影響を及ぼす「毒親」は、子供を一人の人格を持った人間だと理解できず子供の人生を無自覚に思い通りに支配しようとする傾向がある。

 こうした毒親の元で育つと、自信が持てず、自分の考えが分からず、強い不安感や理由もなくイライラし、他人への不信感などの問題を抱えやすくなってしまう。

 そんな毒親が生まれる大きな要因は、親自身が毒親に育てられたことにある。

 毒親問題と類似して、愛情不足で育った親の負の連鎖により、菊次郎に愛されなかった親に育てられたのが司朗だ。

 この物語で一番の元凶は菊次郎だが、ひょっとすると、菊次郎も愛されずに育った被害者かもしれない。

 だからこそ、菊次郎を救うために鴻は元の世界へ戻らねばならない。

 菊次郎を愛で満たして負の連鎖を断ち、孫の司朗は救済するために。

 作者は、世に溢れる負の連鎖を断ち切りたい、世界は愛で満たされてほしいと祈りを込めて作ったのかもしれない。

 このように作者が作品に込めたのは、作品を作る以前に姪が生まれ、執筆中にもうひとり姪が生まれていることが影響したのではないか、と考えたからだ。

 姪っ子や世の子供たちが負の連鎖に巻き込まれず幸せになりますように、と願いが込められていたら素敵だ。 



 戦時中からタイムスリップしてきた鴻の物語ではあるが、この作品は戦争の悲惨さを物語っているわけではない。

 SFやBL要素を抜きにしてみれば、鴻が状況から逃げて死を選んだことで、孫の代まで悲劇を及ぼしてしまった世界を描いている。(その元凶を作ったのは菊次郎だが、菊次郎の性癖を生んだのは親の影響かもしれない。それはわからない)

 自殺した人間はそれで終わるが、周囲の人々の人生は続く。

 彼の選択が周囲に影響を及ぼし、残された人達の幸せを奪ったのは間違いない。

 ピークの二〇〇三年、三万四千四百二十七人が自殺している。リーマン・ショック後の二〇〇九年以後、自殺者は十年連続減少していた。とはいえ、作品発表時は二万人以上が毎年自殺している。二〇二〇年はコロナ影響により十一年ぶりに前年よりも増加したのが現実だ。

 安易に自殺するな、と作者は作品を通して言いたかったのかもしれない。

 だと考えると作品の神位置にある作者は、先立つ不幸を選んだ人達の代表である鴻に、彼が招いた悲劇の落とし前をつけさせるためにタイムスリップをさせたのかもしれない。



 冒頭、鴻が乗っている零戦の機体の色は白である。

 白い零戦は、四機あった。

 昭和十四年四月(一九三九年)に初号機が初飛行した零戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。

 昭和十五年(一九四〇年)に初陣した零戦一一型。

 昭和十六年十二月(一九四一年)真珠湾攻撃で実戦に参加した零戦二一型。

 昭和十七年七月(一九四二年)に正式採用された零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機の二式水上戦闘機。

 よく見るとフロートが付いているので、鴻が乗っていた零戦は二式水上戦闘機と推測される。

 オオハクチョウやヒシクイなどの大型の水鳥を指す「鴻」が乗る零戦だから、水から離着陸できる白い機体の二式水上戦闘機に乗っているのだ。

 そして、オオハクチョウを指す鴻は、越冬する渡り鳥のこと。

 だから時を超えて現代へ、そして元の時代へと彼は帰っていく。

 渡り鳥だから、再び司朗の元へも帰ってくるかもしれない。

 二式水上戦闘機の採用初期は零戦と同じ塗色(機体全面白色飴色)だったが、南方への戦線の拡大に伴って南方のジャングルの緑に溶け込むために機体上面が暗緑色、機体下面が明灰白色に塗装されていく。

 なので、鴻が白い二式水上戦闘機に乗っているのはそれ以前だと考えられる。

 徴兵される年齢が二〇歳だったものが、一九四三年には一九歳、一九四四年には一七歳へと切り下げられていく。

 鴻が一九四二年に零戦のパイロットをしているということは、二十歳で入隊したと読み取れる。

 おそらく、タイムスリップした鴻は二十歳だった。

 また、ラストに司朗がエアプレーンを飛ばしたのは、鴻と再会を暗示しているのかもしれない。

 一九四二年に二十歳だということは、もし戦争を生き抜いて帰還し、その後も生き続けたなら作品ラスト現在、鴻は九十三歳になっている。(作品内で司朗と一年間過ごしているための年齢換算)

 長命だった菊次郎を考えると、鴻と再会できる可能性がある。

 ひょっとすると、司朗は鴻と再会したかもしれない。

 それは読者の想像に委ねられている。



 タイトルの「あおに鳴く」について。

「青」とは、よく澄んだ空の色に代表される、赤に対する暗い感じを受ける色。

「蒼」とは、木の葉・海・空などの深い青色。

「碧」とは、あおみどりの色。

 素直に「青」としてもいいかもしれないけれど、単行本の目次ページの色に注目した。

「あおに鳴く」の目次は青色、「あおに鳴く・続」の目次は赤色になっている。

 あおによしという枕詞がある。

 いくつかある説のうち、青・丹(赤)という色を表すという直訳に近い解釈がある。そこから目次の色を決めたのかもしれない。

 青は平和へ、赤は血の色(戦争)へ、鴻が向かう世界のことを表しているとも考えられる。

 鳴くとは、虫、動物など人間でないものに対して使う。

「泣く」ではなく「鳴く」なので、水鳥の意味もある鴻を指しているのだろう。

 読後に本のタイトルを見たとき、蒼い海のはるか上空の青い空を、鴻が「生きたい」と叫びながら白い二式水上戦闘機を操縦する姿が目に浮かんできそうだ。

 


 最後に、比類ない作品を教えてくれた友人にお礼を申し上げます。


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