三
学園に入学してから一年。クラーラは将来を見据えた上で堅実に人脈を広げていた。ただ、誰かと深く関わったり、常に一緒にいるということはなかった。
婚約者になったエーミールとは家族ぐるみで会う事はあったが、それも数える程度。クラスが別だった為、校内で会う事もほぼ無かった。
会う回数は極端に減ったが、仲が悪くなった訳ではない。会う機会を積極的に作ろうとは互いにしなくなっただけだ。————クラーラに限って言えば、『言えなかった』が正しいが。
エーミールはこの一年で身長がぐっと伸び、大人びた表情をするようになった。第二王子の側近候補となったことも相まって、女子生徒から注目されるようになっていた。実際、女子生徒から声をかけられているところを見た事がある。クラーラは気が気では無く、エーミールが表情を変えず冷静に対応をしているところまで見て、ようやく安心できた。
とはいえ、エーミールはクラーラの事も人前では『クラーラ嬢』と呼ぶようになった。たったそれだけで、二人の距離が遠くなった気がして、クラーラは言いようのない不安に襲われた。
何より、二人で本を読んでいたあの居心地のよい時間が無くなってしまったことが悲しかった。
――――――――――
クラーラは昼休みになると決まって図書室に向かい、一人窓際で本を読んでいた。
才色兼備な彼女が読書をしている姿はとても様になると一部の生徒達の間で有名スポットになっていたが、そんなことを
ふとクラーラが読んでいる本の上に影が落ちる。クラーラが顔を上げるとそこには予想外の人物がいた。
「クラーラ様。お隣、いいかしら」
クラーラが戸惑いながらも頷くと、イザベルは遠慮なくその隣の椅子を引いて座った。イザベルがテーブルの上に置いた本はクラーラが読んでいる本の上巻だった。クラーラは驚いた表情でその本を見つめ、イザベルを見た。イザベルが照れくさそうな表情で笑った。
「まさか、この本を読んでいる方が私の他にもいるとは思わなくて、つい図々しくもお隣に座ってしまいました。私、一応クラーラ様と同じクラスなのですが……」
「もちろん存じていますよ」
クラーラの表情に微かに笑みが浮かぶ。イザベルは目を瞬かせると同じように笑った。クラーラもイザベルもどちらかというと表情が乏しい方だ。幼い頃からの淑女教育の賜物ではあるが、冷たい印象をもたれがちではあった。特にクラーラは他人と深く関わることがないが故に誤解されたままでいることが多かった。
イザベルのことは一年の時から一方的に知っていた。正しくは学園に入るもっと前から、『閃きの女神』と呼ばれ始めた頃から、アーベル伯爵家としても、クラーラ個人としてもどうにか関係が結べないかと注視していた。
正直、クラーラは彼女が王太子の婚約者に選ばれると思っていた。
確かにコリンナも充分王太子妃としての素質はある。だが、こうして対峙するとイザベルからもコリンナと遜色のない、むしろそれ以上のカリスマのようなものを感じる。
ちらりとクラーラが周囲を伺えば、先程までこちらを意識していなかった生徒達までもがクラーラ達に……否、イザベルを気にかけていた。
実質国の財政を潤沢にしているのはフィッツェンハーゲン家のおかげだ、という事は衆知の事実となっている。
伏せているようだが、手がけている幾つかの事業は彼女の発案だという事もクラーラの耳には入ってきていた。
彼女が声をかけてきた本当の理由は何だろうか。幾つかの候補を浮かべながらクラーラは小声でイザベルに話しかけた。
「私もまさか、この本を読んでいる方がいるとは思ってもいませんでしたわ」
「ですわよね……」
令嬢が読むには残酷な描写が多すぎる本格ミステリー。
緻密に練られたストーリーと、端々に散りばめられた伏線は素晴らしい。だが、専門的な知識を必要とする読者に全く優しくないトリックの数々には賛否両論分かれた。
その上、分厚さは上巻だけでも五センチもあるという。故に、よっぽどの物好きでないと読まない本だと呼ばれていた。
