第一話 嬉しくない知らせ
イザベルは淑女らしく、淑やかな足運びで、それでいて令嬢というには異常な速さで廊下を進んでいた。すれ違う文官が一瞬ギョッとした表情を浮かべるが、相手がイザベルだと気付くと納得したように顔を逸らす。ここ最近では見慣れた光景だった。
「イザベル」
「……お父様?」
足を止め、振り向くと父が立っていた。商会長も務める多忙な父がこの時間帯に城内にいるのは珍しい。何か仕事が入っていたのかと父のスケジュールを頭に思い浮かべようとして気付く。父の表情が強張っていることに。————何かあったのか。それも、私に関係する何かが。
父の話を聞くにしても周囲の視線が気になる。皆、話題のフィッツェンハーゲン家の親子をちらちらと見て様子を伺っている。イザベルは眉根に力が入りそうなのを我慢した。
イザベルとヒルデベルトの関係については公的に否定したものの、未だ執務室に入り浸っているイザベルとヒルデベルトの間に
イザベルの特徴的な紫がかった銀髪に、紫の瞳。人形のように整った容姿は笑わずにいるとそれだけで相手に威圧感を与える。加えて目を細め、鋭い視線を向ければその場にいた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
呆れたように息を吐き父を見る。何故か悲観した表情を浮かべていた。重々しく始まった話を聞いていくうちにイザベルも父と同様に表情を曇らせた。
————————
静かな執務室で紙を捲る音とペンの擦れる音が響いていた。鳴り続いていた音がガリッという音とともに止む。インクが切れだのだ。ヒルデベルトは息を吐き出してペンを机上に転がした。横から気配を消したまま近づいてきたティモが声をかける。
「変えのペンをお持ちしますね。ああ、それと休憩の準備もしてきますので少々お時間いただきます。本日のコーヒータイムの
「ああ。……いや、え?」
「そんなに驚かれなくても。隠していたつもりかもしれませんが、毎回イザベル様がこられる日に合わせて何かしらご自分で用意されていたのは気でいていましたよ。それと、いつもいらっしゃる時間をすでに過ぎているせいか、先程から集中力が切れていることにも」
澄ました表情のティモに指摘され、ヒルデベルトの頬に朱が差す。確かに扉をチラチラと見ていた自覚はある。ただ、それをコイツに気付かれたくはなかった。何より、全て知っていて今まで黙っていたのかと考えると……。
項垂れたヒルデベルトをよそにティモは執務室を出ていった。
視線を感じたヒルデベルトが頭を上げる。
執務机の前のテーブルで黙々と事務処理をしているはずのエーミールが逆さまになった資料を見つめていた。
「……」
「……」
ヒルデベルトは遠い目をして、窓の外を見た。
そんなにも自分はわかりやすいのだろうか。繕うのは得意だったはずの自分がティモだけでなくエーミールにまで気づかれているとは。————1番気づいて欲しい相手にはその兆候すらないのに。
まぁ、外堀は埋まりつつある。
「は?」
少し遅れてきたイザベルは上の空で、ヒルデヘルトは気になりながらもとりあえずティータイムならぬコーヒータイムに誘った。イザベルは二つ返事で答えたものの、物思いにふけっている。
確信をつくような質問を投げかけたのはヒルデベルト、ではなくティモだった。
「何か気にかかる事でもありましたか?」
「え……いえ」
「ですが……」
ティモがイザベルの手元に視線を向ける。1口飲んだきり止まっているコーヒー。イザベルは苦笑して謝罪を述べるとカップをソーサーに戻した。
「実は、ちょっと問題が起きまして」
「問題?」
ヒルデベルトが前傾姿勢で尋ねる。イザベルは一度瞬きをして、頷いた。
「どうやら、私に求婚者が現れたようなんです」
「きゅう、こんしゃ?」
「求婚者というのは、」
「そんなことは知っている!」
動揺しているヒルデベルトに真顔で『求婚者』について説明をしようとするティモ。これでは話が進まないと、仕方がなくエーミールが話の主導権を握った。
「確かイザベル様の結婚については陛下から特例が認められたのではなかったですか?」
「ええ。ただ、その相手が問題なんです。私もまさか国外から声がかかるとは思っていなかったので……」
「……相手はどこの国の誰なんだ?」
「ミュラー王国の第2王子、ですわ」
途端にヒルデベルトの眉間に深く皺が刻まれた。珍しくティモも同様の表情をしている。1人だけ疑問顔だったエーミールにイザベルは端的に説明した。
「第2王子は表向き、社交的で外交の担い手として評されていますが、その実認められているの
「あちら……」
「とある国では第4王女、また別の国では公爵家の未亡人、お相手を挙げたらキリがないくらいですわ。確か、わが国でも以前問題を起こしていたとか?」
数秒の後、理解したエーミールの顔が真っ赤に染まる。最後の言葉はヒルデベルトに向けたつもりだったのだが、何故か物言いたげな目で見られて首を捻った。ティモに視線を移すと「よくご存知ですね」とだけ返される。
「……黙っていた方がよかったのかしら?」と思いつつもこれくらいの話は情報通の貴族女性ならば知っていることだ。むしろ、色恋沙汰だからこそ女性の方が熟知している可能性は高い。実際、この話もイザベルの母から聞いたものだ。したり顔で頷いていると、咳ばらいをしたエーミールが話の続きを促した。
「それで、その王子殿下がイザベル様に求婚を?」
「ええまぁ」
「ですが、国の要人とも言えるイザベル様を我が国がそう簡単に手放すとは思えませんが」
「エーミール様の言う通り、陛下も1度は断ったらしいですわ。ですが、相手もなかなか図太い神経をしているようでして、せめて1度会わせて欲しいと……その手紙が届いたのが今日なのですが。その手紙の最後に記載してあったのです。この手紙が届く頃にはすでに出立している、と」
イザベルの言葉に一同が絶句する。何という強行。
「さすがにもう向かってきているものは仕方がないと陛下も渋々許容するしかなかった……と父から先程話を聞かされまして」
エーミールは話の途中から隣にいるヒルデベルトの目が据わっていることに気付いていた。突如立ち上がったヒルデベルトにビクリと身体を震わせる。
「困ったわ」と呟いていたイザベルの横に当人よりも余裕のなさそうなヒルデベルトが座った。
ヒルデベルトが驚いているイザベルに向き合い、真剣な眼差しを向ける。緊張が伝わってきて何故か見ているエーミールがソワソワした。————ここにいてもいいのだろうか。
今から……という雰囲気を壊したのは、何故か意を決した面持ちのイザベルだった。
「私としても断固お断りしたい案件なので、陛下の提案にノるつもりなのですが……。そこで、ぜひともヒルデベルト様にも協力していただきたいのです」
「……協力?」
「ええ、私の、『恋人以上婚約者未満』の相手になってほしいのです!」
重々しく言い放ったイザベルに対して、予想外の提案をされたヒルデベルトは一瞬固まった後、瞬時に頷き返した。少なくとも3回は頷いていた、とはあの場で1番冷静だったティモの言葉である。
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