インクルージョン(クラーラ番外編)

 


 父にとって『私』は何だったのだろう。

 いくら記憶を探ってみても、答えは見つからない。

 思い出すのは理不尽な言葉ばかり。


「大口を開けて笑うな。泣くな。相手を不快にさせるような態度をとるな」

「賢くなれ、他人に騙されるな。騙す人間になれ」


 父の言葉に違和感を持ち始めた時にはもう、私は『父が望む理想の人形』になっていた。


 ただ、そんな私にも一つだけ……譲れないものがあった。

 私のたった一つの光。


 彼と出会ったのは、七歳の時だった。


 ―――――――――――――


「出かけるぞ」


 突然ヴォルフラムが言った。新しいドレスが用意されているところを見ると、カサンドラは知っていたのだろう。クラーラがドレスに着替え終わり、エントランスへ行くと、正装に身を包んだ両親が待っていた。


 何故皆、正装をしているのか。ということよりも家族全員で出かけられる事がクラーラにとっては重要だった。内心少し浮かれていた。

 カサンドラと手を繋ぎ、馬車に乗り込む。向かいに座ったヴォルフラムが珍しく緊張した面持ちでクラーラに言った。


「絶対に、粗相をするな」


 その声の低さからヴォルフラムの本気が伝わり、一瞬で緊張が高まる。何とか表情には出さず頷き返した。微かに震えている手をカサンドラがそっと上から握ってくれる。思わずカサンドラの手をぎゅっと握った。

 ヴォルフラムはクラーラに注意した後は馬車が到着するまでの間黙って外を見ていた。


 どれくらい時間が経ったのだろう。外の景色を見て、今いるココはクラーラが来たことの無い領地だということがわかった。

 扉が開き、ヴォルフラムが先に降りる。次いでカサンドラが降り、最後にクラーラが降りた。

 自分の家よりも大きな屋敷を前に、クラーラは一瞬呆けた。ヴォルフラムが小声で注意をする。


「気を引き締めろ。……相手は公爵家だ」

 

 ヴォルフラムの視線の先で、公爵家の執事長が待っていた。執事長直々に応接室まで案内してくれるらしい。ヴォルフラムの機嫌が少し良くなった。執事長の後をついていくヴォルフラム。さらに、その後をついてくクラーラとカサンドラ。本当は目に付くすべてをもっとじっくり観察したかったが、ヴォルフラムがいる前では絶対にそんなことはできない。ただ、必死に前を歩く二人に付いて行った。


