第16話 貴男が遠い
パースがターシャを避け始めて三日目、彼は執務室で盛大なため息を。
――仕事に手が着かない、書類を読む目が滑る。
(僕は何をやってるのかな? 自分から離れて、でも考える事はターシャの事だけだ)
夜会のあの時、なんて強いヒトなんだろうとパースは叔父相手に一歩も引かなかったターシャに感嘆した。
――彼女を初めて目にした時は、幻覚だとすら。
(大木の影に隠れて、なお目立つ黒い髪。静謐を称えた紫瞳。夕闇の深さを持つ褐色の肌が何より神秘的で)
死の森の化身が、美しい死が幻覚となって現れたのだと。
その瞳に射抜かれた衝動で、後先を考えずに結婚を申し込んだ時の驚いた顔。
彼女が生身の人間だと、ようやく確信出来た。
(その後は、驚いてばっかりだったな)
暗殺者相手に動揺ひとつ見せる事なく屠った苛烈さに、眼が灼かれた。
森を躊躇無く切り裂き道を作る姿に、頼もしさを覚えた。
彼女は祝福を使わずとも、信頼する騎士より強く。
でも、何より。
(迷子になった子犬の様な目、あれは卑怯だよ……)
幸せにしなくてはならない、パースの全身がそう訴えている。
だからこそ。
(僕は……不甲斐ないな)
復讐の契約という形の結婚という約束でしか、彼女を側に置くことが出来ない。
望む物は何でも与えたい、だが現実はどうだろうか。
(出会ってからずっと……僕は守られてばっかりだ)
己は、何かを返せているだろうか。
彼女の心に安らぎを、暖かな居場所を与えられているだろうか。
(いや、与えるなんて烏滸がましい。これは欲望だ、僕はただ――)
彼女を愛したくて、伝えたくて。
(それだけじゃない。……愛して欲しいんだ)
出会ったばかりの自分を、どうしようも無く愛して欲しい。
欲が出てきてしまう、渇望が押さえきれなくなる。
(嗚呼、契約って形にして正解だったかも。……僕が死んだら、きっとターシャは傷つくだろうから)
そうであれば良い、そんな邪な気持ちすら浮かぶ。
悲しませたくないのに、せめて悲しみという形だけでも彼女に遺したいと。
(――――結局、逃げてるだけなんだ)
呪いで死ぬその時に、後悔したくないから。
自分から手を伸ばして、今更拒否する。
なんて、なんて、なんて。
(なんで最低なんだ、僕って)
顔を見る勇気すら出ない、その癖、何をしているか知りたくて物陰から伺って。
「ターシャ……君が好きなんだ、どうしようもなく。自分が分からなるぐらい愛してるんだ……」
血を吐くように独り言を呟くパース、彼の思考は時間経過と共に暗く深く沈んでいって。
一方でターシャと言えば、お馴染みになった東屋にヤーロウとアイリスを呼び出していた。
「――――まったくもうっ!! 何なんですかパースはっ!! あの日から顔も合わさないし、会いに行くと逃げますしっ!! わたしが何をしたって言うんですっ!!」
「どうどう、姉貴落ち着いてくれよ……」
「そうですよお姉さま、パースお兄さまが何を考えているのか分かりませんが。お気持ちは変わっていらっしゃらないのでしょう?」
「だから苛立っているのですっ!! 見てくださいこの手紙っ、三日間で五十通ですよ五十通! 中身は繰り返し繰り返し愛してると……っ、ここまで来ると恐怖すら覚えますわっ!! 嫌がらせですか!!」
ターシャがテーブルに叩きつけた手紙は、数が多すぎて地面にまで落ちてしまって。
兄妹は顔を見合わせ拾い集める、その拍子に中身が見えてしまい。
「――――うげっ、マジかよ兄貴……。えぇ……? どういう事だコレ?」
「パースお兄さま? お姉さまの事が好きすぎませんか? なんでこんな細かくびっしり愛してると……?」
そう、ターシャの言った事は比喩表現ではない。
手紙一枚一枚に、愛してると小さな文字で隙間無くびっしりと。
長兄はどんな心境の変化があったのか、兄妹が顔色を変えて心配し始めた時だった。
「――――ナスターシャ様、パースリィ殿下からお手紙です」
「またですかニカ!! これで何通目ですか! 顔を見せなさいとちゃんと伝えたのですわね!?」
「…………申し訳ありませんナスターシャ様、返事は依然変わらず、会うことは出来ないと」
「ああもうっ、何を考えているのですかパースはっ! 聞けば仕事もせずに物思いに耽っているだけとかっ」
苛立つターシャに、ヤーロウとアイリスは困惑した表情でニカを見る。
「なぁニカ? 兄貴がこうなった理由に心当たりはあるのか?」
「そうですわニカ、お姉さまが可哀想ではありませんか……。急に避けて、送られてくる手紙はコレでしょう? 結婚を前に臆したとか、そういう感じでも無いのでしょう?」
「申し訳ありません、私にも……」
ターシャが分からず、ニカも知らないとなるとヤーロウとアイリスはお手上げだ。
彼らもパースに避けられており、義姉を慰めるしか出来る事がないのだが。
当の彼女は。
(なんで……っ、どうしてよパース……っ)
何が原因だったのだろうか、あんなに優しい眼差しでみつめ、側に居てぬくもりをくれたのに。
こんな急に、突き放すなんて。
(わたしが……わたしが悪かったの? パースを愛してるって言えなかったから? そうなの?)
