あの日から眠れない夜が続いている。

 エミーリアが「一週間考える時間をあげるわ」と楽しげに告げ、シルバーピンクの髪をふわふわと揺らしながら立ち去る姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。


 カチャン


 ティーカップとソーサーがぶつかる音が耳に届き、ハッと我に返った。普段ならば意識しなくとも決してしないような失敗をしてしまった。

 よりにもよってこの方達の前で。


 先程までイザベルと話していたコリンナがクラーラに視線を向けた。クラーラが会話に混じっていないことも気になっていたのだろう。小首を傾げ、様子を伺っている。


 クラーラは瞬時に思考を巡らせる。可もなく不可もない話題を思いつき口を開いた瞬間、この場には似つかわしくない人物が現れた。白衣を着た男性は緊張した面持ちで頭を下げる。


「ご歓談中申し訳ありません。室長が至急イザベル様に来ていただきたいと」


 城内にある国王直属の魔道具開発部の室長がイザベルを呼んでいる、となれば断る訳にはいかないだろう。イザベルは立ち上がるとコリンナに退席の挨拶をした。コリンナは残念そうにしながらも仕方がないと微笑んで返す。イザベルは次いでクラーラにも挨拶をした。

 その表情には微かに心配の色が含まれている。クラーラの目が思わず揺らいだが、すぐに真っすぐに見つめ返した。


「気にしないでくださいませ。またぜひ、イザベル様のお話を聞かせてくださいな」


 そう微笑めば、イザベルも安堵の笑みを浮かべた。今一度二人に挨拶を述べると白衣の男性に促されて足早に部屋から出ていく。


 コリンナと二人きりになり、妙な緊張感を覚えた。

 居心地の悪さを誤魔化すかのようにティーカップを手に取り口をつける。

 ゆっくりと飲み、口の中を少しずつ潤していく。

 コリンナから視線を感じたが、あえて気づかないフリをして一旦心を落ち着かせるよう努めた。


 クラーラがティーカップをソーサーに戻したタイミングを見計らったかのようにコリンナが口を開いた。


「私には話せないかしら?」


 ポツリと呟かれた言葉はどこか寂しげにも聞こえて、クラーラは顔を上げ、目を瞬かせた。


「あなたが何かに悩んでいるのは気付いているわ。……おそらく、イザベルもね。無理に話して欲しいとは言わないけれど、もしあなたがどうしようもないくらい息詰まっているなら……思い切って私に話してみない?」


 コリンナの優しげな声色はクラーラの今にも溢れそうな不安を取り除いてくれるのではと思わせるがあった。


 気づいたらクラーラはコリンナに話していた。

 エーミールの事、第二王子達の様子を。

 エミーリアの存在を。そして、彼女からの提案を。


 クラーラが途切れ途切れに話す内容をコリンナは時折頷きながら黙って聞いていた。話し終わるとコリンナは立ち上がり、クラーラの傍に近寄り、そっと抱きしめた。何も言わずクラーラの背中を撫でる。