実際、その本を借りたのは学園ではクラーラ達を含め三人だけだった。ちなみに、そのうちの一人は興味本位で借りてみたものの上巻の二十ページ目で脱落した。
クラーラはまさか本当にイザベルがこの本に興味があるとは露程も思っていなかった。
だが、イザベルの怒涛の解説が始まると見解を改めることになる。上巻を隅々まで読んでいなければわからない内容の数々。クラーラはようやく理解した。
ああ……本当にこの方は同じ仲間を見つけて喜んでいるのだわ。
普段淑女然としているイザベルが目を輝かせ、頬を紅潮させ、語る姿に出会った頃のエーミールの姿が重なって見えた。意識せずともクラーラの顔に素の笑みが浮かぶ。
クラーラはそっとイザベルを遮り、囁いた。
「イザベル様、場所を移しましょうか。ここでは…少し、」
ちらりと周囲を見て、言外に匂わせた。
我に返ったイザベルは小さく咳ばらいをすると頷く。
二人は連れ立って図書室を出た。
この出来事が、クラーラとイザベルが『友達』になるきっかけだった。
――――――――――
イザベルと本について語る時間はとても充実していた。学園の授業を受けるよりも、よっぽど実になるものがあった。
イザベルの視点や考え方は独特で、斬新で、それでいて惹き込まれる。ふとしたイザベルの発言にハッとすることは多々あった。それが恐らく『閃きの女神』の所以なのだろう。
彼女が国母とならないことは残念だが、王太子妃としてよりは自由に彼女らしく才能を発揮できる方が良いと思えた。
エーミール以外で他人の事を思いやれた自分にクラーラ自身驚き、嬉しく思えた瞬間だった。
その一方で、ずっとぽっかりと心に穴が空いているような、満たされなさを感じていた。
エーミールと会ったのはどれくらい前だっただろうか。彼は今何をしているのだろうか。
イザベルのおかげで話したいことがたくさんできた。
きっとエーミールも彼女に興味を示すだろう。三人で話す機会を設けるのもいいかもしれない。
ヴォルフラムもイザベルとの交友なら認めてくれるだろう。
本好きの三人が集まれば、さらに新しい刺激が得られるかもしれない。
今度、二人に話してみよう。
クラーラにしては珍しく、積極的な考えが浮かんだ。
――――――――――
ヴォルフラムからの許可はすぐに下りた。
最初は家を通して連絡を取ろうとしたが学園内で直接手紙を渡した方が早いと気がついた。
クラーラは朝から浮立っている。そのことに気づいたのはイザベルくらいだった。
イザベルに見送られ、エーミールに会いに行くためにクラーラは教室を出た。
エーミールのクラスの前まで来たタイミングでちょうど教室から出てきた生徒がいた。
声をかけようとした時、教室の中から弾けるような笑い声が聞こえてきた。
初めて耳にする淑女らしさのかけらもない笑い声に驚いてクラーラは止まった。
もしや、問題の特待生だろうか。平民だからということを理由にマナーは守らず、注意されればすぐに周囲の男達へと助けを求める。
最近は下級貴族狙いを止めて、高位貴族に狙いを変えたという噂を聞いた。
でもまさか、そんな手に乗る者は彼らの中にはいないと……そうクラーラは思っていた。
「エミーリア嬢は本当に面白いですね」
「もう! 馬鹿にしているでしょ! これでも、テストの点は良いんだからね!」
「わかっていますよ。あなたは教師からの覚えもめでたいですからね。そういえば、先日も呼び出されていましたが……大丈夫ですか?」
エミーリアの名を親しげに呼び、心配そうに話しかけているのは……エーミールだった。
くしゃり、と音が鳴る。
クラーラは手に持っていた手紙を見つめた。
ああ、こんな状態になってしまったらもう渡せないわ。
クラーラは身を翻すと、来た道を戻り始める。
賑やかな笑い声が次第に遠ざかっていく。
イザベルになんて伝えよう。
ぼんやりとした頭で考えながら、制服の下にあるブレスレットを握りしめた。
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