ノック音で目が覚めた。いつの間にか寝ていたようだ。ゆっくりと上体を起こすと頭がズキンと痛んだ。心なしか瞼も重い。おそらく今の自分は酷い顔をしているだろう。しかし、いつまでも返事をしないわけにはいかない。再び、扉がノックされ、今度は返事をした。

 数刻前にハンカチーフを渡したメイドが扉を開けて入ってきた。メイドはクラーラの顔を見て一瞬固まったが、すぐに何食わぬ顔でハンカチーフを差し出してきた。


「ありがとう」


 メイドは心配げに瞳を揺らしたが、何も言わず頭を下げて出ていった。クラーラは苦笑しつつ、手元の綺麗に畳まれたハンカチーフを見つめる。


 このハンカチーフを後はエーミール様と会った時にすり替えるだけ。


 確認の為、両手で広げて掲げた。例のハンカチーフとは似ても似つかない出来栄えの家紋。非常に繊細で美しい仕上がりはまるでイザベルが纏う高貴さを彷彿とさせる。————やはり、危険な橋を渡ってでも手に入れた甲斐があった。

 しばらくぼんやりと眺めていて、ふとが視界に入った。ハンカチーフの端の方、同色の白い糸で縫われたOの文字。


 ドクリと心臓が嫌な音を立てた。


 その刺繍を震える指先でなぞる。何度触れてもソコにある。イザベルとは関連しないOの文字。

 まるで、頭から冷水をかけられたような心地だった。


「知っていたの……?」


 思い返してみれば、イザベルはまるで予め用意していたかのようなタイミングでハンカチーフを差し出してきた。ベッドに横になっていたはずの彼女が、わざわざこのハンカチーフを用意していたということはやはりそういうことなのだ。


 でも、と次は疑問点が浮かんできた。


 何故彼女はそんなことをしたのだろうか。

 気づいていたのならば、知っていたのならば、ハンカチーフを渡す必要は無いだろうに。むしろ、渡してはいけない。そうするだけで彼らは勝手に身を滅ぼすのだから。


「もしかして」


 ある考えが頭を過ぎった。

 イザベルは私がなのかを確認するとともに、止めようとしてくれているのだろうか。————というのは、私の願望故の都合の良い解釈だろうか。


 イザベルに事情を話すべきか。……いや、下手に動けばコリンナに気付かれる。それよりも、今回の失敗でエミーリアとクラーラ私達は確実に切り捨てられるだろう。最悪……始末されるかもしれない。

 そこまではしないと思いたいが、コリンナのあの瞳を思い出すと否定はできない。どうするのが最適か……クラーラは痛む頭を必死に働かせた。




 ようやくクラーラが最適解を導き出した時にはすでに朝日が昇っていた。

 朝から動き回っているメイドを捕まえて、出かける準備を頼む。

 伯爵令嬢ドレスに身を包み、朝早くから開店している店に向かった。執事長にも出かけている間に帳簿を用意しておくよう忘れず告げてきた。


 クラーラは店の中まで付き添うという駆者の言葉を断り、一人で店内に入った。クラーラが入店した途端、眠たげな表情を浮かべていた店員は目の色を変えて足早に近づいてきた。これ幸いと己が欲している色の刺繍糸を幾つか見繕ってもらう。クラーラは見比べてその中から一つの糸を選んだ。最後まで丁寧な対応を受け、クラーラはチップを余分に店員に渡すと店を出た。 店員の『またのご来店をお待ちしてます!』の声は聞こえないふりをした。


 家につき、人払いをして、帳簿に記載しておく。書きながら思った。これを書くのもきっとこれが最後だろう。

 父は表では仕事のできる人物だと評価されているが、高位貴族贔屓なところがあり、見栄をはるばかりで、己の爵位以下の者達には傲慢な態度を取り、ましてや自領の民のことは全く考えないような人物だった。その上、体裁を整えるのに必死で家のことは母に完全に投げていた。

 そして、任されたはずの母も父に従い良妻賢母を演じていたが、その陰で全てを執事長達に押し付け、自分は散財して好き勝手をしていた。任された執事長が遠回しに苦言を呈しても聞き入れようとはせずに。


 当然、家計も領民も逼迫していた。その状況に変化をもたらしたのは当時まだ十三歳のクラーラだった。現状を理解したクラーラはすぐさま執事長を味方につけ、本の知識と助言を頼りに、必死にヴォルフラムやカサンドラに変わってやりくりをしていた。その事実を、クラーラの両親は知らない。知っていたのは、執事長や他数名だけだ。


 あの人達は私がいなくなってようやく気づくのだろう。その時を想像して、ついクラーラの口元に嘲りが浮かんだ。


 帳簿をつけ終わると数名分の紹介状を書く。父が本来優秀なのは知っているが、万が一も有り得る。その時のことを考えて用意しておいた。

 嫌な顔はされるかもしれないが、イザベルならば彼らを悪いようにはしないだろう。後始末まで任せてしまって申し訳ないが……私には他に彼らを託せる人も伝手もない。



 紹介状を書き終わり、ついに刺繍にとりかかった。一目では気づかれないように刺繍の上から丁寧に重ねて縫っていく。

 ひと針ひと針縫う毎に思い浮かぶのは、大切な人達二人のこと。


 エーミール様は『クラーラ』を一人の人間として初めて見てくれた人。初めて人を好きになるということを教えてくれた人。ただ話しているだけで、一緒にいるだけで幸せだった。

 その一方で、人を好きになることがいいことばかりではないとも教えてくれた。特に最近は苦しさや嫉妬ばかりだった気がする。

 恋愛小説でよく目にした『惚れた方が負け』というのを痛いくらいに実感させられた。


 イザベル様は最初で最後のたった一人の友達。おそらく、私のことをエーミール様よりも理解してくれていた人。イザベル様とはもっと色んな話をしたかったし、色んな考えを聞いてみたかった。いつか話してくれた、『お気に入りの本に載っている場所を巡る小旅行』というのも一緒にしてみたかった。


 こうやって思い返してみると、二人に出会わなければ決して知り得なかったことばかりだ。

 二人に出会えてよかった。本当によかった。


「……っ」


 ポツ、と手の甲に水滴が落ちた。慌ててハンカチーフを一旦テーブルの上に置く。その間もポツポツと水滴は落ち続けている。何度拭っても、次々と溢れてくるモノで目の前がよく見えない。


 近く訪れるかもしれない『死』が怖いわけではない。そんなことよりも、エーミールと、イザベルと二度と会えなくなることの方が怖い。何より、彼らの中からいつか『私』が消えて無くなってしまうかもしれないことの方が怖い。


 今ならまだ間に合うかもしれない。今すぐイザベルの元へ行って許しを請い、協力を仰げば……なんて甘い考えが一瞬浮かぶ。同時にそんな考えを嘲笑う声も聞こえてきた。

 その結果、コリンナがエーミールやイザベルに牙を剥いたとしたらどうなると思う? 現状、イザベルでもコリンナに勝てる勝算は無いのに。だから、あなたは今そうしているのでしょう?


「そう。結局こうするしかないのよ。……私に出来るのはここまで」


 あなたならきっと気付いてくれると信じているわ、イザベル。そして、私の代わりにお願い……


 その為にも、最後まで演じ切ってみせなければ。彼女たちの思い通りに動く人形役を。

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