 応接室にはどこかで見たことのある夫婦とその間に立つ同い年くらいの男の子がいた。

 部屋に入るなり、父親同士が挨拶を交わす。次いで、互いの母が紹介された。最後に、子供たちの番だ。

 父親に促され、男の子が目の前に立つ。


「エーミール・ゲデックです。……よろしく」

「クラーラ・アーベルです。よろしくお願いします。エーミール様」

「……ああ」


 少し恥ずかしそうに視線を逸らしたエーミールの頭を彼の父親が撫でた。そんなことをしてもらったことのないクラーラはソレを驚いて見つめていた。

 あまりに見過ぎていたのか。エーミールが気恥ずかしそうに提案した。


「あっちで、遊びますか?」


 あっち、と外を指さす。思わずヴォルフラムを見上げると軽く頷かれたので、「はい」と笑顔でエーミールに答えた。

 エーミールに案内され、外に出た。後ろから視線を感じたが、すぐに両親同士の会話が始まったようで消えた。少し緊張感が緩み、止めていた息を吐きだす。


「本当は外で遊ぶのは嫌でしたか?」


 エーミールがボールを持って近くに立っていたので驚く。慌てて首を横に振った。


「そ、そんなことはありません! あ……でも、ボール遊びはしたことがないのでどうしたらいいのか……わかりません」

「ああ。そうか」


 そういえば、女の子だったな……というニュアンスでエーミールが呟いた。思わずムッとした表情になるが、いけないとすぐに微笑みを浮かべた。


「……別に嫌なら嫌と言ってもいいんですよ」

「え?」


 エーミールはボールを片付けながらボソボソと話す。


「俺だって嫌なものは嫌って言いますし」

「そうなんですか?」


「嫌って言ってもいいものなんですか?」と言いそうになって口を閉じる。エーミールはクラーラの方を振り向いて笑った。


「俺も本当はボール遊び苦手なんです。どちらかというと……本を読んでいる方が、好きなので」


 最後は恥ずかしそうに小さな声で呟いたが、クラーラの耳にはきちんと届いていた。今度は自然な笑みが浮かぶ。


「私も、本を読むのが好きです」

「そうですか! なら、俺の部屋に行きますか? たくさん本がありますよ」

「行きます! いえ、行きたいです」


 握りこぶしを作って思わず叫んでしまったクラーラにエーミールは一瞬きょとんとした後笑った。

 しばらく笑いっぱなしのエーミールに、そろそろ注意しようかとしたら手を差し出される。


「じゃあ、行きましょうか」

「は、はい」


 自然と繋がれた手。エーミールは前を見て機嫌が良さそうにオススメの本について話している。半歩後ろからその横顔を見ていると、次第にクラーラの頬に熱がこもるのがわかった。

 エーミールが部屋に行く前に、親に一言話してから行こうと言ったので、クラーラは頷いた。


 応接室の中から声が聞こえてきた。


「では、おいおい二人を婚約させるということで」

「まぁまぁ、そんなに急ぐ必要はないでしょう。あの子たちはまだ子供なのですから」

「そ、そうですな。すみません気がせいてしまって」

「いえいえ。私にも娘がいますからね。早々に良縁を結んでおきたいという気持ちはわかりますよ」


 クラーラは足元を見たまま、顔が上げられなかった。

 握っていた手が離される。たったそれだけでまるで冷や水を頭からかけられたかのような心地になった。

 バンッと扉を激しく開ける音がした。驚いて顔を上げると、エーミールの背中が扉の中に入っていくところが見えた。


「ど、どうしたんだ。そんなに音をたてて」

「クラーラに部屋の本を紹介したいので一応言っておこうと思いまして。父上、そちらのティースタンドの菓子をいくつかもらっても?」

「ああ、いや、新しいのを用意させよう。おい。エーミールの部屋に二人分の菓子と飲み物を」


 声をかけられたメイドが頭を下げ、すぐに準備にとりかかる。


「ありがとうございます。それでは、失礼します」


 エーミールは返事を待たずに部屋を出てきた。まるで捨てられたような表情で立ちすくんでいたクラーラの手を取って繋ぐと歩き出した。若干エーミールは速足になっていて、クラーラは走らなければならなかった。でも、手を振りほどこうとは思わなかった。


 エーミールの部屋はシンプルだった。最低限の物しか置いていない。とても、既視感を覚える部屋だった。本棚に並ぶ蔵書数もなかなかの物で読書家のクラーラはそれだけで気持ちが好調した。

 本棚の前に立ったエーミールが手招きをする。

 近づいてきたクラーラに数冊の本を取り出して渡した。一冊が分厚くクラーラは到底今日中に読み終わる自信はなかった。その表情で言いたいことが伝わったのかエーミールが笑った。


「それ、俺のオススメです。読み切らなかった分は持って返って読んでいいので」


 そう言い、エーミールも本を手にすると、さっさと二人掛けのソファーに座る。クラーラも戸惑いながら少しだけ距離を開けて隣に座った。エーミールはすでに本を読み始めている。クラーラも遠慮なく読むことにした。

 少しクラーラの年齢には早すぎる難解な言葉が並べられた伝記だった。けれど、そこにはロマンと小さな謎があり、まるでフィクションの物語を読んでいるようで惹き込まれた。

 一冊読み終わって、息をついていると肩を叩かれた。エーミールの顔を見て我に返る。

 そうだ。今は自分の家ではなかった。


「そろそろ帰る時間だそうですが大丈夫ですか?」

「はい。すみません集中しすぎて」

「本はどうでしたか?」

「すごく面白かったです。あのーーのシーンが……」

「ですよね! よかった。……こういうのっていいですね」

「え?」

「いえ、読み友? 読書友達は今までいなかったからので。次会うときはクラーラのオススメも教えてくれませんか?」

「は、はい。もちろん!」


 クラーラの力強い返事にエーミールも嬉しそうに笑った。読めなかった残りの本は箱にいれて借りて帰ることになった。挨拶を交わしてゲデック公爵家を後にする。


 馬車の中でヴォルフラムはとてもご機嫌だった。

「よくやった」とまで言われた。

 ただ、クラーラにとってはもうソレはどうでも良い事だった。

 足の上に置いた箱を大事に抱え直す。無機質なはずの箱が不思議と温かく感じた。

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