せめて、好きだと言えばよかったのか。
それとも、抱かれればよかったのか。
(勘違いだったの? 少しずつ、少しずつ、パースが知れて。わたしの事も知って貰っていってるって想っていたのに……)
ターシャは、また騙されてしまったのだろうか。
(貴男も……わたしの力だけが目当てだったの? それとも、本当はわたしが憎かったの? 酷い、酷いわ……与えるだけ与えて、取り上げてしまうなんて)
血の気が失せた褐色の頬に、涙がつたう。
ぽろぽろ、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれる。
「――っ!? な、泣かないでくれよ姉貴っ! きっと兄貴にも何か事情があって……」
「ヤーロウお兄さまは黙っていてくださいっ、――さ、涙を拭きますわお姉さま。こんな時、泣いてはダメですのよ……」
「……アイ、リス…………っ」
(わたしは、弱くなってしまった……)
義妹に抱きしめられ、ターシャは静かに目を伏せる。
こんな感情は、こんなにも悲しくなったのは初めてだった。
心がぐちゃぐちゃで、どうしたら良いか分からない。
(気づかない内に……こんなに貴男が入り込んでいたのね)
人として扱われず、血塗られた暮らしだったのを。
人として扱い、暖かな生活、優しさを与えたのは。
(パース……パース、貴男が遠いわ……)
静かに涙するターシャに、アイリスは顔を引き締めて。
妹して義妹として、こんな事態は放っておけない。
「…………――――顔をお上げくださいお姉さま、泣いていても何も変わりません。お姉さまならば、出来ることがある筈です」
「…………わたしに、出来ること?」
「はい、こうなったら会いに行きましょうお兄さまに」
「でもパースは……」
「ええ、お兄さまはお姉さまに会おうしていません。……お姉さまの意志を無視して。ならば――お姉さまがお兄様の意志を無視して、力付くで会いに行っても良いのではありませんか?」
「…………力付くで、会いに行く……っ!?」
瞬間、ターシャはガバっと顔を上げる。
何か憑き物が落ちた気分だった、そうだ無理矢理にでも会えばいいのだ。
何故、その事に想い至らなかったのだろうか。
「よし、ニカ。オレも協力すっかからテメェらも手伝え。――エリー、マリア、城の皆に伝えろ! オレとアイリスが責任を取るから、姉貴に協力しろってなッ!!」
「ヤーロウっ!?」
「アイリスの言う通りだぜ姉貴、兄貴に会いにいってくれよ。何なら城を壊しても良いぜッ、責任はオレ等が取るからよゥ!!」
「で、でも、城を壊したら、皆に迷惑が――」
「ふふっ、嬉しいですわお姉さま。優しいのですね、パースお兄様を、わたくし達を気遣って無理矢理に事を運ぶような事を思いつきもしなかったのでしょう?」
「わたしが、気遣って…………?」
ストン、と理由が分かった気がした。
ここでの生活はまだ短い物ではあるが、こんなにも気を許し居場所だと認識していたのか。
(ここまで言われたのなら、――やるしかありませんね)
正直な気持ちを言えば、彼に会うのは少し怖い。
彼は何を考えて、何を言うのだろうか。
でも。
でも、だ。
ターシャはキッと顔を上げ、真剣な瞳で皆を見る。
「ありがとうございます、ヤーロウ、アイリス……。全力を出しても、宜しいのですわね?」
「勿論だぜ!」「御武運を、お姉さま!」
「ニカ、エリー、マリア」
「殿下の周りは私にお任せください!」「他は」「わたくし達が!」
「お願い致します。――ではパースは今何処に?」
「執務室に、城下町から呼び出した老婦人と面会しております」
「分かったわ、――『とばりの王』」
瞬間、本来の姿と比較して、かなり小さなサイズで神影が現れて。
ターシャを肩に乗せ、大きく跳躍。
目指すは、パースの執務室。
「待っていなさいパース――――っ!!」
彼女の前に、窓がぐんぐんと迫って。
○
時は少し前に戻る。
パースは、城下町から呼び出した老婦人。
王国からの亡命者の一人と、顔を合わせており。
「――――よく来てくれたね、ノーゼンハレン伯爵家の元メイド長。……それとも、ばあやと呼んだ方が良いかい?」
「出来ますれば、ばあや、と。ターシャ様がご幼少の砌に力及ばず解雇されてしまった身でありますが、この身はターシャ様のばあやでございます」
そう、パースはターシャの為に。
母なき彼女の母代わりを勤めた老婆を、城に招いていたのだった。
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