 その手が温かくて、クラーラの瞳に涙が浮かんだ。


 ダメだ。他人の前で泣くなどあってはならないことだ。

 脳裏にヴォルフラムの言葉が浮かび上がってくる。


 心の中を冷たいナニカが埋め尽くそうとした時、コリンナの囁きが耳に入った。


「大丈夫。泣いてもいいのよ……ここには私達しかいないのだから」


 その言葉が引き金になって、ポツリ、ポツリと涙が零れ落ちる。

 涙が自分だけではなくコリンナのドレスまでも濡らしていくが、コリンナは気にすることなく寄り添ってくれた。

 しばらくして、涙が止まるとクラーラはそっと身体を離して頭を下げた。


「落ち着いたかしら?」


 コリンナに聞かれてクラーラは小さく頷いて返す。コリンナがホッとした様子で笑った。

 クラーラの顔にも自然と笑みが浮かぶ。


「そうだわ。コレ、特別にクラーラにもあげる。とても甘くて美味しくて、落ち込んだ時に食べると気持ちが軽くなるのよ」


 コリンナが侍女から受け取ったモノをクラーラの前に置く。

 白いシンプルなシュガーポット。開けてみて? と言われ蓋を取ると中にはバラの砂糖漬けが入っていた。コリンナが一枚つまみ上げ、クラーラの口元に差し出す。

 考えるよりも先にクラーラは口を開いた。口の中にローズの香りと甘みが広がる。

 コリンナは残りはプレゼントと言い、クラーラにシュガーポットを渡した。

 人前で泣いてしまい恥ずかしくなったクラーラは伏し目がちになりながらもコリンナにお礼を言った。


「……クラーラ、あなたにはエミーリア彼女の提案にのってほしいの」

「え?」


 クラーラは驚いて顔を上げた。コリンナは先程までとは違い、真剣な表情でクラーラを見つめている。

 クラーラは困惑した。

 エミーリアの提案にのるということは、つまり、イザベルを陥れるということで……。


「大丈夫よ。イザベルの無実はすぐに証明されるから。フォローは私がしてあげる。エミーリア彼女のことも任せてちょうだい」


 そっとクラーラの手を握ると、コリンナは目を細め固い声で懇願するように言った。


「エーミールの為にもどうか、あなたの力を貸してほしいの」

「エーミール様の為?」

「ええ。エーミールを救う為にもあなたの協力が必要なの」


 エーミールとよく似たコリンナの瞳をぼんやりと見つめながら、コリンナの言葉を反芻させる。


 エーミール様を救う為には私の協力が必要。私が協力しないとエーミール様は……。


 クラーラはこくり、と頷いた。

 コリンナが嬉しそうに微笑む。

 手を離すとクラーラをそっと抱きしめ、耳元で囁いた。




 お茶会の時間が終わると、クラーラはシュガーポットを大事そうに抱え、退出した。




 馬車に揺られながら、アーベル家に帰る。

 車中でもクラーラはコリンナの話を脳内で反芻させていた。

 コリンナが話した内容をしっかりと吟味したいのにまだ頭がどこかぼんやりしている気がして首を振った。

 片手で額を押さえる。何かおかしい気がする。

 まるで、は薬でも使われたような……。

 でも、そんなタイミングも様子もなかったはずで。

 ……いや、まさか。

 抱えているシュガーポットに視線を落とした。

 口の中に唾液が溜まる。何故か、今すぐ口にしたくて堪らない。


「止めて!」


 クラーラの叫び声で馬車が止まった。御者がどうしたのかと尋ねる。扉を開けるように告げる。

 扉が開くと同時に急いで持っていたシュガーポットを渡し、中身だけ捨ててくるように頼んだ。


 目の前にアレがないだけで心がざわついたが、時間が経つと落ち着いてきた。

 次第に思考もはっきりとしてくる。


 クラーラは青褪めた表情で、唇を震わせた。



 コリンナ様は何かを企んでいる。

 何を?


 耳の奥で心臓の鼓動のようなドクドクという音が聞こえる。


 コリンナの笑顔が脳裏に浮かんだ。

 あの瞳の奥にはナニがあった?

 朧げな記憶しか残っていないことに愕然として頭を押さえる。


 思い出せ。


 イザベル様を失脚させるため?いいえ、それは違う。

 なら、エミーリアの計画に乗るメリットは?

 エーミール様の為?それならばエーミール様を説得するなり、強制的に引き離すなりするだけでいいはず。

 そういえば、イザベル様の無実はすぐに証明されると断言していた。

 それはつまり…計画は確実に失敗するとわかっているということで……。


「あ……」


 だからか。すとん、と腑に落ちる推論が浮かんだ。

 コリンナ様はこれを機に第二王子ラース様を確実に失墜させようとしているのか。

 その為に自分の弟さえ駒として使おうとしている。

 そこまで考えて、ある考えに至り、さらに血の気が引いた。


 エーミール様はどうなるのだろうか。『閃きの女神イザベル』に冤罪をかけて軽い処罰で済むとは思えない。


 コリンナの言葉が耳元で聞こえてくる。

エーミールあの子を助けられるのはクラーラあなたしかいないのよ』



 握っていた拳にぐっと力が入る。爪が食い込み、痛みを感じたが構わなかった。



 クラーラが協力しなければ、おそらくコリンナは実の弟エーミールを切り捨てるだろう。

 まるで、脅しのような言葉。しかし、紛れもない事実。

 やるしかないのだ。

 ただ、気になるのはイザベルのこと。

 いくらイザベルの無実が確定していたとしても、裏切る行為には変わりない。自分が関わっていると分かったら友人ではいられないだろう。すでに、罪悪感で押しつぶされそうだ。

 それでも、クラーラの選択肢は一つしかなかった。

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